花の名前を覚える頃
世界は、まだ何も知らなかった。
空はいつも通り青く、
夜には星が遠く瞬くだけで、
それ以上でも、それ以下でもない。
この頃のミナは、
名もない村で、
名もない日々を生きていた。
それは、
誰の記憶にも残らないような、
けれど確かに存在した――
ごく普通の幼少期の話。
ミナが言葉を覚え始めた頃、
彼女の世界は、とても狭かった。
家と、庭と、
母の声が届く範囲。
それで、十分だった。
朝になると、母はミナを膝に乗せ、
擦り切れた一冊の絵本を開いた。
何度も読まれ、何度も撫でられた本だった。
「これはね、星のおはなし」
母はそう言って、
空から光が降りてくる絵を指さす。
ミナはまだ“星”をよく知らない。
けれど、そのページを見ていると、
胸の奥が、ふわりと温かくなる気がした。
「きれい」
そう言って、
指で光の描かれた部分をなぞる。
その瞬間、
母は小さく息を吸った。
なぞられたページの端に、
描かれていないはずの小さな花が、
淡く浮かび上がっていたからだ。
母は何も言わなかった。
絵本を閉じ、
ただミナの頭を撫でた。
「ミナはお花がすきなのね」
ミナはこくりと頷く。
庭に出ると、
ミナはよく地面を見つめていた。
踏まれて折れた草、
誰にも気づかれない小さな芽。
ミナがしゃがみ込み、
そっと指を伸ばすと、
翌日には、そこに花が咲くことがあった。
理由は分からない。
ミナ自身も、ただ嬉しかっただけだ。
「咲いたね」
それだけで、笑った。
村の人々は、
それを“偶然”だと思うことにした。
子どもは不思議なものだ、と。
ミナが熱を出した夜、
母は眠る娘の手を握りながら、
何度も祈った。
すると翌朝、
ミナは何事もなかったかのように目を覚ました。
枕元には、
季節外れの小さな花が一輪、咲いていた。
母はそれを摘まず、
そっとそのままにした。
この子は、愛されているのね
そう信じたかった。
ミナは今日も、
花の名前をひとつ覚える。
この時間は、
二度と戻らない。
力も、星も、運命も、
まだこの子には触れていない。
ただ、笑って、転んで、
泣いて、眠るだけの日々。
けれど人は知らないだけで、
「何も起きていない時間」こそが、
一番大切な伏線になることがある。
空が変わる、その日まで。
この世界は、まだ静かだ。




