第十話 最初の崩壊
「じゃあな、穂村」
「あく千高にこいよ! 穂村!」
「バーカ、四月までは無理だっつーの」
「ンだと棒川ゴラァ!! このまま河川敷でボコしてやろうか、あぁん!?」
「この程度でキレやがって、上等だ千野原! そのリーゼントも丸刈りにしてやっからなァ!!」
喧嘩腰ににぎやかに罵り合う先輩二人が消えると、既に日も沈みしんとした冷たい空気だけが住宅街の十字路を満たしていく。
二人の不良が先に帰った今、残っているのは獅子神と穂村だけとなる。そして二人もまた、それぞれの帰路へと踵を返そうとしている。
「またな、穂村」
「さよならッス」
「今度は彼女も連れてこいよ。別にとって喰いはしねぇからよ」
「別に彼女じゃないっすよ……それと――」
中学二年に対して高校三年。歳にして四つ離れている獅子神が軽く言い放った言葉は、おおよそ十四歳が放つようなものとは思えないじりじりとした殺意となって返ってくる。
「――取って喰った時には、獅子神さんでも容赦なくブチ『殺し』ますよ」
「っ! ……冗談をマジに取るなよ、アホ」
今まで獅子神自身も『殺す』という言葉を使ったことがある。しかしそれはあくまで脅しの為の言葉であり、『実行』するための『宣言』として使ったことは一度も無かった。しかし目の前に立つ少年は一切ためらうことなく言い放ち、そして今にもまさに殺しにかかりかねない程の殺意をぶつけている。獅子神はその殺意に気圧されて一瞬言葉を失ったが、すぐにまた普段の調子でもって、穂村に対して軽い注意を促す。
「……なら、どうでもいいッスけど」
子乃坂ちとせに被害が及ばないのであれば、どうでもいい。そうして穂村は獅子神に背を向け、静かにその場を離れていく。
「……あいつだけは、敵に回したくねぇな」
その気になれば、地の果てまで追い込んで殺しにくるであろう。そしてそれを確実に実行するであろうという決意すら見え隠れするほどの殺気を前にして、獅子神は千野原と棒川がこの姿を見ていなかったことに安堵の息を漏らした。
「今のを見たら、絶対反対するだろうな。まさに、『歩く核弾頭』だ、いつ爆発するかもわからねぇ」
――その感情がいつどこで向けられるかも分からねぇからな。それならまだ味方に引き入れておく方が得策だっての。
既に日も沈み、辺りの住宅から漏れ出る光と、ぽつぽつと並び立つ街灯の光が穂村の帰路を照らしていた。
「腹減ったな……」
この日は子乃坂とは一緒に帰らずに、千欄高校の不良とつるんでいた穂村であったが、普段であればもう少し早い時間で帰っている筈だった。いつもであれば七時を過ぎた時点で夕飯にありつけていたのだが、こうして高校の輩とつるむときにはいつも遅い時間の帰宅となっていた。
そしてこうした時にはいつも、帰り道の反対側から――
「もう! また遅くに帰ってきて! あの人たちと付き合うのはダメだって言ってるでしょ! ご飯冷めちゃったよ!」
「どうでもいいだろ。それに、飯抜きなら抜きで――」
「こら!」
いつもの口癖が、この場においては禁句となる。それが穂村と子乃坂の間で取り決められた、たった一つのルールだった。
「ぐっ……」
「それ禁止だって言ってるでしょ! ……心配する身にもなってよ」
最後の小声は肝心の少年の耳には届かなかったものの、子乃坂の空いた手を穂村は静かに握っていた。そうしてそれまで胸を満たしていた不安の気持ちが、ほんの少しの暖かさによって和らいでいく。
「えっ、ちょっと――」
「寒いんだから手袋ぐらいつけろよ。俺より冷えてんじゃねぇか」
学級委員も務める品行方正の塊である子乃坂が、不良のようにポケットに手を突っ込んだまま街を歩くことなど無い。対する穂村は、それまでポケットに突っ込んでいたおかげかほんのりと手が温かい。
「ったく、折角ポケットで温まってたってのによ」
「…………」
冷え切った感情でも、その手は温もっている。無愛想な少年の右手は、十二月末で冷え切った子乃坂の手を優しく握り、ほんのりとした熱を伝えている。
「どうした?」
ぶっきらぼうで、自暴自棄。だけど彼の暖かさを知っているのは、自分だけ。子乃坂ちとせはそれだけで、それまで許せなかったことを全て許してしまう。
ああ、自分はどうしてこんなダメ男を好きになってしまったのだろうかと、時折思うことがある。それでも子乃坂ちとせは、穂村正太郎に惹かれていた。ずっと満たされる事が無かった彼を、放っておくことはできなかった。
「…………」
「んだよ、無言で強く握って」
「えっ、あっ、その……ごめん……」
別に彼に気持ちが見透かされたわけでは無い。しかしそれでも、無神経に言い放たれた言葉の裏に、自分自身の気持ちがバレてしまったかのような、それでいて拒絶しているかのように感じてしまった子乃坂は、思わず手を離してしまわざるを得なかった。
そして無神経だった穂村は一瞬でしゅんとしてしまった子乃坂の姿をみて、慌てて取り繕うかのように手を握りなおす。
「別にどうでもいいけどよ……あっ――」
出てきたのはついさっき言われたばかりであるにも拘らず口走ってしまった言葉。しかし今回に限ってはその言葉が知らぬ間に子乃坂を救っていたことを穂村は知らない。
機嫌を損ねた訳では無いと知った子乃坂は、手を握るだけでは無く更にその温かさを感じる為に、右腕を抱き寄せて身体を預けることに。
「どうでもいいなら、ぎゅってしても……いいよね?」
「……好きにしろ」
少々照れくささがあるのか穂村はいつも以上にぶっきらぼうに言い放ち、そしてそっぽを向いて再び歩き始める。
そうして二人並び、一緒の帰り道を歩いている。特別デートする必要など無い。ただ一緒にいるだけで、子乃坂は満たされていた。
そしてそれは自覚が無いだけで、穂村正太郎自身も同じことだった。
「あれ? 警察の人……」
「……チッ」
――その幸せな時間を、自己の我が儘を通すためにブチ壊す者がいる。
細腕を蛇のようにゆらゆら揺らして。相手の目に入るように、目立たせるために赤いランプをわざわざ照らして。そして今から向かう場所は家では無いとでも主張するかのように、車の後部座席のドアを開いた状態で。蛇塚恒雄はヘラヘラとターゲットが近づいてくるのをじっと待っていた。
「こっちをじっと見てるけど……」
「……無視しとけ」
しかし無視しようにも道を塞ぐようにパトカーが止めてあることから、目の前に立つ刑事の横暴さが浮き立っている。穂村はついさっき会ったばかりの人間に対して面倒臭いという判断と、どうでもいいという感情を抱いたまま、子乃坂を連れてすぐ横を通り過ぎようとした。
――しかしそれを蛇塚恒雄という男が素直に見過ごすはずが無かった。
「おやおや、今度は彼女を連れてどこかに行くのかい? クヒヒッ!」
「まだ九時にもなってねぇだろ。補導しに来たってんなら後一時間――」
穂村の言葉を制するかのように、蛇塚が連れていた警官二人がパトカーと壁の間に立ちふさがり、今度こそ完全に帰り道を封鎖する。
「……何のつもりだオッサン」
「悪いが、署まで来てもらうよ。その子も一緒に」
「アァ!? 俺は何もしてねぇだろ!! それに子乃坂に至っちゃマジで関係――」
「あるから連行するんだろう。なぁ? 自分の両親が児童の誘拐及び監禁の容疑者になってるんだからさ」
「えっ……」
――それもこれも全ては穂村が『悪魔』だった故の、一つの悲劇でしかなかった。