プロローグ とある日の竜胆家
今年の夏は異常気象により寒冷化が進むだのなんだの話題になっていたのも今は昔の話。
例年通りの茹だる様な蒸し暑さの中で、長い黒髪を高い位置で一房に纏めて半袖半ズボンという夏らしい軽装をした竜胆鏡華は、自宅のキッチンで白く艶やかなその肌に大粒の汗を掻きながら、ぐっと両手に力を込めて製氷皿を折り曲げていた。
当然、製氷皿は実際に折られはしないものの、力を加えられ軽く曲がったそれからは、鏡華お手製の赤い色つきのアイスキャンディーがからからと音を立てて、下にあるボウルに向かって落ちていく。
そうして空になった製氷皿をシンクに置くと、冷蔵庫から別の製氷皿を取り出して先程と同じ様にボウルの上で折り曲げた。
再び赤いアイスキャンディーを落としきり製氷皿が空になったのを確認して、それをまたシンクに置く。
と、その時男性の声が鏡華の耳に届いた。
「ただいまー……って何してんだ?」
ポニーテールを揺らしながら鏡華が振り向くと、赤みがかった短髪が特徴の同居人である赤金鶴来が丁度こちらへと歩いて近づいてくるところだった。
「お前には関係無い事だからとっととあっち行け、しっしっ」
「そんな事言わずに、いいじゃんいいじゃんちょっとぐらい」
鶴来が近づいてきた途端いかにも鬱陶しそうな顔をして、手で追い払うジェスチャーを見せる鏡華。
だが当の鶴来はそんな鏡華の行動に特に動じる事も無く、その横に立つとひょいとボウルの中を覗き込んだ。
「おぉアイスじゃん。すげぇな、手作り?」
「そうだがお前にくれてやるものは一欠けらも無いぞ。これは全部私の分だ」
「相変わらずけちだなー」
そう言いつつも鶴来に鏡華の言を気にしている様子は見られない。
最後に『まぁいいや』と一言残してあっさりとその場を離れる鶴来だったが、すぐにふと何かを思い出したかの様に立ち止まる。
そして顔だけを鏡華へと向けて言った。
「そういえば帰りに沙由にあったんだけどさ、今度海行かないかーって誘われたんだ。地里兄妹も一緒らしいけど、お前も来るか?というかお前も誘う様に言われてるんだよな」
「海か……」
碧く輝く冷たい海と、白く光る広大な砂浜。
蒸し風呂の様な現状のせいで妙にイメージが美化されている気もするが、それを差し引いたとしても魅力的な光景である事に違いは無い。
「そうだな、せっかくだしご同伴に預からせてもらうか」
清涼感溢れる情景が脳裏に広がると共に、鏡華の口からは了承の言葉が自然にこぼれ出していた。
「よっし決まりだな、楽しみになってきたぞー!」
期待感を露にしながら、鶴来はその場を去って行く。
そしてまだ見ぬ海の光景に、同じく期待感を募らせて口元を綻ばせていた鏡華のズボンのポケットから、ピロンッと軽快な電子音が一回鳴った。
その、明らかに初期設定のままであろう効果音の鳴ったスマホをポケットから取り出して画面を見た鏡華は、スマホに一通のショートメールが届いている事に気づいた。
それの宛先に表示されていたのは『地里このみ』の名前。
この時点で若干嫌な予感がしていた鏡華だったが、本文の『今度皆で海行くじゃない?だから明日沙由と私と鏡華ちゃんの女子3人だけで水着新調しに行くから、絶対に遅れない事!午前10時前にGオン集合ね!もし遅れたり来なかったら勝手にスンゴイの選んじゃうわよ?私としてはそっちでもいいけど』という、まだ返事もしていないはずなのにいつの間にか自分も行く事前提にされているその文を読み終えた瞬間、『うああぁぁぁ……』と奇妙な唸りを上げてその場に崩れ落ちた。
「どうした鏡華!暑さでやられたか!?」
鏡華の唸り声が聞こえたらしく、キッチンの傍のリビングでテレビを見ていた鶴来がどたばたと慌てて駆けつけてくる。
「ああもうむしろお前の声を聞いている方が暑くなる!」
鶴来の大きな声を聞いて明らかに苛立ちの色を滲ませながら勢い良く立ち上がった鏡華は、そのままの勢いでボウルからアイスキャンディを一つ摘み、大きく開いていた鶴来の口へと半ば無理矢理捻じ込んだ。
「これやるからいい加減離れ……ろっ!」
「分かった、分かったから押すなって」
そして鶴来の口が反射で閉じると同時、無理矢理後ろを向かせるとその背を押して強引にリビングへと追いやった。
口の中のアイスキャンディをころころと転がしながら椅子に座ってテレビのチャンネルを適当に変えだした鶴来を尻目に、鏡華もボウルから一つアイスキャンディを摘むと口の中に放り込んで、鶴来と同じ様に口の中で転がし始めた。
「……結構上手く出来たじゃないか」
自画自賛の言葉と共に口いっぱいに広がる仄かなイチゴの甘さと氷の冷たさを味わいながら、鏡華は先程のメールを再び開いてまた『はぁ……』とため息をつく。
別に一緒に買い物の人選が悪いわけでは無い。ただ買いに行くものに少々の問題があるだけだ。
水着。それも当然女性用のそれ。
よくよく考えれば海に行くのだから当然必要なのだろうが、しかしそれを自分が見る立場ならば兎も角着る立場に、見られる立場になるのは少々、いやかなりきついものがある。
とは言え当然、女性用の水着なんて自分が持っているわけも無く。
それに放っておいたらこのみの事だ、本当にスンゴイ水着を選ばされるかもしれない。そして確実に無理矢理着せられる。
「行くしか無いか……」
げんなりした様子ではあったが一応意を決し、このみへの返信を送るべくスマホを操作し始めた鏡華。
「あー、何というか……早く男に戻りたい……」
もの悲しそうに呟く鏡華の横では、しまい忘れていたアイスキャンディが夏の大気に晒されて、既に少しずつ溶け始めている。
時は8月上旬。
雲一つ無い澄み切った青空を切り裂く様に喧しい蝉の合唱があちらこちらに木霊する、そんな真夏の昼下がりであった。




