ともに暮らし始めて
もう1年以上経つのね、一緒に暮らし始めてから。いろいろなことがあったけど、とにかく今は幸せ。でも何かが少しずつ心の中に影を落とし始めたような。いえ、そんなことはないわ。楽しくて充実した日々が続いているから、逆のことを考えるんだわ。思い立って、さくらさん一家に教えてもらった温泉に行くことにしたの。とても興味をそそるところだったし、おいしい地獄釜料理を自前でできるというのも魅力だった。さあ、どんな旅になりますやら。
〝おはよう〟から〝こんにちは〟に挨拶が変わる頃、空は一面に青く晴れ渡り鳥の声が響く。新緑の並木を渡ってきた風は、少し遅れて来る葉ずれの音とともに肌に心地よく触れ去っていく…
って、気取り過ぎてて鳥肌が立っちゃった。でも正直、車の中にいるより外は気持ちいい。朝の天気予報では25度を超えると言っていたけど、高原のここではきっとそんなにならないわ。このくらいが温泉に入るにはいい気温じゃないかしら?
それにしても、見える範囲には休憩所みたいなものと長屋作りの建物が二棟見えるだけ。どこにもお風呂らしきものは見えないんですけど。
「露天にする、内湯にする?」
「もちろん露天よ。せっかく来たんだから。」
「だよね。」
受付から振り向いて声をかけたのは、ここ〝はげの湯〟を『なんか、あまり気乗りのしない名前だな。』と言っていた彼。でも河野家から聞いていた〝地獄蒸し〟の話は気になっていたようで、私の誘いに二つ返事で付いてきた。じゃなくて、私を連れてきてくれた。彼を待っている間、目の前にそびえる湧蓋山を眺めながら去年のドライブを思い出していた。乳白色の温泉、美味しいおそば、搾りたての牛乳でできたソフトクリーム。そう言えば彼、その日朝一番で行った温泉で湯あたりして具合が悪くなったっけ。そして…。ちょうど山の向こう側になるのね。そこで出会ったご夫婦。とても仲がよく気さくで、この辺の温泉は行き尽したと言ってらした。その折奥様から、『温泉だけでなく、プラスアルファの楽しみがあるのよ。』と勧められ、ここ〝はげの湯〟に来たというわけ。それにしてもあの奥様、凛としてとても素敵な方だった。自分の行動を冷静に分析して、何が原因だったのかを突き止めようとする。私にはとてもじゃないけど無理な話ね。
プラスアルファの魅力と言われた〝地獄蒸し〟は、入浴者限定で受付の向かい側で楽しめるみたい。釜は私の太ももくらいの高さのコンクリート製の筒で、その中に蒸気の噴出口があるの。釜に据えられた網カゴの中に食材を入れ筵をかける。後は釜の外にあるバルブを開け、蒸しあがるのを待つだけ。サツマイモなどの硬いものは30~40分かかるので、お風呂に入る前に釜にいれておけば、出てくるころにはちょうど良く出来上がっている。卵なら5、6分かしら?そのほかにも、お肉、海産物、葉物などお好みの素材を持ち込んで調理、好きな味付けで食べることができるから、お昼過ぎになると無料休憩所はさながら新鮮食材を食べられるビュッフェレストランのよう。何と言ってもおうちで料理するような手間もかからないし、面倒な洗いものも最小限で済むから主婦にとってはいいことばかりなの。と、以上受け売りだけど。
今日の食材は、インター近くのコープで仕入れた。産地が近いせいか、野菜はとっても安い。帰りに買いこんで帰ろうかと思ったほど。まずサツマイモとじゃがいも、それに何やらアルミホイルに包まれた塊を一番右の釜に入れた。かぼちゃとシイタケは早く蒸せるから後でいいんだって。飲み物は、ノンアルコールビール。本当はビールを飲みたかったけど、いくら強気の私でも彼だけにノンアルコールで我慢させるわけにはいかないものね。
「お待たせ、〝なでしこ〟だって。」
「あら、私にぴったりじゃない。」
「はぁ~?自分の性格忘れてない?」
「あ、言われた通り、食材を蒸し釜に入れといたわよ。」
「じゃなくて、その変な自信、どこから来るわけ?」
「どこにあるの、お風呂?」
「聞こうよ、人の話。」
「いいお天気でよかったわね。」
「…はぁ。」
そう、結局私の勝ち。気に入らない彼の言葉は無視するの。そうすれば折れてくるから。
地獄蒸し釜の横に階段があって、露天へはそこを降りていくんだって。さっき見えていた建物は、内湯の家族風呂。そうそう、ここは家族風呂つまり貸切風呂しかないの。気の置けない仲間、家族、特にお忍びで温泉を楽しみたい人にはうってつけね。
「階段が急だから、気をつけて。」
いつもより低いところからそう声が聞こえた。
露天風呂は、地獄釜の横の階段を降りたところに十棟並んでいる。〝なでしこ〟は、降りて突き当たったすぐ右。受け取った札を裏返し、〝入浴中〟にしてドアノブに掛ける。もちろん部屋の中からはかぎがかかるのだけれど、変に邪魔されないようにってこと。ドアを開け靴を脱いで一段上がると、そこは洗面台、木製の長椅子の置かれた脱衣所。その奥のガラス戸の先の湯殿は、一段下がって外が見渡せる広い半露天岩風呂。でも、湯船は空っぽ。
「ねえ、お湯が張ってないわよ。」
「あ、そうそう、脱ぐ前に思い出してよかった。お湯は、買わなきゃいけないんだ。」
「買う?どこでどうやって?」
販売所か何かあるのかしら。でも、そんなもの見た気がしないけど。で、そこからここまでお湯を運ぶってこと?よしてよ。のんびり寛ごうと思って来たのに、そんな肉体労働なんでしなきゃいけないの。
「じゃあ、早くお湯買ってきてよ。まさか私にも『運ぶの手伝って』なんて言うんじゃないでしょうね。」
「いや、ここで買うんだよ。」
「えっ?」
いぶかしがる私にニヤッと笑いかけると―彼が時々するこの笑い、バカにされたみたいで嫌いなんだけど―壁に備え付けの両替機みたいなのにコインを入れ始めた。
「えー、つまりですね。ここにコインを入れる、湯船の横の蛇口から、いやパイプからお湯が出始める、すぐ横にある蛇口から水を同時に出して温度を調節する、服をゆっくり脱ぐ、そうこうしているうちにお湯が貯まる、という嗜好でございます。」
最後のコインを入れ終わると、確かにお湯が勢いよく流れ出る音が聞こえ始めた。
「へぇー、よく知ってるわね、ってさっき受付で…」
「やばい!」
と言うと血相変えて、湯船に走った。
「なによ、自分も人の話聞かないじゃない。」
「ごめんごめん、栓するの忘れてたから。」
と、戻ってきて濡れたジーンズを脱ぎながら答えた。
「色っぽい?」
「なにバカなこと言ってるの。いい歳したオジサンの下着姿なんて、色気よりグロ気でしょ。」
「うまいっ!じゃなくて、そこまで言わなくても。濡れるの気にもせずせっかく急いで飛び込んで…」
後のぶつぶつは聞いてないわよ、無視無視。
服を脱ぎ終わって髪を束ね湯殿に入っていくと、お湯はまだ勢いよく出続けている。体を流し湯船に座っても、まだ胸が隠れない。正面の大きく開いた窓の外、目の前の小さな尾根の上に雲がぽっかりと浮かんでいる。膝立てで進んでいき、窓枠に腕を組んで体を支える。真っ青な空との対比で、目が痛いくらい。お天気に恵まれてよかった。でも、ちょっと…
「ねえ、熱くない?」
「あ、ごめん。水の量を増やそう。」
そう言った彼の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。熱めのお風呂が好きな私のために、水の量を控えてたみたい。
「ふふっ。相変わらず、放っておくのね。」
「え、いや、外をじっと眺めて感慨深げな顔をしてたから、声をかけづらくって。」
「そうじゃなくて、自分のことを、よ。」
「ん?ぼくはただ自分に価値のあることを優先しただけさ。」
「またそうやって。」
言葉を続ける代わりに、彼の胸を隠し始めた湯の中を進んで行き立膝を割り、背中を預けた。そして両手をとり自分の前で交差させる。
「もう、1年以上経つのね。」
「そうだな、長かったような、あっという間だったような。君との間にも仕事にも、いろんな事があったね。そういえば、あの家族どうしてるかな。」
「きっと、あちこち新しい温泉探して回っていらっしゃるわよ。」
彼の手が胸を離れ、両肩を優しくゆっくつかんだ。それから押さえつけるようにしながら指を回し、コリをほぐしていく。
「家族そろって温泉旅行。まったくうらやましい。是非、最新の隠れ家温泉の情報を伺いたいもんだね。」
「私はあの奥様ともっとお話したいわ。とても素敵な女性だったもの。」
彼の指の動きに合わせるように、ゆっくりと首を回す。時折、鳥の声が風の音に混じって聞こえて来る。背中で感じる彼の鼓動が、少し早くなった。
「確かに。家族思いでとても優しかった。でも外見と裏腹に、あんなに強い心を持っているなんてね。人は話してみなきゃ分からないもんだ。」
そう、とても強い女性。田舎の旧家にありがちな、家柄、舅、姑、小姑との軋轢、子育て。ご主人の裏切りとその相手の事故死。怨むのではなく、その原因は自分にあったのではないかという冷静さ。
話していると、女性でもこれほど強くなれるのかという尊敬と、ここまで自分に厳しくなれるのかという畏れさえ感じた。
「彼女は、理想像よ。私もあんな風に強くなってあなたをいじめてみたいわ。クッ!」
突然首筋を強くつかまれた。
「ちょ、ちょっと待って。それ、痛い。」
「ずっとパソコンで作業してたからかな、ものすごく固いよ。」
「たぶんそうね。で、でも。う~っ、い、痛いってば。」
もう!こっちが痛がってるのを楽しんで、余計に力を入れてる。いいわよ、そっちがその気なら・・・
「痛ったー!な、なにすんだい。」
へへん、両掌を置いてた膝から滑らして、すね毛を一つまみ引っこ抜いてやったわ。
「おあいこでしょ?あなただってわざと力入れたんだから。」
そういってお湯から指を出し、引っこ抜いたすね毛を彼に突き出した。あ、あらま。思いのほかたくさん抜けてる。これじゃ、ほんとに痛かったんだわ
「ひぇ~、こんなに。」
「ごめんなさい、まさかこんなにたくさん抜けるなんて思わなかったから。じゃ、お詫びに背中流してあげるわ。」
ちょっとやりすぎたかしら。でもすんじゃったことは仕方ないわね。大きく深呼吸すると、気を取り直してタオルを泡立てた。
「ご主人様、どうぞこちらへ。」
三つ指ついて促すと、
「うむ、苦しゅうない。」
と大仰に肩を揺らして目の前に腰かけた。
彼の背中は広い。誰に比べて?って訊かれても困るけど。タオルを当てようとして、変なものを見つけた。背骨の真ん中あたりに掻き毟った跡。
「へ~、昨日はどなたとお楽しみだったの?」
「なんのこと?」
「とぼけたって駄目よ、背中の傷が物語ってるわ。」
「傷?ああ、藪蚊にやられて掻きむしった跡だよ。つつじの剪定をしてる時にやられてね。痒いのなんのって…い~たいっ!」
爪を立ててうなじから腰まで引っ掻いた。もちろん彼が浮気をしない事は知っていたから、変な心配はしてないわよ。でも、ちょっとね。
「どう、かゆみは治まって?」
「ひっどいなぁ。もうとっくに痒みは治まってるのに。楽しんでるな、まったく。」
そっ、私はS。こんな絶好のチャンス逃す手はないわ。お湯に浸かって血行が良くなっているのか、みるみる赤い筋が3本浮かび上がった。その背中を泡でそっと覆い尽くし、立ち上がってうなじからあごの下を洗う。それから肩から腰まで洗い終えるとこちらに向き直らせ、胸、腕、腹、脚全体を洗ってあげた。
「後はご自分でお願いいたします。」
改めて三つ指を付いて湯船に戻ろうとすると、
「え、もう終わり?全部洗ってくんないの?」
「何寝ぼけたこと言ってるの。いつも自分でやってるでしょ。どうしてもとおっしゃるなら、そこにも赤筋のアクセントつけてあげましょうか?」
「いやいや、遠慮しとく。自分でやるよ。」
敵わないとでも言いたげに頭を振りながら、勢いよく不満げに桶の残り湯を身体に浴びせた。
「じゃあ、今度は僕が洗ってあげる。」
「遠慮するわ。どうせ復讐しようって魂胆でしょ。見え見えよ。」
「いや、絶対にそれはない。晩ご飯賭けたっていい。」
「安っぽい賭けね。でもまあいいわ、信用したげる。」
言われるまま椅子に座り、彼に背中を向けた。うなじから右肩、右腕、指先まで丁寧に洗うとタオルを切り返し、今度は左肩へ。左腕、指先、タオルを切り返し、背中を撫でるように手が滑っていく。とても気持ちいい。と思っていたら、右のわき腹から上へ向かった手は脇の下越しに喉を進み不意に顎をつかんで上を向かせた。唇が重なり、静かに舌が押し込まれた。いつも通り、優しいキス。しばらくなすがままに任せていたけれど、はっと気づいて唇を離した。
「これ以上は、駄目よ。入浴時間、きまってるんでしょ?」
「まだ15分くらい残ってるよ。」
「足りなくなったらどうすんの、ってことよ。んーもう。」
タオルを取り上げ残りを自分で洗うと、さっさと泡を流し湯船に戻った。
相変わらずの青空。心地よい風が目の前の草の葉を揺らしている。首に寄せるさざ波で、彼が横に座るのがわかった。
「いいお天気ね。山の緑が青空に映えて、鮮やか。」
「そうだね。あの日もいい天気だった。ただ、青空に映えていたのは雪山だったけどね。」
あの日…そう二人の関係が一歩進んだ日でもあるわ。色々な話をし、まだ正式な形にはなっていないけどお互いをパートナーと決めた。それからは彼の部屋に夕食を作りに行ったり、私の部屋で一緒に映画を観たりするようになった。それまでは表面的な、いえ、なんて言ったらいいのかしら、そう身体を求め合うだけの薄い関係だったような気がする。
関係が変わった、というか関係についての認識が変わったとでもいうのかしら。それは二人で一緒に暮らし始めてから。同じ屋根の下で過ごしているうち、少しずつ二人で創っていく未来を語れるようになった。互いの仕事の事を話し、不満を言い、助言しあい、語り合い、心が軽くなっていく。相手をいたわることで自分も満足でき、この先何年も支えていきたいと思うようになった。何年も…
「お湯が止まった。そろそろ食べごろになったろうから、先に上がって準備しておくよ。君はしばらくしてから上がってきて。」
立ち上がり私を見下ろしてウィンクすると、一呼吸置いて脱衣所へと消えた。
少し一人でお湯を楽しんでから階段を昇って行くと、正面で彼が手招きしている。
「ちょうどよかった、サツマイモにバターを塗り終えたところだよ。味が足りなかったら、そこの荒塩を使って。」
「じゃがバターって聞いたことあるけど、サツマイモバターって初めて。」
「だろ?実は美味いんだこれが。さ、食べよう。」
まずはサツマイモ。彼がアウトドアナイフで切り分けてくれた。口に入れるとバターの香りが鼻から抜けていき、塩気で引き立たされたサツマイモの甘みが口一杯に広がった。
「おいしーい!」
「でっしょー。さて、次は…」
と言うと立ち上がり、次の料理を取ってきた。器の中には、カボチャとキャベツとアルミホイルの包み。まずキャベツをお皿に敷いてその上に切り分けたカボチャを一切れ。カボチャはお箸で切れるほど柔らかくなっていて、口の中でクリームのように流れた。本当に甘い。
これってどこかで…そう、会社の近くにあるベーカリーの、パンプキンクリームパンの味ね。砂糖を使っていない優しい甘さに突然ふっと食べたくなって、彼へのお土産と言う口実で自分を納得させ何度か買って帰った事があるわ。
「さて、いよいよ本日のメイン料理。自信作なんだ。」
と言いながら、アルミホイルの包みを自分のお皿に乗せた。
「そう、気になってたのよ。なにこれ?パウンドケーキみたいに見えるけど?」
「へへん、そう言うと思った。」
そう言いながら彼が後ろ手にバッグの中から取り出したのは、一回り大きな似たような塊。
「デザートは食後のお楽しみ。まずはこちらから。」
アルミホイルを恭しくあけると、中からラップに包まれた茶色っぽいかたまり。
「え、蒸しパン?」
「チッ、チッ、大外れ。」
ラップを切り開き、ナイフで薄切りしたものを三切れお皿に入れ、粒マスタードとなにやらソースらしきものをかけてくれた。
「さあ、召し上がれ!」
そう言われても、お肉らしいという事は分かっても何のお肉か分からない。眉をひそめていぶかしげに彼を見ると、『いいから、たべてみて!』と傾けた頭で促された。
なによ、まず正体を教えてくれたっていいじゃない。いいわ、まさかゲテモノってことはないでしょうし、もし変な味だったら吐き出せばいいのよ。そう思いながら、意を決して一切れ口に入れた。噛んでいくと、ハーブの香りに包まれて、お肉の味が現れた。
「ローストポーク!おいしい!」
「よかった。苦労した甲斐があった。」
「へー、あなたがねぇ。てっきりバーベキューしか焼けないんだと思ってた。ところで、このソースって…ひょっとしてバルサミコ酢?こんな高級調味料、あなたの家にあったかしら?」
「作った。」
「え、まさか!」
「実は、〝なんちゃってバルサミコ〟だよ。赤ワインを煮詰めて米酢足して、二度煮した。でも、それっぽいでしょ。」
「ええ、言われなきゃ本物と思うかも。で、お肉に刺さってるのは、クローブ?」
「そう。それと何種類かのハーブをすりこんである。昨日は早く終わったし、君が遅くなるのは聞いてたから、ゆっくり準備できたんだ。」
「恐れ入るわ。てっきり一人でちびちびやりながら待ってたと思ってた。」
「大事な奥様に、美味しいものを食べさせたくってね。」
「へー、たまには嬉しいこと言ってくれるのね。」
「それに、後々のために好感度を上げとかないと。」
あ~あ、せっかくボーナスポイントあげようかと思ったのに今の一言で台無し。っていうか、減点ね。
少し仲間を増やした雲が、お昼の元気な太陽の光を弱めてくれている。鳥の声が響き、湯上りには心地よい風が渡っていく。
「あら?」
どことなく聞き覚えのある声に振り向くと、
「やっぱり、緋乃ちゃん!」
「えっ、さくらさん!?」
こんなことってある?私の願いが通じたのかしら。階段を上がってきたのは、あの奥様。河野さくらさん。
「お久しぶりです。なんて偶然!さっき、お風呂でみなさんの事を話していたばかりなんですよ。」
「やっぱり!どうりでくしゃみが続いていると思ったわ。」
「どうも、お久しぶりです。」
「あら、確かあのときもご一緒だった…ハハ~ン、よかったわね緋乃ちゃん。」
「あ、いえ、ありがとうございます。で、おひとり…の訳ありませんよね。お子様たちは?」
「実は今日は主人と二人きりなの、もう出てくると思うけど。あれからいろいろあって、子供たちは義妹と留守番してるのよ。」
「え、あの陰険な妹さんと 」
「ハッハッハッ、相変わらず緋乃ちゃんは手厳しい。」
濡れた頭をタオルでゴシゴシ拭きながら、ご主人が加わった。
「いやあ、ここでまたお会いできるとは嬉しい。私が言ったことをしっかり覚えててくださったんですね。」
「あら。ここのことは、私が先に緋乃ちゃんに話したんですからね。」
「そうだったっけかぁ?ま、いずれにしても、楽しんでいただいてるみたいですね、地獄蒸し。」
顔の汗を今一度拭うと、背中からリュックを外し取り出した眼鏡を掛けた。
「ええ、とっても美味しいです。さくらさんがおっしゃったみたいにふっくら仕上がって、特にお野菜の甘みが強くなったみたい。」
「言ったとおりでしょう?ホントに病みつきになるわよ、ここ。」
「もしよろしかったら、一緒に食べませんか?」
タオルを丁寧にたたみながらご主人がそう誘った。
「こちらは構いませんが、せっかくお二人だけでおいでになったのに…」
「いえ、どうぞお気遣いなく。逆に二人だけじゃ間が持たなそうで。」
「そうなの。知っての通り、私は無口で物静かな女性ですから。」
う~ん、確かに前回会った時の印象はそうだったわよ。でも、今日は何か違う。解放されたというか、輝いてると言うか。
「おいおい、お前がおしゃべりなのは、前回お会いした時にご存じだと思うけど。」
「シッ!わざわざ言わないの。」
そう言いながら肘で小突いたさくらさんも、大げさに痛がるご主人もとても楽しそうに笑っている。きっといいことがあったのね。それをぜひ訊いてみたいわ。
「では、私があちらに移りますので、どうぞこちらに掛けてください。」
という流れで、ランチパーティーのはじまり。そこで河野家が釜から取り出してきたものは、こちらと全く違っていた。それぞれの量こそ少なかったものの、人参、山芋に始まって、ピーマンの肉詰め、アルミホイルに厚切りトマトを並べその上にスライスチーズをのせ荒挽きブラックペッパーを振りかけたもの。チャンポン麺をステンレスざるにいれその上にキャベツ、人参、ピーマン、もやしのざく切り、さらに豚のバラ肉を載せた塩味の焼きそば(蒸しそば、と言うべきね)。
種類の多さにも驚いたけど、本当にシンプルな味付けなのにどうしてこんなにおいしいのかしら?
「いやぁ参りました。さすが〝通〟ですね。こんな食材思いつきもしなかった。」
「いえいえ、ただ手抜きなだけですよ。それより、そちらがお作りになったローストポークは絶品です。」
「でしょう?結構こだわって材料選んだんですよ。まず良質の肉。次に漬け込む赤ワイン。これは飲むんじゃないからと言って、安物を買ってはいけません。やっぱり最低でも…」
「はいおしまい!そんなこと延々話したら、せっかくの熱々料理が冷めちゃうわよ。それに、あなたの〝なんちゃってなんとか〟なんて、さくらさんの前じゃ恥ずかしいじゃない。」
「え、なぁにそれ?」
ほら、さくらさん笑ってる。
「いえ、何でもないんです。この人つまらない事にこだわって自慢する割には、中身がないんですから。」
「中身がない、はひどいなあ。君は本物みたいだって感動したじゃないか。きっとさくらさんも面白い発想だって…」
「わかってないのね。小手先の味付けじゃなくて、素材の味を生かす調味料を使わなきゃいけないってことよ。いい〝おべんきょう〟になったでしょ?」
「ハハハ、なんか前よりも一層仲が良くなったんじゃないです?さては緋乃ちゃん、思い入れが強くなったな。」
そういって覗き込んだご主人の目が笑ってる。
「いえ、そんなんじゃ。」
もう。ほら、耳が熱くなってきたじゃない。
「ところで、相変わらず温泉巡りを楽しまれているんですか?」
「ええ、それしか楽しみがなくて。そうそう、いいところを見つけたんですよ。連休終わって人手も少なくなってると思って…」
男同士、温泉談議に花が咲き始めたみたい。じゃあ、私はさくらさんと。
「さっき、『色々あって』っていわれてましたけど、なにがあったんですか?」
私の顔をしばらく見つめ大きく息を吸うと、ゆっくり吐き出した。そしてふっとほほを緩ませると、
「また緋乃ちゃんに聞いてもらうことになるなんてね。」
保温ポットに手を伸ばし、私と自分のカップに注いだ。口元に持っていくと、アールグレイの優しい香り。それを一口すすって、さくらさんは話し始めた。
「ほんとに、続くときは続くのよね。」
「何か悪い事でも?」
「そう。あなた方にあったのが去年の年始だから…お義母様が亡くなって、お義父様と義妹が同居することになったのはお話したわね?」
「ええ。それで検閲が厳しくなった、と。」
「検閲!それ、言い得てるわぁ。確かにそうだ。ハハハ!」
そう言うと屈託なく明るい声で笑った。彼女をとても冷静で控えめな女性だったと記憶してた私はびっくり!まるで別人みたいに明るい。何があったのかしら?ひとしきり笑うと、言葉を続けた。
「でも、その検閲官が後ろ盾をなくしちゃったのよ。」
「え?」
「あなたがたにお会いしたあと、しばらくはお義父様元気だったの。だけど春くらいから、ボーっとしてたりもの忘れしたりする事が多くなって。最初の頃は、80を過ぎてたから仕方ないものだと思ってたの。でもだんだんひどくなって。」
「その、お話はよくされていたんでしょう?」
「ええ、義母が亡くなってからしばらくは静かだったけど、それからはよく話すようになってたわ。でもそれも億劫なように見えてきて。」
「会話が亡くなると急に、って言いますもんね。」
「ええ。で、極めつけは6月のお義母様の七回忌の時。ご近所からもたくさん法要にお見えになるんで、朝からバタバタ忙しかった。そしたらお義父様が台所に現れて『準備はまだか?出かけるぞ。』ってせかすの。意味が呑み込めなかったから『どこに行くんです?』ときくと『あれの―お義母さまのことね―見舞にきまってるだろう。行くぞ!』ですって。〝あ、ついに来た。〟って思ったわ。で、義妹を呼んで事情を話し、お父様をご自分の部屋に連れて行ってもらった。しばらく経って法要の席に座らせたら、『さくらさん、今日は誰の法要やったかな?』って。祭壇にはお義母様の大きな写真もあったのに、誰か分からなかったみたい。主人が相手をしながらなんとか法要を終わらせたけど、それからが大変。」
「ひと悶着あった、ってことですか?」
「ええ、兄弟の間でね。義妹は主人とお義姉様にかなり責められたわ。だって彼女一緒に暮らしていたんだから、何かおかしなことがあったら真っ先に気づくはずでしょ?なのに、その時まで何の報告も相談もなかったんですもの。そうしたら彼女、『私は昼間働いてるのよ。だからその間はお義姉さんがちゃんと見てなきゃいけなかったんでしょ、ずっと家にいたんだから。』って私に責任を振ってきた。」
「でた!お得意の『私は悪くない。悪いのはあなたでしょ。』攻撃。ほんと性格が悪いったらありゃしない!」
「ハハハ。でた、緋乃チャンの『瞬殺辛口批評!』」
「あ。もう、さくらさんったら!」
ついいつもの調子で出た言葉を、見事にさくらさんに打ち返されちゃった。二人が顔を見合わせて笑っているのを、彼が不思議そうに見てる。
「あの、で、さくらさんはどう言い返されたんですか?」
「私は何も言えなかった。いえ、そうする間もなく、主人が義妹の言葉に激怒したの。『働いているのは自分の小遣いを稼ぐためだろ。食費も家賃も何も払わず好き勝手に振る舞い人のあらさがしばかり。その上何か事が起こったら、自分の非を認めず人に責任を押し付ける。お前なんて親父の年金を食い物にして生きてるだけの寄生虫じゃないか!』って。」
「うわ、そこまで言っちゃった。いろんな意味で、すごいかも。」
「ね?そしたらお義姉様慌てて主人をなだめて、とにかく今後どうするかを話し合ったの。幸い民生員の方がいい施設をご存じだったので、すぐ手続きをして入所させることになった。」
「そうだったんですか。だから義妹さんが後ろ盾をなくしたとおっしゃったんですね。」
「いえ、まだ続きがあるの。」
「えっ?もう十分戦意喪失してると思いますけど。」
「こんなの、ほんの序の口。」
ゆっくり顔をあげしばらく考えていたけど、大きなため息をついて続けたわ。
「まさかと思うような、すごい事。」
初夏とはいえ、太陽が雲に隠れてしまうと肌寒く感じる。湯上りから腰に巻いていた薄手のカーディガンに腕を通した。
「株にはまってたのよ。パート先の同僚が小銭稼ぎしてるって話から、興味を持ったのね。その人に根掘り葉掘りいくら儲けたとか訊くもんだから『あなたもやってみれば』とか言われて、なんとかっていうパソコンソフトを薦められたらしいの。30万円位するけど、初心者向けの無料通信講座がついていて手とり足とり教えてくれるからって。その講座を受けて実践すれば、すぐに元を取れるからって話だったらしいわ。」
「それってあやしくないですか?詐欺の匂いがぷんぷんする。」
「そうでしょ?誰だって疑うわよね。」
「だけど義妹さんは買っちゃった?」
「ええ、まったく世間知らずもいいところだわ。儲かることしか考えてなかったんだから。それさえあれば天下無敵、欲しくて欲しくてしょうがなくなった。ところが買いたくても自分にはお金がない。で、どうしたと思う?」
「うーん…パート先から前借り借りするとか、お友達に借りるとか?」
「普通そうするわよね。自分が働いて返すからってことで、貸してくれるかもしれない。でもそうしなかった。」
それまで穏やかに話していたさくらさん。ご主人の手を引っ張ると、持っていたセロリスティックを音を立てて一口かじりとった。
「おいおい、何か穏やかじゃないな。緋乃ちゃん、ひょっとしていじめられてる?」
「まっ、なんて人聞きの悪いことを。そんなんじゃないわ、安心して。ちょっと優子さんの思い出話をしていたの。」
「あー、いい加減許してやれよ。あれはあれで反省してるんだから。今はもうママの僕じゃないか。」
「よしてよ、僕なんかじゃないわよ。いいお友達よ、色々あったけど。だから、その色々を緋乃チャンに説明してただけ。」
「どうでもいいけど、せっかくなら楽しい話をすれば?」
「いえ勉強になりますから、私には。大丈夫ですよ。」
うんざりといった風のご主人の言い方になんとなくお二人の気まずい雰囲気を感じて、ありていな言葉でその場を和ませようとした。でも、失敗だった。
「ほら、優しい緋乃ちゃんだから我慢して聞いてくれてるんだぞ。」
ご主人、好戦的。やっぱり身内の失敗は、他人に話してほしくはないわよね。
「ごめんなさい。でも去年まで犬猿のなかだった義妹が、どうやって子供達の面倒見てくれるようになったかっていきさつは話しておきたくて。だって、そのおかげでこうやって再会できたわけでしょう?お二人も興味あると思わない?」
さすがさくらさん、ご主人のけんか腰な態度に、神対応。これにはご主人も黙るしかないわね。
「ママには負けるな。はいはい、ごもっとも。ではこちらは男同士の会話を続けましょう。」
「こちらも報告しとかなきゃいけない事があるね。」
そう言って彼がウィンクして見せた。
「そうね、いきさつをお話ししといて。でも私の失敗の報告はしないのよ。」
「へいへい、お嬢様。」
「素直でよろしい。」
こうやって釘を刺しとかないと、ついつい口が軽くなってなんでも話しちゃうんだから。
さてと、腰を折られてしまったさくらさんとの話、どこまでだったっけ?そうそう、ソフトを買うお金をどうしたかっていうとこだった。
「で、いったいどうやって払ったんですか?」
「あろうことか、お父様のお金に手を付けたの。後で儲けて返せばいいや、って考えたらしいわ。」
「あれあれ、なんて安易な。似たような話、どこかの銀行員がやって捕まりましたよね。」
「そう、これって立派な犯罪でしょ?でも身内の金だからって軽く考えたのね。」
「で、うまいとこに儲けてお父様に返せたんですか?」
「緋乃ちゃんはどう思う?」
「う~ん、そんな簡単に儲けられるんだったら株屋さんから被害届出ますよね。俺たちの仕事をとるな、って。」
「株屋さんから被害届けねー。いいわねその着眼点。」
「いえ、経済の事よく分からないから。」
「あなたの言う通りよ。そんな簡単に儲かるんだったら、誰でもやるわ。最初はレッスンで教えられた通りにやって、いくらか利益は出たみたい。もちろん損もするわよ。でも、最終的にプラスになる事が続いたんで味をしめたの。そこで気が大きくなって購入金額を増やしたら、途端に相場が急落。しばらく我慢してればよかったのに、怖くなって買った時よりずいぶん安い値段で売っちゃった。で、今度こそは儲けてやる、と自動車関連の株を買ったら、これまた大失敗。」
「ほんと、〝続くときは続く〟ですね。でも自動車関連だったら、良かったんじゃないんですか?」
「ええ、何もなければね。でも、ほらこの頃外国で問題になってたの覚えてない?本来ドライバーを守るべき装置が、不具合があって逆に怪我をさせてしまったっていう。」
「そう言えばありましたね。訴訟沙汰になって、自動車メーカーからも契約を解除されたりしたとか。そこの株だったんですか?」
「そうなのよ。それも外国で事故のあった後なの。しっかり新聞を読んでれば誰だって買うべきでない事は分かったはずなのに、『今時流に乗っている産業だから』ってろくに会社の事なんか調べもしなかった。本気で返すつもりなんてなかったとしか思えないわ。」
「え?まさかその株を買ったお金って…」
「そのまさかよ。『ちゃんと返すからいいじゃない』ってまた甘えたのね。だけど大損しちゃったもんだから、他の株を買って少しずつでも取り戻そうとした。ばかよね、そんな時なんて冷静な判断なんてできないわよ。ましてや素人でしょう?結局損が続いてどうしようもなくて、レッスンの講師に相談した。そしたら…」
さくらさん、大きくかぶりを振ってため息をついた。今でも相当頭にきてるみたい。
「…この男が、新聞に載ってるような典型的な詐欺師だったの。」
「つまり、損した分を取り戻してあげますからとかなんとか言ってお金をもらって、そのままドロンしちゃった?」
「そう、誰にだってわかる筋書きよね。その単純なやり口にはまった。巧妙だったのは、最初に妹に株を薦めた同僚も一枚かんでたの。」
「えー!じゃあその人も消えちゃったんですか?」
「いえ、彼女はただのお人好しで、そこをうまく利用されたみたい。」
「利用された?」
「ええ、消えた講師から『新商品なんで売り上げを伸ばしたい。紹介一件毎に謝礼はするからから協力して欲しい。』と頼まれただけだって。」
「うわあ、手のこんだやり方だわ。それにしてもその同僚って人、ホントにお人好し。」
「だから、助けてあげたいという気持ちを利用された彼女もある意味被害者ね。」
相変わらずさくらさんは中立。私に言わしてもらえば、お人好しの発言だけど。
「消えちゃった、と言う事はお金は戻ってきませんよね。いったいいくら渡したんですか?」
「300万。」
「300万!」
「その講師に直接渡したのはね。でも、最初の購入代金から言うと、義妹がお父様の預金から使ったのは全部で約700万円よ。」
「な、700万!信じらんない!なんてことしたのかしら。それだけのお金を、よくまあ…」
「訳の分からない人に、でしょ?相手の素性もよく知らないのに、彼女もホント世間知らずのお人好し。それだけあれば、うちの家族が2年くらい暮らしていけるのに。」
さくらさんの冷たく言い放つような口ぶりから、彼女が相当頭にきている事が分かった。
「ところでその、いわゆる使い込み、どうやってわかったんです?」
「お義父様が施設に入所されることになったってお話したでしょう?」
「ええ。」
「その時に、入所費やら管理費やら払わなきゃいけなかったんで、主人が義妹に通帳と印鑑を出すように言ったのね。そしたら義妹が『ちょっと今は』とか、なんやかんやと言い訳して出し渋るのよ。で、主人ピンと来て問い詰めて、全てが白日のもとにさらされたってわけ。」
「今までの悪行三昧が、お白州の上で裁かれたわけですね?やった!自業自得と言うか、さくらさんに対する嫌味とか全ての報いを受けたわけですよね。」
「でもね、その元凶は、私じゃないかとも思うのよ。彼女に我が家の事を干渉してほしくないと思っていたから、彼女に対する興味と言うか関心がなくなっていったのね。だから彼女の行動に気を配らくなっていたし、お父様の家の中の事なんか一切かかわらなかったから。」
これがさくらさん。何か事が起こった時に、自分に責任はなかったのかいつも考える。もしかしたら自分の行動次第で、この事件は防げたんじゃないかって。
「考え過ぎですよ。彼女は自分の取る行動に責任を持っていなかった。だから今回、大きなお仕置きが来たってことだわ。」
両の掌で包んだカップに視線を落としていたさくらさんの頬が、ふっと緩んだ。
「あなたの事が好きなのは、そんなふうに言ってくれるからね。」
「でしょう?なんせ私は『瞬殺辛口批評』の緋乃ですからね。」
「あら、今度は自分で言ったわね。じゃあ、今度から『自虐の緋乃』って呼ぶことにするわ。」
「もう、さくらさんったら。」
二人で見つめ合って、声を出して笑った。嬉しい。こうやって女同士で楽しい時間が過ごせるなんて、まるで女子高時代に戻ってみたい。あの頃も、他愛もない話題で友達と笑っていられた。それにしてもさくらさん、表情が豊かになってますます綺麗になってる。
「お父様の入所手続きは済んでいたから、費用を払わなきゃいけない。でも、通帳にはそれだけのお金は残っていなかったから、我が家の預金や保険を全部解約した。だけどもちろんそれだけじゃ足りない。仕方ないから主人が会社に事情を説明して、なんとか社員貸し付けを受ける事が出来た。」
「結局は、さくらさんのところが全て尻拭いをさせられちゃったんですね。」
「そういうことね。でもこの事があったおかげで義妹は大人しくなったし、何より私の言う事を素直に聞いてくれるようになったわ。」
「だからこうやってお二人で出歩けるようになった、と。」
「ええ、そういうことよ。本当に大助かり。」
「まさに〝肉を切らせて骨を断つ〟。お金については大変でしょうけど、もうさくらさんの言う事は何でもきかなきゃいけませんね。『お手!』『はい!』、みたいな。」
「まっ、人聞きの悪い。そんなんじゃなくて、本当の姉妹みたいな関係になれたの。」
「えー、でもさっきご主人は『お前の僕だろ』っておっしゃってましたよ?」
「こら、緋乃ちゃん。冗談を真顔で返さないの。私の嘘がばれちゃうじゃない」
「え?あはははは!」
また二人でそろい笑い。楽しいったらありゃしない。
それに引き換え男性陣、なんだか真剣な顔になってる。何を話しているのかしら?
「…と言う事が続いたんで差損が出てしまったんですよ。私の情勢の読み方が甘かったというか、情報不足だったというか。」
「しかし今の世界情勢では何が起こってもおかしくない。平和だと思っているのは日本人だけで、世界中あちこちでテロのリスクは高まっている。その思惑が経済情勢に反映して一国の株式市場が…」
あー、もうダメ!難しい話を聞くと頭が痛くなるわ。男って、どうしてこんなところで真剣に仕事の話なんか出来るのかしら?せっかくのんびりしに来たのに、そんな難しい話してたら頭が休まる暇なんてないじゃない。ま、仕事命の彼にしてみれば、いい話相手が現れたってことね。それにしてもご主人、にこりともせずに熱心に彼の話に聞き入っている。聞いてて辛くないのかしら?彼も彼だわ。ご主人が楽しくなるような話題を見つけてあげればいい…
「おい、さくら!ケイトのご両親の件、緋乃ちゃんにお願いしたらどうだろう?」
「あ!そうだわ、それがいい!確か旅行会社に勤めてたわよね?」
「ええ、小さなところですけど。」
「よかった。どうしようかと二人で頭悩ませてたのよ。私たち温泉に行った数こそ多いけど、立派な宿泊施設なんてほとんど縁がないから…いえ、『お金をかけずに楽しむ主義』ってかっこつけさといて。」
「そうでした、低予算でどれだけ楽しめるか探究してるんでしたね。で、あの、ケイトというお名前からすると、日本の方じゃないですよね?」
「そうなの。実はね…」
さくらさんは週一回、お子さん二人を近くの小学校の絵本読み聞かせに連れて行っている。そこに中学の英語教師としてアメリカから来ているケイトが、日本語の勉強もかねて参加していた。さくらさんのお嬢さんは、大好きなフィギアに似ていたので『お人形さんのお姉ちゃん』と呼んで、すぐに仲良くなった。
そのうち子供たちの遊び相手に自宅に来るようになり、さくらさんの指導のもと簡単な日本食の作り方も覚えていった。すると先月、故郷の両親を日本に呼んで日本食を食べさせたり温泉を経験させたりしたいのでアドバイスして欲しいと頼んできた。日帰り温泉こそ数こなしている彼女達だけど、宿に泊まってゆっくり、なんてことはほとんどしたことがない。で、どうしようかと考えているときに私たちと再会した。
「緋乃ちゃん、悪いんだけど何かコースを作ってもらえないかしら。」
「それは構いませんけど、ケイトさんのご両親について詳しくお伺いしておかないと。」
「いいわよ、私大体の事は知ってるから、何でもきいて。」
「じゃあ…ご両親は、と言うかケイトさんはどちらの州から来られたんですか?」
「ニューメキシコ州のアルバカーキーってとこらしいわ。」
「え、アルバカーキー?」
突然、彼が割り込んできた。
「知ってんの?」
「知ってるも何も、学生時代友達と行ったよ。そこから飛行機で一時間くらいのところに国立公園になっているとても大きな洞窟があるんだ。いやあ、エレベーターで降りて行くんだけど、その広さは秋芳洞の比じゃないね。」
そう言えば大学三年の春、おじさまを訪ねて仲の良かったお友達と二人でアメリカ旅行したって言ってたっけ。
「ほんとにアメリカに行ってたのね。」
「あ、信用してなかったわけ?ひどいなあ、そこまで疑うなんて。」
「だって、あなたのお話、尾ひれがつくどころか、時々大豆がスイカになるんですもの。」
「スイカ?いやいや、せめてリンゴくらいだよ。」
「五十歩百歩じゃない、真実を曲げて話したという意味では。」
「曲げて?いやいや、脚色はしたけど、嘘は言った事ないよ。」
「あー、じゃあ初めてさくらさんと会ったときに、嫌いなカフェオレを〝買った〟のはなぜ?」
「そ、それはぁ…」
「ハハハ。やられちゃいましたね。で、ご主人、アメリカはどこに行かれたんです?」、
〝ご主人〟という言葉に、一瞬どきりとした。あとでさくらさんには話すつもりだけど、実はまだ籍を入れていない。理由は色々あって。でも、仕事上今の苗字を変えたくないというのが一番かしら?でも、彼女からアドバイスをもらえたらそれに従おうとも思う。
「叔父貴の住んでたニュージャージーをベースに、一週間ニューヨークやボストンに行きました。そのあと飛行機でマイアミへ。キーウェストまでレンタカーで走って、そのあとディズニーワールドのあるオーランド。それから飛行機、グレイハウンド、レンタカーを使ってあちこち寄りながらロサンゼルスまで。」
「素敵!じゃあ、ナイヤガラは行かれたの?グランドキャニオンは?うゎー、うらやましいわ。私一度も海外旅行した事ないから、そんなお話を聞くの大好き。でも、いつか絶対行きたいところはあるの。どこだかわかる?ケニヤよ。アフリカの大自然の中で暮らす動物を直接この目で見たら、今の自分が抱えている問題なんてばかばかしくて全部忘れられると思うの。それに、きっと夜空も綺麗よね、星が降り注がんばかりに…」
「さ、く、ら!」
少し強い口調で、でも目は笑いながらご主人がたしなめた。
「あ、ごめんなさい。完全に自分の世界に入ってたわ。やっぱり私おしゃべりね。」
「ほんとにさくらさん、以前にもましておしゃべりが好きになったみたい。で、ケイトさんの話しに戻りますけど、ご両親、お仕事は何をなさっているんですか?」
「お父様はずっと弁護士をされていて、地元でも名士。今はほとんどの案件をケイトのお兄様がされているみたいだけど、かつては大きな企業を相手に不当解雇で訴えて勝訴したって。新聞で大々的に取り上げられて、一躍時の人になったらしいわ。お母様は税理士で、人当たりの良い方らしく新聞社とかテレビ局とか大手のクライアントをお持ち。あ、そうそう、さっきの訴訟の時、相手側の企業の顧問税理士がお母様だったの。それが縁でお二人結婚されたって。今はお母様の事務所にケイトの妹のカレンが入って切り盛りしているそうよ。」
「へ~ぇ、絵にかいたようなエリート一家ですね。お子様がそれぞれお仕事を引き継いであるということは、お父様もお母様も日本にはゆっくりと滞在できるんですね。」
「それが、そうでもないの。ご両親は八月の初めか休暇を取られるらしいけど、ケイトが長期間休みを取れるのが夏休みの終盤。それに合わせての来日だけど、残念ながらお父様はお仕事の都合で9月早々にはアルバカーキーに帰ってなきゃいけないんだって。だから日本に居れるのはせいぜい2週間くらい。その間に、横浜に住む古いお友達にも会うんですって。」
「えー、もったいない。せっかく日本に来るんだったら、京都も奈良も東京もゆっくり見てもらいたいなぁ。」
「そうよね。でも、安心して。来年ご両親とも完全にリタイアするという事だから、今回日本のファンにしちゃえばまた来てくれるわよ。ひょっとしたら、リタイアした弁護士たちに声をかけて大挙してくることになるかも。緋乃ちゃん、チャンと種まきしといてね。」
「え、そうなんですか?じゃあ責任重大だわ。ところで、九州は何処か行きたい所あるのかしら?」
「それが、あっちで九州なんて言っても知っている人なんかいないでしょ?だから、お母様が色々とネットで調べたんだって。で、歴史好きなお母様が選んだのが長崎と鹿児島。熊本はケイトの住んでるところだから当然外せないわよね。熊本は二つのちょうど中間くらいだから、行程は組みやすいんじゃない?」
「そうですね、どちらを先に行っても途中休憩地になりますね。長崎と鹿児島かぁ…」
「確かにどちらも歴史的には面白いものがありますよね。でも、僕だったら福岡を薦めるけどな。なんと言っても九州の中心。朝鮮半島とのかかわりは1500年以上、中国との関係も深い。宗像大社、太宰府天満宮、それに承天寺をはじめとする神社仏閣が市内や近郊にたくさんある。それになんてったって、食い物がうまい。玄界灘の魚を筆頭に、うどん、ラーメン、明太子なんかは向こうじゃ食べられないからね。それにデザートも。フルーツもうまいけど、和菓子もいっぱいある。代表格〝ひよこ〟、マシュマロといってもいい〝鶴の子〟、他にも博多陣太鼓やとおりも…」
「もう、いい加減にして。あなたの口からは食べ物の話しか出てこないじゃない。」
「〝しか〟ってなんだい。食事は重要だろ。アルバカーキーにもおいしいものはあるだろうけど、新鮮な魚なんて食べられないと思う。せっかく福岡に来るんだったら、おいしいものを味わっていただくことも必要だろ?そのための情報提供だ…」
「福岡の観光はしないのよ、ボク。ちゃんと人のお話聞いてたのかなぁ?」
「グァぁぁ…あ、そうですよね。ごめん。」
傍若無人な子供を諭す時は、優しく笑顔でゆっくりと話す方がいい。頭を撫でながらね。これ、ツアー添乗員の経験から得たノウハウ。まったく。自分の得意分野の事になると完全に世界に入っちゃって、人の事なんか気にもしないんだから。
「で、…?」
前にいるさくらさんの方を向き直ると、肩を震わせ、声を殺して笑っている。
「クックックッ、アハハハハ、ご、ごめんなさい。つい。クックックッ…ほーんと仲がいいのねお二人さん。見てるだけで、いつも楽しませてもらえるわ。私達なんかまだまだ修行が足りないわね。」
いえいえ、何をおっしゃいます。さくらさん一人のニューキャラに、こちら二人がかりで何とか対抗しているって感じですよ。
「ところで緋乃ちゃん、いま何か訊こうとしてなかった?」
「はい、失礼かもしれないけど、予算を伺っとかなきゃと思って。ガイドを付けて専用車で回るとかなりな値段になるし、宿泊先も場所次第で結構な額になるかと。」
「そうよね。ご両親がこだわっているのは本場日本のお鮨と長崎ちゃんぽん、日本の旅館には必ず泊まりたいんですって。そう言ったわがままもあるし、予算はそこそこ高いと思うの。法外な金額でなければ、問題ないんじゃないかしら?私達のない知恵を絞って主人と途中まで考えてたんだけど、長崎と鹿児島はホテルにして、熊本を何処か有名旅館にしたらどうかって。ところが私たちには有名旅館と言うものに縁がない。だから、そこから先のアイデアがぜーんぜん湧かない。そうこうしているところで、運よくあなた方に再会したと言うわけ。」
「びっくり!お互いに願ったりかなったりの再会なんですね。じゃあ・・・長崎と鹿児島のホテルは会社で手配した中から選べばいいけど。問題は温泉旅館ですね。候補をあげる事は出来るけど、実際のところはどうなのって訊かれると…知り合いでもいればいいんでしょうけど、あいにくそんなつてもないし。」
もちろん会社で取引している旅館はあるにはあるけど、どこも一長一短。お客様によって評価もまちまちだし、自信を持って薦められる宿と言われると困ってしまう。
「あ!」
突然大きな声出したら驚くじゃない!いったい今度は何?
「どうしたの。今度は鹿児島のお食事どころでも思い出した?」
「んじゃなくて、ほら、高級旅館だったらいいところを見つけたじゃない。」
「え?そんなとこに連れて行ってもらった覚え、ぜーんぜんありませんけど。」
「ちがうよ。行った事があるんじゃなくて、話を聞いたじゃない。ほら、僕が宿泊料金が高い事だけ覚えてるって君が怒った。あのアイスクリーム買ったところで。」
高い宿泊料金のところ…?あ、そうよ、そこがいいわ!高根の花だとネットを真剣に調べ直さなかったし、会社でお客様に紹介した事もないから完全に忘れてた。お店のお姉さんに、旅行会社に勤めてるからって無理言って、特別に宿泊者用の資料をもらって帰ったんだった。
「何て名前だったっけ。えーっと、釜石…久石…」
「飛び石でしょ。」
「そうそう、それだよ。」
「相変わらず名前はだめね。でもよく思い出したわね。あそこならまず問題ないわ。ちゃんと資料は取ってあるし。」
「ねえ、いったい何の話?」
暫く私達の会話を不思議そうな顔をしていたさくらさんが、しびれをきらして口を開いた。
「あ、ごめんなさい。実は去年あの赤川温泉からの帰りに…」
去年の1月彼と訪れた赤川温泉で、さくらさんご一家とお知り合いになった。その帰りにあった出来事をさくらさんにかいつまんで話した。脱サラのご主人が始めたそば屋でおなかいっぱいになった事。にもかかわらず、隣のアイスクリーム屋さんに入ったこと。そちらの本業はブルーベリー農家で、ご実家が〝飛び石〟を経営されている事。寒い中二人でベンチに座ってアイスを食べた事。
「まったくあきれた食欲と言うか。でも今回は、緋乃ちゃんの強靭な胃袋に感謝しなきゃね。」
「強靭だなんて。私はごく普通だと思うんですけど。」
「いいえ、私〝も〟そうは思わないわ。お隣にお座りの方の目も参考にしてだけど。」
ふっと右を見ると、彼は見事に取り繕ったまじめ顔をしている。
「何よ。結局あなただっておいしく食べてたじゃない。」
「ということで、熊本は〝飛び石〟に確認するとして、長崎と鹿児島の宿は彼女に選ばせますね。後の交通機関の手配とか、食事どころの予約とかも、こちらでやっても構いませんか?」
あー、またうまい事逃げられちゃった。みてらっしゃい、絶対巻き込んでこき使ってやるんだから。
「そうしていただくと助かります。休みの都合は来週にでもケイトから聞けると思うので、そしたら連絡します。よろしくお願いしますね。」
「誰あろう河野さんからのご依頼ですから、喜んでお手伝いさせていただきます。」
「いやあ、ホントに助かります。持つべきものは何とやらですね。いや、今回の場合は不思議な縁と言ったほうがいいですね。なにせ1.年ぶりに再会したと思ったら、こちらが抱えていた問題を解決してくれる救世主だったんですから。それとも、こちらの無能力さに呆れたどなたかのお導きってやつでしょうか。ハハハハ!」
ホッとしたのか、ご主人まで饒舌になってお話を始めた。それから、候補になりそうなホテルの話や、お食事の事なんかをあーでもない、こーでもない、と。
「あら、もうこんな時間。パパ、そろそろ帰らないとさすがの優子さんも怒るわよ。」
「そうだな。いくらお前の僕でも、限度があるか。」
「またぁ。いいお友達なんですって。」
「はいはい、そうでした。」
そう言いながら、ご主人後片付けを始めた。
「では、僕も。」
あらあら珍しい。いつもは食事した後寝たふりをしてサボってるのに。じゃあ、片付けは男性陣に任せるとしましょう。
「あの、さくらさんにご相談があるんですけど、構いませんか?」
「なに?いつも私の愚痴を聞いてもらってばかりだから、何でも相談に乗るわよ。」
「実は…」
籍をまだ入れていない事とその理由を説明して、彼女ならどうするかの意見を訊きたいと話した。
「そうねえ、難しいところね。私は結婚を機に仕事をやめて専業主婦になったんだけど、それでも〝河野〟の姓になる事には少なからず抵抗があったわ。だって以前話したように、河野家には少なからずいじめられたものね。河野の姓になってしまえば、私が受けた仕打ちを家風だからと認めることになる。とんでもないわ、そんなこと来っこない。そんな〝悪しき風習〟に縛られるんだったら、結婚なんてしない方がいい。」
神妙な顔つきで紅茶を注ぎ足してくれようとするのを、カップを手でふさぎ笑顔で遠慮した。
「そうは言っても、好きな人とは一緒に暮らしたかった。で、いろいろと考えたわ。同棲とか内縁関係という間柄でも一緒にいることはできるじゃない?でもこんな田舎じゃ傍目を気にせざるを得ない。それにそんなことをしたら、彼の立場がとっても悪くなることはわかっていた。社会的にも河野家の長男としても。だから悔しいけど河野の苗字を名乗ることにしたの。ただ同じ河野の名でも、わたしは主人に嫁いだのであって河野の家に嫁入りしたんじゃないって思ってたし、主人にもそう言ったわ。ところが結婚した後、お母さまの看病、義妹のいやがらせ、主人の浮気とか続けざまに起こって、どうして私ばかりこんなに苦労をしなきゃいけないのかって嘆いた。こんなことなら結婚なんてしなきゃよかった、ともね。」
洗いものが終わった男性陣は、荷物を車に運んだ後楽しそうに談笑している。
「結局、自分のことしか考えていなかったのね。周りの人が何をしてほしいのか、何かしてあげる事が出来ないのかを考える余裕がなかった。義妹の株の事があって、義姉様も含めて河野家をどうしていくのかを話し合った時しみじみ考えたのよ。全ての責任を、外に押しつけていたんじゃないかってね。思えば亡くなったお母様やお父様にも可愛がってもらったし、子供たちも元気に育っている。今義妹を含めて家族で楽しく仲良く暮らせるのは、河野という名のもとで皆が協力し合ったおかげなんだって感じるの。感謝してるわ。」
「確かに同じ名字だから、家族の意識が一つになりやすいってことには頷けます。でも私の場合、今のところ彼の実家とのいさかいはないんです。それどころか、嫁を追いだした息子に何か問題があるんじゃないかと、私の事を心配してくれているくらい。だから東郷の嫁になることには抵抗はないんです。でも、名字が変わると当然周りの見方が変わる訳で、色々説明しなきゃいけない事が増えてきそう。そのうち〝東郷さん〟と呼ばれる事に慣れてしまうと、以前の私と言うものが自分の中からも仕事でお付き合いのある方の中からも消えてしまうかもしれない。かといって今のまま名前を替えなければ、社会的に色々不都合があるのは事実。もし夫婦別姓を社会的に認められたとしても、右か左かをはっきり決められるほど問題は簡単じゃないと思います。不利益を被るのは、いつも女性ばっかり。不公平だと思いませんか。」
「へぇー、毒舌瞬殺の緋乃ちゃんにしては、えらく真剣に悩んでるじゃない?ごめんね、茶化しているわけじゃなくてそれだけ重い問題だなって思ったの。確かにこの問題は、名字が変わる変わらないだけの問題じゃないわ。カッコよく言えば、自分のアイデンティティーをどう確立するかってことよね。よく日本人は個人よりも家、血を重要に考え、アメリカのような外国の人は、個人のあり方を重視するって言われるわよね。ケイトと話していてそれを強く感じる。どっちが正解と言う事は出来ないけれど、今までの日本的な大家族主義に根差した考え方は、もう通用しなくなっているのは事実ね。核家族化が日本の家族のあり方を変えたと言われ始めてずいぶんと経つし、今は今で少子高齢化が問題になってる。個人がしっかりしていないと、自分の未来をしっかり生きていく事なんてできっこない。そう言う意味で考えると、名字を変えるとか変えないとかで自分の周りに影響が出るなんて考えること自体無意味よ。言わせてもらえるなら、あなたの思い上がり。あなたが期待しているほど、周りの人はあなたの苗字に興味を持ってはいないと思うわ。要は、その人がどういう生き方をしてきたか、ってことじゃない?北浜緋乃が東郷緋乃になったとしても、私のあなたに対する評価は変わらないわよ。ストレートな女性だっていう。」
そう言って私の目を覗きこむと優しく笑った。やっぱり、さくらさんにはかなわない。私も彼女のように自分をはっきりと確立…アイデンティティーをはっきりと持てるかしら。
「ふーっ。さくらさんに相談してよかった。何もかもごっちゃにして考えてたんで、あちら立てればこちらたたずって考えてたみたい。バッサバッサと要らない枝葉を切ってもらえて、すっきりしました。ありがとうございます、自分のあり方を中心にしてもう一度考えてみます。」
「それがいいわ。がんばって。いつでもまた相談に乗るわよ。連絡頂戴ね。」
車の話で盛り上がっていた男性陣に合流し、もう一度ケイトのご両親の手配内容を確認した。
「お手数をおかけしますが、よろしくお願いしますね。」
「はい。さくらさんの期待を裏切らないように力を尽くします。」
随時経過報告をすると言う事を約束してそれぞれの車に乗り込み、急な上り坂をさくらさんの車に続いて登って行った。
「えらく真剣な顔でさくらさんと話していたけど、なんだったの?」
かなり気になっていたのね。坂を上りきったところで尋ねてきた。
「あなたの悪行三昧を報告してたの。対応策もしっかり教えてもらったから、覚悟しておくことね。」
「悪行三昧だって!?」
「そうよ、心当たりあるでしょ?」
「いや、全然思い当りませんけど。」
いいえ、ほら、あのクセが出た。やっぱり隠れて何かやってたんだわ。正直に話してくれればなにも言わないのに、どうして男の人って隠し事したがるのかしら。
「ねえ、僕が何か悪いことした?君が嫌がるような事、するわけないでしょ?」
「そう言う事にしといてあげるわ。ところで、このままあのお姉さんのところに行かない?電話より、直接話して相談した方がいいと思うんだけど。」
「あ、話題変えたな。ま、いっか。ああ、そうしよう。とか何とか言って、またソルベとかをたんまり食べようっていう魂胆だろ?」
「へへ、ばれた?」
「君の胃袋が食後に必ずデザートを欲しがる事は、嫌と言うほど身にしみて知っているからね。」
まっ、人を食欲のお化けみたいな言い方して。でも、外れてはいないわね。どうしても食事したあとは甘いもの欲しくなるもの。
「とは言ったけど、この時期あのお姉さんはお店にいるのかな。本業が忙しくなる頃じゃない?」
「ブルーベリー農園の事?大丈夫、ブルーベル―狩りは7月中旬からだから。」
「え、よく知ってるのね。」
「調べたから。多分ここの帰りに君が行きたがるんじゃないかと思ってね。実のところ、僕も彼女に会いたいし。」
「何よそれ。わざわざ調べてくれたんだと思って喜んだら、不純な動機だったの?」
「ふっふっふっ、みそ汁は安定したおいしさで好きだけど、たまにはコーンスープも食べたくてね。」
信じらんなーい!なんてこと考えるのかしら、男って。いいわよ、どうせ私は地味で田舎臭い女ですよ。若くてセンスあふれる若い女性が良ければ、どうぞ。でも言っときますけど、彼女の住んでいるところの方がよっぽど田舎ですからね。
って、これ彼の術中にはまってない?若い女性にやきもちを妬かせて、取り乱す様を見て楽しもうと言う。だめよ、まともに受けては。まず落ち着け、私。男の人は掌で転がすもんでしょ。どっしり構えてればいいのよ。
「そうね。色々な物を食べたいわよね。どうぞご自由に。でも見た目に引かれて食べて、おなか壊しても知らないわよ。」
「え、怒んないの?」
「別に。目移りは今に始まった事じゃないでしょ。」
「ちぇ、つまんないの~。」
ほら、拗ねた。そうそう、あなたの考えはちゃんとよんでるからね。下手な芝居はしないのよ。
細い道が続き緩やかに昇り始めた頃、左手の小さな丘?盛り土?の上に、まるで絵本の世界から飛び出て来たように建つ小さなお店が見えた。
「ちょっと!」
「え、どうした。何か忘れもの?」
「いえ、そうじゃなくて、ほらあそこのお店。とってもかわいい。」
「どこ?あ、ホントだね。ちょっと寄ってみよう。」
そういうと、お店の左側の脇道にはいった。道はロータリーのようにぐるっと廻って元の道に出れるようになってる。その出口、と言うか元の道に合流するあたりには野菜の無人販売所。枝豆、きゅうり、カボチャなど大盛り一山百五十円。やすーい!これは買いでしょ。帰る時に忘れないようにしなきゃ。
「何屋さんなんだろう。看板がないけど、えらく小さいな。」
お店への鉄製の昇り階段の前、道を挟んだところにあるおうちの庭先に大型犬が二頭寝そべっている。近付くと、私に気がついた白い方が尻尾を振りながら近寄ってきた。
「ごめんね、起こしちゃった?」
尻尾を振りながら、頭を下げて近づいてくる。
「おとなしいのね、君。よしよし、どこが気持ちいいのかな?」
あちこちさすってやっていると、左顎の下あたりがお気に入りみたい。
「そう、ここね。じゃあ、いくわよ。」
指を立ててこすってやると、顎を上げ目を細めている。するといつの間にかもう一頭が近付いていて、撫でてやっている右手をペロペロ舐め始めた。
「あらあら、君も来たの?いいわよ、一緒にかわいがってあげる。でも覚悟なさい。気持ち良すぎて力抜けちゃっても知らないわよ。」
白い子の顎を左手で、後から来たグレーの子の脇の下を撫でてやった。二人とも目を細めてとても気持ちよさそうにしている。その顔を眺めているだけでもとっても癒されるわ。
と、無粋な声が聞こえた。
「ねえ、そろそろ行こうよ。犬はお店を覗いた後でもいいでしょ、逃げやしないんだから。」
「あら、妬いてるの?」
「ばかね、って、それ去年の僕のセリフ。」
「そうだっけ?じゃあ、オジサンがやきもち妬いてるから後でまた来るね。」
そっと二人の美男子に声をかけて立ち上がり、彼の方を向き直った。
ふと前を見ると、お店への昇りの中ほどに、白地に青い文字で書かれた看板を見つけた。
「お店の名前、〝そらいろのたね〟ですって。」
「へえー。確か童話にそんな名前のがあったなあ。」
階段を二,三段登ったところで、何のお店か分かったわ。だって風向きが変わったのか、甘いバターの香りが漂ってきたもの。するとお店から、大きな紙袋を抱きながら中年の夫婦がおりてきた。軽く挨拶をしてすれ違うと、その袋からもいいにおいが漂ってきた。
「パン屋さんね。」
「ああ、そのようだ。」
私も彼もパンには目がない。美味しいお店があると聞けば、車を飛ばして買いに行く。でも一つだけ、心がけていることがあるの。それは、お腹がすいているときに買いに行かない事。だってお腹がすいているときって全部美味しそうに見えて、つい買い過ぎちゃうじゃない。実際何度も自分達のお腹に収まる量を超えて買っちゃって、次の日は三食ともパンを食べなきゃいけない羽目になったもの。
「でも、こんなところで採算取れるのかな?」
「またはじまった、営業の目。いいから、美味しいパンを買いましょ。」
階段を上がりきったところは小さなデッキになっていて、小さなテーブルと椅子が置いてある。少し高いところにあるので緑が近くなり、渡って行く風が揺らす葉っぱの音が気持ちいい。
「素敵!まるでツリーハウスみたい。こんなところでゆっくり食事できたら、贅沢よね。」
もう一段上がったところには、小さな開き扉。その左に、かわいらしい窓。よく童話に出て来るおうちそのものの造りね。
「おっと、いきなり。」
そう彼が驚いて叫んだのも無理ないわ。だって、扉を開けるとすぐ目の前にパンの陳列棚があるんですもの。
「こういうの、関西では〝どんつき〟って言うんでしょ?」
「よくわからないけど、雰囲気は伝わるね。」
横に並んだとしても、四、五人入れば動きが取れなくなるんじゃないかしら?一段下のローテーブルには、サンドイッチなどの総菜パン、プリンや搾りたてのジャージー牛乳もおいてあるわ。
「いらっしゃいませ。」
奥の、多分焼き窯のある方から女性が現れた。
「すみません、あらかた売れてしまって少ししか残っていないんですよ。」
「そうなんですか。でも、みんな美味しそう。」
「ありがとうございます。初めて…ですよね?」
「ええ。友人にこの先の温泉を紹介されて、その帰りなんです。あんまりかわいらしいもんだから、素通りできなくって。」
「そう言っていただくと、嬉しいです。お子様には『お話に出て来るお店みたい。』って喜んでもらっています。でも、もちろんそれだけじゃありませんよ。」
そう言ってにっこり笑った彼女。口元右にある小さなエクボがとてもチャーミング。
「でしょうね。外観を見に何度も客は来ないでしょう。営業をはじめてどのくらいになるんですか?」
あ~また始まった。こういうことを詮索するのは、マーケティングをしている男性の性なのかしら。
「オープンしたのが平成八年ですから、もう二十年になります。」
「二十年 それはすごい。そんなに続いているなんて、いったいどうやって集客されているんですか?」
「最初は友人に口コミを頼んで、それからホームページを立ち上げました。今はお見えになって買われるお客様より、インターネットでご注文いただく方が多いくらいです。もちろん、近くの温泉と小国町の施設にはチラシを置かせてもらっていますけど。」
「インターネットで注文ですか。いいところに目を付けましたね。申し訳ないけど、確かに立地がいいというわけではないからそのような手法…ウッ!」
高めに振った私の右ひじが、見事に鳩尾に決まった。まったくなんて事を言い出すのかしら、自分のクライアントでもないのに。
「ところでこのパン、〝あんパン〟って書いてあるんですけど、こんな形のあんパン初めてみました。」
「どこに餡が入ってるんだろう、って感じでしょう?ふふっ!その発想をかえたんですよ。」
「別売りの餡を包んで食べるとか、かな?」
「まさか。周りにはそれらしきもの売ってないし…ひょっとしてパンについているこの黒いの、餡じゃないですか?」
「はい、正解です。実は生地に餡を練り込んでいるんです。おとぎの国のパン屋ですから、そんなのもありかなと。」
「すごーい、面白いですね。あ、こっちは小ぶりに作ってあるから、〝チビ〟って書いてあるわ。ふふっ、楽しい。」
「今は空腹と言うわけじゃないから、買い過ぎはないな。デザート用に、美味しいものをいくつか選んで。」
「え、明日もおいしいパンを食べるんじゃないの?」
「じょ、冗談だろ。ついこのあいだ買い過ぎて、『今度からは美味しいものを一回分だけ買うことにしよう。』って決めたばかりじゃない。忘れたの?」
「いいえ、もちろん覚えてるわ。でも、ここはそうやすやすと来れるような場所じゃないし、それに近くのパン屋さんにはないものがいっぱいあるのよ。しっかり買っとかないと、後悔するわ。」
「いやいや、それっていつものセリフじゃない。結局あれもこれもと10個くらい買って、食べきれないじゃない。」
「大丈夫よ、せいぜい7,8個にしとくから。」
「2,3個。」
「そんなんじゃ失礼よ。こんなにたくさん美味しそうなパンを作ってくださるのに。」
「いや、冷たくなったパンをいやいや次の日に食べる方が失礼だよ。それに、僕らのためだけにパンを焼いてくださったわけじゃないから。」
「もう、また上げ足をとる。だから、こんなに素敵なパンを放っておくなんて申し訳な…」
「あのぉ…よろしかったら、私が5個ほどお選びいたしましょうか?」
ほら、私達のかみ合わない会話に耐えきれないで助け船が出てきたじゃない。とはいっても、確かに彼女、暫く下を向いて肩で笑ってたわね。
「あ、ありがとうございます。そうしてください。このままじゃあ閉店までにこの頑固者を説得できそうにありませんから。」
「ま、なんて事を。大体あなたが失礼な事を言い始めたからこうなったんじゃないの。」
「え、僕のせい はいはい、そういうことにしときましょ。結局いつものように僕が悪者で落ちつく訳だ。」
「ハハハ。あ、失礼しました。あんまり仲がよろしくて微笑ましいんで。では、そろそろよろしいですか?」
あらあら、完全に呆れられてしまったわね。でもこのセリフ、どこかで聞いたような…
「何か苦手な物とかあります?たとえばチーズとか木の実とか。」
「いえ、大丈夫です。彼女も私も、よほどのゲテモノでもない限り口に入るものは何でも大丈夫です。」
「カフェオレとかは苦手なくせに。」
「ミルクとコーヒー別々なら大丈夫だもんね。」
「では、お任せいただいたと言う事で。先ほどお褒めいただいたアンパン、森の恵みが一杯の木の実パン、二種類の自家製チーズを使ったチーズパン、甘さを抑えたシナモンロール、あとジャージー牛乳から作ったクリーム入りのクリームパン。これ、女性に人気なんですよ。」
「へー、ちっちゃな食パンみたいで、可愛い。」
「ありがとうございます。それから、これは水を使わずジャージー牛乳だけで捏ねあげたジャージーパンです。サービスで入れときますので、食べてみてください。」
「いえ、そんな。」
「いいんですよ。お二人のお話を楽しませていただいた、せめてものお礼です。」
「そうですか。僕達の話で幸せな気持ちになっていただけるんだったら、もう少し…グフッ!」
「調子に乗らないの。」
二発目が、鳩尾に決まった。まったく遠慮と言うものを知らないんだから。まあ、そのくらいないと企業競争を勝ち抜けないんでしょうけど、切ない性よね。
支払いを済ませインターネットでの注文方法が書かれたチラシをもらい外に出た。いつの間にか雲がなくなり、初夏の日差しがさわやかな風の中を抜けて優しく降り注いでいるよう。葉ずれの音が、先ほどより大きな気がする。気持ちがすーっと落ち着いて行くわ。あ、そうそう、カボチャと枝豆を買って帰らなくっちゃ。
さて、頭を切り替えてさくらさんからのお仕事ね。まずは〝飛び石〟の手配。
「ねえ、ここからあのアイスクリームのお姉さんのところまで、どのくらい?」
「そうだなぁ…20分ってとこかな。」
「え、そんなに近いの?」
「そうだよ、前回と同じ道を通ると思った?ここからじゃ、遠回りなんだ。せせらぎの湯はここよりずっとインター寄りだし、あのときは雪のせいで余計に時間かかったからね。」
そう、あの時。初めて、私からドライブに連れて行ってと頼んだ日。そして初めて、明るいところで彼に身体を見せた日。前の日までの雪も上がっていいお天気になったのに、この辺りはびっくりするくらい雪が残ってた。ゲレンデみたいな道を運転する彼の横顔があんまり真剣だったから、笑いをこらえるのに苦労したわ。あれから1年と…4か月。二人でいろんなところに行って同じ経験をしたけど、あれに勝る表情にお目にかかったことはないわね。
「ねえ、お姉さんにはなんて話したの?」
「営業しているかどうかと、開いているなら今日行くこと。あ、新作ができていないかどうかもきいといた。」
「新作ですって で、なんて?」
「うん。福岡のお友達から早生のサクランボをもらって、数量限定だけどそれでソルベを作ったらしい。実がゴロゴロ入ってるんじゃなくて、桜の花弁もはいっているからほんのりと春を懐かしんでいただけますよって。」
「だったら絶対に食べなきゃ。」
「言うと思ってたよ。1個予約しといた。」
「さすが!」
こうやって、私の事を先読みして行動してくれるのが嬉しい。無理しているわけではなく、純粋に私を喜ばそうとしている。これもある意味長年営業をやっていた性なのかなぁ。
いいえちがうわ。私にだけよ。
夏至は少し先だけど、まだまだ日は高い。あとふた月もすれば、きっとうだるような暑さになるんだわ。お化粧が気になる汗の季節、シミの恐怖と闘う日焼けの季節がやってくるのね。でも今年は大丈夫。去年秋になってやっと届いた、強力な日傘があるから。
「ほら、見えてきた。」
緩い上り坂を右に曲がると、青や赤に白抜きの〝ジャージーミルクソフトクリーム〟の幟がたくさんはためいている。
「懐かしい―。」
思わず声に出ちゃった。白状するとあの時ベンチでソルベとソフトクリームを食べたけど、お腹いっぱいだったんで味がよくわからなかったの。でもそんなこと言えっこないでしょ?だって『だから言わんこっちゃない』って彼に馬鹿にされるに決まってる。
ドアを押すと、カンカンとカウベルの音。カウンターから目を上げたのはあの女性。私達を見ると、満面の笑みに変わった。
「あの、お電話してた…」
「はい、東郷様ですね。お久しぶりです。お二人ともお元気そうで。」
「覚えていただいてたんですね。お久しぶりです。」
「もちろんですよ。ご主人にお電話いただいたときに、すぐ思い出しました。あ、あの仲の良いご夫婦だ、って。」
「いえ、あの、そのときはまだ夫婦ではなかったんですけど…」
「あら、そうだったんですか。それは大変失礼をしました。あんまり楽しく息が合ったお話をされていたものですから、てっきりそうかと。」
「息なんか合ってませんよ。いつも口論になって形勢が不利になってくると、僕を悪者にするんですから。だから、いつもそうならないように気遣って大変なんですよ。」
始まった、いいこぶっちゃって。悲劇のヒーローになって聞く人を味方に引き入れようって魂胆。
「あら、そうなんですか?でもそれはひょっとしたら、あなたに原因があるのかもしれませんよ。」
やった、神対応!どう、わかった?女はそんなに甘くはないのよ。そろそろそのドラマごっこネタも、やめにした方がよさそうね。
「いえ、ただもっと柔軟な考え方をしてくれないかなって、思ってるだけで。」
「それはご自分の色に染めてしまいたいだけじゃないんですか?男性って、結婚するとなんだかんだ言って自分と同じ価値観を持たせたがりますから、女性が何を考えてるなんかこれっぽっちも気にしませんものね。いえ、一般論ですよ。」
へー、言ってくれるじゃない。前回よりずいぶん大人な物言いだわ。あら?左手の薬指に指輪が…
「あの、失礼ですけどご結婚されたんですか?前回お会いした時は違ってたと思いますけど。」
「あ、ええ。実は4月に。」
そっと確かめるように、彼女は薬指の指輪に触れた。
「じゃ新婚ほやほやじゃないですか。それはおめでとうございます。」
「おめでとうございます。」
「ありがとうございます。でも、ほやほやって感じでもないんですけどね。」
「で、ご主人との馴れ初めって…」
しまった、かわされた!三発目の肘鉄は、モーションが大きすぎたみたいね。こ憎ったらしい顔で私を見下ろしながら、勝ち誇ったように彼が言った。
「わかった、じゃあ君がお話を聞いて。」
と言う事で、ここからは暫く女子トーク。
彼女の名前は北里ゆり、生まれは地元小国町。小学校に入る頃、父ご両親がペンションを始めたのを機に湯布院町へ転居。ご主人は湯布院の老舗旅館の次男で、名前は曾根崎大悟。旅館はご長男が継いで、老朽化が始まっていた建物を新しいアイデアを盛り込んだモダンな造りに変えたんですって。繁華街から少し離れた高台にあって、そこからの眺めはすばらしいって自慢されてた。彼の下に妹さんがいらして、ゆりさんの高校時代の同級生。だからご主人の事は高校時代から知っていて、淡い恋心を抱いていたそう。ありがちなお話だけど、何度か一緒に映画を観に行ったりしていい関係に。だけど、彼女は高校を卒業すると両親の反対を押し切って福岡の短大へ。だから、残念ながら二人の関係もそこで終わってしまったの。親子喧嘩の挙句に家出同然で飛び出してきたものだから、当然実家から彼女への仕送りなんてなかった。だからイタリアンレストランやベーカリーのアルバイトをいくつか掛け持ちして、何とか生活費を稼いだ。と言っても、お母様からはこっそりお金が送られていたそうだけど。そんな生活が学生時代を通して続き『さて就職をどうしようか』と考えていたところへ、バイト先のレストランから『ぜひうちに来てくれ』と言うお話。そこは市内に5店舗を抱える大きなところだった。味の評判はよかったものの、口コミ評価ではいまひとつ点数が良くなかった。でも社長からの猛烈なラブコールに負け入社し、5年働いたときに市内全ての店舗の従業員教育係になった。店舗ごとにばらばらになりがちなアルバイトの所作や言葉遣いの統一・お客様からのクレームのあった店舗や当事者への指導など、年上であろうが先輩であろうが言うべき事は言うまっすぐな態度は評価を受け、3年後には社長秘書にとの話が持ち上がったそう。ちょうどその頃、今のご主人の妹さんからブルーベリー農園を手伝ってくれないかとの話が持ちかけられた。社長秘書という責任ある仕事にすごく魅力を感じていたけれど、所詮は宮仕え。ばっさり思いを断ち切って、新しい世界に飛び込む方を選んだ。旧友からの誘いだったというのはもちろんだけれど、レストランで食の仕事にかかわっているうちに自分も何か作ってみたいという思いが心の底にあったから。で、手探り状態で農園を始めてなんとか軌道に乗ってきた頃、季節を問わずブルーベリーを美味しく食べてもらえる方法はないかと思い始めた。ちょうどその頃は〝ソルベ〟が市民権を得た頃で、これを利用しない手はないと考えた。実は彼女が大学に入るとほぼ同時に、お父様はお泊りになる方のプライバシーを護りつつ伝統的な日本旅館の雰囲気を併せ持つ宿を目指し、現在の飛び石をはじめられていた。やっと知名度が上がり固定客も突き始めていたことを知っていた彼女は、お父様に自分の親不孝を詫びソルベの件を相談した。すると、〝飛び石〟のデザートとしてパティシエに相談したらどうかと言うことになった。そのパティシエが、今のご主人。焼け木杭に見事に火がついて、一緒に試作品を作ったり色々レシピを考えたりするうちにお互いの気持ちがかたまっていった。一昨年の春ここにお店を開いた時には、〝飛び石〟で出されるスイーツが買えるお店として、旅行・お菓子・地域紹介などのメディアに紹介されたそう。今は当初の物見遊山のお客様は一段落し、しっかりしたファンに支えられている。昨年の秋にお父様が体調を壊されたのを機にご主人が支配人代理となり、12月24日に入籍、今年4月に結婚、現在に至ると言うわけ。少し長くなったけど、要するに馴れ初めは高校時代に遡るってことね。
「へぇー、まるで小説だなあ。うらやましい。」
「何がうらやましいって?」
「いや、うらやましいと言うか、紆余曲折を経て一緒になられたお話が興味深かったということかな。」
「いいわよ、取り繕わなくったって。つまり、あなたは私を手に入れるのに何の苦労もしなかったって言いたいのね。」
「そんなこと言ってないよ。」
「はいはい、思っているけど口には出してないわね。そして次に言いたいのは、『その代わり今苦労してます。』でしょ?」
「うふふ。さあて、どう切り返しますかご主人?」
にこやかに、でも目は笑わずに彼女も参戦した。
「何を言ってもやり返されそうだ。降参します、私が悪うございました。」
「素直でよろしい。」
だけど、彼が彼女に『ほらね』ってウィンクしたのは見逃さなかったわよ。まったく、懲りない人なんだから。
「ところで被害妄想さん、肝心のお話をしましょう。」
「あ、そうね。えーっと、お願いしてたサクランボのソルベと…」
「違うでしょ。それも大事だけど、まずケイトの事を相談しないと。」
「あ、そうだ。実は相談と言うかお願い事があって、いや、本来はスイーツを買うだけだったんですよ。それが途中で…」
さくらさんからの話をところどころ端折りながらお話して、なんとか8月下旬に飛び石に宿泊させてもらえないかとお願いしたの。なんせ人気のお宿なので、半年以上前から予約で満室になる。そんな状況の中、2か月先の宿泊を何とかして欲しいって正面切ってお願いしたってけんもほろろに断られるに決まってるもの。厚かましいお願いだってことは重々承知よ。でも、さくらさんに信頼されて引き受けた以上、ケイトのご両親には満足していただきたいじゃない?
彼女、聞き終わった後ちょっと考えていたけど、柔らかな笑顔になって答えたわ。
「分かりました、出来る限りの事はさせていただきましょう。ただ、宿泊の日にちは予約の入り具合を見てから決めると言う事でよろしいですか?」
「ありがとうございます、もちろんです。ケイトもご両親も、こちらから連絡した日に合わせて最終スケジュールを決めると言っていたようですから。」
「よかった。ではこちらも候補を2,3選んでお知らせしますね。ずいぶん前でも予約が取れないと悪名高いんですが、本当は何組か仮予約のお客様がいらして、1か月くらい前にならないと最終決定されないんです。そういった方に確認のお電話を入れて、心づもりを伺いましょう。」
「いえ、そこまでしていただかなくても。予約がいっぱいのようだったら、無理しないでください。」
「いいえ、そうさせてください。実はちょうど海外のお客様にも、うちの宿を紹介していきたいと話していたところだったんです。でも、そのためのパンフレットもないし、そもそも海外の方が旅館に対してどういうイメージを持っているかもわからない。そこがわかれば、いい意味で期待を裏切るサービスを提供してご満足いただける事が出来ると思うんです。そういう矢先にこのお話し、願ったりかなったりです。逆にケイトさんのご両親にモニターになっていただいて感想をお聞きし、今後のマーケティングに生かせたら素敵だと思います。」
「そう言っていただけると、お願いしてよかったです。」
「では宿泊候補はご主人にご連絡させていただくと言う事でよろしいですか?」
「そうしてください。本当に厚かましいお願いを受けていただいてありがとうございます。で…その代わりと言うわけでは決してないんですけど、お願いしていたものいただいて帰りますね。」
「承知しました。ご用意できてますよ。」
そう言うとバックヤードに下がり、小さな手提げ袋を持って現れた。
「サクランボのソルベとジャージャージーミルクのプリン、それと夏ミカンのクッキーでしたね。保冷剤はどうなさいますか?」
「今回は結構です。冷たいのは2個だけなので、外のベンチで食べて帰ります。」
「承知しました。では、なるべく早くご連絡いたしますのでお待ちください。お帰りはどうぞお気をつけになって。」
「ありがとうございます。くれぐれもご主人さまによろしくお伝えくださいね。」
彼女から渡された袋を持って、前回と同じ丸太のベンチに腰掛けた。太陽は、前回より高いところでまだ輝いている。
「懐かしいわね、あれからもう1年半。」
「そうだね、そんなに経つんだ。」
初夏の日差しを受け、あの時はまだ気恥かしさがちょっとあったし、遠慮と言うか、テレがあった気がする。でもこの1年くらいで君との距離は縮まって、そばにいる事が自然に思えてきた。居心地がいいと言うか、気が休まる…」
「キャッ!」
「え、え、え 」
サクランボのソルベのふたを開けて驚いた。ほんのりとしたピンク色の中に、それよりも少し濃いピンクの桜の花が花軸と一緒に白いソルベに縁どられて浮かんでる。
「可愛い!なんて素敵な色使い。」
「すごいね。ここまで凝るかな。」
本当に食べるのがもったいないくらい。でもいつまでも眺めてたら融けちゃうし、とりあえず写メ取って一口すくった。口に入れてまず感じるのが、濃厚なミルクの風味。やがて口の中で融け始めると、ほんのりとしたサクランボの甘みと桜の香りが舌の上から鼻に抜けていく。
「おいしい。こんな上品な味、今までなかったわ。」
「そこまで言う?」
「ええ、あなたも感動して。」
差し出した一口を口に入れると、見る間に表情が和んでいったわ。
「ね?言ったとおりでしょ。」
「ほんとだ。甘さと酸味が桜の香りに包まれて、とっても優しい味だね。」
「出来ればこれもケイトのご両親に味わっていただきたいわ。でも、数量限定なら無理ね。」
「ダメもとで電話してみるよ。」
結局夏までは置いておけないと言う事だったけど、その時期にはまた新作を作りますって。それはそれで楽しみだわ。ソルベを十分に楽しんだ後、一緒に買ったジャージープリンを片付けて帰途に就いた。
国道442号線を瀬の本高原で左折、山なみハイウェイを去年とは逆方から上って行く。新緑の木々が優しく目に映り、ハンドルが切られるたびに山肌と高原の景色が入れ替わる。登りきってしばらく走ると九重山への牧ノ戸峠登山口。去年来た時、この辺りには霧氷を見る人たちがたくさんいた。青空を背景にきらきらと輝いて、まるで氷の樹みたいだったわ。ふふっ、そう言えばここを通る前に凍った道路でスリップしそうになって、彼の顔こわばってた。うまく対処してくれたけど、緊張はしっかり伝わってきたわね。その前には初めて二人で露天風呂に入って。あまりにお天気がよかったので、裸になるのが恥ずかしかったくらい。道すがらいろんな事をお話ししたし、とても素敵な時間だった。もちろん今もふたりで素敵な時間を過ごしてるわよ。でも、そのすべての始まりと言うか、二人の気持ちがつながった時でもあった。生れてから何年も別の環境で育ってきた二人が今こうやって幸せな気持ちでいられるのは、きっとお互いの生き方考え方を理解出来たからだと思う。理解?うーん、受け入れられたと言った方がいいのかな?それとも…
「緋乃、緋乃!着いたよ。」
えっ?いつの間にか眠ってしまってたみたい。まだ薄日が残っていて、あたりを見回すとマンションの駐車場にいるのが分かった。
「あ、ごめんなさい。あんまりあなたの運転が上手だから、気持ち良すぎて。」
「ふーん、そう?」
「なに、その言い方。それにその疑いの目。本当に気持ちよかったんだから。」
「でしょうね。誰と一緒だったかしらないけど、『恥ずかしい』っていうことをしてたようだし。」
やだ、私ったら。寝言を言ったみたい。
「ち、ちがうわよ。去年の事を思い出しながら寝ちゃったから、あの温泉での事を夢見てたのよ、きっと。」
「はいはい、そうでしょうとも。」
「まだ怒ってるの?いい加減にしてよ。」
エレベーターのドアが開くのももどかしく飛び出し、玄関を開けた。
「ハハ、ごめん、ごめん。いや、実を言うと君の寝言を聞いて、僕も去年の事を思い出したんだ。特別な一日だったってね。それから、色々あったなあって。仕事で出会った二人が、ビジネスの関係を離れてこうして一緒にいる。ただ一緒にいるだけでなく、これから何十年もお互いを支え合う関係になった。不思議な縁に感謝すると同時に、出会ったのがあなたでホントによかったと思う。」
あら?いつになくまじめな顔をして、まっとうすぎる事を言ってる。
「そう言ってくれるのはとても嬉しいけど、どうしちゃったのあらたまって?」
リビングでジーンズを着替えようとしている彼の前にお茶を置いた。自分のもテーブルの彼のカップの横に置いてソファーに上に置くと、彼の横に座った。
「実は今日河野さんと話していて感じたんだ。この人は本当にさくらさんの事を大切にしているんだなあって。いろいろあった負い目というんじゃなくて、さくらさんを一人の人間として尊敬している気がする。」
「それは私も感じたわ。ご主人、さくらさんと話しているとき
はとても優しい目をされていたもの。」
「ああ、包み込むようないとおしむような眼差しだった。」
その言葉に、上目遣いで彼の顔をちらっと見上げた。やさしく微笑み返すと、左手で私の肩を抱き自分に引き寄せた。私はなされるがまま彼の胸に頭を寄せた。
「確かに彼女はずっと損な役回りばかりだったわね。結婚前にはあれこれ難癖つけて反対され、結婚したらしたで義妹さんにいびられ。挙句には信じていたご主人に裏切られたと思ったら、相手は自分も知っている女性だった。私だったら、何でこんなひどい仕打ちをするのよ、って叫んでたわね。でもさくらさんは違った。死ぬ前に彼女が病院で言った『ごめんなさい』の意味をご主人から聞いたとき、取り乱しもせず冷静だった。もちろんご主人を責めたい思いはあったと思うわよ。でもきっとそれ以上に、今回の原因は自分にあったんじゃないかという気持ちが強かったんだと思う。そしてご主人はそれを感じたからさくらさんに心から詫び深く感謝し、二人の心がより深く結びついたんじゃないかしら。」
「よく言う『雨降って地固まる』ってやつだね。でも僕らにはそんなことは必要ないように願いたいな。」
「それはあなた次第。と言っても、お付き合いしだしたころならともかく今は何もできないでしょうけど。」
彼の胸を滑り降り、腿に頭を乗せた。
「でも、もし何かしたら、そのときは覚悟なさいよ。」
そう言いながら膝を囲むように爪を立てた。
「わ、わかった。何もしないよ。」
足をジタバタされているうち、またSの血が騒ぎだしたわ。腿をつまみ上げ首を回すとそこを甘噛みした。
「え、わかったって。何もしないって言ったじゃない。」
その声に耳を貸さず少し強めに噛みながらきいた。
「フォンフォヒ、ファアッアノ(ホントにわかったの)?」
「わ、わかったって。」
じゃ、許してあげる。でも頭を上げるときにチラリと見えたあれはなに?自己主張してたみたいだけど。
「ねえベッドに連れてって。ちょっと確認したいことがあるの。ここじゃあ…ちょっと。」
「確認?…わかった。じゃあその確認とやらが終わったら、ゆっくりと君を食べさせてもらおう。」
そう言いながらソファーから降り、そっと口付けた。
「まだ賞味期限内かしら?」
「でなきゃ、食べたいと思わない。」
「ちゃんと味わってくれなきゃ嫌よ。」
「その言葉言ったこと、後悔させたげる。」
そういうと私を抱えあげ、寝室へと向かう。
「言ってる台詞はカッコイイけど、ジーパンがずり落ちないよ
うにへっぴり腰で歩いている姿、写メに撮っときたいわ。」