俗世を離れた世界で
やっぱり旅の楽しみは食事よね。どんなにいいお部屋だったりおもてなしでも、これだけはチェックポイントから外せないわ。さて、どんなお食事がでてくるのかしら。
「お食事は少しお休みになられたころ、テーブルのお部屋にお持ちいたしますが、それでよろしゅうございますか?」
「え、ここで食べていいんですか?」
あれ、私そのこと話してたわよ。
「はい、原則としてお部屋にお食事をお持ちするようにしております。ご希望であれば、帳場の横にお部屋をご用意することもできますが。」
「いいえ、こちらでお願いします。部屋で食べられるとは思っていませんでした。ありがたいです。年寄りには、階段の昇り下りがこたえますから。」
「ご冗談を。奥様が呆れた顔してらっしゃいますわ。」
そうよ、まったく心にもないことを。私が体力のことを気遣うと怒るくせに。きれいな女性とみると、すぐ同情を得ようとしてあれこれ言うんだから。
「ところで、何か飲み物をお願いすることはできますか?」
フローリングのお部屋に戻ると、お茶を入れてくれてるつばきさんに彼が尋ねたわ。
「もちろんです。そちらの壁にかかっております日めくりカレンダーは取り外せるようになってまして、画面右下のウサギに触れていただきますとメニューが出てまいります。その中から食事のアイコンをお選びいただければ飲み物、追加のお食事、デザートなどの案内が出てまいります。」
言われた場所には、よく見かける大きな日めくりがかかっている。厚さがないし、タブレット端末って言われれば確かにそうね。
「では、しばしお寛ぎくださいませ。」
そう言って座礼すると、つばきさんは去っていた。きちっとしたメリハリがあって、とっても滑らかな動き。きっと、お茶かお花を習ってるのね。
日めくりは、背の低い私でも届く高さに掛けてあったの。それを外すと、座ってお茶をいただく。緑の香りと甘い苦味で、ほっと人心地がついたわ。日めくりの右下には、餅つきをしている二羽のウサギのアイコン。触れると墨文字の、『飛び石ご提供サービスメニュー』に画面が変わり、宿の歴史、施設の説明、お食事の紹介、周辺の観光地紹介など、ホームページとはまた違った内容が載せられているわ。とりあえず、飲み物のページからビールを注文しといた。
「これっておもしろい。宿や周辺のことが細かく紹介されてる。インターネットにも接続されているから、タブレット世代の私たちには紙情報より使いやすくて便利ね。」
「部屋の中にあれこれ案内書やパンフレットを置いていると日常を思い出させてしまう、という配慮だろうね。ところで、『タブレット世代の私たち』って言い方は、僕に対する嫌味かな?」
「ま、まさか!あなただって、仕事でこういうの色々使ってるでしょう?そんな人に嫌味なんて言う筈ないじゃない。」
危ない危ない、この年代の人にはIT関係の話題は微妙なのよね。いい例が、うちの会社の中で情報屋として知られている還暦部長鶴川さん。いい人なんだけど、何かと自分の物知りをアピールしたがるの。悔しいけど、確かにアナログ的に情報収集する能力には恐れ入るわ。毎朝早起きして新聞を3紙、週刊誌は毎週4種類、それに月刊の経済・マネジメント紙を1冊。読んだ後は必要な記事は切り抜いて、分野ごとに5冊のスクラップブックに収めてある。それを毎日大きなショルダーに入れて会社に持ってもってくるの。
だけどあまりうるさいときは、『タブレット世代の私たちには、部長のような能力はありませんので』って言ってやるの。それがつい…考えてみれば鶴川さんと彼は歳が近いのね。言い方に気をつけなきゃ彼を怒らせちゃうわ。
いろいろ探検してると少し大きめの鈴の音が、間隔を置いて2回聞こえた。
「失礼いたします。お食事の用意をさせていただいてもよろしゅうございますか?」
その声に玄関への襖を開けると、戸は閉まったまま。こちら側の状況がわからないから、ということかな。
「どうぞ、お願いします。」
「かしこまりました。」
その声とともに戸を開けたのはつばきさん。その後ろに、大き目の二段重を抱えたショートカットの目がくりっとした女性を連れていた。左胸には〝かすみ〟と小さく染抜かれている。まずつばきさんが上がりお膳を受け取り、続いてかすみさん。それぞれがお重からお料理を取り出し、彼と私の前に手際よく並べ始めた。ひとつ置かれるたびに、色合いの美しさと鼻をくすぐる香りにため息が出る。ああ、早く食べたい。
「一の膳でございます。手前左から、ヌメリスギタケ、山椒と山芋の吸酢仕立て。その右はアスパラのバター風味でございます。お好みにより、自家製辛子マヨネーズをつけてお召し上がりくださいませ。土瓶は、舞茸、蕪、三つ葉、牛蒡でございます。手前の片口の中には絞ったカボスが入っておりますので、そのままの出汁を一口お飲みになった後で土瓶に注いで味の変化をお楽しみください。向付は、イサキ、カンパチ、サザエのお刺身でございます。どれも今が旬のものですので、お楽しみいただけると思います。」
説明が終わるとビールが運ばれ、それぞれの前のコルクのコースターにグラスが載せられた。一口サイズで、指を添えただけでも割れてしまいそうなほど薄い。しなやかに注いでくれるつばきさんの指が、瓶のあめ色とのコントラストでいっそう白く見える。
「では、お済みのころ次のお膳をお持ちいたします。ごゆっくりどうぞ。」
座礼をして立ち上がるとき、かすみさんがこちらを見てふっと微笑んだ。どちらかというと脇役的な花の名に、彼女の仕事ぶりが重なったわ。ひょっとしたら、経験を積むにつれて名前も変わるのかしら。
さて、まずは喉を潤さなきゃ。
「お仕事お疲れ様。今月は忙しくて、全然お休み取れなかったね。だから、せめて今晩だけはゆっくりしてちょうだい。」
「ありがとう、そうさせてもらうよ。それより、ごめんね。一緒にいてあげられなくて。何とか時間を作ろうとはしてるんだけど。」
「しかたないでしょ。見込まれて偉くなったんだもの、誇りに思わなきゃ。」
「そう言ってもらえると、少しは気が楽になるよ。じゃ、思いやりのある君に乾杯。」
「乾杯。私のことより、お仕事がんばって。」
大嘘よ。ほんとは泣きたいくらい寂しいんだから。でもそんな顔なんて絶対見せられない。だって、彼が悲しい思いをするだけだもん。グラスをそっと持ち上げて、彼のとゆっくりくっつけた。久々に見る、ゆったりとした笑顔が目の前にある。そう、この顔が大好き。私を優しく守ってくれているようで、ほっと息をつける。
では、いよいよお食事。さて、どれから始めようかな?彼を見ると、もう吸い酢仕立てを終えて土瓶を覗き込んでいる。
「ゆっくり味わって食べないと、申し訳ないわよ。」
「あ、ごめんごめん。そうだね。どうも、食事を掻き込む癖がついてしまったみたいだ。」
「仕事が忙しくてゆっくり食べる時間がないのはわかるけど、ここではゆっくりしてって言ったでしょう?」
「はいはい、承知しました。」
とか何とか言いながら、お猪口に注いだ出汁を飲み干したじゃない。
「ちゃんと香りを楽しんだの?」
「ああ、もちろん。舞茸と牛蒡の香りに、三つ葉がアクセントになってる。ふふん、なかなか様になった言い方だったな。食レポとしても使えるんじゃない?」
「とんでもないわ!何言ってんの。今のは、陳腐な表現。私だったら、『舞茸の木の香りと、牛蒡の土の香り。そこに爽やかな三つ葉がアクセントとして効いている』とか表現するわよ。」
「へー、うまいこと言うんだね。さすが、パンフレットのキャッチコピーを頼まれるわけだ。恐れ入りました。」
「うむ、素直でよろしい。」
だいぶ迷ったけど、最初はアスパラをいただくことに。ひとつつまんで、そのままの味を確かめた。うーん、軟らかいけど歯ごたえが残っていて、噛むほどに甘味が増してくる。二本目は、辛子マヨネーズをつけて。ちょっと覚悟してたんだけど、マヨネーズのお陰なのか、あのツーンとくる刺激がまろやかだわ。それに、辛さが甘味を引き立てているみたい。きっと、辛子とマヨネーズがバランスよく混ぜ合わされているのね。
では、吸い酢はどうかな?白い山芋、薄茶のかさに白い茎のヌメリスギタケ、その横に三粒の緑の実のついた山椒の房と数枚の小葉。濃い紫にアカネが刷毛で引いてある器の中に、くっきりと浮かんで見える。まるで夕焼けの中、名残惜しそうに去っていく雲に乗っているみたい。軽く全体を混ぜて、一口すすって数回噛む。ヌメリスギタケのなめたけに似た食感の傘とシャキシャキの茎に、山椒の葉の独特の香りとまだ柔らかい実の食感。そしてみんなを優しく包んでくれる山芋のトロトロ感。強い個性の山椒を和らげ、程よい刺激で食欲を刺激してくれる。
最後の一口が喉を下っていくのを楽しんだ後、土瓶へ。土瓶のふたになっているお猪口を取り、静かに出汁を注ぐ。ゆっくり香りをかぐと、彼が言ったとおり。それぞれの持ち味が生かされて、とってもいい香り。一気に口の中に流し入れると、香りどおりの味が広がって行く。次は、カボスを一廻し入れてお猪口でふたをし、しばらく蒸らす。そっと注いでゆっくり口に含む。味と香りが一層爽やかになった。飲み干したお猪口を取り皿に、土瓶から具を取り出していく。粉引きの器をキャンパスに見立てて、絵を描くようにひとつひとつ盛り付けてみる。
「こうやって彩りも楽しめるように、器も選んであるんだ。美濃焼きかな?母のお茶碗に良く似てる。」
「粉引きの器は、脆いし手間がかかる。あえて土瓶蒸に使ってあるのは、君が言った演出を狙ってのことだろうね。」
しばらく愛でた後、口に含む。シャキシャキとしたごぼう、やわらかな歯ざわりだけどコシがある舞茸、ほろほろと煮られた蕪。そしてひとつひとつの個性を引き立てる三つ葉。さながらカボスは、みんなの個性を引き出す指揮者。そう、お野菜たちが奏でる美しいメロディーが聞こえてきそう。だめだめ。凝りすぎた表現で、かえって陳腐。とにかく、触、香、味のバランスの取れたお料理だわ。
と、目の前にビールが差し出された。はっと我に帰って視線をあげると、彼がうっすら笑みを浮かべている。
「いやだ、私ったら。」
「言ったとおりだった。」
「え?はい、認めるわ。食事が楽しみでここに来ました。だってこんなところ、二度と来れないかもしれないでしょ?どんなお料理が出されるか、ものすごく興味あったの。でも、ごめんなさい。自分の世界に入って、あなたのことが見えてなかったわ。」
「今に始まったことじゃないけどね。でも、楽しませてもらったよ。一口食べるごとに君の表情がいろいろと変わって、見ているこっちまで頬が緩んだくらいだよ。」
「ま、ずっと見てたの?いやだ、恥ずかしいじゃない。」
ビールの泡を壊さないように半分ほど飲み干した。瓶を受け取り、今度は私が。
「もう食べおわったの?」
「ああ、どれもおいしかったけど、僕は刺身が一番良かった。」
「それから先は言わないで。私はこれからだから、食レポの見本見せたげるわ。」
瓶をお膳の右側において、お箸をとる。
まずは、イサキね。軽く焼いてから刺身にひいたのかしら?皮が少し焦げてるわ。一切れ口に入れると、香ばしい香りとほんのりとした甘み。噛むにつれてそれが口の中に広がり、まるで味付けされてるみたい。
「おいしい。イサキって、こんなに甘かった?」
「今は脂の乗ったおいしい時期だからね。皮を炙ると、その脂が溶け出してるんだ。ちなみに、キンメダイの刺身のように熱湯で脂を溶かす方法もあるよ。炙る方を焼霜造り、湯を使うのは湯霜造りとか松皮造りとか言うんだって。」
「よく知ってるのね。キンメダイに熱湯をかけるのは、色合いを良するためだって聞いたことはあったけど。ひょっとして、田中課長のうんちく?」
「あれ、先月号の『散歩倶楽部』読まなかったの?そこを突っ込まれると思ったのになぁ。」
「え、うちの会員誌の?」
「そうだよ。その中に、伊豆の老舗旅館の料理長の話が載ってたじゃない。」
「そこは、…読まなかったわ。だって、先月からタヒチ、カナダ西海岸、北欧、インドって続いて、来月はケニア。ここんとこ海外ばかりだから、そっちの話題にしか目が行かなかったの。」
「確かに。僕に輪を掛けて、君もあちこち飛び回ってたもんね。だから君がいないときに早く終わっても、一人で食べるのは嫌だから外食してたんだよ。」
「あー。それって、田中課長と飲み廻った言い訳にしてない?早く帰れたんなら、ゆっくり眠ればよかったのに。」
「一人のベッドは広すぎて。」
「何バカなこと言ってるの。」
「寂しい思いさせてごめん。」
「…さて、次はどっちにしよっかなー」
と言っても、もうサザエに決めてた。薄く切られた身を、お醤油にちょっとだけつけて。コリコリという歯ざわりとともに、海の香り、いえ、濃厚な海草の香りが口の中に広がっていくわ。きっと日本酒にぴったりね。あー、お酒が飲みたい。でも、我慢我慢。今日の主役は彼。彼の選ぶものに合わせ…
「失礼します。お飲み物をお持ちしました。」
つばきさんだわ。飲み物って、何か頼んだかしら?
「お頼みになると思ってました。お二人とも相当なグルメだと伺っておりましたから。こちらの西の関は、どのお肴にも合うご希望通りのものだと思います。」
テーブルの上に置かれたのは、冷酒用のデキャンタとおちょこ。ピンク色でとてもかわいらしい。
「お酒もさることながら、おちょこに隠された小さな仕掛けもお楽しみください。ではしばらくの後、二の膳をお持ちいたします。」
ふっと微笑んで、つばきさんが下さがった。
「いつの間に頼んだの?」
「へへん。さて、『サザエに合う日本酒を』って頼んだんだけど…」
そういえば、私が舞茸を食べてるときタブレットを触っていた。サザエを食べてみて、私だったら日本酒を欲しがるだろうと頼んでくれたのね。相変わらずの気遣いに感謝する。
「どこのお酒?」
「大分県。」
「え―、そうなの?お酒って言うと、東北とか北陸とか北のほうのイメージしかわかない。」
「それは思い込みだよ。有名な米どころが、必ずしも酒の名産地というわけじゃないんだ。京都の伏見とか君の好きな剣菱酒造のある灘は、米どころじゃないだろ?それとあまり知られていないけど、県別の蔵元の数では、福岡県が全国第5位になったこともあるんだよ。」
「それ、びっくり!どうして?お酒を造るのにいい場所なの?」
「そう、ミネラルをたっぷり含んだ水があるんだよ。特に城島は昔から酒造りは盛んだったんだ。だけど、灘とかの大手酒造メーカーの下請け的な存在で、蔵元の名前が表になることは少なかった。それが阪神・淡路大震災で大手酒造メイカーが被害を受けたのをひとつの契機として、蔵元が自社ブランドで勝負を始めた。で、日本中から注目を受けるようになったってわけ。」
「ふーん。ひょっとして、それも『散歩倶楽部』に載ってたの?」
「いや、こっちは田中課長情報。」
「やっぱり。課長の得意げに話す姿が浮かぶわ。ということは、このお酒もおいしいお水のあるところでできたのね。」
「そういうこと。」
「大分のお水…日田の天領水は知ってるけど、他にも水どころがあるの?」
「と、とにかく、うまい酒と肴を楽しもう。」
話を逸らしたわね。でも、今日は追及しないで許したげる。
「あなたはビールのままでいいの?」
「実は、僕も同じこと考えてて。」
彼の向付を見ると、サザエが残してある。ほんとは自分が飲みたかったのかしら。
「仕掛けはあとで探すとして、まず酒を味わおう。」
デキャンタを差し出されるまま、お酒を受けた。目の前で軽くあげて乾杯。口の中に流し込んでいくと、さっぱりとしたお酒がサザエの後味を洗い流し、さらさらと喉を降りて行った。
「おいしい。口の中がすっきりして、いくらだってサザエを食べられそう。」
「さわやかさが胃袋から昇ってくるみたいだ。〝透頂香〟って、こんな感じなんだろうな。」
「なぁに、その〝透頂香〟って?」
「あ、さすがの君も知らなかったか。ん~、歌舞伎十八番って聞いたことある?」
「あなたのカラオケの十八番ならよく聞かされて知ってるけど。」
「その〝十八番〟という言い方も、これに関係しているらしいんだ。歌舞伎十八番っていうのは、江戸時代に市川家が得意としていた歌舞伎の十八演目のことなんだ。」
「市川家って?」
「市川團十郎って聞いたことないかな。歌舞伎役者の一家系で、中村家も有名だね。」
「あ、その名前は聞いたことある。でも、中村家のほうが良く聞く気がするんだけど。」
「テレビに出る役者が多いからね。で歌舞伎十八番、今では半分くらいしか上演されてないらしいけど、その中に〝ういろう売り〟というのがあってね。」
「外郎は知ってるわよ。名古屋のお土産によくもらうもの。大好きよ、私。そのお店の話なの?」
「じゃなくて、昔中国の人が持ってきた正露丸のような薬のことも〝ういろう〟って呼ぶんだ。その薬売りの口上なんだけど、薬を当時の帝が〝透頂香〟って名づけたことから始まって、『この薬を飲めばこんなに舌がよく回るようになります。』と言って早口でしゃべりだす。その薬を飲んだ感想として『薫風喉よりきたり、口中微涼を生ずるがごとし』と言うくだりがあって、それを思い出したんだよ。」
「えらく詳しいわね。歌舞伎が好きだって聞いたことがないけど?」
「話してなかったかなぁ。入社したてのころ、担当してたクライアントに創立記念日のMCを頼まれたことがあるんだ。でも渡された原稿には早口言葉かと思うくらいの難しい読みの単語が並んでいて、どうしてもうまくいかない。それで、学生時代に演劇をやっていた同期のやつに相談してみた。はっきりしゃべらなきゃいけないのは、MCも役者も同じだからね。そしたらういろう売りの口上の部分を渡されて『これを五分で音読できるように練習すればいい。』って教えてくれたんだ。彼らの世界では、このういろう売りは必ず覚えてすらすら言えるのが常識なんだって。そこで彼にレッスンを受けながら練習して、何とか二週間くらいで言えるようになれた。このさわやかな酒を飲んで、ふっとその口上を思い出したんだよ。」
「ふーん、そんなこともやってたんだ。なんでも屋ね、まるで。それで、〝十八番〟がその〝ういろう売り〟に関係しているってどういうこと?」
「あ、それ。市川家ではその演目の台本を、家宝として箱に入れて保管してたんだ。その箱が”〝御箱〟つまり〝おはこ〟と呼ばれていたからだって。」
「へー、納得。『大切に隠しているものは、最も得意なものだ』、ってことになったのね。」
「まあ、一つの説だけどね。」
こういったこと、営業をやってた頃から雑学の本をよく読んで仕入れてたわ。『たまには小説でも読んだら?』って冷やかしてたけど。
さて、いったいおちょこに何がしかけてあるの?空けたおちょこを、持ち直してあっちこっちと回してみた。全体がピンクのすりガラスで、立ち姿の小さなウサギが二羽と花びらが散りばめて描かれているだけ。でも、一箇所だけ丸く透明になってるところがある。彼の方を見ると、そんな事はお構いなしに私にデキャンタを差し出し、続いて自分のにも注ぎはじめた。さっきは何も気にかけずに一気に飲んじゃったけど、お酒が入って何か変わるったかしら。そう思いながら丸いところを覗いてみたの。
「素敵!」
向こう側に描かれたウサギが、お酒の屈折のお陰かしら、大きく見えて、ちょうど二羽が丸窓に収まって見えた。
「満月の中でウサギが二人して遊んでいるみたい。ねえ見て、見てったら。」
ちょっと怒った声で呼ぶと、彼が渋々覗き込んでみる。
「ほんとだ。凝った演出だね。ピンクの世界で向き合う男女がやることと言えば…」
「カンパチは残さなかったのね。」
「え?あ、そっちは食べ終わった。」
まったく、もう酔いが回り始めたの?オヤジらしい下ネタが出そうになったもの。いくら私でも、今の雰囲気じゃそんなこと聞きたくない。彼ったらそんなこと意にも介さず、二本目を注文したみたい。
「この組み合わせは最高だね。強い個性のサザエに、それを引き立てながらリセットボタンを押してくれるような酒。よくぞいいものを…」
「あなたじゃないでしょう。」
「もちろん蔵元に感謝してるさ。」
「そこじゃなくて…」
時々彼が言うこの『俺様が』発言。最初は嫌味に思えてたけど、今はかわいらしくも思うわ。まさか計算づくで言ってはいないんでしょうけど。
気を取り直して、カンパチを一切れ口の中へ。サザエに負けず劣らずの食感を楽しんだ後、お酒を。ほんのり残った甘みを引き立ててから洗い流し、口の中をリセットしてくれた。あらいやだ、彼の表現をそのまま使っちゃった。
「失礼いたします。二の膳をお持ちいたしました。」
ちょうど向付を片付けたとき、つばきさんの声が聞こえた。
「お願いします。」
「失礼いたします。」
今度は、二人とも大き目の寿司桶を抱えている。つばきさんがテーブルの中ほどを丸い箸置きのようなもので触れると、『カタン』と音がして天板が丸く1センチほど浮き上がった。その丸い蓋のような部分を外すと、中にはコンロが据えられている。そこへ桶の中から鉄鍋を取り出しコンロに置き、牛脂を溶かし始めた。次に入れたのは、薄切りの牛の赤身肉。『ジューッ』と言う音とともに、おいしそうな脂の香りが鼻をくすぐる。
「豊後牛のすき焼きでございます。まずはお肉だけ、そちらの岩塩とレモン汁でお召し上がりください。」
つばきさんの所作に見とれている間にかすみさんが一の膳をきれいに片付け、その代わりに取り皿と薬味が並べられていた。つばきさんが私と彼のお皿に、1枚ずつお肉をのせてくれそれを言われたとおりお肉にお塩とレモン汁をつけ口に運ぶ。口に含むと、ふわっとしたお肉のいい香り。歯ごたえがあるけど、噛んでいくうちに甘みと香ばしさがレモンとお塩と混ざりながらとけていくみたい。2枚、3枚と進んでも、口の中がさっぱりとして脂っけが残ってない。
そうしているうちに、かすみさんが手際よく他のお料理をならべてくれた。ピンクの螺旋が描かれた白磁の茶碗蒸し、白地に薄いブルーが2本刷いてある高台のなかづけ。白和えかしら?そして藍色のお皿に乗った巻物と焼き物を。真っ白なお皿に乗ったお魚の切り身には、ハーブの混じった琥珀色のソースがかけてある。
「グリーンピースとあわび茸の茶碗蒸し、ほうれん草と湯葉の白和え、水菜の磯辺巻き、それにこちらで〝半太〟と呼ぶ魚、〝イラ〟のポワレでございます。」
一品一品手で指し示し、つばきさんが丁寧に説明してくれるの。他のお料理は大体どんなものか察しがつくけど。イラなんてお魚、初めて聞いた。熊本とか大分でしか獲れないの?そう思っていたら彼が、
「イラってブダイのことじゃないんですか?」
と尋ねた。ブダイなら、和食のお店で酒蒸しを食べたことがあるわ。それと、冬に食べたちり鍋もそうじゃなかったかしら?白身のお魚で、とても淡白な味だった気がするわ。でも初夏の今の季節でも美味しいのかしら?
「よく言われるんです。地域によっては〝ブダイ〟と言う呼び名もあるようですが、違う魚なんです。あちらの旬は冬で、イラはこれから美味しくなります。お味は似ているんですが、イラの方が深みがあって脂が甘くてやさしいんですよ。傷むのが早いので、残念ながら産地以外でお目にされることはないと思いますが。ちなみに、イラという名前は、いつもイライラして泳ぎまわっているように見え、捕まえようとすると攻撃してきてイラつく、というところからついたとも言われています。」
そう言いながらつばきさんはなべの周りから割り下を廻し入れたわ。甘塩っぱい香りが一気にお部屋に広がった。
「5分もすれば、お野菜が食べごろになると思います。火力はこのレバーで調整できますが、後は奥様にお任せしてもよろしゅうございますか?」
「はい、大丈夫です。つぐぐらいだったらできます。」
「美味しいうちによそってもらえればありがたいんだけど。」
「もちろんよ、そのくらい見てればわかるわ。」
「どうだか。ポワレに夢中になっているうちに煮詰まっちゃった、ってなことになりはしないかと心配なんだけど。」
「それは…気をつけるわ。」
「ふふっ。お噂どおり、仲がよろしいんですね。ではご飯とお口直しをお持ちするまでの間、よろしくお願いいたします。」
きちんと座礼を終えると、にっこり笑ってつばきさんは下がって行った。さて、お野菜たちが煮えるまでの間にポワレを味わわなきゃ。パリッと焼いてある皮にナイフを入れると、後はスーッと切れていく。ソースにちょっとつけてお口へ。
「こっちも、美味しい。さっぱりしてやわらかくて、甘みがあるわ。でも、さっきのイサキとは違ってる。」
お魚が載ってるタマネギの輪切りのソテーも一切れ。こちらはシャキシャキとした歯ざわりで、対照的。もう一切れ、と思って気づいたの、お野菜のこと。
「もうよさそうね。お野菜ついだげるわ、お皿かして。」
彩に気をつけながら野菜ときのこを選び、彼に渡した。
「この前から気になってたことがあるんだけど、きいていい?」
「気になっていたこと?わたしのやっていることなの?」
「うん。いや、君だけと言うわけじゃないんだ。ひょっとしたら僕がなじめないのかもしれない。」
「おかしな事言うのね。なんなの?」
「そのぉ…」
言葉を続けあぐねたように、お猪口をあおったわ。
「さっき『野菜をついであげる』っていったでしょ?」
「ええ、言ったわ。何か気に触った?」
「いや、そうじゃなくて。福岡で働き始めてもう10年近く経つんだけど、こっちではおかずとかご飯とかも『つぐ』って言うんだって改めて感じてさ。」
「『つぐ』…別に変だと思わないけど、他になんか言い方あるの?」
「ずっと横浜で、と言ってもかなり田舎のほうだけど、そこで生まれ育ったんだけど、おかずとかご飯とかは『よそう』、水とか酒とか飲み物は『つぐ』と使い分けてたんだ。でも、福岡ではどっちも『つぐ』って言うよね?」
「『福岡は田舎だから、細かな言葉の使い分けなんてできない』とでも言いたいの?」
「違う違う、別に偉ぶってるわけじゃないんだ。ただ、」
「ただ使い分けをしてないことに違和感がある、ってことね。そう言われればそうかもしれないけど、『よそう』って言い方があるのは知ってるわよ。でも普段はほとんどつかわない。私の周りの人も、同じじゃないかしら。『よそう』って聞くと、服なんかを『よそおう』のほうを考えてしまいそうよ。」
「だよね。やっぱり、地域によって言い方が違うんだ。」
「『なおす』なんかは、よく笑い話として紹介されるじゃない?他にも『ほがす』とか『濃ゆい』とかも、つい東京で使って『九州の方ですね』って言われたことがあるわ。方言を標準語だと思っているのって、結構あるんじゃないかしら。」
「それは、あるある、だね。うちのお袋は北海道の出なんだけど、ご飯を『盛る』って言ってる。今ではそれが逆におふくろらしいと思えるけどね。」
「へー、『ご飯を盛る』って使うのね。雰囲気は確かに伝わるわ。お茶碗にごはんをこんもりついだ、じゃなかった、よそったイメージが湧くもの。あっ、そう言えば先月〝五月病を吹き飛ばせボーリング大会〟があったのね。」
「ほんとに君のところはイベント好きだなあ。田中課長の発案?」
「じゃなくて、近藤本部長。『近頃、新人の覇気が感じられなくなってきた。』、って言ってね。で、その二次会でもつ鍋を食べにいったんだけど、そのとき二課の新人君が『自分がよそります』って言ってた。おかしな言い方するって思ってたけど、それもどこかの地域性かしら。どこの出身かは知らないけど。」
「地域性だけじゃないかもね。言葉は生き物だから、そういう言い方ができたのかもね。『よそう』と『盛る』の合成語かもしれないし。」
「失礼いたします。」
そうつばきさんの声が聞こえたのは、彼がうっすら緑色のグリーンピースのスープが乗せてある茶碗蒸しを終え、私が酢味噌のかかった水菜の磯辺巻きの最後の1個を口に入れたときだった。
「ご飯をお持ちいたしました。」
並べられたのは、ご飯、香の物、止め椀、そしてデザート。スイカ、ビワ、アボカドの入ったジュレにブルーベリーのソースがかけてあるわ。涼しげで、とっても美味しそう。そうだわ、つばきさんにもきいてみよう。
「つばきさん、おかしな事をきくようだけど、ご飯は『つぐ』っていいます、それとも『よそう』って言います?」
「えっ、私の言い方が変でしたか?」
「いえ、そうじゃなくて。私は普通に『つぐ』と言うんですけど、この人の育った横浜では『よそう』って言うんですって。で、地域によって言い方が違うんだと言う事で落ち着いたんですけど、つばきさんはどう使われるのかなと思って。」
ちょっととまどった顔をしたつばきさん。でもこの後が神対応。
「今私は『つぐ』と言っております。でも私がこの仕事を始めた関西の料亭では、確かに『よそう』と教わりました。ですからこちらに参りましたときには驚きました。その時は、正しい、少なくとも関西では常識と教わったことを伝えたほうがいいのではと思いオーナーにお話しいたしました。でもオーナーから『ここにおいでになる方には、普段の生活を忘れて別世界を感じてもらいたい。』と言う言葉をいただいて、考えが変わりました。ここにはここの言葉、地域の言葉があるんだと。それを感じていただくのも、おもてなしのひとつではないかと。」
畏れ入るわ。もう、ぐうの音も出ない。
「さすがですね。おもてなしのひとつかぁ。そういう発想できないわ。」
「実は同じように言葉遣いの違いを、関東からお越しになったお客様に指摘されたことがあったんです。『君のその言い方は面白いね。でも、いつもと違う場所に来たというのが実感できるよ。』って。そのときに確信したんですよ、地域の言葉は護らなきゃって。」
今気づいたけど、〝くすっ〟と笑ったつばきさんの右ほほに、エクボがあるのね。凛とした女性と意識していた彼女を、ふっと可愛いらしいと思った。
「失礼いたします。」
聞き覚えのある声。
「ご挨拶が遅れました。本日は急なお願いにもかかわらずお越しいただき、ありがとうございます。」
つばきさんと入れ違いに入ってきたのは、ゆりさん。
「とんでもないです。こちらこそ願ったり叶ったりの…」
いけない、彼が睨んでいる。
「いえ、ケイトのご両親にも、きっと喜んでもらえるお食事だと思います。とても食べやすいお料理だったんですが、お箸を使えない海外の方を意識されてのことなんですか?」
「ええ、支配人と話してナイフ、フォーク、スプーンでも食べられる内容がいいだろうと言うことになって、料理長に話したんです。それで器は塗り物でなく陶磁器で、お食事の焼き物はポワレに替えようと言うことになりまして。」
確かに思い出してみると、今までのお料理の器に塗り物は使われていなかったわ。それに、今目の前にあるお茶碗も止め椀も白磁。これなら、器を傷つけやしないかとビクビクしながら食べなくていいわね。
「さすがに気配りが違いますね。もし私が添乗で海外からのお客様をお連れするとしたら、『ナイフとフォークを用意しておいてください、』とお願いするのがせいぜいだもの。」
「いえ、湯布院の義兄にアドバイスを受けたんです。あちらは改装した後、ドイツからのお客様がよくお見えになるようになったらしくて。お食事に関しての配慮と、眺めがいいという口コミが広がったお陰だと言っておりました。」
「そうだったんですか。外国からの方に喜ばれるところだったら、そちらにも行ってみなきゃいけませんね。」
「ええ。機会がありましたら、是非お出かけください。では私はこれで。お食事を、ゆっくりお楽しみください。お済になりましたらみさこ、あ、いえ、お渡しした呼び鈴でお知らせください。お休みになられる準備をさせますので。」
「あのぬいぐるみのことを〝みさこ〟って呼ぶんですか?」
「失礼しました。内部ではそう呼んでいるんです。つい、気が緩んでしまって。申し訳ありません。」
「いえ、とんでもないです。逆にその〝みさこ〟を表に出してあげたほうがいいんじゃないですか?」
「そうですか?ではみんなと話してみます。ちなみにですが、最初は〝あれ〟とか〝りんちゃん〟とか呼んでいたんですが、どうせならちゃんと愛称をつけようとオーナーが言ったことがあったんです。いろいろ意見が出たんですが、最終的には、〝ミッフィー〟と〝うさこ〟との掛け合わせにしたんです。可愛がってやってくださいね。では。」
ゆりさんたら、少し頬が赤くなってた。
「〝みさこ〟だって。呼び鈴に愛称をつけるなんて、可愛らしいことするのね。」
「それも、オーナーがいいからじゃないかな。従業員が自由に自分の意見が言える職場なんて、そうないからね。」
「そうよね。うちなんかわりとみんな仲がいいほうだと思っているけど、鶴川部長の前ではみんな構えて自由に話せないわ。上に立つ人の資質って、会社全体の士気にもかかわるから大事よね。あなたの会社の田尾社長は、問題ないでしょう?」
「確かに彼はいい人だけど、社員の前では努めて煙たい存在でいようとしてる。」
「え、そうなの。どうして?」
「みんなに煙たいと思われれば、共通の敵というかマイナスの存在になる。そうなれば社員の社長に対する危機意識が生まれる。『社長には気をつけろ』的な。そうなればある意味ミスを減らすことができる。それに、僕の立場としては、『社長はあんな言い方したけど』とか『俺が社長に掛け合ってみる』とか言って社員側に立って意見を拾いやすくなる。社員の本音を聞きだすのにはいい方法だと思うよ。」
「ふ~ん。憎まれ役になることで社員を団結させ、あなたに社員を操らせるって言うわけね。大変だわ、社長業って。」
「操ると言うのは言いすぎだけど、僕が社員に指示を与えやすいのは確かだね。」
止め椀のヤングコーンが、彼の口の中でコリコリいってるわ。田尾社長が本音で、いえ、素のままで話ができるのは彼だけなのね。社長のことと社員のことを両方考えながら仕事をしていかなきゃいけないなんて、彼も大変だわ。
「お茶入ってる?」
「うん?ああ、もらおうかな」
彼と自分の湯飲みにお茶を注いで、ジュレの最後の一すくいを口に運んだ。
「ん~、美味しかった。いろんなものが食べれて、幸せ。」
「ほんとによく食べた。量的にも種類的にもね。ここで食レポの緋乃さまに伺いますが、何が一番お気に召しましたか?」
「一番?どれもよ。イサキもおいしかったし、土瓶蒸の香りの変化もよかった。すき焼きのお肉はジューシーで、お野菜はみずみずしくて新鮮だったし。それと、あのイラってお魚。初めてだったけど、今まで食べてこなかったのを悔やむくらい。それにこのジュレ。」
そういいながら、改めて器を持ち上げてみた。脚が短く、広く口の開いた透明のパフェグラス。そのなかに、スイカの赤、ビワのオレンジ、アボカドの緑が、薄い黄色の柑橘のジュレを通して見え、その一部をブルーベリーの紫が覆っている。
「見た目にも涼しげだったし、カラフルで目を楽しませてくれた。ジュレの味が濃すぎず、素材のフルーツの味がとてもよく感じられたの。こんな素敵なジュレ、ほんとに初めて食べたわ。」
「すばらしいレポート、ありがとうございました。ここで一点訂正しお詫び申し上げます。スイカは果物ではなく、野菜でございます。失礼いたしました。」
「もう、いつまででお芝居してんのよ。揚げ足取りまでしてくれちゃって。でも、ちょうど食レポがいい休憩になったわ。そろそろお風呂に行かない?」
そう言って、〝みさこ〟の背中を押した。スマホのバイブのような振動が返ってきて、『確かにお伝えしました。』と言ってるみたい。
残りのお茶を飲み干したとき、声が聞こえた。