17 足りない言葉
「さっちゃん……?」
それはもう、ばったりだった。
偶然だった。
保健室から出た俺は、悠姫と対面していた。
「よう、何してるんだ? 何か準備で足りないものがあって取りに来たのか? だったら、俺が運ぶけどな」
絞り出すような声の悠姫に対して俺は、のんびりと平然としたものだった。いや、平然を装った口調にしているだけである。
内心では、この後どうすればいいのかが分からず頭を抱えていた。今の今まで淡島先生に話を聞いて背中を押してもらったが、いきなりすぎで何を言って良いのか――伝えて良いのか分からない。
詰まる所、頭の整理がついていないのだ。
今の俺はまさに、無人島にいきなり放り出されたようなものだ。その状態から一体どうすればいい。
が、逃げてはいけない。
淡島先生の温かくて、染み込むような言葉を聞いたのなら、ちゃんと向かい合うべきだ。ちゃんと、話すべきなのだ。
まだ、何を話していいのか分からなくても。
「備品を取りに来たんじゃないのなら、淡島先生に何か話でもあるのか。だったら、保健室の中にいるけど」
話すことが違うだろ、と思いながらも精一杯の言葉を紡ぎだす。
「ううん……そんなんじゃないよ」
そんな俺の胸中を知ってか知らずか、悠姫は首を横に振る。
「だったら、何だ?」
「真鍋君から……その、さっちゃんが倒れたって聞いて……」
あいつめ……会話に混じれないから、代わりにこれか。なかなかいい根性していやがる、と思いながら俺は顔綻ばせた。
――おせっかい焼きめ……。
でも、悠姫はどういう風に思っているのだろう。悠姫なら修に上手く誘導されていることに気が付いていても不思議ではない。
いや、簡単なことか。
それは変わらない。修も――桃花も――淡島先生、それに鮫島先輩も水分たがわずこう思うはずだ。
「心配してくれて来てくれたのか。調子はだいぶ戻ってきたから、大丈夫だ」
「そっか……良かった。じゃあ、教室に戻るね」
「いやいや、俺も戻るから一緒に戻ろうぜ!」
身を翻し、そそくさと逃げるように立ち去る悠姫の肩を、俺は手を伸ばして掴んだ。俺の方に振り替える悠姫の顔はどこか、怒りが滲んでいるように見えた。
思わず掴んだ手を離してしまいそうになるが、それを押し堪えどうにか言葉を紡ぎだす。
「ほら、一緒に戻ろう」
「……、」
じっと彼女は、何も口から発さず俺の顔を見る。
肩を掴んだ時に見せた怒りは消え失せていた。が、今の彼女の表情はなんと言葉に表せばいいのか、俺には判断できない。
どう接すればいいのか分からず言葉を待つ姿勢を保ち続ける俺に、ようやく悠姫はか細い声で言葉を返した。
「……どうして?」
「え?」
「どうして……あんなに怒ったのに、無視したのに……話し掛けてこられるの? 話し掛けてくれるの?」
途中からの声はひどく震え、そして泣きそうな声だった。俺はその言葉を一音一句ずつ理解し、その上で口を開いた、
「そりゃまあ、このまま喧嘩したままってのが嫌なだけだ。喧嘩したまま別れるのもな」
「え……?」
眉を精一杯上にあげ、悠姫は驚いている。
俺も内心で、しまった、と思った。
「どうして知ってるの?」
「それはだ、な。えーっと……桃花が口を滑らせたんだよ」
さんざん悩んだ末、俺は事実を述べた。
事実を知った悠姫はそっか、と呟きながら、
「うん。そういうことだよ。二学期になったら、私は向こうにいるよ」
「そうか」
事実だった。
心の中ではまだほんの僅か、冗談を言っているのだと思っていたが、本人からの言葉でその幻想も消え失せる。そして、それと入れ替わるように別の感情が、心の中湧き上がってきた。
何となくだが、分かる。俺はきっとこの感情を言葉にしなければいけないと。
が、それと同時にある思考が脳裏を過った。
――まだ、足りない。
と言ったものが。
確かに、湧き上がる感情は言いたいこと――伝えたいことなのかもしれない。でも、決定的にまだ何かが足りない。
そう思った。しかし、焦っていた俺はそのことに気が付いていながらも、口にしてしまった。どうなるか、簡単に想像も出来たくせに。
「行って来いよ。大丈夫さ、お前なら。演奏会前じゃなくても普段から人一倍練習してるし、きっとプロにも慣れるさ」
背中を押したつもりだった。
俺自身はそう思っていた。
だけど、やっぱり今のままじゃ届かなかった。
何の答えも出せていない俺じゃ。
あの二つの星に向って手を伸ばしていない俺じゃ。
「……さっちゃん」
その時の悠姫がどんな表情をしていたのか、俺はきっと忘れないだろう。
悠姫は泣いていた。
いつもみたいに冗談でも演技でもなく、本当に。
両目から。
涙を流していた。
「さっちゃんの馬鹿‼」
そう言って悠姫は走り去っていった。
掴んでいた手もいつの間に離していた。




