のんびりとした朝の時間
いつもの調子で目が覚めたけど、今日は特別だったわ。朝湯に入ってご飯食べてお茶飲んで、と異世界でゆったりと時間が流れていく。
はっと目が覚めて時計を見ると、6時。さあ、今日も始まり…あ、そうだった今日はのんびり寝てていいんだっけ。習慣って怖いわね。でも、時間の割には薄暗い。この宿が山間にあるせいかしら?朝ごはんをお願いした時間まではまだ間があるし、もう一眠り。と横にはなったものの、いつもとは違う鳥の声と笹の音が耳について眠れない。眠ろうと思えば思うほどかえって目が冴えてきちゃう。それでもしばらくは眠ろうとしてたけど、もうだめ。仕方なくトイレに行って戻ると、彼ったら布団を蹴飛ばして浴衣がはだけちゃってる。普段はパジャマしか着ないから、帯をしっかり結べてなかったのね。浴衣をそろえてあげてお布団を掛け、彼の横に潜り込み左腕に頭を乗せた。とても落ち着く。体の一部が触れ合っているだけでこんなにも安心するのかしら。そう思いながら目をつむると。彼の寝息がまるで子守歌のようで…
やがてオルゴールの音が聞こえ目を覚ますと、彼が体を重ねてた。時刻は7時。音のする方、壁の日めくりがゆっくりと明るくなった。しばらくすると時刻表示が消え、『おはようございます。1時間いたしましたら、朝食をお持ちいたします。』というメッセージが表示された。もうそんな時間?用意もしなきゃいけないけど、もう一度お風呂につかりたい気もする。そうこうしているうちに、ペールギュントの〝朝〟が鳴り止んだ。
「おはよう、おはよーお寝坊さん。」
そう言いながら、彼の背中を軽く叩いた。
「う、う~ん。」
私の上の乗っかったまま、両手を広げて伸びをした。
「お、重い!」
「あ、ごめん、ごめん。」
「もうすぐご飯が来るわ。さっとお風呂浴びましょう。起きて。」
「え、もうそんな時間か~あ、ハーウッ。」
立ち上がりながらあくびをし、もう一度伸びをした。
「ほら、早くったら!」
ふくらはぎをピシャリと叩くと、おどけて歩きながらお風呂に向かった。簡単にお布団を整え、洗面台に備え付けのマウスウォッシュで口の中を洗い流し彼の元に急いだ。
山際からやっと顔を覗かせた太陽が、竹林を照らし始めた。それぞれの葉が光を反射し、小さな風に吹かれる度にキラキラした波が渡って行く、愛しの人はウッドデッキに頭を預け、私の身長ほどのお風呂の中で軽く腰を折ってゆらゆらと漂っている。近づいていくと目を開け、
「いい眺めだ。太陽を背に、エロスの女神が降り立ったみたいだ。」
「女神だなんて、心にもない嬉しいこと言ってくるのね。」
そう言って、少し乱暴に洗い桶を湯船に入れた。しぶきが彼の顔をめがけていく。笑いながら顔を拭うと、私が入るスペースを空けてくれた。寄り添うように中に入り、彼を横抱きにする。聞こえるのは笹の葉ずれと鳥の声だけ。ほんとにここは別世界。いつもの喧騒から遠く離れ、時間さえも静かにゆっくりと流れているよう。彼の手で起こされた波が、肩を静かに乗り越えていく。しばらくすると肩を掴み、体を回すように促した。膝を曲げて座った脚を割って入り、彼に背中を向ける。両の首筋を摘むようにしながら、肩口にかけて揉んでいく。凝っているのかしら、左側のほうが痛い。首筋から肩に掛けて揉み解すと、おなかに手を回し自分に引き寄せた。
「静かだね、いつもの朝とは大違いだ。」
指先がいつものように柔毛で遊び始める。
「私もそう思っていたの。普段はこの時間、ご飯食べたり身支度したりで戦闘状態だもの。」
「他の連中は今頃そうやってんだろうなぁって考えると、申し訳ないと思うより優越感を感じるね。」
「そう?でも明日からまたそれが延々と繰り返されるのよ。だからたまには、ね。」
首を回し彼のうなじに手を回すと目を閉じる。唇が軽く触れ、一旦離れ再び優しく重なった。
「もう朝ごはんが来る頃よ。」
「そうだね。でも、もうしばらくこのままでいたいな。」
私も同じ気持ちよ。でも椿さんを待たせるのは申し訳ないし、どんなご飯かも気にかかる。そんなことにはお構いなく、かるく口を開けた彼の顔が近づいてきた。
「もうだめよ。時間が…」
口がふさがれ、上唇が吸われた。ああ、もうだめだったら。
「いてっ!」
顎をつかんだ彼の右手を軽くつねって湯船から上がり、サンチェアに掛けておいたバスタオルを体に巻きつけた。
「早くしないと、ほんとに椿さんが来るわよ。」
そういい残して、脱衣所に向かった。いつものようにまたブツブツ言ってる。ふふっ、無視無視。浴衣に着替えて掘りごたつにすわりタオルで毛先を乾かしてると、
「お早うございます。朝食をお持ちいたしました。」
椿さんの声が聞こえた。
「はーい。お願いします。」
「失礼いたします。」
椿さんに続いてかすみさんも入ってきて、手際よくお料理を並べだす。そのうち、帯を結びながらやっと彼がやってきた。
「ひどいなあ、つねり上げといて置き去りなんて。あ、お早うございます。」
「つねり上げただなんて大げさよ。ちょっとつまんだだけじゃない。」
振り返りもせずにそう言うと、彼に頭を小突かれた。
「いたっ。だってあなたしつこいんだもん本当は私もそうしてたかったのよ。」
「あー、はいはい。どうせいつも悪いのは私ですよ。」
ご飯をよそっているつばきさんが、かすみさんに目配せして微笑んだ。かすみさんもそれに答えるように釣られて微笑む。見つめているとかすみさんと目が合った。笑顔に少し細くなった目が、相変わらず涼しげだわ。はっ、と真顔に戻り視線を落としたのがかわいらしい。
「ごゆっくりお召し上がりください。ご出発は10時と伺っておりましたが、その時間で変更はございませんか?」
「ええ、変更はありません。」
「かしこまりました。ではご用意がお済みになりましたら、うさ子でお知らせください。お荷物をお運びいたします。」
「いえ、小さなボストン一個ですから、自分で運びますよ。」
ちょっと、いつまで善人ぶってんのよ。
「とんでもない。私たちの仕事を取り上げないでください。」
「そうですか。では、よろしくお願いします。」
一礼すると、二人は下がっていった。
「つばきさんって、いつ見てもきれいな人だなあ。それにかすみさんはキュートだし。」
「そうね。二人ともお客様好感度高いわね、きっと。」
「さあて、と。時間はまだあるし、ゆっくりいただくとしますか。」
そう言いながら足を胡坐に組直し、顔の前で手を合わせた。えーっと、お茶は…
「う~ん、しっとりとして、柔らかい。」
「え、なにが?」
「このご飯。」
「なんだ、私のことじゃなかったの。」
「はあ?ちょっと自意識過剰じゃない?」
「違うとでもいうの?」
「そこ言わせる?」
「ええ。だって答えの想像はつくけど、はずれているかもしれないから確認しとかないと。」
「わかった。そうまでおっしゃるのならお話しいたしましょう。そろそろお魚を裏返されたほうがよろしいかと。」
おかずのアジの一夜干は、テーブルの上に置かれた自分用の固形燃料コンロで炙るようになってる。パチパチと鰭がこげる音がしてきた。
「あ、大変。」
あわてて裏返し、その右手前にある冷奴を手に取った。昨日のお豆腐よりしっとりしていて、上に乗っている山椒の佃煮も香りが柔らか。だけどお口に入れて噛んでいくと、甘塩っぱさがお豆腐を覆いその中からしっかりピリリとしたからさが効いてくる。朝の目覚めにはちょうどいいわね。そのせいかしら、ちょっといたずらしたくなっちゃった。
お料理を味わいながら、足を延ばして彼のすねをつついた。
「こら。」
あら、声はきついけどこちらを見た顔が笑ってるわ。じゃあ…今度は足の指を開いて彼のに絡めた。
「こらっ、いい加減にしないと…」
「いい加減にしないと、何?」
いきなり足首をつかまれ、そのまま押さえつけられた。
「キャハハハハハ、ちょ、ちょっと。キャハハ、や、やめてったら。」
指で優しくくすぐったかと思うと、触れるか触れらないかで指が足の裏を這いまわるの。
「集中してご飯食べる、と約束できるかな?」
「わ、わかっ、キャハハ、や、やめて、ごめんなさい。ちゃんと食べます。ハハハ。」
「わかればよろしい。」
足首を放されると、すぐに足を引っ込めた。ふうっ。失敗した。まさかくすぐられるなんて、そこまで気が回らなかったわ。
お魚を手前のお皿に降ろし一口むしると、添えてあった大根おろしとお醤油に漬けて口に運ぶ。まずゆずの香りが、次に香ばしさが口の中いっぱいに広がり、噛むと外はカリッと中はふんわりとしている。
「炙ってすぐの一夜干って、こんなに美味しいのね。」
「うん、普通は炙って時間が経ったものしか出さないけど、これはいいアイデアだね。」
そう言いながら、彼は尾びれの辺りを手で掴んでバリバリ食べてる。まるで子供みたいに口の回りを汚しちゃって、ほんとにさっき愛し合ったのと同じ人かって思うくらいのギャップ。
お茶でお口をさっぱりとさせ、今度はお味噌汁。さっきから茗荷の香りが気になってたの。お汁は少なめ。斜めに半分に切った茗荷と、透き通るくらいに煮付けてあるお野菜。お汁を一口すすって、お野菜を口に入れる。
「これって、冬瓜かと思ったら、違うわね。何かしら?」
「え、食レポの達人緋乃様でもおわかりになりませんか。では、私めが…」
半分に切ってぽんと口に放り込むと、ゆっくり舌の上で転がしてる。それから一口噛んでは右上を、また一口噛んでは左上を見つめ、神妙な顔つきをしながら考えた。
「まず冬瓜にしては色が濃いよね。それに舌触りが少し粗くて繊維質が少ない。ちょっと青臭い感じもする。」
「で、なんなの、いったい?」
「う~~ん、わかんない」
「なにそれ。そこまで言っといてわかんないの。」
「いや、僕は自分が感じたままを言っただけで、それから判断してもらう…」
「そうだ、日めくりの中にお品書きがあった。それを見ればいいわ。」
立ち上がって日めくりを外し、テーブルの上でメニューを開いた。「えーっと、ご提供するサービス…お食事…あった、朝食のご案内。」スワイプを数回繰り返し、朝食の紹介というところに行き着いた。「えーっとね、白ご飯、アジの一夜干し、手作り豆腐山椒乗せ、ズッキーニと茗荷赤味噌汁仕立て。ズッキーニ!たしかにそうだわ。へ~ぇこんな食べ方もあるんだ。」
「ズッキーニ=洋食というイメージがあるから、とても思いつかなかったな。」
「洋食から離れても、せいぜい中華炒めまでだったわ。あ、思い出した。ズッキーニといえば、この前作ってくれた色々ハーブとパルメザンのグリルは美味しかったわね。」
「でしょ?散々考えたんだから。」
「そう?あとでパソコン見たら、〝今夜の肴〟ってサイトの履歴が残ってたけど?」
カマかけてみたら、ほらほら、あの癖が出たわよ。
「あ、ばれてたか。」
レシピはやっぱりネットからだったのね。ほんとにわかりやすいんだから。
出勤する必要はないから、時間にせかされることなくじっくりと味わいながら朝食を楽しめたわ。ふわふわの出汁巻と三種類の香の物も、とっても美味しかった。
「こんなに時間をかけて朝食を食べるなんて、ほんとに久しぶりじゃない?いつもはバタバタと義務的に食べて、あわてて出かけているものね。」
「いや、申し訳ない。いつも朝早く起きてご飯作ってくれてるのに、なかなか準備できなくて結局かき込んで出かけちゃう。」
「一応一回で起きてはくれているから、許してあげるわ。」
「それだけは守らなきゃと思ってる。」
去年はじめての温泉ドライブのときに私が言った言葉を、しっかりと覚えてて守ってくれてる。味わって食べてもらいたいけど、毎晩遅いから少しでも長く寝かせといてあげたいからぎりぎりまで起こさないようにしたの。でも今日はほんとにのんびりしてる。出発の時間までだって、まだ一時間以上あるわ。
「ねえ、コーヒー飲まない?」
「そうだね。時間はまだたっぷりあるし。」
テーブルはそのままに、窓の前にあるカウンターに移った。左側の棚を開けるとカプセル式のコーヒーメーカーがあり、冷蔵庫にある専用水を使うようにとカードが添えられている。その水を背面にあるタンクに入れ沸騰スイッチを押した。
「ね、どれにする?」
10個ほどのアルミパックが入ったバスケットを彼に見せた。
「色々あるんだなぁ。迷っちゃうよ。じゃあモカ。」
「え、また?迷ってないじゃない。たまには違うのにしたら?せっかくこんなところにいるんだから。」
「だからこそ、あえて同じものを飲むのさ。」
「訳わかんない。」
受け取ったパックをセットした。
「私は、これ。食後のデザート代わり。」
「デザート代わり 僕のフルーツまで食べといて。」
「私、頂戴なんて言ってないわよ。」
「誰だってあんな目で見つめられたら渡すよ。」
選んだのはキャラメルマキアート。お抹茶にしようかとも思ったんだけど、やっぱり甘い方に手が伸びちゃった。
モカの抽出が始まると,香ばしい香りが漂ってきた。
「たまには苦みの効いたコーヒー飲んでみたら?」
「さあ、冷めないうちに飲んでね。」
「口の中がさっぱりして気持ちいいと思うよ。」
「どう、いつもの味でしょ?」
「だからぁ… 」
15秒ほどで出来上がり、まだ何か言いたそうな彼の手にカップを置いた。白磁に薄いブルーのグラデーションが斜めに引いてあって、持ち手には小さなブルーのウサギが乗っているわ。私のカップはピンクの同じデザイン。それを注ぎ口の下に置き、パックをセット。すぐに甘い香りがしてきた。
「これはうまい!酸味がきつくなくて、ほんのり甘い。」
「え、同じモカなのに味が違うの?」
「もちろんさ。焙煎の仕方とか豆の挽き方とかで、全然違う味になるんだよ。それにモカと言う名前も、まったく違うところで育った豆にも使われるんだ。と言うのも、モカはエチオピアの港の名前で、そこから出荷されるコーヒー豆を〝モカ〟と呼んだんだ。ま、一種のブランドだね。」
「じゃあそこから積み出される豆だったら、採れたところが違っても〝モカ〟なの?」
「そういうことになるね。一番有名なのはイエメン産の〝モカ・マタリ〟。エチオピア産のものでもいくつか産地によって名前があるらしいんだけど、詳しくは知らない。ただ、味の特徴は一緒で、苦味よりも酸味が強いことなんだ。でもこのコーヒーは、強い酸味というよりフルーティーと言った方がいいくらいの優しい酸っぱさだ。焙煎がいいんだね、きっと。どこの製品だろ、このパック?」
バスケットからモカのパックを取り出し、裏の文字を確かめてる。
「〝モカ(モカ・マタリ)〟、京都市中京区…有限会社チェスナット。えっ、嘘だろ!?」
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも。この会社、と言うかこの店、超有名なところだよ。」
「そうなの?」
「ああ。京都にある喫茶店だけど、決して観光案内には載らない、いや載せないんだよ。だけど、コーヒー好きの間では知る人ぞ知る名店、ちがうな、聖地みたいなもんさ。カリスマ焙煎師の栗林さんが趣味で始めた店で、海外にまで紹介されてるんだ。小さな店でお客が多いから、いつ行っても満席なんだよ。よくまあそんなお店にこんなものを作ってくれって頼めたなあ。」
「で、あなたは行った事あるの?」
「行ったことはある。神戸のクライアントと都をどりの取材のときにね。」
「で、やっぱりおいしかった?」
「残念ながら、待ちの人数が多くて結局中には入れなかった。行った事はある、と言ったのはそういう意味さ。」
「へえ、じゃあそのお店のコーヒーを飲んだのは、今日初めてというわけね。」
「そういうこと。でも、いつも飲んでるモカとこんなに味が違うなんて、〝焙煎〟恐るべし。」
ひとしきり感心した後、勿体を付けるように、でも愛でるように口に含み味わってる。そんなに美味しいの?お店の名前をみて、なおさらそう感じているんだろうけど。でも変わるものなのね、焙煎で。ふと、以前から不思議に思っていたことを思い出したの。「ねえ、カフェモカってあるじゃない。あれってモカを使ったアレンジコーヒーなの?私はどちらかと言うとココアに近いように思うんだけど。」
「残念ながら、カフェモカにモカは使われてないんだ。モカの香りって、ちょっとチョコレートっぽいところがあるだろ?そこからヒントを得て、エスプレッソ・コーヒーにチョコレートを溶かしてモカに似せたのが始まりらしい。」
「ふ―ん、そんな生い立ちだったの。〝なんちゃってモカ〟として生まれた飲み物が、今ではメジャーな定番メニューになったってことね。最初に作ってくれた人に感謝しなきゃ。」
「そう、特に君のようなアイス・カフェモカの愛好者はね。あ、それで思い出した、トッピングのホイップクリーム・ダブル、あれは体に良くないんじゃない?」
「わかってるわよ。だけど止められないんだなぁ、これが。」
会社の近くにある、以前から待ち合わせに使っている喫茶店。いまどき珍しい純喫茶なんだけど、そこの目玉の一つがカフェモカ。トッピングのチョコレートスプレー、キャラメルソース、追加生クリームが無料。すごいでしょ?夏になると私はそこでいつもアイスカフェモカを注文し、生クリーム増量、彼が言うところの〝ホイップクリーム・ダブル〟を注文する。エスプレッソに甘いホイップクリームを混ぜながら飲むんだけど、このお店のエスプレッソというのがとっても苦い。『だからいいのよ』という人がいるけど、私にはちょっとキツい。それで甘さ倍増のダブルを注文するようになったというわけ。彼が注文するのは、モカ。どこに行っても、だいたいモカを飲んでるんじゃないかしら。さっきの話も、好きだからこそ色々と調べたのね。ここのを飲んで驚いたところからすると、あのお店のモカも少し酸っぱくていまいちなのかな。
窓の外の竹の葉がやさしい風に吹かれて揺れ、左側からの朝日をチラチラとやわらかく反射している。よく見ると、竹林越しに見下ろしたところに屋根がある。ああ、そうだった。すっかり別荘にでもいるような気分になってたけど、他のお客様もいらっしゃるのよね。昨日来てから一歩も外に出てないから、ここが旅館だってことをすっかり忘れていた。でも、本当にこんな別荘があったら素敵ね。彼の会社で建ててくれないかしら。そうすれば福利厚生にもなるし、社員は喜ぶと思うなあ。私だって楽しみだし、たまにはお掃除くらいさせてもらうわよ。
流れ始めた〝田園〟に我に返ると、日めくりの表示が9時30分を示している。
「え、いつの間に。大変、急がなくっちゃ。」
急いでカップを空けると、ロッカーの服を持って洗面所に向かった。
「あ、お化粧、お化粧。」
途中で引き返し、バッグからポーチを取り出した。
「あなたも早く。」
モカを飲み干そうとしている彼のうなじに口付けし、急いで鏡の前に立った。歯を磨き服を着替え髪を束ねて、いよいよ造顔開始。と言ってもこのごろは薄化粧だし、添乗モードでやれば十分とかからないわ。ファンデーションを塗り軽くチークをはたきアイラインを入れてルージュを引き、髪をほどいてブラシを入れてから改めて結ぶ。
「よし、完成。」
「え、もう?」
和室に戻ると、彼はまだポロシャツに腕を通している段階。お布団を簡単に片付け、使ったカップをカウンターの端に寄せる。
「お待たせ。それにしても早かったね。」
「そう?完全戦闘モードだと、もっとよ。」
「おみそれしました。じゃ、出ようか。」
「あっ、まず連絡しなきゃ。」
日めくりをもう一度外し、メニューから“〝ご出発〟を選びタッチ。すると『ご利用ありがとうございました。係がお荷物をお運びいたしますので、そのまましばらくお待ちください。お手荷物は全ておそろいでしょうか。お忘れ物なさいませぬよう、今一度ご確認をお願いいたします。』とのメッセージが現れた。
「バッグは大丈夫。忘れ物はないわよね?」
「ああ、これ以外には何も持って来なかったから。」
そう言って棚からバッグを取った彼に続いて玄関へと向かった。
「結局、この足湯には浸からなかったね。」
チロチロと細い竹の口からお湯が注がれている。
「そうね、そんな時間なかったわね。でも露天風呂をゆっくり楽しめたから、それはそれでいいんじゃない?」
「〝ゆっくり〟ねぇ。でも…」
続く彼の言葉を遮るように、玄関の鈴が鳴った。