俗世へ
「おはようございます、ご出発ですね。ごゆっくりお寛ぎいただけましたでしょうか?」
戸を開けると、いつもの笑顔のつばきさんが待っていた。
「ええ、おかげさまで。お世話になりました。」
「いえ、とんでもないことです。お荷物をお預かりいたします。」
彼から荷物を受け取ると、つばきさんは先に立って帳場へと向かう。今日は束ねた髪を上でまとめて、一本かんざしで留めてる。大きめのラメが入った紫のかんざしは、歩くたびにきらきらと輝いているわ。
「どうぞお入りください。」
帳場の引き戸を開けてもらうと、満面の笑みをたたえたゆりさんが立っていた。
「お早うございます。ご滞在中、何も問題はありませんでしたか?」
「ええ、ぜんぜん。それどころか、あちこちに仕掛けがしてあって、楽しく過ごせました。」
「そうですか。そう言っていただくと、私どもの苦労が報われます。どうぞこちらにおかけになって、少しお待ちください。」
促されるまま番台の前の椅子に座ったとき、ふと気づいた。
「ねえ、あなたスカーフは?」
「え?君がバッグに入れてくれたんじゃないの?」
昨日は確かに、私が誕生日にプレゼントした深緑のペイズリー柄のスカーフをしていた。
「いいえ、私は入れてないわ。」
「ということは部屋に忘れてきたか。取って来る。」
そう言って立ち上がった。
「お忘れ物でしたら、すぐに探してお持ちいたします。」
一旦番台に座りかけた腰を上げてゆりさんが声を掛けた
「いえ、自分の責任ですから。」
そう言い残し、彼は部屋に向かった。
「おかげさまでゆっくりできました。お料理はおいしかったし、お部屋はゆったりしてて雰囲気が良くて。つばきさん、かすみさんもとても素敵な方ですし、きっとケイトのご両親にも喜んでいただけると思います。」
「そうですか、そういっていただけると安心しました。いろいろ情報を集め工夫したかいがあります。それにまずはお二人にお寛ぎいただけて、本当に良かったです。」
ゆりさん嬉しそうに微笑んだ。
「露天風呂も深さだとか大きさにかなりこだわって作ったんですけど、いろいろお楽しみいただけたようですね。」
えっ?まさか…聞こえてた…いえいえ、そんなことはないわよね。
「え、ええ。満天の星空を見ながら露天風呂で寛いで、本当に贅沢でした。」
しどろもどろになりながら、何とかそうごまかした。あー、耳まで熱くなっちゃった。
「ところでさっき考えていたんですけど、うちのお得意様向けの会員誌に掲載させていただけませんか?〝隠れ家お宿〟として紹介したいんです。できれば、ご主人にも支配人としてお話を伺えればいいんですが。」
離れへと続く引き戸の向こうから、『キーッ』という山鳥の声が聞こえた。その声のほうに向いた彼女の顔は、なんとなく寂しげ。
何かあったのかな?しばらく外に目をやって考えている様子だったけど、ゆっくりこちらに向き直り伏目がちに話し出した。
「家を飛び出した私が、ブルーベリー農園とアイスクリームショップ。好きなことをさせてもらって、とても感謝してます。そのうえ思いもよらず憧れの人と一緒になれて。本当に申し訳ないくらい幸せに感じていたんです。でも、やっぱり幸せな時間って長続きしないものなんですね。」
小さくため息をついた。
「どういう意味なんです、幸せな時間は長続きしないって?」
私の問いかけに答えないまま、みじろぎもせず視線を落としている。いつも笑顔で元気のいいゆりさんは、目の前にいない。やがてゆっくり顔を上げると私をじっと見つめた。口元が震え、やっと言葉を絞り出した。
「癌になっちゃったんです、主人。」
そういい終わらないうちに、頬に一筋の涙が流れた。
「それも末期で、お医者様はあと半年持たないだろうって。」
「えっ、そんな…」
一塊の雲が足早に太陽の前を通り過ぎた。その影を追うように竹林を一陣の強い風が渡り、ざわざわと音を立たせた。
以前伺ったお話から、お二人の仲が良いことが伝わってきてた。素敵な宿をおしどり夫婦で経営していることを、うらやましくも思っていた。
「あの、立ち入ったことを伺うようですけど、いつ癌のことがわかったんですか。」
「先月です。年明け頃から疲れやすいとこぼしていたんですが、6月になって帳場で倒れてそのまま寝込んでしまったんです。それで精密検査を無理やり受けさせたら、胃に大きな腫瘍が見つかって。」
「手術で何とかならなかったんですか?」
「ええ。一応手術を受けて大きな腫瘍は摘出できたんですけど、既にあちこちに転移しているから全部を取り除くのは無理だと言われました。」
胸元から出したハンカチで軽く目元を押さえ、言葉を続けた。
「お医者様には何もせずにゆっくりした時間を過ごすように言われているんですが、そんなことをしたらかえって落ち込んでしまうからと言って仕事は続けています。私も主人の意思を尊重したいし、なんといってもいざとなった時の相談相手ですから。」
時々言葉を詰まらせながら話し終えると、大粒の涙がこぼれた。
「父が倒れた時にここを継いで、1年も経たないうちに今度は主人が。せっかくこの宿が軌道に乗り始めたというのに、正直参りました。これから先どうやって続けていけばいいのやら。ここの、いえ、日本の旅館の良さを海外の方にも知っていただきたくて、緋乃さんにご相談したばかりだったのに。あ、もちろんケイトさんのご両親のお泊りは何の問題もありませんし、しっかり勤めさせていただきます。でもその後は…主人が亡くなってしまうと、とても一人でなんかやっていけません。」
たまらず両目をハンカチで覆い、うつむいて肩を震わせた。
「ゆりさん、そんなこと考えないで。大丈夫、ご主人きっと回復するわ。お医者様の見立て違いよ。」
番台に腰を下ろし、ゆりさんの背中をそっと撫でた。多分こんな話は誰にもしてないんじゃないかしら。今までたまっていたものが堰を切って流れ出したかのように、体を震わせながら嗚咽した。私もたまらず彼女の肩を抱き、声が詰まりそうになるのをこらえて話しかけた。
「私の言葉なんて気休め程度にしかならないでしょうけど、今は悲しんでるときじゃないわ。これから毎日お二人で楽しく希望をもって過ごしていけば、きっと充実した日々だったと思える日が来る。その日が近いか遠いかは誰にもわからないし、ましてや今考えることじゃないと思うの。その時までの時間を大切に精一杯力を尽くすことが、一番大切なことじゃないかしら。」
ありきたりの言葉しか思い浮かばなかった。でも、何か言葉を掛けずにはいられなかったの。
「ありがとうございます。ごめんなさい、お客様にこんな愚痴じみたことを申し上げて。」
体を起こすと涙を拭いながら恐縮した。
「何を他人行儀なこと言ってるの、お友達でしょ私たち。少なくとも私はずっとそう思っている。だからお客様なんて言わないで、緋乃って呼んで。」
そう言ってゆりさんの背中をポンと叩いた。すると、それに答えるかのように背中を伸ばし、微笑んで見せた。
「ありがとうございます。じゃあ、緋乃さん、お話しして少し気が楽になりました。こんなこと誰にも言えなくて悩んでたから。実は、緋乃さんと去年初めてお会いした時から、なぜか親しみを感じていたんです。お二人の仲の良さを見たからかもしれませんけど、一人っ子の私にとって姉のような存在というか…あ、ごめんなさい。迷惑ですよね、こんな妹なんか。」
「とんでもない!逆に、こんなに綺麗な妹ができるなんて光栄なことだわ。もしお姉さんと思ってくださるんだったらなおのこと、気を使わないで。ずいぶん頼りないチビな私だけど、話し相手くらいにはなれると思うわ。」
ゆりさんも河野さくらさんと同じくらい背が高い。165,6cmあるんじゃないかしら。だから150㎝そこそこしかない私は、かなり見上げて話さないといけない。傍目から見ると私が妹みたいよね。あ、年齢のことはこの際無視よ。
「お待たせ。なかなか見つからなくて。」
少し大きめの音を立てて引き戸が開くと、軽く息を弾ませながら彼が戻ってきた。
「見つかった?」
私の問いかけに答える代わりに、首に巻いたスカーフを指さした。
「で、どこにあったの?」
「回転式のロッカーの足元。スカーフが黒っぽいうえに、光がはいらない奥の陰になったところだったんで見つけにくかった。」
「そう。とにかくよかったわ。ゆりさん、ほんとに色々と仕掛けがしてあって、楽しく滞在できたわ。一体どなたがあんな面白いことを考えたの?」
「実は主人と二人でなんです。せっかく日常を離れてお過ごしいただくんだから、お客様にわくわくして楽しんでいただけるようにと無い知恵を絞って考えました。お気に入っていただけて幸いです。」
うつむいてそっと瞼を拭うと。いつもの笑顔に戻ってそう答えた。今の表情からは想像できない深い悲しみを抱えているんだと思うと、切なく思うと同時にその気丈さに敬服するわ。
「時間も迫ってきたんで、精算お願いしていいかしら?」
「はい、承知いたしました。」
外へ出ると陽は山際からすっかり昇り、車寄せまでの白砂をまるで白い雲のように輝かせている。その中に浮かぶ飛び石の上を、一歩一歩名残を惜しみながら渡った。
「本当に、雲の中を歩いているみたい。現世、いえ、俗世に向かってね。」
あと一個で現世にたどり着くころ、ちょうど車が廻されてきた。
「ようこそお戻りなさいませ、現実世界へ。私共の世界、お楽しみいただけましたでしょうか。」
車から降りてそう声を掛けてくれたのは、つばきさんだった。
「ええ、おかげさまで。お世話になりました。」
「それはよろしゅうございました。またのお越しをお待ちいたしております。」
「愚痴話をお聞かせしてしまって、すみませんでした。近々改めてご連絡させていただきます。」
助手席の窓を開けると、ゆりさんが近づいて来てそう声を掛けたわ。
「いつでも連絡してくださいね。ゆっくりお話ししましょう。」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきますね。ご利用いただきまして、ありがとうございました。」
「あんな値段で泊めていただいたんじゃあ、〝ご利用〟とは言えないわ。本当に、お心遣いありがとうございました。じゃあ。」
「失礼します。本当に何から何までお世話になりました。」
軽く二人して頭を下げて、車を出した。壁の切れ目まで来ると、正面でかすみさんが両側から車が来ていないことを身振りで示した。急いで窓を開けお礼を言うと、車は湯布院へと向かう。
「あなたが言ったように、本当に何から何までお世話になっちゃったわね。」
「うん、本当だよ。あんな美しい女性たちにお世話してもらえるなんて、幸せそのものだったよ。」
「またそんなこと言って。違うでしょ、感謝しなきゃならないのは。まあ、いつものことだから怒りもしないけど。」
「と言いながら気にするってことは、妬きもち?」
「挑発には乗らないわよ。」
車は瀬の本を左折し、やまなみハイウエイを上り始めた。逆方向とはいえ、去年の冬のことが懐かしく思い出される。初めて私からお願いした温泉ドライブ。明るい中での混浴が、とても恥ずかしかったわ。二人の仲もそんなに親密だったわけじゃなかったし、なんか新鮮だったわね。距離的には小国経由のほうが近いらしいんだけど、彼も私と同じで懐かしいいからってこっち経由になったの。
「去年、この辺は霧氷を見る人たちがたくさんいたわね。今は風にざわめく緑が一面なのに、不思議な感じ。」
「そうそう。路肩に止めてあった車の横を、スリップしてぶつけやしないかとひやひやしながら走ったんだった。」
違法駐車の車はないとはいえ、相変わらず牧ノ戸峠の駐車場は満杯みたい。こんないい天気の中での山登り、きっと気持ちいいでしょうね。
「そう言えば、あなた以前久住山に登ったことがあるんでしょ?」
「以前と言っても中学と高校の時だからずいぶんと昔の話だけど。長者原から、あ、ここ、前回君が〝チェーンあります〟の広告に文句言ったところね、ここから久住山に登って法華院温泉に泊まったんだ。」
車は、やまなみハイウエイを左に分かれて県道に入った。
「へー、山の上に温泉宿があるの。でも、車じゃ行けないんでしょう?」
「そうだね。とにかく山登りはしなきゃいけないね。確かそこは1300メートルくらいのところにあるんじゃなかったかな。」
「え、そんなに高いところにあるの?じゃあとてもじゃないけど、行けないわね。」
「そうでもないよ。だって長者原は、もう1000メートルの高さだからね。」
「そうなの?じゃあ、300メートル登ればいいのね?」
300メートルって言ったら、確か古賀市にある三日月山くらいじゃない?あそこは社内レクレーションで春に登ったわ。
「そう、あとたった300百メートル高いところにある。ただ、そこに行く〝すがもり越え〟っていうルートは、1500メートルの峠を越えなきゃいけないけどね。」
「えっ!じゃあ、まず500メートル登らなきゃだめだってこと?あーあ、結局私には無理だわ。」
先に言ってよね、そんな大事なことは。いつだってそう。人をさんざん期待させといて、結局裏切っちゃうようなオチがつくんだから。
「ごめんごめん、別に失望させるつもりはなかったんだ。でも、苦労していく価値はあると思うよ。」
「ただ温泉に入りに行くだけなのに、そこまでつらい思いなんかしたくないわ。私はせせらぎの湯で十分よ。」
ふと外に目を移したとき、そこの三差路に見覚えがある気がして尋ねたの。
「ねえ、さっきのところって、去年通らなかった?」
彼のほうを見ると、まるで〝気づいてくれたか〟と言わんばかりの嬉しそうな表情。そうよね、二人の大切な思い出の場所ですもの、いろいろ思い出して懐かしむのもいいわ。
「よく覚えてたね。あそこをずっと行くと、いや、戻ると、〝氷のカーテン〟を見た山道だよ。」
「〝氷のカーテン〟!素敵な言い方ね、1年間温めてたの?」
「いや、そういうわけじゃないけど。でも本当に、目の前に氷でできた薄いレースのカーテンがかかっているみたいだったなあ。」
それは、静かな木々の間をゆっくりとキラキラ輝きながら渡って行く氷の結晶。彼曰く、細い葉っぱの上に振り重なった雪同士がくっついて細長い氷になり、優しい風に乗って流れていたんだそう。
「そうね。ほんとに神秘的で感動したわ。感動したと言ったら、その後の雪道。わきの駐車場の車が窓のところまで雪に埋まっている中、あなたったらほんとに真剣な顔で運転してたから感動しちゃった。」
「いや、ほんとにあれは怖かった。どこまでが道でどこからが路肩かわからないくらいの積もり方だったからね。」
「後にも先にも、あんな真剣な顔を見たことないわ。」
「そうかなあ。僕はいつも真剣だよ、君といるときは。」
あら、あの癖が出てるわよ。ま、いいんだけど。
道際の木々の切れ間から、広がる新緑に覆われた飯田高原が垣間見れる。確か、もう少し先に行けば九重夢大吊橋があるんじゃないかしら?でも今日は先の予定があるから、寄る時間はないわね。
「感動話のついでに、この先の大吊橋。もう3,4年前かな、クライアントとポスターの写真を撮りに来た時に見た紅葉は実に見事なもんだったよ。」
「そうでしょうね。この辺りは紅葉の見どころがたくさんあるもの。この先の九酔渓も、時期になるとたくさんの人と車で渋滞して大変なのよ。」
「ああ、そういえば去年の秋は、どこぞの社員旅行の添乗に駆り出されてたね。」
「ええ。でもあの時はラッキーだったのよ。最初は参加者が多かったんだけど、3日前に4人減ったの。それで急遽バスを大型から中型に替えたんだけど、それが幸いしたわ。駐車場探すのも楽だったし、カーブでのすれ違いもスムーズにできたの。」
「あそこは、まさにヘアピンカーブの連続だからなあ。大型バスじゃいちいち止まって対向車が通り過ぎるのを待たなきゃいけない。」
なんて話をしてたら。その十三曲りの入り口の〝峠の茶屋〟が見えてきた。最初は大きく左にカーブ。それからは右に左に小刻みにカーブが続き、最後に右に曲がると道は川に沿って走り始める。
「ふーっ、やっと息がつけるわ。運転してて、気が抜けなかったでしょう?」
「そうだね、ここは対向車に特に気をつけなきゃいけないから神経すり減らすよ。」
両側は、新緑に覆われた壁が高くそびえている。〝七折の滝〟の看板に見上げても、途中で木々に隠されて下のほうのほんの小さな滝しか見えないわ。でも、ほんとに紅葉の季節は素敵なのよ。そびえる壁には、赤や黄色に色を変えた木々の葉がまるで万華鏡の世界のようにキラキラと輝くの。
「気になってたんだけど、僕がスカーフを取って戻った時、ゆりさん涙拭ってなかった?何かあった?」
ほんの一瞬だったと思うけど、よく見てたわね
「ええ、ちょっと。」
「出発間際にゆりさんが言ってた〝愚痴話〟に関係あるのかな?」
「ええ。黙っておこうと思ったんだけど、実はご主人癌であまり長くないそうなの。」
「え、ほんとに?」
それからかいつまんでゆりさんの話を伝え終えた頃には、車は国道を走っていた。
「少しは気が晴れたって言ってたけど、まだまだ話したいことがあるんじゃないかしら。だから、これからは私を姉と思ってなんでも相談してちょうだいって言ったの。」
「姉?おいおい、どう見ても君のほうが妹だろ。」
「ちょっと、茶化さないの。これでも彼女より三つ年上だし、その分経験も豊富よ、お客様から伺った人生訓も含めてだけど。」
「はいはい、失礼いたしました。で、お姉様としては、話を聞くだけなのかい?」
「そういうつもりじゃないけど、実際何をしてあげたらいいのかしら。」
「確かに、何をしてあげられるんだろうなあ。」
続