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怪奇小話  作者:
1/3

~手形~

 就職活動のため上京した私は、とあるアパートに部屋を借りることにした。そこは、コンクリートジャングルと称される都会には珍しい木造のアパートだった。古い建物のため、あちこち傷んでいるようだが、家賃は私のような貧乏人にはありがたい格安になっている。また木造という自然の素材が、疲れた私の心と体を少しでも癒してくれるような気がしたのだ。

 私はこのアパートを一目で気に入り、早速部屋を借りることにした。部屋は二階の一番東にある二〇五号室だ。

 新生活という期待に胸を躍らせ、私は自分の家となった二〇五号室へと足を踏み入れた。

「…………?」

 部屋へと入った瞬間、誰かの視線を感じた。奇妙に思い、周囲を見回してみるが、当然部屋の中に人の姿はない。気のせいだろうか、私は不思議に感じながらも視線のことは忘れ、荷物の整理へと取り掛かった。他の部屋の住民への挨拶、そして必要な生活用品も買い揃えないといけない。やることはたくさんあった。



 翌朝、起床した私はカーテンを開け、部屋の中に暖かな日光を招き入れた。

 うん、今日もいい天気だ。

 着替えを済ませ、早速ハローワークへ向かおうとした私は、窓にあるおかしなものに気が付いた。

 昨日念入りに拭き掃除をしたはずの窓。その隅に何か白い汚れのようなものが付着していたのだ。

 拭き忘れだろうか。まるで至近距離で息を吐きかけたかのように、窓の一部が白くなっている。

 きっと拭き忘れだろう。そう思った私は、雑巾で汚れを拭き取ることにした。



 さらに翌朝。起床した私は再び窓に白い汚れが付着していることに気が付いた。しかも今度は二か所だ。さすがに今度ばかりは拭き忘れだとは思えなかった。窓を開け、身を乗り出して外の様子を窺ってみるが、特におかしなところは見受けられない。ここは二階だ。人が外から悪戯をするには無理がある高さだろう。では、鳥の悪戯だろうか。

 不思議に思いつつ、私はまた汚れを拭き取ったのだった。



 そして、また翌日。嫌な予感を感じつつ、起床した私はすぐに窓へと駆け寄った。そして見つける。白い汚れが、今度は六つだ。それも今までより二回りほど大きくなっている。それだけではない。その白い汚れはまるで人の手形のように見えた。いや、それは手形だった。六つの白い手形が窓のあちこちに張り付けられている。

 さすがの私もこれには背筋が凍るような感覚を味わった。生まれてこの方、怪奇現象などというものとは無縁な生活を送ってきたのだ。部屋を変えるべきだろうか。しかし他の物件の家賃はここよりも数倍高く、それを毎月払っていけるかどうか今の私には怪しい。となれば、仕事が見つかるまではこの奇妙なアパートで暮らしていくより他にないのだ。

 だが、何より私は汚れをつける存在の正体が気になっていた。カメラでも設置してみようか。そんなことを考えながら、私は窓の手形を拭き取ったのだった。



 今にして思えば、このときに私は気付くべきだったのだ。

 窓の汚れは外ではなく、内側からつけられていたということに。



 翌日。さらに変化が起きた。

 窓一面が白く染まっていた。いや、違う、手形だ。それも六つや七つどころではない。無数の、それこそ数えきれないほどの手形が窓を覆い尽くすように張り付けられていたのだ。

 私は悲鳴をあげ、飛び出すように大家のところへと走っていった。

「部屋を変えてほしい? ごめんよ、今はあの部屋しか空いてないんだ。あの部屋が気に入らないのなら、出て行ってもらうしかないけど」

 大家にそう言われれば、私は何も言えなくなってしまった。それでも毎朝窓に起きている異変のことだけは、大家に話しておかなければいけなかった。もしかしたら大家は何かを知っているのかもしれない。それを知ることが出来れば、対処法というものも見つかるのではないかと、そう考えていた。

 しかし大家はとぼけるばかりで、何も語ろうとはせず、結局私は何の収穫もないままに部屋へと引き返すこととなった。



 翌朝。

 目を開けた私が最初に見たのは、天井一面に広がる黒ずんだ染み。凝視していると、それが何なのか否応にも理解してしまう。手形、手形、手形! 窓に広がっていた無数の手形、それが今度はこの部屋の天井にまで浸食していた。

 悲鳴を上げ、布団から跳ね起きる。

 ダメだ、この部屋にはもういられない! すぐにでも新しい住居を探しに行かなければ!

 着替えるのももどかしく、転がるように部屋を飛び出した私は、新しい住居を求め、街へと繰り出した。

 しかし思うような物件が見つからず、私は再びあの二〇五号室へと戻ってきてしまった。

 部屋を侵食していく手形。あれは『誰が』つけたものなのか。手形は決まって、私が就寝してから起床するまでの間に張り付けられている。つまりナニカは私が眠っている間に部屋へ現れ、手形を残していくということだ。

 ならば朝までずっと起きているべきだろうか。そうすれば異変はこれ以上進行しないのかもしれない。



 そして私はその夜、眠ることなく部屋の様子を観察することにした。



 現在の時刻は一時を回ったところだ。テレビがないため、ラジオを付け、気を紛らわしている。さすがに都会というだけあって、日付が変わっても外では微かな人の息遣いが聞こえてくる。それが私の心をどこか軽くしてくれた。

 そして時刻は二時を回った。いわゆる丑三つ時というやつだ。幽霊などが最も出やすいとされる時間帯。外から伝わってきていた人の気配もさすがにこの時刻になると、なくなってくる。今やラジオの、ニュースを読み上げる女性アナウンサーの声だけが私の心の支えとなっていた。

 今のところ異変はまだ起きていない。だが油断は出来ない。私はラジオの音に耳を澄ませながら、じっと窓の向こうを見つめていた。


「〇〇市で起きた連続放火……事件の、容疑者と……され……る……され……る」


 異変は唐突に始まった。突然ラジオにノイズが混じり始めたのだ。女性の声が途切れ途切れに言葉を紡ぐ。だがそれもすぐにノイズに飲み込まれ、何も聞こえなくなる。

 ざーざーと大雨が降っているかのようなノイズ音。私は慌ててラジオの電源を切るが、ノイズ音は止まらない。電池を抜いた。しかし音は止まない。

 動悸が激しい。呼吸が荒い。まるで獣の吐く呼吸のようだ。ラジオを壁まで投げ飛ばす。


「ざーざーざーざーざーざーアケロ」


 ノイズに何かが混じった。それは複数の男女の合わさった声。

 アケロ。開けろ。そう言った。


「アケロ、アケロ、アケロ!」


 開ける。何を開けるというのか。この部屋で開けられるものといえば、入口の扉と窓ぐらいのものだ。私は窓へ駆け寄ると、窓を開けようとした。しかしロックを外しても窓は開かない。まるで外から誰かに押さえつけられているかのように、どれだけ力を込めて窓を動かそうとしても微動だにしない。


「アケロアケロアケロアケロ!」


 ラジオからの声がなお続いている。


 ドン! ドン! ドン!


 催促するかのように天井から音が鳴り響く。怖くて天井を見ることは出来ない。

 だがきっと、天井には現在進行形で手形が張り付けられているのだろう。


 ダン! ダン! ダン!


「アケロアケロアケロ!」


 耳朶に響く打音と音声。気が狂いそうだった。これは夢か。夢なら早く覚めてくれ!

 祈るように、窓を必死で引っ張る私。しかしそれをあざ笑うかのように、今度は窓に何かが叩きつけられる。すぐ目の前に真っ白い手形が張り付いた。


 ダン! ダン! ダン!


 音に合わせて、目の前にいくつもの手形が残されていく。

 そして私は見た。見てしまった。

 窓に映る自分の顔。そのすぐ横に映りこむ老婆の姿。いや老婆だけではない。若い男から子供まで、たくさんの人が苦悶の表情を滲ませながら、窓を叩いている。周囲には何もない。何も見えない。しかし窓に映る私の部屋ではあちこちを叩く何十もの人の姿が映り込んでいる。

 彼らは皆、死に装束と呼ばれる白い着物を着ていた。彼らは私に気付くこともなく、一心不乱に窓を、天井を、壁を、叩いている。


「アケロアケロアケロアケロ!」


 ラジオから聞こえてくるのは彼らの声なのだろう。

 だが窓は不可思議な力で閉ざされ、開けることが出来ない。

 どうしたらいい! どうしたら窓を開けることが出来るのか!

 そして私は気付いた、部屋の中で唯一、彼らが近寄っていない場所があることに。

 それは布団などを収納するための物置がある襖の一帯だ。何故かその周りにだけ、彼らは近寄ろうとしない。あそこに何かがあるのだろうか。窓から離れようとした私は、しかしすぐ隣で窓を叩いていた老婆と目が合ってしまった。老婆が窓を叩くのを止めた。そして私の方へゆっくりと顔を向ける。

 それは鏡の中の出来事だ。現実の私の横には老婆の姿など存在しない。だが、ぞわりと悪寒が全身を駆け巡った。

 まずいまずいまずい!

 老婆はじっと私の方を見つめている。いつしか部屋に響いていた打音がピタリと止んでいた。そして鏡の中で、一人、また一人と私の方へと顔を向けてくる。

 背中にはじっとりと汗が浮かんでいた。非常にまずい状況ではないのだろうか。一歩でも動けば、その瞬間に自分の命が吹き飛んでしまうかのような緊張感。ごくりと唾を呑みこむ。一か八か、あの襖のところまで移動するしかない。そこに何があるのか、もしくは何もないのか。だがこのままでは私の命が危ない。そんな直感めいた予感を先ほどから感じていた。

 そして私は意を決して、襖まで駆けた。たかが数メートルをこれほどまでに長く感じたことはないだろう。無事に襖までたどり着けた私の周りを白装束の彼らが取り囲んだ。しかし彼らはこちらに近づいてこようとはしない。やはりこの襖には何かがあるのだ。

 彼らの様子を窺いながらも、私は襖をゆっくりと開けた。

 中は薄暗い。毎日布団を出し入れしているのだ。中に何もないことは私自身がよく知っている。だがまだ私が見ていない場所があった。そう、天井裏だ。

 彼らが近づいて来ないのを確認し、私は物置の中へもぐりこみ、天井のふたを外した。

 そして見つける。梁に張り付けられた一枚のお札を。

 これが彼らを近づけさせない力の正体。このお札の近くにいる限り、私は白装束の彼らに襲われることはない。

 だが、このお札があるからこそ、彼らはこの部屋を出られず、苦しんでいるのではないだろうか。このお札を取り払うことで、窓の不可思議な力が消え去り、彼らは外へと出ていくのではないか。

 しかし、もしこれが彼らから身を守るため『だけ』のお札であった場合、これを取り除くということは安全地帯であるこの物置にも彼らが押し寄せてくるということにならないだろうか。

 お札を剥がすべきか、剥がさないべきか。

 究極の選択だ。散々迷った末、私は選択した。



 翌朝。

 私は荷物をまとめ、アパートを出た。

 結局お札は剥がせなかった。陽が昇るまで、物置の中で息を潜めていたのだ。陽が昇る頃になると、彼らは一人、また一人と苦悶の呻きを上げながら姿を消していった。彼らが全ていなくなったあと、私はようやくあの恐ろしい緊張感から解放されたのだ。

 部屋を出ることに後悔はない。彼らは私を知覚してしまった、恐らくあのままあの部屋に居続けていれば、良くないことが起きたに違いないのだ。だから今の自分の選択に後悔はない。不満もない。

 私は最後に一度だけ自分の住んでいたアパートの一室を振り返った。

 叶うのであれば、次にあの部屋に住むかもしれない人よ、私のように早々に立ち去ってほしい。

 それだけを願い、私は人ごみ溢れる街へと繰り出した。

 まずは、新しい家を探さなければ。


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