狼の恋
初めての短編作品です。
いつもと変わらない、退屈な一日が過ぎていこうとしている。
暗い森の中を駆け巡った。
崖を飛び越え、木をくぐり、丘の上で吠える。
無限に広がる空と、深い森に、俺の声が響く。応えるものはない。
「……誰もいない、か」
ぽつりと呟く。
みな、狼の俺を怖がってこの森からいなくなった。
俺はこの広い森でただ一人、暮らしている。
「――った。いたた、枝にひっかかっちゃったよ」
遠くで、声が聞こえた。
誰かの声を聞くのは、いつぶりだろう。
俺は丘の上から目を凝らして周りを見わたした。
「……人間?」
ちょうど、森の真ん中あたりで影が動いている。
姿形をみる限り、どうやら人間の子供のようだ。
赤いずきんをかぶった、一人の少女。バナナやリンゴがたくさん詰まったかごを、重たそうに両手に抱えながら、きょろきょろと視線を泳がせている。
人間をみたことは、何度かあった。どれも良い思い出ではない。人間どもはみな、銃を片手に俺を襲ってきた。
ぐっと身を屈め、警戒の眼差しで少女を見つめる。金属の匂いはしない。武器は持っていないようだ。
「うーん、こっちで合ってるのかなぁ」
少女は不安そうに眉を寄せながら、ゆっくりと歩いている。
恐らく、俺に襲ってくることはないだろう。あの小柄な体で、まともに相手になるはずがない。一息ついた俺は、警戒姿勢をやめ、ただじっと少女を見つめた。
「……あっ!」
「!」
不意に、少女が木の根っこに足をつまずかせた。
思わず、体が乗り出す。少女の手から離れたかごからリンゴが転げおち、少女はそのまま前のめりにこけた。
「……っぐ。ひっく。ぅえぇええん!」
森に、少女の鳴き声がこだまする。
俺は真っ先に、近くに咲いていた一輪の花を口にくわえると、丘から飛び降りた。
――何をしているんだ、俺は。
そう思ったのは、少女の前に足を置いてからのことだった。
座り込んで顔を地面に向けたまま、肩を震わせる少女に、おそるおそる近づいた。
「ひっく、ぐす、痛いよぉ」
「――お嬢さん」
「へ……?」
声をかけると、少女はゆっくりと顔をあげた。
大きな水色の瞳だ。そこから流れる涙はぷっくらと膨らんだ頬を伝っていく。白い肌に、ところどころ泥がついていた。
俺は口にくわえた花を、ついっと少女に差し出す。
「……くれるの?」
少女が聞いた。俺は、目で頷いてみせた。
ゆっくりと少女が手を伸ばす。俺はその手に、そっと花を乗せた。
「わぁあ、可愛い! 狼さんありがとう!」
白い、その花をみつめて、少女はにっこりと笑った。
俺を恐れることなく、少女は笑った。
「……どういたしまして」
鼓動が、高鳴った。
――なんだ、これ。
どくっどくっと、心臓が激しく脈打っている。
花を片手に、すっかり笑顔の少女。
俺はその顔についた泥を、ぺろっと舐めてあげた。甘い味がした。
「もうっ! こしょばいよぉ」
そういって笑う少女。
むき出しの膝にも泥がついているが、怪我はなさそうだ。少女はぱんぱんと服や泥を叩きながら立ち上がった。
俺はかごから落ちたリンゴを潰さないようにゆっくりとくわえ、少女に差し出す。
「あ、ありがとう! 狼さんって優しいのね」
少女が、俺の頭をなでた。小さく、温かい手だ。
鼓動は、さらに激しくなった。
心臓が、鳴り止まない。少女に聞こえてしまうのではないかと心配になるほどだ。
――あぁ、可愛いな。
無邪気で、よく笑って、元気な少女。
こんな感情は、初めてだった。
――可愛い。愛しい。
少女の全てが欲しい。
無邪気に笑う、少女が愛しい。
愛しすぎて、俺はごくっとヨダレを飲み込んだ。
少女には、向こうに花畑があることを伝えた。
今から森の向こうの人間の見舞いに行くらしい。それなら、花も持っていったらどうだ、と俺は言った。
少女は喜んで、そこに向かった。
「……」
ありもしない花畑に向かう少女の後ろ姿を見送り、俺は再び地を蹴った。
森を駆けぬける。こんなにわくわくした気持ちで森を駆けるのは、初めてだ。
やがて森が明けると、少し先に小さな小屋が見えた。
そこから、人間の匂いがする。
「……まずそうな匂いだな」
だが、これも少女のためだ。
足音を殺して、その小屋にちかづいた。
人の気配はあるが、動く気配はない。俺は鼻先で扉を押し開け、中を見渡した。
「――赤ずきんちゃんかい?」
声が聞こえた。しゃがれた声だ。
俺はぐっと身を低くして、目を凝らす。食卓のテーブルと、その奥にベットが見えた。少しもり上がった布団の中に、一人の人間が横たわっている。
「ごめんよぉ、遠いのに。疲れたでしょう。おばあちゃん、今動けなくてねぇ」
俺はその声を聞き流しながら、ゆっくりと部屋に入った。
高いベッドの上で横たわる人間は、身を低くする俺を見えていない。
俺は、足音と息遣いを殺して、その人間に近づく。血と肉の匂いが強まった。
「よぉ。俺の可愛い少女のために、ご飯をつくっててやろうと思ってよ」
こみ上げてくる笑いをこらえながら、俺はそう言って、ひょいっとベットの上に飛び乗った。
「ひっ!」
引きつった人間の顔。なるほど、大きな瞳が、少女とそっくりだ。
俺はそのことに満足し、大きく口をあけて、その顔に噛み付いた。
口の中で、人間のぐもった叫び声が響いた。
久しぶりに香る、血の匂い。肉の味。
そういえば、ここ最近はなにも食べていなかった。
久しぶりの肉だ。白い髪を食べるのは止めた。喉にひっかかりそうだ。
次に、布団をはがして、左肩に噛み付いた。もう、声は聞こえなかった。
そのまま下に口を動かし、前足を使って心臓を取り出す。まだ生温かい。
心臓はどんな動物の中でも、一番おいしい部分だ。
俺はその心臓を傷つけないようにくわえ、視線を動かす。
棚の中に小さなお皿がある。それを見つけた俺は、血で汚れた口を布団で拭き取り、棚の中から白い皿を銜え、その上に赤い心臓を乗せた。
「……飲み物も、必要だな」
ふむふむと考え、皿の横に置いてあったワイングラスを取り、そこに左肩から流れ出る血を入れた。
少女は喜んでくれるだろうか。笑ってくれるだろうか。
森を抜けた少女は、おなかをすかしているだろう。心臓が一番美味しいのだ。まずいわけがない。きっと喜んでくれる。
そして、笑顔になった少女の全てを手に入れよう。
きっと、すごく、美味しいだろう。
少女の笑顔を思い出して、俺の心臓はもう一度高鳴った。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!!