乞食
目の前の彼女は言った。
「分かってるの。 いけないことだって。」
そして矢継ぎ早にこう言う。
「だけど止められないの。 どれだけ正論や道徳を説かれようと、今の私には意味のないものに聞こえちゃう。 理解してくれない他人の戯言、上辺だけの言葉。 しょせん私の立場に居ない誰かに私の気持ちが分かるもんかって……思っちゃうの。」
彼女はまるで懺悔室で過ちを吐露しているようだった。
「ねえ、とても強い罪悪感を覚えているのよ。 本当に悪いことをしているのは分かっているの……。」
そして壁一枚隔てた場所に居る私には彼女の顔は見えない。
声だけだ。 私に伝わるのはそれだけで、己を庇い立て他人を突き放した彼女の盾によって姿を隠されている。
「でも抑えられない気持ちってあるじゃない。 善悪だけじゃ計れないものが。」
彼女は私に神父で在ることを願っている。 強制しているといってもいい。
”赦せ”
ただ一言、彼女はそう言いたいだけなのだ。
『分かっている』 『悪いと思っている』
それらの言葉が他人から身を守るための建前にしか過ぎないことにも気づいていない。
彼女に反省の色などない。 する気もない。 己の気が休まればそれでいい。
「私だって辛いのよ。 板挟みなの。 自分の欲と罪悪感との狭間で葛藤してるもの。」
”だから赦せ”
彼女の求めている言葉が透けて見えるようだ。
欲しい、欲しい、欲しいと、他人に求められるだけ求めている。
きっと嗜める言葉は彼女の毒なのだろう。 彼女にとってそれらの助言は攻撃以外の何者でもない。
けれども彼女自身は棘の付いたオブラートで他人の情を刺して可哀想な己を刻み込むのだ。
「私って酷い女よね。 分かってるのよ……。」
そうして俯かせた顔で本心を隠したまま甘い言葉だけを欲している。 己の行いを咎める言葉には耳も貸さず、自分を正当化できる言葉だけを求めている。
なんて浅ましい。
「でも自分でもどうしようもないの。 自分で解決できるならとっくにそうしているもの。」
仕方ないと言って欲しいか。 可哀想にと言って欲しいか。 君は悪くないと言って欲しいか。 そのままでいいと言って欲しいか。 感情に嘘はつけないと言って欲しいか。 君を理解しない人間が愚かなのだと言って欲しいか。 そういうこともあると言って欲しいか。 時に倫理は揺れるものだと言って欲しいか。 希望はあると言って欲しいか。
君は正しいと、言って欲しいか。
彼女以外の誰が彼女の問題を解決してくれるというのだ。 他人に赦された気になって、満足して、それでお仕舞いとなるわけがない。 彼女が決断するしか問題は解決しようもないことを伝えても、そうする努力もしない。
つまり彼女が必死に赦しを乞うのは否定されることが気に入らないだけで、あとは外聞が悪いから分かっていると言うだけで、己の思うがままにしたいから理解が欲しいだけで、問題を解決する気なんてさらさらないということだ。
優しい誰かを目ざとく見つけたなら、彼女はきっとこう思うはず。
”あの人なら私を否定しない”
自己正当のみに必死になり、甘言だけ与えてくれる人間を”自分を認めてくれる人”と思い込んだまま、相手に依存し、責任を押し付けて生きてゆくのだろう。
自分では何もしようとせず、思いやりや信頼や共生を時々に都合良く解釈して、本質など見ないまま彼女は生きてゆく。 ”私を受け入れろ”と他人に迫り続けるのだ。
それが君の人生か。 それが君の求める人生か。
未だ、私には彼女の顔は見えない。
俯いた顔で何を思っているのか。 少しでも顔を上げれば開き直った表情が拝めるかもしれないと、私は軽薄なその肩をじっと見つめる。
きっと神父ならばここで「悔い改めよ、~を祈れ」などと一言言うのである。 その言葉は彼女の心を軽くし無意味な赦しを与えることだろう。
しかし彼女に懺悔の思いなどない。 悔いている気持ちなど、一欠けらも存在しないのだ。 だから赦しを得たところで 彼女の中ですぐに薄れて行ってしまう。
そしてまた欲しくなる。 その繰り返しだ。 何度欲しいものを与えてやっても満たされることがない。
彼女はこれからもきっと何度も同じ問題にぶち当たり、何度も同じものを欲するだろう。 しかしいくら彼女の手を乞い差し出されたとしても、もはや私にはただただ汚らしく映るだけだ。
人に乞いながら”私を救わない人間は総じて理解のない人間だ”と見下してさえいる、そんな傲慢な人間に神父がかける言葉はない。
空しささえ覚えるほど、赦しを与えても与えなくても彼女には同じことなのだ。
だから私は沈黙を守ることに決めた。
それでは彼女は満たされないと分かっていても、私が彼女に与えられるものなど飢え以外存在しない。 たとえどんな言葉を与えたとしても、彼女はきっとひもじいままだろうから。