海の向こうへ
僕が引っ越してきてすぐに、この海の町で生まれ育った君と出会った。
初めて住む海の町。店もほとんどなく、町にも学校にもなかなか馴染めなかったけれど、「海が好き」だと君が言ったから、僕はそんな君と海が好きになった。そしてこの町も。
君には海がよく似合った。
「海から生まれたの」と君が友達とおどけてみせたそんな冗談も、僕には本当のことに思えた。
けれど、僕が君を好きになるたびに、君は僕のそんな心を知ってか知らずか、ますます海を好きになっていった。
そして、海に魅入られた君は、僕の知らない間にひとりで海の向こうへ行ってしまった。
僕は町を出た。久しぶりに戻った海のない都会の街は、とても味気ないものだった。
毎日潮風を浴びて潮の染み付いていたこの身体も、徐々にホコリのにおいにまみれていった。
どちらの暮らしがいいかと問われて、一概に答えなんか出せるわけがないと思っていたが、ふとした時に海の町との違いを探して、無理にでも向こうの方がよかったと思い込んでいる自分がいた。
そして、海の好きだった君の面影を忘れかけた頃、僕は初めて海の町に戻ってきたのだった。
まだ午前中だというのに、うだるような暑さだった。都会ではあまり聞かなかった蝉がたくさん鳴いていた。
町の中心地は再開発ですっかり綺麗になり、どこかよそよそしい感じがしたが、バスのロータリーだけは昔のままだった。
塗装し直されて病院の広告が描かれたバスを見送り、明るい灰色の防波堤を横目に歩いていくと、やがて港に辿り着いた。
ひしめくように係留された漁船が水の動きに合わせてぎしぎしと音を立て、白く塗られた船体からにじみ出す油のにおいが鼻の奥を刺激した。
釣り人が捨てていった小魚がコンクリートの上で干からびていたから、僕はそれを指でつまんで海へ投げ入れた。
コバルト色の小魚が何匹か寄ってきたが、食べられないものだとわかるとすぐに逃げていった。
「そこでなにしてるの?」
少しトゲのある声に振り向くと、黒い日傘を差して、怪訝そうな表情をした女性がいた。僕と同じか少し年上くらいだろうか。手にしたリードの先には茶色のミニチュアダックスが繋がれ、同じようにこっちを見ている。
僕は何も悪いことはしていないつもりだったが、「すみません」と反射的に謝った。
そして彼女の顔をあらためて見た時、一瞬、ここにいるはずのない君に似ている気がした。
「あ、そういうつもりじゃないんです」
と彼女はあわてた様子で言い、そして僕が見ていた水面を見ながら、
「今の時間、こんなところに人がいるのが珍しくて、ほんとにただ、何をしてるのかなと思っただけで……」
と続けて言った。
「ちょっと魚を見てたんです」
僕は正直に答えた。
「魚?」
彼女は僕の隣に来て、あらためて海を覗き込んだ。
「はい。さっきは青い魚がいたんですけど、もう逃げちゃいました」
僕が言うと、「そうなんだ」と彼女はずいぶん残念そうだったが、今度は、
「魚、好きなんですか?」
と聞いてきた。
「魚というより、海が好きなんです」
「海が好き」と口に出した時、僕の頭の中には、君の姿がふっと思い浮かんできた。
「わたしも海は好きですよ」
僕はその言葉にはっとして、彼女の顔を見つめてしまった。彼女は何も言わなかったが、少しびっくりしたような顔でこっちを見たから、不審がられたかもしれない。
だから、僕は今日ここに来た理由のひとつを、まるで今思い出したかのように言った。
「そうだ。クラシックヨットがこの港に来ているはずなんですが、知りませんか?」
「ヨット?」
彼女は一瞬考えていたが、すぐに思い当たったようで、
「あ、あれかな? あそこにあるやつじゃないですか? そういえば誰かそんなこと言ってた」
と港の向こうを指しながら言った。
そこには、漁船が並ぶ先にひときわ背の高いマストだけが見えた。
「たぶんあれです。有難うございます」
「珍しいんですか?」
彼女はリードをたぐり寄せ、日傘を持ったまま犬を器用に抱き上げて言った。
「実は僕もよくは知らないんですけど、とても古くて綺麗なヨットで、たまたまこの港に寄ってるらしいです」
「へぇ、わたしも見てみようかな。ラテ、行ってみようか?」
彼女がそう犬に話しかけると、犬はうれしそうに腕の中でしっぽを左右に振った。
港の先には金網が張り巡らされた一区画があり、関係者以外は立入禁止になっていて、出入り口には鍵が掛かっていた。
仕方なく僕たちは金網に沿って歩いていくと、手前には陸揚げされたヨットが並び、船が一艘ずつ等間隔で停泊している桟橋の先に、他の船とは明らかに雰囲気の違う船があった。
「ちょっと遠いけど、たぶんあれですね」
僕たちは金網の網目から覗きやすい場所を探し、それぞれ目を凝らして見ていた。
その船の中心からは背の高い一本の棒がそびえ立ち、なめらかな曲線を描く船体からは、例えばタイタニック号のような昔の豪華客船をそのまま小さくしたような気品が感じられ、まるで真っ青な空を背景に描かれた芸術作品を見ているようだった。
「他の船とは雰囲気が違うのね。色もシックだし、上品そうっていうか、やわらかいっていうか……」
「あの船は木造らしいですよ。だからそんな雰囲気があるのかもしれないですね」
「そうなんだ。これって日本の船なんですか?」
「いえ、海外の船で、何かのイベントのためにたまたまこの港へ寄ったみたいですよ」
「へぇ、こんな船であの子のいる海の向こうへ行けたらな……」
「あの子?」
「いえ、こんな船に乗って海を旅できたら楽しそうだと思って。わたし、そろそろ帰りますね。教えてくれて有難うございました。行こ、ラテ」
彼女は軽く頭を下げて、犬に引っ張られながら小走りに去っていった。
僕は港の近くで見付けたコンビニでおにぎりとペットボトルのお茶を買い、もう一度海岸へ戻ってきた。
日陰を探して座り、昆布のおにぎりのフィルムをはずすと、海苔が綺麗に取れてちょっと嬉しかった。次のシーチキンは失敗だった。
海岸沿いの道路を歩いてみた。潮風が吹き、ホコリにまみれた身体を洗い流してくれるようだった。道路の下からは、たぷんたぷんと波が岸壁へ直接押し寄せてくる音が聞こえてきた。
日差しがとても強かったので、これ以上あてどなく歩くのはやめて、海岸から少しだけ離れたビジネスホテルに向かった。
ロビーは冷房が効き過ぎるくらいよく効いていて、空気の淀んだ部屋の蒸し暑さが逆に気持ちよかった。
窓を開けると、潮の香りが風に乗って流れてきた。
僕はそのままベッドで眠った。
ホテルの近くの定食屋で夕飯を食べた。海の近くなのにメニューは肉料理が多く、しょうが焼き定食を頼んだ。濃い味付けでしょっぱかった。
僕は店を出てホテルには帰らずそのまま海へと向かった。
日が沈むと昼間の暑さが嘘のようで、潮風は夏の盛りが過ぎたことを教えてくれた。
街灯もまばらになり、気休めのように植えられている防風林の間の道を抜けると急に波の音が大きくなった。空は真っ暗だった。足元から続く砂浜の向こうに、ぼんやりと光る波打ち際が見えた。
僕は砂に足を取られながら、波に引き寄せられるように近付いていった。
波が寄せてくるたびに波の形のままにきらきらと青白い光が残り、しばらくするとふっと消える。それをいつまでも繰り返していた。
僕はしゃがんでその光を見ていた。
「海蛍よ」
その声にびっくりして後ろを振り返ると、いつの間にか人がいた。
「なんだか胸騒ぎがして来てみたら、昼間に会った君だったのね」
彼女は犬は連れていなかった。
「あ……ちょっと夜の海が見たくなって……」
「わたしもそう。それにしても、こんなにたくさんの海蛍なんて初めて見た。海全体が光ってるみたい」
僕は立ち上がり海を見渡した。さっきまでは波打ち際の光しか目に入っていなかったが、彼女にそう言われてあらためて見てみると、月の光もない暗い夜空の下、海全体がぼうっと青白く光っているようで、沖から寄せて砕ける波頭も青白く光っているように見えた。
「この砂浜は妹とよく来たのよ。それこそ数えられないくらい。夜に来たことも何度もあったわ……」
「妹さんと?」
「ええ……」
彼女はそれだけ言って話すのをやめたが、「あれ、船じゃない?」と突然つぶやいた。
「え? 何も見えないけど」
「ほら、あそこ。ちょうどあの岩のあたり」
「……ほんとだ」
ゴツゴツとした大きな岩のシルエットから、三角に帆を張った船の形がはっきりと浮かび上がってきた。
ひょっとして昼間に見たヨットかもしれない。僕はそんなことを思った。
「でもこんな夜中に?」
その船は、青白く光る波をかき分け僕たちの方へ音もなく近付いてきたかと思うと、今度は一本の青白い航跡を残しながら暗い水平線へ向かって滑るように遠ざかっていった。
僕たちは何も言わず、ただ立ち尽くして船を見ていた。繰り返す波の音だけが耳に響いてくる。
「あんな風に海の向こうへ行けたらいいですね」
僕は昼間の彼女の言葉を思い出し、気付いたら口にしていた。
そして横にいる彼女を見ると、その横顔は僕が好きになった君そのものだった。
「そうね。でも、もう行っちゃったわ……あのこひとりで……」
彼女の口から寂しそうなつぶやきが漏れた。
君は今どこにいるのだろうか。
あの水平線の向こうに行けば会えるのだろうか。
「わたしたちみんな海から生まれたのよ。だから海が好き」
彼女はそんなことを言った。
「僕も好きです」
船の消えた暗い水平線から、小さな金の粒がいくつもきらめきはじめ、それは夜空一面に広がった。