第1章 雨の日の記憶
冷たく重い雨が、空ごと押しつぶすように降り続けていた。
空気ごと世界を滲ませるように、細く冷たい雨粒が地面を叩く。
病院の待合室の窓から、歩道を行き交う人々をぼんやり眺めていた。
透明なビニール傘と、ところどころに混じる黒い傘。
濡れたアスファルトには、滲んだ影がゆっくり流れていく。
雨の日は、いつも彼女を思い出す。
いや、思い出すというより、心の奥から勝手に引きずり出される。
彼女が命を絶ったと知らされたのも、こんな雨の日だった――その事実を突きつけられた瞬間から、ずっと。
彼女の死に方は、知らない。
彼女の父親は、まるで断罪するように言った――「もう二度と関わらないでほしい」。
それだけだった。
葬儀にも呼ばれなかった。
最後の言葉も、理由も、知らされることはなかった。
死んだと聞かされたあと、彼女の家を訪ねようとした。
けれど、そこにあったはずの家は、もうなかった。
表札も、カーテンも、見慣れた玄関灯も消えていて、別の名前のポストだけが、そこにあった。
家族ごと、どこかへ引っ越していた。
そこでようやく、本当にもう彼女には届かないのだと、いやでも思い知らされた。
現実を受け入れるしかなかった。
だから、僕の中で、彼女の死は何度も姿を変えた。
線路の端に立ち尽くす彼女。
川の冷たい流れに呑まれる彼女。
静かな部屋の片隅で、独り、息絶える彼女。
どのイメージも、作り話だとわかっている。
でも、それは現実と区別がつかないほど生々しかった。
目の前に、本当に彼女がいるように感じた。
そのたびに、心臓が分厚い何かに押し潰されるように重くなった。
逃れられない圧力が、胸の奥深くからじわじわと広がっていく。
呼吸が浅くなり、手足の感覚が遠のく。
全身が、重い泥に沈むようだった。
そんなときは、処方された錠剤を取り出すしかなかった。
震える手で小さな薬を掴む。
湿った指先に錠剤が吸い付く感覚。
ぬるい水で、無理やり飲み込む。
喉を通る感触だけが、生きている証のように思えた。
それから、ベッドに横たわる。
ただ、楽になるのを、何も考えずに待つしかなかった。
頭の奥では、また別の死のイメージがゆっくりと立ち上がる。
押し寄せる、雨のにおいと、冷たい空気と一緒に。
二年以上、僕はその繰り返しの中にいた。
忘れられるはずがなかった。
癒えるはずもなかった。
季節が巡っても、雨の日が来るたびに、彼女は違う形で僕の中に死を刻んだ。
雨音が、心の奥に沈んだ絶望をかき混ぜるように響いていた。
その時、呼び出しの声が聞こえた。
立ち上がりかけた僕の前を、母が横切った。
「少しだけ話してくるから、待ってて」
母の声は沈んでいた。
その背中は、濡れたコートのせいだけではなく、何か重いものに押し潰されているように見えた。
しばらくして、診察室の扉が開き、母が戻ってきた。
「待たせたわね」
母は濡れたコートの襟を掴んだまま、僕の隣の席に腰を下ろす。
二人の間に、重たい沈黙が流れた。
雨音だけが、待合室の窓を叩き続けている。
「陸久……」
母がゆっくりと口を開いた。
その瞳は伏せられている。
「……お医者さんがね。記憶を消す治療があるって。陸久の苦しみを、なくせるかもしれないって」
声は落ち着いていたが、無理に冷静を装っているように聞こえた。
「記憶を……消す?」
僕の胸の奥で、何かがひどく軋んだ。
彼女のことを忘れる。彼女との日々を、消してしまう。
思い出が消えたら、彼女は僕の中から完全にいなくなる。
でも、それで僕は救われるのか?
それとも――
彼女のことさえ忘れてしまえば、僕はもっと深い空白の中で溺れるだけじゃないのか?
母は一度だけ深く息を吐いた。
まるで、心の中に溜まったものを吐き出すように。
「……そう。先生は言ってたわ。二年以上続くPTSDで、普通の治療では回復しない場合……トラウマの記憶を消すことも一つの選択肢だって」
「前は研究段階の治療だったらしいんだけど、最近の治験でようやく安定した結果が出て、条件付きで実際に行われるようになったって……」
母の指が、コートの襟を握りしめる。
その指先が白くなっている。
「でも……」
母の声が少しだけ揺れた。
「記憶を消したら、陸久の中から、彼女のことは、全部……なくなってしまうの」
僕は、喉の奥が詰まる感覚を覚えた。
希望と絶望を同時に抱え込むような、重たい扉が、目の前に静かに立ち塞がった気がした。
「……そんな方法があるなら、試してみたい。だけど……本当に、それでいいのかな……」
雨音が、静かに耳を打ち続ける。
忘れたい。
けれど、忘れたら――彼女が死んでしまう気がした。
僕の中で、二度目の死を迎えるような感覚。
母はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、濡れたガラスのように光っている。
「私はね……陸久がこのまま苦しむなら、忘れてくれた方がいいって思うの」
言葉の最後に、微かに声が震えた。
それでも、母の視線はしっかりと僕を捉えている。
僕は、答えられなかった。
その視線が、あまりにもまっすぐで、あまりにも重かったから。
窓の外では、雨が止む気配はなかった。




