ソフトスクリーム
A先輩「荒川君、先に休憩行っておいで」
デスクリーダーから声をかけられ、僕は指示通り仕事を止めて、自分のデスクの上に優先的に処理する書類をまとめてから席を立った。休憩が終わったらまた山のように仕事が待っている。休憩から戻ってきた時に、少しでも楽が出来るようにと体に染み付いた行動だ。
この会社に勤めて半年。日々の忙しさと残業で寂しさを感じる暇なんて無く、社会人としての常識や仕事のやり方、上司との付き合い方が、気づけば痣のように体に残っていた。
秀一「リーダー、お先に休憩頂きますっ」
会社を出て、いつもの弁当屋さんに寄って、いつものオバサンにのり弁を注文する。その日の気分でお茶かコーヒーかの選択をするぐらいで、殆ど変化の無いいつも通りの昼休み。
今日は天気が良いので公園のベンチに座り、膝の上でのり弁を広げた。天気が悪いときは会社の休憩室に行くが、上司が居る事もあるのでなるべく行きたくない。休憩に行ってまで上司の話しを聞くのはかなり苦痛だ。
さて、いよいよ宴の始まりだ。弁当の蓋を開け、役者の顔ぶれを確認する。まずは主役、揚げ立ての白身フライから。せっかくの揚げ立てだ、それを堪能しないのは愚の骨頂。揚げ立てのサクッと軽い衣の食感と、閉じ込められていた白身の甘みと香りが解き放たれるあの一口目の幸福感はえも言われぬ物がある。もちろん、大事に食べて最後まで主役には活躍してもらう。
秀一「その前に、こいつを忘れてはならない!」
僕が弁当箱から取り出した小さな袋。幸福感を何倍にも高める『タルタルソース』だ。こいつ無しでは生きていけない程に、僕はこのタルタルソースに依存している。
秀一「ドレスアーップ!」
僕は自分でもよく分からない掛け声と共にタルタルソースの封を切り、白身フライに優しくそっとかけた。まさに劇的な瞬間である。
秀一「美しい……」
美味しそうと言おうとしたら、ついその艶やかな姿に魅了されて言葉を間違えてしまった。美しきプリンセスに遭遇して言葉を失ったような気分だ。
僕は箸を持って構えた。もしかしたら、今の僕の姿は牙を剥き出した野獣のような姿をしているかもしれない。だが、間違ってはいない。僕は今猛烈に飢えている。プリンセスのその白肌にこの毒牙を突き立てようと今か今かとその時を待っている。
突如、懐がブルブルと小気味悪い振動を起こした。気づかぬ内に蝉をポケットに入れてしまったのかと思ったが、取り出してみると自分のスマートフォンだった。画面には数字だけが表示されていた。
(電話だ。誰だろ?)
秀一「はい、荒川です」
源蔵『おぉ、秀一か!? ワシじゃ』
秀一「え!? その声はもしかして……源蔵じいちゃん!?」
電話は田舎に住んでいるじいちゃんからだった。高校の頃はまだ田舎に暮らしていたけど、親父の転勤で東京に来てからは田舎には帰ってなかった。そのまま東京の大学に入って無事卒業。今思えば、じいちゃんと話すのは五年振りぐらいになる。
源蔵『ほっほ。覚えててくれたんじゃな』
秀一「当たり前だよ! 久しぶり?。でも、どうしたのさ急に」
源蔵『いやぁ?ワシもな。スマポ? というヤツを持ってな? せっかくだしな、秀一と話しでもと思ったんじゃ』
秀一「じいちゃん、スマポじゃなくて、ス、マ、ホ、だよ?」
源蔵『ほっほ。わかっとる、わかっとる。ス、マ、ポじゃろ』
(ポじゃないって!)
源蔵『んでだな、秀一。実はワシ、お店を開いたんじゃよ』
秀一「まじ!? 大丈夫なのっ!?(色々と)」
源蔵『ほっほ。大丈夫じゃ。丁度今、支度をしておってな。食材を揃えてきたんじゃよ』
(食材? 料理店かな?)
秀一「じいちゃん、何作るのさ」
源蔵『パスタじゃ』
(パスタかよ!? 意外過ぎるよ!)
秀一「いいね、パスタ。僕も好きだよ」
源蔵『んでな、秀一。そのパスタの作り方をスマポンで調べとったんじゃがな?』
秀一「ちょっと待って!? お店開く前に調べておこうよ!? ってか名前変わってるよ、スマポンって何だよじいちゃん!」
源蔵『ほっほ。すまんすまん、どうも覚えるのが苦手でな』
(まぁ、じいちゃんももう70過ぎてるからなぁ、仕方無いとは思うけど、それよりお店なんか出して大丈夫かよ)
源蔵『んでな。ナマポンで調べてもうまいこといかなくてな?』
(ナマポンとは……)
秀一「……じいちゃん、きっとやり方間違えてるんだよ。どうやったのさ?」
源蔵『電気屋のせがれがな、音声で調べられるっていうからな、家帰って試してみたんだけどな、これがうまくいかなくてな』
秀一「なるほど。じいちゃん声が大きいからスマホが聞き取れてないんじゃないかな?」
源蔵『あぁ、電気屋のせがれもそう言っとった。んでな、どうしたらいいか聞いてみたら、もっと近くに置いて優しく声をかけて下さいって』
秀一「そこまでしても駄目だったの? 具体的にどうやったのさ?」
源蔵『こう、布団を敷くじゃろ?』
秀一「え? 布団? ちょっと待って?」
源蔵『ナマコ置くじゃろ?』
秀一「ちょっと待って!? スマホだよね??」
源蔵『添い寝するじゃろ?』
秀一「色々待ってっ!?」
源蔵『優しく……愛してる、と囁く』
秀一「優しくの意味間違ってるよじいちゃん!?」
源蔵『あぁ、やっぱりかっ!? どうりでうまくいかなかったんじゃな。添い寝じゃなくて抱きしめたらよかったんじゃな』
(接し方の問題じゃなくてっ)
秀一「いや、まずは普通に手で持とうよ」
源蔵『あっ! 秀一、ちょっと待っとくれ! お湯を沸かしておったの忘れておった』
秀一「オッケ、わかった(大丈夫かなぁ……)」
今僕は公園のベンチに座り、膝の上にのり弁を広げて右手に箸、左手にスマホを持っている。傍から見れば、食事しながらも仕事で忙しそうなサラリーマンに見えるかもしれない。だからなんだと言われたらそれまでだが。
?《おじさん、何してるの?》
突然、背後から声をかけられ驚いて振り向くと、そこには幼い男の子が居た。公園の周囲はアパートだらけだしきっと家から近いこの公園で遊んでいるのだろう。それにしても親の姿が見えない……。
秀一「僕はまだおじさんって言われるほど年を取ってないよ?」
?《ええ??》
(ええ??ってどういう意味だよ!)
タカシ《ボク、タカシ! 4才!》
秀一「タカシ君ね。はい、どうも」
(聞いてもいないのに言いたがる子、いるよね?)
タカシ《オジサン、何してるの??》
タカシ君は無邪気な顔で僕を見つめている。下手に関わってこの辺の住民に誤解されたくも無いので無視する事にした。
源蔵『秀一、すまんすまん、戻ったぞ』
秀一「大丈夫だった? 火の消し忘れは危険だよ?」
源蔵『あぁ、大丈夫じゃ。火の点け忘れじゃったわ』
秀一「別の意味で大丈夫っ!?」
源蔵『まーとにかくじゃ、秀一にピザの作り方聞いた方が早いと思ってな?』
秀一「パスタだったよねっ!?」
タカシ《ボク、ハンバーグ!》
(あぁっ!? 何を言い出すんだよタカシ君!)
源蔵『なんじゃ、秀一。ハンバーグがいいのか?』
秀一「じいちゃん、違う違う!!」
源蔵『違った? ハンベェーッグ?』
秀一「発音じゃなくて!」
(じいちゃん、タカシ君と僕の声ぐらいわかってよ! ってかその発音も違うと思うよ!?)
源蔵『うっ! うう……』
秀一「え!? 何!? じいちゃん!?」
(まさか、持病の心臓が!?)
源蔵『トイレ行ってもいいかのぉ?』
タカシ《いいともぉ!!》
秀一「タカシ君は黙っててっ!?」
(なんだよ、トイレかよ。びっくりしたよ……)
源蔵『秀一、トイレの現場からスマホでライブ中継が出来るぞ』
秀一「しなくていいよっ!」
タカシ《トイレ、イェーイ!》
秀一「タカシ君、そろそろ帰ってくれるかなぁっ!?」
源蔵『すまん秀一、すでにトイレには誰か入っておった。いったい誰じゃいっ!?』
秀一「ばぁちゃんしかいないと思うけどっ!?」
源蔵『あぁっ、秀一っ!!』
秀一「え!? なに!? どうしたの!?」
源蔵『今、トイレから1発の屁が聞こえた』
秀一「いいから!! 現場からお伝えしなくていいから!!」
タカシ《おなら、ぷぅ?》
秀一「タカシ君も止めてあげて!? ばぁちゃんの尊厳大事にしてあげて!?」
源蔵『そんな可愛い音じゃ無かったぞ』
秀一「じいちゃんも!!」
源蔵『……まぁよい、我慢して料理の続きでもするかのぉ』
秀一「うん、まずはトイレから離れてあげて」
(ばぁちゃん、なんかごめん)
源蔵『丁度お湯が沸けたようじゃ』
秀一「オッケー。じゃあ、まずは塩をひとつまみして……」
(やっと進む……)
源蔵『ひとつまみじゃな。オッケぇじゃ』
タカシ《鬼はー外ー!!》
源蔵『鬼はー外ー!!』
秀一「ちょっとーっ! 今何したのさっ!!?」
源蔵『いや、すまん。何か掛け声が聞こえたもんで塩を派手に撒いてしもうた』
秀一「タカシ君っ! 帰ってお願い!」
源蔵『気を取り直して、塩を入れてポストメンを入れたらいいんじゃな?』
秀一「パスタ麺ね。ポストメンが可哀想だと思うよ?」
タカシ《僕も一緒だよ!!》
(一緒に入るのかよっ)
秀一「あ、パスタの具は?」
源蔵『あるぞ、ちょっと待ってくれ』
秀一「そういえば、じいちゃんは何のパスタ作るの?」
源蔵『地中海風パスタじゃ。おーい、バアさんや、具をくれないか?』
秀一「確かばぁちゃんまだトイレだよね!?」
源蔵『秀一っ!!』
秀一「え? え? 今度は何!?」
源蔵『今、3発の銃声が』
秀一「いいから!! お願いだからトイレから離れてあげて!!」
タカシ《ピーポー、ピーポー!》
秀一「救急車呼ばないでっ!?」
源蔵『うぅ、秀一……ワシも我慢出来なくなってきたぞ』
秀一「じいちゃん、もう少し頑張って」
源蔵『うぐぉっ!? ヘ、ヘルズゲートが開きそうじゃっ!』
秀一「ばぁちゃーんっ!! 早くーっ!!」
タカシ《くっくっく、我を呼んだのはお前か》
秀一「誰だよお前!?」
源蔵『うっ、うぅ……具はどこ……じゃ』
(じいちゃん……我慢しながらも懸命に堪えてるけど、せめて食材って呼んで紛らわしいからっ)
秀一「じいちゃん、こんなんでお店大丈夫かよ!?」
源蔵『だ、大丈夫じゃ……お客さんはまだ来とらん……』
秀一「それならいいけど、もうお昼だしいつ来るか……」
源蔵『具っ、ぐぐ。大丈夫じゃ。いつもこの時間は誰も……あ、はい、いらっしゃいませー!』
秀一「来ちゃってるよお客さんっ!?」
(ヤバイぞ!? 料理の準備一切出来てないのに、そしてじいちゃんもそれどころじゃないし、あーもうっ!)
タカシ《ボク、カレーライス! 大盛りで!》
秀一「タカシ君っ!! お願いだから邪魔しないでっ!? 知らないおじさんにカレーライス大盛り頼んじゃイケマセンってお母さんから習わなかった!?」
(それよかタカシ君のお母さん、子供ほっといたらダメでしょうに!)
源蔵『カレーだとぉっ!? ウチはイタリアンでぇいっ!! おととい来なぁ!!』
秀一「何してんのさーー、じいちゃーーんっ!!」
源蔵『パスタひとすじ(キリッ)』
秀一「キメなくていいから……」
(まぁ、お客さんには悪いけど、いや、お客さんのためにも帰ってもらった方が安全だろう……)
源蔵『は具ぅぅっっ!?』
秀一「あーはいはいどうしましたっ!?」
源蔵『もう……限界じゃ、いきそうじゃ』
秀一「あぁぁっもう! 頼むぅっ! 神様ぁっ! ばぁちゃんのお通じを今、この時だけフルオープンで!!」
タカシ《知らんがな》
秀一「タカシ君は黙ってて!!」
源蔵『我が生涯にぃぃ……』
秀一「じいちゃんっ! それはアカンっ!」
タカシ《ドーーンッ》
秀一「タカシ君がそれ知ってるのおかしいよねっ!? あとでお母さんと教育についてお話しがあるから覚えといてっ!?」
源蔵『具ぅぅぅ……』
秀一「あぁっ、じいちゃん!!」
(頼むじいちゃんっ! 堪えてくれ! 下品な話しをこれ以上続けても、深夜帯の疲れたオッサンぐらいしか許してくれないぞ!?)
源蔵『おぉ、バァさん!? 出たのか!?』
秀一「え? やった! そのばぁちゃんは幻とかじゃないよね!?」
源蔵『ホンモノじゃ。まるで憑き物が取れたような顔しておった』
秀一「ばぁちゃんため過ぎ!! ってか、それよか急いで!」
源蔵『わかっとる。すまんが鼻でも塞いどいてくれ』
秀一「この状況だと耳の方がいいけどね?」
タカシ《ドーンドーン、ドーンッパフパフッ》
秀一「タカシ君! 応援ありがとうだけど今は要らないよっ!?」
──10分後
源蔵『……秀一、大変な事になった』
秀一「じいちゃん、流石に色々ありすぎて慣れてきたけど何でしょうかっ!?」
源蔵『水を流したら、うまく流れなくてな』
秀一「え……」
源蔵『詰まって、みるみると水位が上がってくるのじゃ』
(ばぁちゃん、ホントため過ぎじゃないか)
源蔵『あ……あ……』
秀一「じいちゃん!? 大丈夫!? どうしたの!?」
源蔵『溢れてきよった!! 助けてくれ秀一!!』
秀一「じいちゃん! とりあえずそこから逃げて!」
源蔵『そういう訳にもいかんっ。逃げたら男が廃る』
秀一「いや、今は男らしい所はいいからっ!」
源蔵『待つのじゃ、まず人として尻を拭かんとだな?』
秀一「トイレから出て拭いてもじいちゃんの尊厳なら大して変わらないよっ!?」
源蔵『あーーっっ!!!』
秀一「今度は何!?」
源蔵『ドアが開かんのじゃ』
秀一「まじかぁ……」
タカシ《めでたし、めでたし》
秀一「タカシ君久しぶりですねぇっ!?」
源蔵『あぁぁぁぁぁーーーーっっ』
秀一「じいちゃーーーーんっ!」
源蔵『……』
秀一「じいちゃん!? あ、切れた……」
スマホの画面には通話終了の文字が表示されていた。すぐにこちらからかけ直したが電波が届かないというアナウンスが流れ、じいちゃんに繋がることは無かった。
タカシ《楽しかったよ、オジサン》
秀一「タカシ君! だから僕はオジサンじゃ……あれ? 居ない……」
辺りを見回したが、タカシ君の姿は何処にも無かった。もちろん、ベンチの下に隠れている様子も無い。
遊具なんて滑り台ぐらいしか無く、無駄に広い公園で見通しは良い。タカシ君は何処へ消えたのだろうか?
「ま、まさか……ひぃぃぃぃぃ?」
──こうして、僕の休憩時間は不気味な出来事のせいで終わり、白身フライはそのままに仕事に戻る事になった。
余談だが、じいちゃんとは未だ連絡が取れないでいる……。