非日常へのプロローグ
さくらさんからの依頼を快く受けたものの、なかなか飛び石の情報を集められない。と、そこへ彼から思ってもみない電話。さあて、何が起こるのかしら?
7月から10月まで、いわゆる夏から秋にかけての行楽シーズンには、とても多くの方が移動される。だから連休が終わったとほっとしたのもつかの間、また業務に終われる日々が始まるの。個人旅行、家族旅行、グループ旅行から帰省やイベント絡みの手配まで。ホテルや航空会社との折衝、お客様へスケジュール再考のご依頼などでめまぐるしく時間が過ぎていくわ。
幸い私は手配に所属してはいるものの添乗の仕事もやっているので、ほかの人ほどどっぷりと手配業務に浸ってはいないんだけど。でも時には、国内海外を問わずアドバイスを求められることがあるの。ほとんどのことはネットの口コミを参考にしているようだけど、サイトによっては評価がまったく逆の場合もあったり。で、添乗での体験者として意見を求められるというわけ。
でもきかれる場所が『あー、あそこね。』とすぐわかるようなところばかりじゃないのよ。かと言って『知らない。』というのも癪じゃない?だからそんな時は時間稼ぎをして、ほかの会社の添乗員仲間に連絡を取って教えてもらうこともあるわ。
でも、今回だけはそれも役に立たなかったわね。だって、誰一人〝飛び石〟に泊まった人はいなかったんだもの。いくら高級旅館の誉れ高いといっても、あくまでそれは一般論。実際宿泊した人の生の声を聞かないと、本当にいい旅館かどうかなんてわからないわ。なんて考えながらランチに出ようとしたとき、彼から電話があった。
「どう?〝飛び石〟の情報、誰かから聞けた?」
「だめだめ。誰も行った事ないって。『お客様も連れずそんな高級なところに泊まる余裕なんてあるわけないでしょ?』って逆にたしなめられたわ。」
「そっか…じゃあ、いっそのこと二人で泊まりに行こう。」
「なに言ってんの。とても高いお宿だってことは知ってるでしょう?それに第一、今からじゃ予約なんて無理よ。」
「心配御無用。お任せあれ。」
「あのねぇ、いったいその自信はどこから来るの?」
「その前に、明後日代休取れないかな?」
「ええっ、お休みが取れたの?だったらお家でゆっくり休んで。ちょうど私もお掃除しなきゃと思ってたところだから。」
「家でゆっくりはできないんだなぁ。それに掃除もキャンセルだね。」
「もう、さっきから何わけのわかんないことばかり言ってんのよ。」
「ごめんごめん、怒んないで。実はゆりさんから今しがた電話があって、明日〝飛び石〟に泊まりに来れないかって。」
「えっ、えっ、どうして 」
「なんでも、明日宿泊予定だったお客様が急病で来れなくなったんだって。だけど今からじゃ新しくお客様を探すのは無理だし、かといって仕込みを始めた食材を無駄にすることもできないだろ。そこでご主人からの提案で、下見を兼ねて僕らに泊まってもらえないかって。ケイトの件もたぶん明日返事できるだろう,って言ってたよ。」
「やった!」
思わず大きな声を出して、あわてて口に手を当てた。幸いランチタイムなんで、事務所に人があまりいなくてよかったわ。
「わかったわ、無理してでもお休み取らせてもらうわ。でも、あなたのほうは大丈夫なの?」
「チッ、チッ。何のために今日まで休み返上で働いたと思う?僕だって代休ぐらい取らせてもらわないと。いや、代休にはならないけどね。」
そう言えば、彼が何をしているかお話してなかったわね。
彼は小さな広告会社の取締役専務。広告会社と入っても、業務内容はいろいろなの。一般的な広告の仕事はもちろん、商品の写真撮影の代行、ホームページやオリジナルプログラムの製作等々、まるで何でも屋。それに肩書きは偉そうだけど、やっていることは一般セールスマンと同じ。あちこち飛び回って商談したり、一日中写真撮影に付き合ったり。私の会社と取引を始めた頃と、やっていることに全く変化なし。
実はね、あの頃は副部長だったけど、当時の部長と言うのが『手柄は自分がたてたもの、責任は他人が負うもの』と言う典型的なパワハラ親父だったの。だけど彼、出張だと嘘を言って取引先に無理やり接待ゴルフをやらせていたのが会社にバレてクビになっちゃった。いい気味だわ。
で、その後任として昇格したのが彼。私が言うのもなんだけど、もともと人当たりがよくて正感が強かったから、部下からは信頼され業績も上がって行ってたの。そして連休狭間の今月一日、会社全体を自分の片腕としてみてほしいと社長に請われ専務になった、というわけ。
じゃあ偉くなったから時間に余裕ができたかと言うと、とんでもない。以前は自分のセクションだけ見てれば良かったんだけど、今は会社の全ての業務を把握してなきゃいけないの。だからあちこち動き回ってて、今月まだお休みは一日だけ。そのお陰で正直言って私は欲求不満状態。いえいえ、お仕事もいいけどたまには彼にゆっくりしてもらわないと。だから、彼を休ませるためにも絶対休みを取らなきゃ。
「じゃあ、詳しいことは帰ってから決めよう。」
「承知しました、旦那様。お帰りをお待ち申し上げております。」
「うむ、大儀である。」
翌日は朝からパワー全開、フル回転!ところが、こんな時に限って、何かあるのよね。お昼を終わって帰ってきたとき、以前オーストラリア旅行にご一緒してからのお得意様から電話があった。
「突然ごめんなさいね北浜さ…、あ、東郷さんに変わったんだったわね、ごめんなさい。」
「いえ、構いません。まだふた月も経ってなくて、〝東郷さん〟と呼ばれても私がキョトンとしているくらいですから。それはそうと、ずいぶんとご無沙汰してしまって申し訳ありません。突然のお電話、どうかなさいましたか?」
彼が専務になったのをいい機会に、さくらさんのアドバイスに従って私も苗字を〝東郷〟に替えてたの。
「実はね、先週お友達とトルコに行ったんだけど、イスタンブールのお土産屋さんに忘れものしてきちゃったの。荷物とお財布だけは、肌身離さず十分気をつけてお店を出たのよ。だって、前回のオーストラリアでは散々ご迷惑をかけたものね。でも今回は、値段を見るときに使ったメガネをカウンターの上にケースごと置き忘れてきちゃったみたいなの。だめねぇ、歳をとると。ひとつ気をつけてたら、他のことがおろそかになっちゃって。」
「そんな、お歳だなんて。楽しすぎて夢中になってらしたからですよ。」
「オホホ、相変わらず優しいのね。でも今年で70の古希よ。十分おばあちゃんだわ。そのおばあちゃんからの最後のお願いと思って、何とかそのメガネ探してもらえないかしら。無理を言って本当に申し訳ないけど。」
「わかりました。お手元に戻ってくるよう、全力を尽くしますね。だけど前回『次はオーロラを見に連れて行ってね。』とおっしゃってたでしょ?〝最後のお願い〟だなんて許しませんからね。」
「はいはい、そうだったわね。じゃあ今年の冬の旅行は、あなたのお勧めのアラスカの旅に行かせていただくわ。いつもどおりすみれさんと二人でお願いね。」
「承知しました。ではメガネの件は、何かわかったらこちらからご連絡させていただきますね。お話できてよかったです、佐々木様。」
「こちらもよ東郷さん。ではくれぐれもよろしくお願いします。」
この佐々木しのぶさん、5年前にご主人を胃癌で亡くされた。とても仲の良いご夫婦だったので、その喪失感は大変なものだったそう。しばらくお嫁さんのすみれさんが一緒に暮らしていたんだけど、一年くらい家にこもりっきりでずっと沈みこんでいたんですって。そこで息子さんが見かねて、気晴らしには家を離れたほうがいいと言ってすみれさんと二人旅行に送り出したの。そのとき行った東北がよっぽど面白かったようで、それからはあちこちをお二人でご旅行されて、一昨年念願の海外デビュー。そのときのオーストラリア旅行に私が添乗員として同行した。
彼女が『散々ご迷惑をかけた』といったのは、ちょっとした事件があったから。ブリスベンの空港近くのアウトレット・モールは、100以上のお店が入るお買い物のメッカ。そこで2時間自由行動を取って、お買い物やらフードコートで好きなものを食べてもらうことした。佐々木さん親子は特に欲しいものはないということで、少し早めにランチをとることに決めた。『場所をとっておいて』というすみれさんの言葉に従い空きテーブルを見つけ、目印にと自分のバッグとガイドブックをテーブルに置きすみれさんの元へ。二人で知ってる単語を駆使してなんとか注文と支払いを済ませさてゆっくりハンバーガーを食べようと席を探したが、目印のガイドブックとバッグが見当たらない。これ、日本人が海外でやる最もNGな行動。『決して自分の持ち物を放さない。』と口すっぱく説明してたんだけど、つい日本にいる感覚でやっちゃったのね。場所の記憶違いかしらと、フードコートをあちこち探して見ても見つからなかった。
で、隅のほうで午後のスケジュールを確認していた私のところに二人して飛んできたの。事情を聞いて、テーブルをケアしている係員に聞いたりそれぞれのお店のスタッフに尋ねたり。でも、結局誰も知らないということで途方にくれていた。
そのとき、イアフォンをつけフードコート全体を見回しながら歩いている男性に気づいた。がっしりしてて精悍な顔立ちで、その関係の人だと直感した。実は以前プライベートでゴールドコーストに来たときに、同じように落とし物をしてお世話になったことがあるからピンと来たの。で、彼に事情を説明すると、インターコムを使って連絡を取ってくれた。すると、『そのバッグなら同僚が見つけ、事務所に保管してある。』とのこと。彼にお礼を言い、教えてもらった事務所に行ったわ。そこで私の立場も含めて顛末を説明したり、パスポートや航空券を見せたり。やっと本人の持ち物であると確認が取れてからも大変。あの書類、この書類といろいろ書かされ、全ての処理が終わってフードコートに戻ったら一時間以上経ってた。
それから3人で食事しながらいろいろなお話をしたわ。ご主人のこともそのとき伺ったの。私はこれまで経験した事件や事故のことをお話して、この際だからと教訓めいた事を言わせていただいた。お二人ともすっかり恐縮しちゃって、次回からも私の添乗する旅行に参加したいとおっしゃったの。
電話を切って、ファックスで送ってもらったお店のレシートを頼りに現地の旅行会社に問い合わせのメールを入れた。うまく連絡が取れて、見つかるといいんだけど。
午後は、下期からの商品企画会議。それが終わって、営業マンから相談を受けたミャンマーの行程作りを手伝った。ふと時計を見たら、もう4時半。口早に見所とか食事どころを説明して、ばたばたと会社を出たのが5時10分。待ち合わせの会社裏の路地に行くと、車の中で幸せそうな寝顔をして彼が眠っていた。いつから待ってたのかしら?昨日も遅かったものね。
運転席の窓をコンコンと叩いた。でも、ぐっすり眠ってて気づかない。もう一度やってみたけど、やっぱり起きる気配なし。仕方ないから、少し開けてある窓から中に向かって、
「ここは駐車禁止ですよ!」
と叫んだ。
「あ、すみません。」
そう言うと、飛び起きてエンジンをかけようとしながらこちらを見上げた。
「何だ君か。驚かさないでよ。」
「フフフ、今の慌てようったら。」
「人が悪いなぁ。窓を叩くとか、他にも起こす方法はあったんじゃない?」
「やったわよ。でも、起きなかったんだもん。」
「え、そうだったの?全然気づかなかった。」
「ずっと遅かったから、お疲れなのね。でも今晩と明日は、ゆっくりしてね。」
「もちろんそうするつもりだよ。さて、では出かけますか。」
15分ほどで都市高速に乗り、それから大宰府で九州自動車道に入った。帰宅時間には早いので、車はそれほど多くはない。
「ここまで来ると、日常を離れたって感じがするわね。」
「僕がここを通るのが好きな理由、わかった?」
そう話したのは、彼が好きなカーブを曲がったころ。何度も通っているんだけど、改めて外を眺めてそう思ったの。左手にゴルフ場の林が現れ、そこを通り過ぎるころ遠くに山並みが見え始める。アスファルトとコンクリートに囲まれ過ごす日々が、遠い過去のような気がしてくる。
「ええ、私も好きになったわ。それに旅への期待も膨らむし。」
「何を期待してるか知ってるよ。」
「え?」
「今夜の私の胃袋を満たしてくれるものは何かしら、ってね。」
「ちょっと、それじゃあまるで私が食べ物のためだけに〝飛び石〟に行ってるみたいじゃない。」
「違った?」
「違うわよ。あなたにゆっくり寛いで疲れをとってもらうためでしょ。」
「そう?それにしては『やった!』が異常に大きな声だった気がするけど。」
「そ、それはあなたに休んでもらえる絶好のチャンスだって思ったからよ。」
「じゃあ昼は遅かったし、晩御飯は抜きで着いたらすぐに寝させてもらうことにしよう。」
「もう、知らない。」
ほんとに素直じゃないんだから。でも本心からじゃないことは、やんわりと握られた右手から伝わってくる。
今回は日田ICで高速を降り、一般道を通るんですって。去年帰りに通った道だって言うけど、あの時は暗かったしいろいろ話してたからぜんぜん覚えてないわ。インターを降りて県道を通り、さほど交通量の多くない市内を抜ける。バイパスみたいなところに入ったとき、右手に思いもよらないものが見えてきたの。『え、こんなところに?』って感じ。
「ここにもビール園があるのね。試飲もできるの?」
「うん、有料の見学ツアーに参加すれば何杯か飲めたと思う。バーベキュー園もあるから、おいしい料理を食べながらできたてのビールの飲み比べだってできるよ。」
「いいわね。じゃあ次回はここに来ましょうよ。工場見学してお昼食べて出来立てビールを飲んで。ついでに少しばかり買い込んで帰る。どう、よくない?」
「楽しそうに聞こえるけど、問題があるなあ。」
「え、私の提案が気に入らないの?」
「そうじゃなくて、現実面で問題があるということだよ。」
「何?」
またまた素直じゃないわねぇ。お酒飲んでおいしいもの食べてゆっくりしようって言ってあげてるのに。本当はうれしいくせに、恥ずかしがってるのね。
「車では来れないってこと。」
あ…よね。飲んで食べて楽しいだろうけど、お酒飲んで運転しては帰れないものね。
「確かにぃ…。じゃあバスかJRで来る方法をチェックしてみる。あ、〝ゆふいんの森号〟で来ればいいわ。私、一度乗ってみたかったの。ゆっくり景色を眺めながら列車に乗る機会なんて、絶対にないもの。」
「でも、そのまま湯布院まで乗って行こうって言い出しかねないな。あそこにも湯布院ビールがあるし。」
「あ、それもいいわね。ヴァイツェンの薄い色のほうは、とってもフルーティーで大好き。アー思い出したら飲みたくなっちゃった。ねえ、買って帰らない?」
「しまった、そういうリクエストがくるとは。地ビールの話題はやぶ蛇だったな。」
「あ、ごめんなさい。ゆっくりしてもらうのが今回の目的なのに変なこと言っちゃって。気にしないで、次回でいいわ。って、いつになるのか知らないけど。」
「その言い方って優しく聞こえるけど、要は連れてってということだね。」
う~ん、見え見えだったかしら。だって、ほんとに香りが良くておいしいのよ、あのビール。口当たりがいいから、何杯も飲めちゃうって感じ。でも、黒ビールもいいわね。夏より、冬にたくさん飲むかしら。あまり冷やさないでチーズをおつまみに飲むと最高なのよ。チーズのお供には渋めの赤ワインもいいけど、苦味と少し焦げ臭い黒ビールも相性いいの。でも危ないのよねー。チーズだけで終わればいいけど、だんだんウインナーとか焼き鳥のたれ焼きとかカロリー高くて脂っこいものが食べたくなるから。だから飲むときは、おつまみをたくさん食べないように気をつけて飲む量を少なめにしなきゃね。と言っても、黒ビールはそんなにたくさん飲めないか。
そうそう、彼って変わってるのよ。黒ビールを飲むと甘いものが食べたくなるとか言って、ミルクチョコをおつまみに飲むの。板チョコだったら1枚くらい平気で食べちゃうんじゃないかしら。ま、脂肪太りするよりはましかもしれないけど。
「宿からだったら1時間くらいかな。いいよ、明日は寄って帰ろう。」
「ほんとに?ありがとう。じゃあ街中を少し歩いて、どこかでお昼食べて帰りましょう。あ、これはおねだりじゃないわよ。時間的にそうだってこと。」
「わかってるよ。実は、昼食だったら行きたいところがあるんだ。」
「そうなの?楽しみ。あなたのチョイスだったら、きっと素敵なお店ね。」
またサプライズで調べておいてくれたのかしら。口コミで人気のレストランとか、落ち着いた和食のお店とか?
「いや、そう期待されると困るんだけど…」
「なあに。言いづらいことでも?」
「実はクライアントから、口コミと写真を頼まれてね。九月号で『お勧めの日帰り温泉』の特集を組むんだけど、そこで取り上げる宿のデータを間違って消去してしまったらしいんだ。それで…」
はぁ~?それって、最初から湯布院には行くつもりだったってこと?なによ、こっちはあなたの体のことを心配してあげてるのに、自分は仕事を抱えてきたわけ?どうして頼まれたときに、『プライベートで行くから、ごめんなさい。』って断れなかったの?クライアントにいい顔ばかりしているから、何でも無理をきいてくれる人だと思われちゃうのよ。バシッと言わなきゃ。それにしても、クライアントもクライアントだわ。なんてずさんなデータ管理してるのかしら。
「ひどい話。大切なデータだったらバックアップとっとくのがフツーじゃない?それにミスを犯したんだったら、自分で処理すべきでしょ。人様に泣きつくなんて、神経疑うわ。だいたいどうしてあなたがやらなきゃいけないの?なんて会社よ、まったく。」
「それはちょっと言いすぎじゃない?ふぅっ…黙っておこうと思ったんだけど、実はその担当者というのは君もよく知ってる小松さんなんだよ。」
「えっ、うちの会社の!? 」
小松さんというのは営業統括部のアシスタント。素直で優しくて、それに悔しいけどとても美人。車いすを華麗に乗りこなしきびきび動いて仕事をこなすさまは、見事なキャリアウーマンだもの。
「そう、だから引き受けちゃった、いえ、引き受けてもらったのね。そういう事情だったの。ごめんなさい、変なこと言って。あなたがいい人でよかったわ。」
「さっきはそれがだめだって言わなかった?」
「だからそれは…ごめんなさい、そのへんのことわからずにあなたを責めて。」
「うむ、素直でよろしい。」
「でも、彼女がそんなミスするなんて信じられない。『ハンディを言い訳にして、人様に迷惑をかけるようなことは絶対にしない。』って言うのが彼女の信条だから、確認はくどいくらいするもの。」
「そのことは、彼女の仕事ぶりを見ててわかるよ。それに、責任感の強さもね。だから今回のことは、彼女のミスじゃないと思う。」
「犯人は別にいる、と?」
「うん。事実を確認したわけじゃないけど、今研修に来ている専門学校生がやらかしたんじゃないかって話を聞いた。データをパソコンに落としている間に、間違ってフラッシュメモリーを抜いてしまったそうだ。でもそのことを課長に報告すると、人事を通して学校に話が知れる。当然彼は責められ、決まっている内定を取り消されかねない。だから彼女が自分のミスとして課長に報告した。」
「そういうことなら納得できるわね。だから田中課長は人事には内緒で処理しようと考えた。ところが自分は、明日からお得意様の添乗に出ちゃうから処理ができない。帰ってきてからじゃタイミング的に締め切りに間に合わない、というんでしょう?」
「そうなんだ。来週中には入稿終わらせないと、発刊日に間に合わない。といって誰かを取材にやろうにもマンパワーがない。そこへタイミングよく君の休みの事を聞きつけ、行き先が黒川温泉だとわかった。当然僕の車で行くことは推測できたろうから、運転者である僕に足を伸ばしてくれと頼んできたってこと。」
「あなたよく田中課長と飲んでるものね。仕事の依頼先というより、飲み友達として頼んできたんじゃないかしら?」
「そう思ってもらえてたら幸せだな。それに間接的にでも、小松さんの役に立てるんだったら光栄だしね。」
「ねえ、それって変な感情からじゃないでしょうね?」
「と、とんでもない。ただ、汚名をきてまで研修生の将来を考える彼女に、何かしてあげられたらと思っただけだよ。」
あ、また嘘ついた。癖がでたわよ。でも見逃したげるわ、今回は。だってうちの会社のミスのとばっちりを受けたんだものね。それに彼女があなたの好みのタイプなのは重々承知よ。私も彼女のファンの一人だし。いずれにしても、うちの会社のミスをなんとかカバーしようとしてくれているのには感謝しなきゃね。
「ご足労おかけしますが、明日は湯布院までお願いします。で、お昼に行きたいところって?」
「望岳館という旅館だよ。」
「あ、そこって田中課長のお気に入りの場所じゃない。だから取り上げることにしたのね。」
「そう言ってたよ。オープンして時間が経ったので、少し客足が遠のいているらしい。そこでリノベーションして働き方改革の一環として午後は厨房を閉めることになった。その代わり敷地内に外部からレストランを呼んで提携コースを作ったんだけど、思ったほど客足が戻ってこない。昔からの馴じみの彼にしてみれば何とかしてやりたいって事だよ。でも仮に彼が行けたとして、口コミを中立の立場では書けないとも話してた。だから初めて行く僕に率直な感想を書いて欲しいんだって。」
「そうね。確かに判官びいきのコメントになるのは見えてるわ。」
望岳館の名前は、課長の口から何度も聞かされて覚えてた。会うたびに、『次回の仲穂町内会の旅行にはぜひ使ってくれよ。』とか『日帰りプランができたから、友達誘って行ってくればいい。』とか、いろいろと『使ってくれ』アピールをしてくるもの。旅館からリベートでももらってるんじゃないかしら、って思うくらい。ま、まじめ一本の彼にそんなことができないのは百も承知だけど。
道は相変わらず木々の間を抜けながら走っているものの、両側にすっかり田植えの終わったこじんまりとした水田がぽつぽつ見え始めた。民家も同じ、道から離れたところにポツリポツリとしか見えない。こんなところに住んでいる人は大変ね。どこに行くにも車が必要だし、何か必要なものがあったって近所にコンビニなんてないんだもの。でも、鳥の声と星空に囲まれての暮らしはうらやましいわ。そんなことを考えながら窓の外を見ていると、田の原川がすぐ横に見え始めた。やがて道を左に折れて川を渡り黒川温泉郷に入ると、今度は右に曲がって山間を進んでいく。とっても細い道で、対向車が来たらすれ違えるところまでどっちかがバックしなきゃいけないの。
はらはらしながら行くこと5分ほど。竹林に入ってすぐの板塀に導かれて進むと、小さな灯篭に〝飛び石〟と書いてある。
「まさに隠れ家って感じだな。」
道の円弧を切り欠いたような4台分ほどの駐車スペースに車を止め、荷物を降ろしながら彼が呟いた。板塀は地面に直接打ち込まれていて、切り欠きの先をなだらかに上りながら左に回りこんだ道に沿って続いている。高さは5メートルほどかしら?見上げると,塀の向こう側に竹林が見えた。
「立派な竹林。孟宗竹?」
「うん?ああ、あんだけ太くて背が高いからきっとそうだろうね。」
斜めに差している夕日を浴びて幹を金色に輝やかせているさまは、ひょっとするとかぐや姫がどこかにいるんじゃないかと思ってしまうほど神々しい。時折渡っていく風に吹かれて、さわさわと涼しげな葉ずれの音が流れていく。本当に日常を離れた隠れ家ね。
「うーん、いい気持ち。」
深呼吸しながら、思わず口に出ちゃった。
「素敵なところ。早く中を見たいわ。」
先ほど見えた小さな灯篭の向こう側に庇があって、その下から中に入られるみたい。
「あそこが入り口?」
「みたいだね。」
少しかがみながら一人ずつくぐると、そこから玉砂利のようなタイルの敷き詰められた小道が、苔の絨毯の中を右にゆったりと曲がりながら上っていく。落ち葉もなくきれいに掃かれた中を歩いていくと、足元がふっと明るくなって驚いた。道の両側には左右交互二メートルほどの間隔を空けて、竹で作られた脛くらいの高さのライトがぼんやりと橙色の光を放っている。歩を進めると、足元のタイルの柄がはっきりと見えるくらいに明るくなるの。
「優しい配慮だね。雰囲気を大切にしながら、歩く人のことも考えてある。」
ひとかたまりの竹の株を回りこむと、今度はまるで枯山水のような白砂の庭が現れた。砂紋がきれいに描かれている。道は少し先の古民家に向かって伸びていて、先ほどのものより大き目の灯篭が橙色の光を放っている。やさしい光に出迎えられているようで、ほっと和むわ。
「あら、右側にも入口があったのね。あっちの方が大きくない?」
そちらは間隔を置いて二箇所車が通れるくらい壁が途切れていて、ちょうど車寄せのように扇形になっている。車を乗り入れられるということは、こっちが正面玄関なんじゃないかしら?
「そうだった!ゆりさんから『駐車場を通り過ぎたところが入り口ですから、間違えないでくださいね。』と言われたんだった。」
「そうなの?何でさっき思い出さなかったのよ。こっちのほうが近いし、上り坂歩かなくて済んだのに。」
「だって灯篭があって、駐車場だろ?てっきり入り口だと思ったから。」
仕方ないわね。確かに、私も何の疑いも持たなかったもの。
車寄せと庭とのコントラストは、海と砂浜って感じね。その浜辺には石のブロックの防波堤があって、中ほどに段差を埋めるスロープがあるの。これも優しい気配りね。それを上りきったところから古民家に向かって、明るい灰色の丸い石が砂浜の中に浮かぶように埋め込まれている。
「まるで海に浮かんでいるみたい。」
「車を降りたところまでが現実で、そこから別世界へ連れて行ってくれる秘密の回廊ってところかな。」
まぁ、柄にもなくロマンチックな例えなんかしちゃって。でも言われてみれば『広がる雲海の中を理想郷へと導いてくれる〝飛び石〟』のようにも思えるわ。あら、我ながらいい表現じゃなくて?
道が行き着いたところには、〝帳場〟と書かれた板が入り口の右側にかけられている。少し狭めの引き戸を左側に力を入れると、カラッと音を立てて静かに開いた。中に一歩入った途端、タイムスリップしたのかと思っちゃった。
通路以外の全体が小上がりになっていて、右手にある2帖くらいの座敷にはちっちゃな囲炉裏が据えられているの。灯明に似せた床のスタンドの穏やかな光に照らされて、壁にかけられたウサギのレリーフが今にも飛び出してきそうだわ。
正面には小さなタンスがあって、その上には着物を着た相合傘のウサギが立っている。右側には白に紺の絣を着て、藍色の袴をはいた男の子。左側には、赤に黄色の絣の着物の女の子。赤い小さな目と尖った鼻だけの顔も、シンプルだけど逆にキュートね。売り物かしら?
その奥から、急な階段が覆いかぶさるように昇っている。踏み板の隙間から見ると、奥にもスペースがあるわ。回りこんでみると、階段の昇り口の横には棚があって、下段には竹の風車や木製の機関車、上の段には手のひらに載るくらいの紗の袋に入ったキャンディーやかりんとうが置かれている。こじんまりとはしてるけど、楽しいお土産売り場。
その前には、座るところが畳の小さなベンチが2本置かれている。荷物をここにおいてチェックインするのね。通路を挟んだ左側には小さな番台があり、その小机の上に糸で綴じられた宿帳が置いてあるわ。
「なんだか、テレビで見た昔懐かしい世界に紛れ込んだみたい。あくまで古風にこだわってるのね。」
「入り口を入った時の印象で宿全体がイメージされる、ってどこかの雑誌で読んだことがある。日常を離れたんだと納得させるには、十分なインパクトだね。」
「始め良ければ全て良し、ということ?それにしてもこの宿帳、きちっと綴じられててきれい。」
「康煕綴じだね、和本の綴じ方の一つだよ。」
「ふぅ〜ん。」
「へへん、見直した?」
「何自惚れてんの。業務知識としては、知ってなきゃいけないんでしょ。」
「ま、そう言われちゃあ身もふたもないけど。でもこの綴じ方は珍しいな。四つ目綴じのほうが一般的だし簡単だから。」
「父が勉強したらしいんです。」
そう言いながら、右手の抹茶色の暖簾をくぐって女性が現れた。
「ゆりさん!」
「いらっしゃいませ。なかなか鈴が鳴らないので、痺れを切らして出てきました。」
「え、鈴?」
「はい、そちらの…」
ゆりさんが手指すほうを見ると、宿帳の右上、こちらからは向かって左側に大きめの金色と銀色の鈴が小さな抹茶色の座布団の上に置かれている。よく見るとそれぞれがウサギの顔をしているの。参ったわね、ここまでこだわってるなんて。確かに座布団の手前に『鳴らしてください』と書かれた小さなプラカードが立ててある。
「話に夢中になってて、全然気が付きませんでした。」
「ここだけの話ですけど、この裏に防犯カメラのモニターがあるんですよ。」
「じゃあ、私たちが入ってきたのもご存知だったんですか?」
「ええ。実は駐車場の防犯カメラを通して、お車を降りられた時からわかってましたよ。でも、まさかお二人とも下玄関からお越しになるとは思っていませんでしたわ。」
ほら!やっぱり飛び石のある方が、正面玄関なのね。
「ということは、ここで人を降ろして運転者だけが車を停めにいけばよかったんですね。」
「いえ、原則としては車寄せで皆さん降りていただいて、あとはスタッフにお任せいただきます。お荷物は駐車場からこちらまでお運びいたしますので、手ぶらで宿泊のお手続きをしていただけるんです。お話しませんでしたっけ?」
ちょっと意地悪な微笑を浮かべて、ゆりさんは彼のほうを見た。
「すみません。念を押して教えてもらったのに、うっかり忘れてて。」
「そうなの?まさか、物忘れが始まったんじゃないわよね。」
「それはないよ。いくらなんでも、まだ早いって。」
「あら、心配したげてるのよあなたのこと。若年なんとか、になってるんじゃないかと思って。」
「心配してもらえるのは嬉しいけど、普段の生活ではなんの問題もないだろ?うっかりしてただけだって。」
「そう思ってるのは自分だけかもよ。」
「そういう君だって・・・」
「はいはい、お二人とも今日はその辺で。ここでは俗世のことは忘れて、ゆっくり寛いでくださいませ。」
ぽん、と鳴らされた手で、非日常へと連れ戻された。またしっかりたしなめられちゃった。何回目かしら?
宿帳を書き終わり宿全体の見取り図をもらった時、紺色の作務衣を着た女性が現れた。
「いらっしゃいませ。ご滞在中のお世話をさせていただく、つばきと申します。」
そう言いながら渡されたのは、萌黄色にオレンジの絣を着たウサギの小さなぬいぐるみ。藤色のグラデーションの帯を締めている。さっきタンスのうえにあった女の子が横座りしているようなつくり。
「わぁ、可愛い!」
手のひらに乗せて眺めていると、
「背中の帯結びを押すと、私に知らせが届くようになっております。ご遠慮なく、何なりとお申し付けください。」
手のひらを回してウサギの背中側を見ると、帯結びの部分が少しだけ擦れている。あ、この結び方は知ってるわよ。年末の着付け教室の旅行に添乗したとき、若い参加者が三人くらいこの結び方だった。お太鼓の両側から、ダーツをとって帯が三対出てるの。〝ふっくら雀〟と言うんですって。確かに、ちょっと太目の雀が羽ばたいているように見えるわ。
「ありがとうございます。でも…」
「ご遠慮なさらないでください。お客様に快適にご滞在いただくことが私の喜びですから。」
そう言ってにこりと笑った口元に見える八重歯が、とってもチャーミング。
「どうぞこちらへ。」
彼からバッグを受け取ると、先にたって歩き始めた。きれいに梳いてひとつにまとめられた髪が、彼女の背中で揺れているわ。
「お足元に十分お気をつけになってください。」
宿全体が竹林の斜面を切り開いて作られているので、離れとは階段で結ばれてるの。階段は渡り廊下のように屋根がついているから、雨の日でも大丈夫ね。でもどこへ行くにも階段を使わなきゃいけないんじゃ、スーツケースとかの大きな荷物を運ぶのは重労働だわ。そのままの疑問をつばきさんにぶつけてみた。
「ご心配いただいてありがとうございます。実は、ちょっとした道具がございまして、ソリに車がついているようなものですが、それを使えば楽なんです。」
つばきさんによると、下りはそのソリを滑らせながら階段を降り、昇るときにレバーを切り替えれば階段を一段昇るごとに爪が出て滑り落ちることがないんだとか。う~ん、私の乏しい想像力の及ばない代物みたい。
「お疲れ様でした。こちらがご滞在いただく〝風音〟でございます。」
階段を12,3段降りて踊り場のようになったところで、つばきさんが左側を手差した。回廊の左側は細い流れがあって、小さな水車が回っている。橋を渡ると、柔らかなオレンジの光に照らされた引き戸の玄関があった。光の主の吊り灯篭が軒先に掛けられていて、そこに墨で〝風音〟と書かれてる。
引き戸の玄関を開けると、驚いた。だって入った右側に、小さな足湯があるのよ。足先が凍えた寒い日や、暑くて足が蒸れたりした時はとても助かるわね。湯気がこもらないように、小さな換気扇が回っている。ふすまが開けられた正面の部屋はフローリングで、掘りごたつ式のテーブルが置かれている。見るからに座り心地のよさそうな、ふかふかの茜色の座布団が置かれているの。その奥が和室で、座卓と座椅子が置かれている。
和室の先は廊下のようで、その向こう側のウッドデッキの中に心地良さそうなお湯をたたえた露天風呂がガラス越しに見えるわ。もうこの時点で、すっかりこのお部屋が気に入ってしまったの。一歩入っただけでこんなにわくわくさせるなんて、ここを設計した人は相当な策士ね。
フローリングの部屋から両側が四角い竹で飾られた間口を通って和室に入ると左手に回り込んだところにお手洗い。それ以外は淡い木目調の壁でどこにも出っ張りがない。椿さんが奥に進み壁を軽く指先で押さえると、壁が観音開きになり扉が左右に収納された。そこは床から天井までのスペースで、ハンガーと腰ほどの高さの収納ダンス、荷物を置くスペースがあるの。
「この部分を押すと、扉がゆっくりと閉まります。途中で止めたい場合には、手をかざしていただければ扉はまた開いていきます。この引き出しタンスは、ご自由にお使いください。では、セルフ・カフェとお風呂のご案内をいたします。どうぞこちらへ。」
和室の左側は腰の高さより上が大きな窓になっていて、そこにカウンターが設けられていた。その高さにあわせた椅子が二脚置かれ、風に揺らぐ竹林を眺めながらカウンター左のマシンでコーヒー、紅茶、フレーバーティー、緑茶を楽しむことができる。棚の下の冷蔵庫にはミネラルウオーター、果汁百パーセントのジュース、冷凍室には氷があるので、冷たいものを飲みたくなっても大丈夫ね。
和室をまっすぐ抜けると、左手に洗面台、右側に脱衣所があるの。実は脱衣所には面白い仕掛けがあるんだけど、その話は後のお楽しみにね。脱衣所の背中側に内湯があって、その左の全面ガラス戸を開けると露天風呂とデッキチェア。
「お風呂はどちらも源泉掛け流し、二十四時間いつでもご利用いただけます。黒川温泉には七種類の泉質のお湯がありますが、ここはナトリウム炭酸水素塩泉で、よく『美人の湯』とよばれているものです。ただ、奥様がこれ以上お綺麗になられるとあちこちで声をかけられて、ご主人はご心配になられるでしょうね。」
そう言いながらつばきさん、私を見て優しい眼で微笑んだ。