第八話 仮初めの日常
「ふぁああ……よく寝た……」
敷かれていた布団から体を起こして、穂村は目を覚ます。両脇にも布団が敷いてあり、そこにはイノとオウギが眠っている筈なのだが、既に布団はもぬけの殻となっている。
「あいつらどこいったんだ?」
穂村はパジャマ姿のまま縁側の方へと顔をだし、庭の方を見やる。朝の陽ざしが軒先の緑をより一層鮮やかに照らし、夏の風景を彩っていく。
「……一体どこに」
「若造の癖に、起きるのが遅いぞ!」
声のする方に顔を向けると、そこには時田の祖父が作業着姿で立っている。
「爺さんか。作業着ってことは――」
「仕事だ仕事。畑仕事を手伝わんか」
「へいへい」
「動きやすくて汚れてもいい服を持って来いよ!」
「へいへい」
穂村を急かす老人を前に、穂村は今だ覚めずにいる眼を擦りながらストレッチを始める。
「つーか朝飯は?」
「今何時だと思っとる! もう九時じゃぞ!」
「九時ならまだ――」
「朝飯は7時に皆済ませておる! お前が食うのは昼飯からじゃ!!」
「おいおい嘘だろマジかよ!?」
穂村はこの家のルールに唖然としながらも、老人に急かされるがままに服を着替えていく。
「昼まで燃料持つんだろうな、俺……」
「何をごちゃごちゃいっとる! 早くこんか!」
「へーいへーい」
◆◆◆
「あっはは! もう水びたしになっちゃってるし!」
「おねぇちゃんが服を引っ張るからだぞ……」
「……ん」
「えっ? だってわたしは上手く岩の上を渡っていたのに、おねぇちゃんが――」
「ハイハイ、二人とも気にしない気にしない!」
「…………」
その頃時田達はというと、実家の近くに流れている川で水遊びをして涼んでいた。時田と南条は水着の上にシャツを着て、イノとオウギは可愛らしい水着姿で、それぞれ水をかけあったりして暑い夏を涼しく過ごしている。
――その裏で、穂村が汗水たらして農作業していることを知らずに。
「……ん? どうしたの陽奈子?」
「えっ? あ、いや、なんでもないですわ!」
「ウソばっかり。何か考え事してるでしょ」
いくら南条がそんなことは無いと言っても、時田の目をごまかすことなどできなかった。しかしそれでも南条は、時田に対してその悩みを打ち明けることはできずにいる。
「そんなこと、あり得ませんもの……」
「何をブツブツと言っているのかしら……まあいいわ」
南条の様子がおかしいが、気にしていてもしょうがない。時田は反対側の川岸でじゃれつくイノとオウギの間に割って入り、持ってきていたおもちゃの水鉄砲で二人をぬらしていく。
「アッハハ! 遅すぎて止まって見えるわー!」
「お前の場合能力を使っているではないか! ずるいぞ!」
「こんなことで使うワケ無いじゃん! アンタ達が弱いのよ!」
「むぅうううう! おねぇちゃん、ここは一時休戦だぞ!」
イノの言葉にオウギは静かに頷くと、イノセンスが持ち得ている運命を操る能力の片鱗を使って、川の水をまき上げ始める。
「どうだ! わたしとおねぇちゃんが協力すれば、こんなこともできるのだぞ!」
「ちょっとタンマ! アンタ達百歩譲って能力を使えるのはいいけど、ここ力帝都市の外よ!? ちょっとは自重しなさいよ!」
「嫌だ! あっかんべー!」
「何よ、これ……!」
南条は自分の目を疑った。今眼前で起こっている光景は、果たして本当に同じ世界で起きている出来事なのであろうか。
川を流れていた水が蛇のように首をもたげ、川の道筋から外れようとしている。それは天変地異か、はたまた神の御業か。南条はただただ驚きと恐怖に体をすくませ、その場から動けずにいる。
「ッ! 陽奈子!」
「何よこれ……何なのよこれ……あの子も、昨日の穂村も……頭おかしいんじゃないの……!?」
「っ、イノちゃんにオウギちゃーん……!」
南条の怯える姿を見た時田は、少しだけ怒りをあらわにした。
「ちょーっとお灸をすえる必要がありそうね……!」
「こ、怖くないぞ! わたしとおねぇちゃんがいれば――」
イノの口上が終わる前に、仕掛けてきたのは時田だった。
「隙あり!」
時間を停止させての移動。傍から見れば瞬間移動を何度も繰り返している様にも見えるそれを前に、オウギは水の蛇の操作に手間取っている様子。
「おねぇちゃん! ときたを捕まえられないぞ!」
「…………!」
水はさらに勢いを増していくが、それより早く時田は二人の懐に潜り込み、そして――
「ハァーイ、二人とも両手をあげてぇー」
ときたの両手の水鉄砲が、イノとオウギの額につきつけられる。
「くっ……おねぇちゃん!」
イノはこの状況を打破できないかと姉の方を向くが、肝心の姉は観念した様子で、静かに首を横に振っている。
「まずは川の水を元に戻しなさい。それと、アンタ達がここで能力を使うのは禁止するわ」
オウギは渋々川の水を元に戻すと、その場にぺたんとへたり込み始める。
「何? どうしたのよ?」
「おねぇちゃんは今のでエネルギー切れになったのだ。お腹が空いたと言っているぞ」
「ハァ、アンタねぇ、今朝『焔』のために取っておいたおにぎりを全部食べたってのにまだ食べたりないワケ?」
「おねぇちゃんは能力のねんぴ? が悪いってしょうたろーが言っていたぞ」
「だったら尚更なんでこんなことで能力を使ったのよ……」
ときたがため息をついた後に、対岸の方を見やる。南条はというと、唯々今起きた出来事に唖然とし、呆然としている。
「……とりあえず二人とも、陽奈子に謝ってきなさい」
「えぇー、どうしてなのだ?」
「どうしてもこうしてもないわよ! ホラッ! 行ったいった!」
ときたによって即座に反対側の川辺に移動させられたイノとオウギはすごすごと南条の前に立ち、ぺこりと頭を下げてこういった。
「能力を使ってごめんなさい……」
「…………」
「おねぇちゃんも、ごめんなさいだって」
無言の姉に対し、無言のままで口を開こうとしない南条。時田は二人に対して困惑しているのかと考え、二人について紹介しようと思ったが、それでもどこから話せばよいのか分からずにいる。
「えぇーと、話せば長くなるんだけど――」
「いいえ、話は昨日穂村さんからお聞きしましたので」
「そうなの?」
「……この二人は、穂村さんが救ったという二人なのでしょう?」
「……ええ、そうよ」
研究施設に囚われ、『究極の力』の発現の実験台として生まれ落ちた二つの生命。そんな運命から救い出した少年こそが、穂村正太郎。そして自ら生まれ持った力の意味を見失い、『アイツ』から逃れるために暗闇を彷徨う少年を救い出した少女二人こそが、イノとオウギ。互いに切っても切れない存在だからこそ、少年は二人を守り続け、二人は少年を支え続けている。
「……昨日、穂村さんに話を聞きました。能力者として、この島の人達に認められようと行動を起こしていることを」
「えっ? そうなの? アイツ本当に認められようとしているワケ? ただのその場だけの思いつきかと思ったのに」
「私も馬鹿げていると思いましたが、彼は本気でした。彼は本当にこの島の為に、能力者に対する意識を、考え方を変えさせようとしています」
時田ですら半ば諦めていたことを、穂村は成し得ようとしている。そしてそれは言葉だけの妄言ではなく、現実として実現しようとしている。
「……まっ、流石は単純バカといったところかしら」
「本当に、その通りです。ところでこの二人の内、お姉さんの方はさっきから無口なのですが――」
「おねぇちゃんは喋らないぞ。わたしがおねぇちゃんの代わりに喋るからな」
「そうなの…………あら? もうこんな時間なの」
南条は昼のチャイムを耳にするなり、その場に立ちあがって服をパンパンと叩き始める。
「そろそろお昼にしませんか? マキナさんもよく行っていたお店に、今から行きましょう」
「そうね。あそこならオウギちゃんでもお腹いっぱいに食べられるかも」
こうして二日目もまた、つつがなく過ぎていくことになる。
だがこうした平穏な島の裏で一つのおぞましき計画が着々と進行していることを、今の彼女達、そして穂村が知る由など無かった。