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婚約破棄された令嬢は、高らかに笑う


「エレノア様ー……!」


 民からの見送りの声に、エレノア・テオドールは、笑顔で応えた。やわらかに顔の近くで手を振ると、周囲の歓声は一層高くなる。


「――相変わらず、素晴らしい人気で」

「からかわないでちょうだい、アイン」


 側近のアインの言葉に、エレノアのささやき声に、はにかみが宿った。それでも笑顔は崩さず、皆の声援に時間の許す限り応える。

 視察の間中歓待してくれた、領主や民たちに、心から謝意を述べ、エレノアは馬車に乗った。


「アイン、馬車はゆっくりにお願いね」

「はい。いつもどおり。車夫も心得ていますよ」


 皆、エレノアとの別れを惜しみ、馬車のあとを追いかけてきてくれるものもいる。彼らを傷つけない為、いつも馬車は、ゆったりと進むのだ。

 ありがたいことだわ、エレノアはあたたかな気持ちになる。過信せず、彼らの気持ちに応えられる令嬢でいなくては、エレノアは気合いを入れなおした。


「お嬢様、お疲れ様でした」

「ありがとう、アイン。新しい侯爵様はとてもやり手ね?」

「はい。特に孤児院が素晴らしかった」

「そう!お前はわかっているわね」


 打てば響く返しに、エレノアは嬉しそうに頷いた。


「侯爵様には、千の目があるかのようだったわ。お父様にも報告しなくては……そうだ、また時間をとってくださる?私もわが領の孤児院を見に行きたいの」

「そうですね。ですがまずはお休みください。長い視察をようやく終えたのですから」


 アインの言葉に、エレノアは「あっ」と小さく息をのみ、口元をおさえた。

 各領地への視察も兼ねた挨拶は、王太子の婚約者としての公務だ。長旅を、皆よく力を尽くしてくれた。

 まず、皆のねぎらいが大切だったのに、私ときたら。

 エレノアはアインに感謝する。四歳年上のこの青年は、エレノアの至らぬところをよくサポートしてくれるのだ。


「そうね、ありがとう。まずは休んで、それからね」

「そうなさってください」


 エレノアは、少し居住まいをくつろげた風に変える。アインが自分のことも心配してくれているのがわかるからだ。目があうと、にこりとほほ笑んだ。


「アイン」

「何ですか」

「頼みがあるんだけれど、いいかしら」


 さっきの流れで言うのは少しばつが悪いが、これはどうしても叶えてほしいわがままだった。うかがうと、アインは「ものによりますが」と、ことのほかあっさりと頷いた。


「領に帰る前に、寄ってほしいお店があるの」

「お店ですか」

「ええ。魔法花蜜をふんだんに使った焼き菓子とヌガーのお店らしいんだけど」

「ああ……王都でささやかれだしたところですか」


 店の名前を聞いて、アインは得心がいったようにうなずいた。エレノアは「そうなの」と返す。


「ぜひ、殿下とフィリーと一緒にいただこうと思って」


 エレノアはそう言って、胸の前で両手を重ね合わせた。

 殿下とフィリーとは、シリウス王太子殿下と、オフィーリア侯爵令嬢と言って、エレノアの婚約者と幼馴染だ。

 無二の親友である二人と、久しぶりに会うことができる。何かお土産を買いたいのは、必然の気持ちだった。


「おふたりに、ですか」

「ええ。ふたりはお菓子に目がないでしょう?今度こそ唸らせるものだといいんだけど。好みの味なら、言うことなしね」


 言いながら、すでに二人とのお茶会が、脳裏に浮かんできた。気持ちが弾むままに話していると、アインが「お嬢様のお目当てはないのですか」と静かに言った。エレノアは目を微かに瞬かせる。


「ようやくできた休みなのですから、お好きなものを召し上がればよろしいのに」


 アインの言葉に、エレノアは首を傾げた。

 それから笑みを深める。また自分のことを心配しているのだ。この優しい側近は。エレノアは懸念を吹き飛ばすように、笑って見せる。


「たまの休みだからこそ、好きな人の笑顔が見たいのよ」


 アインは少し顔を曇らせた。その様子に、エレノアは不思議な心地になる。


「……そうですか」

「そうよ。お前にはわからない?」

「わかっていますとも」


 ――お嬢様より、よほど。

 エレノアはアインを見つめる。最後の方は、よく聞き取れなかった。けれど、アインはこれ以上何も言う気がないようだ。

 まあ、いいか。アインが心配性なのは、いつものことだもの。

 エレノアは馬車越しに、外の空を思う。


 早く会いたい。

 色んなお土産話もあるし、何より聞きたいことがたくさんある。公務は楽しいけれど、二人に会う時間がとれないのは、とてもさみしい。

 会えない間、何を考えていたの、何をしていたの?たくさん聞きたいわ、二人の言葉で。

 待ちきれない思いでいると、ふいに馬車が大きく揺れた。「あっ」と、わずかに身を乗り出したところを、アインに支えられる。


「大丈夫ですか」

「ええ」


 アインが車夫に尋ねる。車夫は、


「申し訳ございません。何もなかったのですが……」


 と言った。「何もなかった」その言葉に、エレノアは、何故か少しだけ、胸がさわいだ気がした。



 ◇


「公爵令嬢、エレノア・テオドール!君との婚約をここに破棄する!」


 大広間で、シリウスの声が響き渡った。どよめきが起こる。

 エレノアは、目を見開いて、ただ自分の婚約者を見ていた。

 シリウスは厳しい表情で、エレノアを睨んでいる。このような顔は見たことがない。呆然とする頭で、なぜかそんな言葉だけが明瞭に浮かんだ。


「君が立派な振る舞いをする裏で、オフィーリアをずっと苦しめていたことは知っている。オフィーリアに謝罪したまえ!」


 そう決然と言い放ち、シリウスは、傍らのオフィーリアの肩を、庇うように引き寄せた。オフィーリアはシリウスの胸に身を寄せながら、こちらを横目で見ていた。その目の暗さと鋭さに、エレノアは息をのむ。オフィーリアはすぐに目をそらし、殿下を見上げた。


「殿下。私、平気ですから……」

「駄目だ!君はそう言って、いつも我慢するじゃないか」


 二人は真剣な面持ちで、互いを見つめ、慮っていた。それは恋人のように、甘い仕草だ。そこまで思って、エレノアは、視界がくらりと回るのを感じた。

 しかし、それでも表向き、エレノアは平静を保っていた。それは彼女の長としての習い性といっていい。彼女の頭は、実際は棒でかき回されたようにぐちゃぐちゃだった。


 なんなの?これは、いったいなにがおこっているの?


 視察から帰ってきたエレノアは、報告の為、王都にすぐ、はせ参じた。謁見を終えたところ、「シリウス殿下がお呼びです」との言葉を聞き、大広間にいそいそと向かったのだ。

 そうしたら、シリウスがいて――傍らにオフィーリアを伴っていて――それで、先の言葉を、突き付けられた。

 なにがどうなっているというのだろう?


「皆が、私たちの証人だ!言い逃れはできないし、皆が君の言葉を覚えるぞ!」


 シリウスの言葉通り、大広間には、なみいる貴族が許す限り、集められていた。周囲はざわめきたっている。倒れ込みそうな動揺の中、エレノアの令嬢としての部分と、平静を保とうとする意識が、彼らの顔を見させた。彼らは戸惑いを隠せないというように、こそこそと視線を交わしている。

 そのいかにも落ち着かない様子に、かすかな疑問が起こる。


 ――彼らは、納得ずくのことではない?


 エレノアが思い至ると同時に、シリウスが、しびれを切らし、叫んだ。


「謝罪したまえ、エレノア!」

「殿下、いいんです、もう。お気持ちで十分ですから」


 オフィーリアが涙ぐみながら、シリウスを制する。悲し気に、無理に浮かべた笑顔は、こんな時でも痛々しく見えた。エレノアが、親友の涙に思わず言葉をのむ。

 シリウスは、オフィーリアの涙をぬぐい、じっと見つめた。それから、エレノアに向き直る。


「破棄だ、エレノア!そして、私はオフィーリアと結婚する!」


 ――こんなに、情熱的に人を見る方だったのね。それに、フィリーのあんなに嬉しそうな顔、見たことない。

 痛みさえなくなるほど、痛くなった胸が、息を止めそうだった。

 けれども。

 エレノアの背にもまた、視線が投げかけられていた。彼らの視線を受け、エレノアは凛と、背筋を伸ばす。


 ここで終わるわけにはいかない。


 そうして。

 ――エレノアは、高らかに笑いだした。


 ◇


「なっ……!」


 シリウスが目を見開くのにも構わず、エレノアは笑い続ける。歌うように優雅で、華麗な声は、大広間の困惑の空気を涼やかに霧散させた。


「殿下ったら、嫌ですわ。相変わらず無茶をおっしゃるんですから」


 そうしてエレノアは、笑みの残る声音で言った。恥じらいと親しみをにじませた微笑を、殿下に投げかける。その笑みは、困った婚約者を見つめる愛情に満ちていた。


「この間、フィリーと私がケンカなさったことに、胸を痛めておいででしたのね?」

「なっ……」

「こうして皆の前で仲裁なさろうとするなんて……本当に友達思いなのですから」


 エレノアは穏やかに、しかし堂々と言い切った。

 殿下への信頼と安堵に満ちた力強い声音に、皆が「おお……」と意気を取り戻す。そうして、口々に声を上げだした。まずあがったのはテオドールの派閥の貴族たちからだ。


「そうだったのですね。なんと殿下は、心優しい」

「なっ」


 シリウスが目を見開く。


「なんと、若々しい、心ときめくやりとり。こうして見届けることができ、光栄にございます」


 一度口火を切られ、流れだした途端、他の貴族たちも次々に、続いた。


「ええ。何よりお三方の絆、胸が熱くなりました」

「若いエネルギーを感じました。いや、未来は明るい」


 皆、一様に、エレノアの言葉に乗じた。

 シリウスとオフィーリアが唖然と目を見開いている。その顔を、皆、見えていないふりをしていた。各々が顔を見合わせ、楽し気に「若き日を思い出します」と盛り立てる。


 彼らの様子を背に受けながら、エレノアは心中、深く頷いていた。


 そう、それでよろしいのよ。


 シリウスが本気で宣言したくらい、皆わかっている。

 だが、テオドール公爵家への婚約破棄――そしてそれを、シリウスが根回しもなく、宣言した。これは、由々しき事態だ。

 テオドール公爵家の国に与える影響は大きい。一方的な婚約解消――破棄などもってのほかだ。下手をすると、内乱を招く。

 それを皆、理解しているから、国の為、エレノアの「嘘」をとった。それだけのことだ。


 殿下に応えられぬことに、いくばくかの寂寥を抱く。――しかし、どんな時でも、自分は派閥の者と――国に尽くさねばならない。体に通る令嬢としての矜持が、芯となりエレノアを支えていた。


「違う、私は――」


 シリウスは混乱した様子で、辺りを見渡した。不安げにさ迷う視線がとらえたのは、何故かエレノアだった。エレノアはにこりと微笑する。シリウスの白い面が真っ赤に染まった。


「おお、息子よ。何をしておるのだ?」


 宰相を伴って、大広間に国王が入ってきた。


「陛下!」


 皆、一様に礼をとる。国王は急いでやってきたのだろう。その秀でた額には、薄っすらと汗が滲んでいた。しかしそれをおくびにも出さず、笑みを浮かべる。


「エレノアをねぎらうと言っていたではないか。そのために皆も集めて……まったくお前は相変わらずおっとりとしている」


 シリウスは呆然としていた。エレノアは、「まあ」と驚きの声を上げる。


「そうだったのですね。殿下、ありがとうございます」


 そう言って、嬉しそうに笑って見せた。国王も安堵した様子で、エレノアに、にっこりと笑みを返す。


「ご苦労だったぞ、エレノア。――さあ、早くせよ!」


 国王の号令に、周囲が「おお」とわき立つ。音楽団が、曲を奏でだした。


「なんと殿下、お優しい」

「エレノア嬢、お帰りなさいませ!」


 皆の明るい声が飛び交う。皆がエレノアのもとへ行き、言葉をささげた。エレノアはそれをあたたかな微笑でもって受け、また感謝の言葉を返す。

 シリウスとオフィーリアだけが、身を寄せ合って呆然としている。しかしそれさえ、許さぬように、国王は彼らにも、エレノアへの言葉を求めた。


「……よく帰った。エレノア」

「お帰りなさい……」


 吐き出された、彼らの声は、空虚だった。エレノアは、「ただいま帰りました」と答えた。

 笑みを崩さぬように、全身に命じながら。



 ◇


 いったいなんだ?何が起こっているというんだ。

 自分たちのねぎらいに、ほほ笑むエレノアを見て、シリウスは呆然としていた。傍らの、オフィーリアを見る余裕さえない。けれども、彼女も同じ気持ちであることは、そのふわふわとした気配からわかった。


 一世一代の勇気を、覚悟を、冗談にされた。自分の決死の婚約破棄の言葉を、「くだらないケンカの仲裁だ」と……。

 なぜそのようなことができるんだ。

 信じていたのに――シリウスは拳を固く握りしめた。


 シリウスとオフィーリアが恋仲になったのは、つい最近だ。ちょうどエレノアが視察で遠くに行ったので、互いに積年の片思いを打ち明けたのだ。


「夢のようです。殿下に思いを受け入れていただけるなんて」


 オフィーリアはいじらしく泣いた。「自分など、エレノアのおまけですから」と、自分を見下げるオフィーリアに、胸をつかれるような思いがした。


「おまけなどではない。君は素晴らしい女性だ」

「いいえ。私など、エレノアに比べたら……皆思っていますもの」


 何度シリウスが肯定しても、オフィーリアは否定し続けた。「自分などつまらない存在だ」と。それほどに、エレノアがオフィーリアに落としてきた影は大きいのだと、改めて痛感した。

 いつも所在なげに、エレノアの傍に控えていたオフィーリア。ときどきエレノアにわがままを言うことでしか、愛情を確かめることができない、哀れな女。どうしようもないが、好きだと思った。認めたくはないが、エレノアと共にいて、息のつまらない人間などいないからだ。

 優しく、立派で、皆に慕われる。シリウスにとっても、ずっとコンプレックスの対象だった。エレノアは困ったとき、いつでも何とかしてくれる。エレノアになんでも頼っておけばいい。それはわかっている。自分は王になるのだから、そうやって使ってやればいい。

 そうは言っても、「まるでエレノアが王のようだ」と思う気持ちもある。何故なら、自分だって人間で、能力に自負があるからだ。

 エレノアは、自分たちになんの苦労もないという顔で、いつも骨を折ってくれた。それが、どれだけ人の矜持を傷つけるかも知らず……。


「殿下とフィリーの笑顔を見ると、とても幸せな気持ちになるの」


 おためごかしはいらない。オフィーリアと自分が、鼻白んでいることさえ、気づかないのだから。


「エレノアは私を傷つけているんです。いつも笑顔で、いいことをしてるって、感謝を強要して……表向き、立派なことをしていれば、ああして傷つけてもいいなんて、卑怯ですよね。狡猾なことに、気づかないんです」


 オフィーリアのことが好きだ。彼女の弱さは、自分を強くしてくれる。彼女の弱さを守ってあげようとする自分を感じられる。

 だから、彼女に自信をもたせてあげようと思った。自分の愛を信じない、彼女のために。

 皆の前で、オフィーリアの望むようにエレノアを糾弾して、「オフィーリアを選ぶ」と言ってあげれば、オフィーリアは私に感謝して、愛を受け入れてくれるだろう。

 エレノアには、少し手痛いことかもしれないが、彼女にとってもいい薬になる。聡明なエレノアは、私の意図くらい、すぐに気づくだろう。


 そう、思っていたのに。

 エレノアは、自分の言葉を相手にすらしなかった。今もまた、気持ちを慮らず笑みを浮かべ……


「やはり、エレノア嬢は素晴らしい」


 誰かのささやきが耳に届く。聞こえないと思ったのか、愚か者め。

 認めたくなかったが、エレノア……君は狡猾な人間だ。賢く立ち回ったつもりなら、君は人として大切なものを失っている。君はのぞみ通り、称賛をえたかもしれないが、わすれないことだ。

 私とオフィーリアの友情を、信頼を損なったことを。


 人の輪から外れ――シリウスはじっと、優雅に笑うエレノアを睨んでいた。


 ◇


 エレノアが、テオドール邸に帰ってきたのは夜だった。


「お嬢様」

「アイン。待っていてくれたのね」


 出迎えてくれたアインに、エレノアは笑みを浮かべる。その笑みには、隠しきれない疲労が、かすかに滲んでいた。

 アインは何も言わなかった。エレノアはそれに感謝する。部屋に向かうと、アインは静かに後をついてくる。


「ありがとう。でも、さすがに疲れたから、もう休むわ」

「……お嬢様」

「お前もお休みなさい。……ご苦労様」


 振り返ることは、できそうになかった。両拳を体の横で、固く握りしめ、気丈な声を出した。アインは、静かに歩みよってきた。かすかに、こちらに知らせるためだけの、優しい足音を立てて。


「明日、孤児院に行こうかしら」


 アインの足を止めたくて、咄嗟に出た言葉だった。思ったより上ずってしまった声をごまかすように、エレノアは続ける。


「時間があいたの。ああ、でも突然訪れてはいけないわね」


 笑いながら、打ち消す。我ながら唐突で、急いた話し方だ。

 でも、アイン、こちらに来ないで、とエレノアは一生懸命だった。抑えた声が震える。


「そう、お菓子も……皆で食べてって伝えておいて」

「エレノア様」

「アイン、一人にして。……お願いよ」


 エレノアの声に懇願が混じった。これ以上は、堪えられそうになかった。

 アインが、こちらに手を伸ばし――それから、引いてくれたのがわかった。それから、静かに部屋を出て行く。

 扉の閉まる音が響く。けれども、去らない気配に、エレノアは苦笑した。

 本当に、心配性なのだから。

 下手な笑みに震えたエレノアの頬に、涙が伝った。ずっと堪えていた涙が、あとからあとから、エレノアの瞳から流れ落ちた。


 ――どうして?


 思わずこぼれでた問いに、胸が刺すように痛んだ。嗚咽が漏れそうになり、口元をおさえた。息を殺そうとするほど、下手な泣き方になる。

 馬鹿ね、エレノア。泣き方も知らないの?

 自分を叱咤する声でさえ、弱弱しかった。部屋の中、エレノアの細い泣き声だけが、あたりに響いていた。



 ◇


 それから。

 エレノアは、シリウスとの婚約を解消した。

 破棄ではなく、円満な解消となるよう、王家と公爵家はすりあわせた。テオドールが王家の為に得た隣国との交易権は、そのままテオドールのものとなった。


「本当に、考え直してはくれぬか?」

「もったいないお言葉、光栄です」


 エレノアは、国王の言葉に笑みを浮かべた。彼の言葉には、利益惜しさからではなく、エレノアへの純粋な親愛の情がにじみ出ていたからだ。エレノアは、かつて養父と見たお方を、慈しみの瞳で見上げる。


「この十年、とても楽しく、幸せでした。これから形をかえても、この国の令嬢として、王家に尽くしていきたいと思います」


 エレノアの言葉に、国王はもう何も言えないらしく、ただ悲しい顔で微笑した。


「ふふ……息子はたいそうな愚か者よ」

「陛下」


 国王の顔には、隠しきれない疲労がにじんでいた。気遣うエレノアに、なんでもない、と首を振って笑う。


「息子への処遇は、まことによかったのか?」

「はい」


 国王の問いに、エレノアは頷いた。


「殿下とオフィーリア嬢。二人が望まれるなら、どうか婚約を許してさしあげてください」


 シリウスとオフィーリア……何故このようなことになったか、今でもわからない。わからないからこそ、決定的なことは、決めたくなかった。父はたいそう渋ったが、自分の意思を尊重してくれた。

 これは逃げだろうか、令嬢として、失策だろうか?わからない。

 エレノアは自嘲を隠し、笑った。


「ありがとう。……私はいっとうの愚か者よ」


 国王の涙と愛に満ちた笑みに、エレノアは微笑する。切なくも、胸があたたかかった。

 そして、美しく一礼をし、その場を後にした。


 ◇


 廊下でシリウスとオフィーリアと行き会う。二人は身を寄せ合うように歩いていた。エレノアを見て、オフィーリアの頬が嫌悪にこわばる。エレノアは、静かに微笑み、礼をとった。


「……勝った気になるな」


 通り過ぎようとした、エレノアの背に、シリウスの声がかかる。振り返ると、二人は見開いた目で、こちらを睨んでいた。


「君は、称賛の代わりに、私たちからの信頼を失った。そのことを忘れるな」


 オフィーリアが「そうよ」と続いた。


「どれだけ人を傷つけたか気づかないんでしょう。いずれ一人になったとき、思い知るわ」


 オフィーリアの目が、涙にぬれる。シリウスがその震える肩を抱いた。エレノアは、黙って彼らの言い分を聞き――そっと目を伏せた。


「たしかに、私は何も知らなかったかもしれないわ」


 エレノアの言葉に、シリウスもオフィーリアも身を乗り出し、「そうだ」と言葉を継ごうとした。しかし、エレノアの方が早かった。


「けれどね、殿下、フィリー。あなたたちがそうして、私に怒っていられるのは、誰のおかげだと思っているの?」


 二人の顔が、半笑いの怒り顔で止まる。それから、信じられないという困惑の顔を浮かべた。


「あなたたちの行いのために、内乱が起こったかもしれないの。ああしていなければ、今頃あなたたちは、縛り首だったかもしれないのよ」

「そんな……」

「見損なったぞ、エレノア!おためごかしにしても……」


 傷つけられたことに怒りだすシリウスとオフィーリアに、笑みを浮かべる。


「王家がどれだけ、今回のことで損失をこうむったか。陛下がどれだけ、殿下のために心を痛め、私に詫びてくださったか。少しも胸が痛みませんの?」

「そんなの、テオドールのせいじゃないの!損失を与えたのは、テオドールだわ!」

「フィリー。あなたのご両親も……あなたのために、何度も訪れて跪いて詫びてくれたわ。どうか娘を許してほしいって」


 エレノアは、静かに二人を見据えた。必死に詫びてくれた人たちの旋毛を思う。


「あなたたちを愛する人たちが、必死で守ってくれているの。それでも、まだ自分のためだけに、怒るの?」

「……ひどいわ!そうやって、正論ごかしに、私を悪者にするのね?お父様とお母様を詫びさせたのはあなたじゃない!止めてくれたら、よかったのよ!あなたこそ、胸が痛まないの⁉私は皆の為に、怒ってるのよ!」


 オフィーリアは真っ赤になって、叫んだ。涙をこぼして、うめいている。シリウスは、オフィーリアを引き寄せた。沈痛な顔をしていた。


「オフィーリア」

「私ばかり、悪いの?エレノアのせいなのに、ずっと傷つけられたのに、どうしてエレノアばかり……!私みたいな人は、きっといっぱいいるわよ……!」

「……私に怒るところがあったなら、今みたいに話してほしかった。こんな大それたことをしないで」


 エレノアの言葉に、オフィーリアは愕然とした顔をする。それからぎりぎりと歯を食いしばった。


「そんなこと、よくも言えるわ!上から、こっちに心がないと思って……!」

「君は、何もわかってない。君が見下す、私たちにも矜持があるんだ」

「あなたなんていなければ……!」


 エレノアは、息をついた。もう、何も言えることはない。なら、最後に一つだけ。


「私は、あなたたちの言葉を、聞きたかったわ。ずっといろんなことを、話したくて仕方なかった」


 まっすぐ、二人の目を見つめた。そして、完璧に礼をとり、背を向ける。

 今度はもう、振り返らなかった。



 ◇



「アイン」


 王宮を出ると、アインが出迎えてくれた。何も言わず、ただエレノアの傍に控える。エレノアは微笑して、歩き出した。

 王宮の見事な庭園を眺めながら、馬車に向かう。ずっと見てきた景色なのに、なんだか違うもののようだった。


 ふと……ある一点に、エレノアの視線が留まる。

 それは、庭園の外れの一本の木だった。

 それを見つめていると、エレノアの脳裏に、幼い日の記憶がよみがえった。


 シリウスが、木の上で泣いている。登ったはいいが、降りられなくなって、困っていたのだ。木の下から、エレノアは呼びかけた。


「大丈夫です、すぐに人を」

「誰もよぶな!ばかだと思われる」


 そう叫んだっきり、シリウスの言葉は、泣き声だけになった。エレノアの隣で、オフィーリアがつられて泣きだした。どうしていいか、わからなくなったのだろう。エレノアのドレスをつかんで、震えていた。

 エレノアは、オフィーリアを見て、それから、シリウスを見上げた。ぐっと体の脇で拳を握り、それから笑った。


「大丈夫です、殿下。私がついています」

「エレノア」

「フィリーも泣かないで。きっと大丈夫よ」


 そう言って、エレノアはオフィーリアに笑いかけ、シリウスに手を広げた――。



「お嬢様」


 アインの言葉が、エレノアを今に引き戻した。アインの切れ長の瞳の中に、エレノアが映りこんでいた。エレノアは、自嘲する。


「あのとき、人を呼べばよかったのかしら」


 さあ、と風が吹いた。エレノアの髪がやわらかに流れる。唇は、習い性のように、笑みをかたどっていた。木にもう一度、視線をやった。


「私が、二人をゆがめてしまったのね」


 私と言う存在が、知らぬ間に、二人を傷つけ、追い詰めていた。彼らがあんなことをするほどに……自分がいない方が、二人は幸せだった?

 俯いて、それでも微笑していた。何故だろう、悲しいのに自分は笑えてしまう。


「ありがとう。もう大丈夫よ」

「お嬢様、」

「孤児院に行きましょう。約束だったでしょう?」


 エレノアは、また歩き出す。アインが、そっと後を追い、傍に寄る。そうして、そっとささやいた。


「あなたは悪くありません」


 エレノアの目が、見開かれる。足を止め、見上げると、アインは静かに、ただいつもの通り、まっすぐにエレノアを見つめていた。


「あなたはただ、お二人が大好きだった。喜ぶ顔が見たかった。それだけではありませんか」


 ざ、と風が吹く。エレノアの胸に、痛みが走った。

 好き。優しいはずのその言葉が、こんなに痛いことを、知らなかった。


「お二人があなたの優しさを憎んでも、それはお二人の心の問題です。なんでもひとりで責任を負おうとしないでください」


 真摯な声音だった。エレノアは、動けなかった。時が止まったみたいだった。こんな目を、かつても見た。鮮明に、呼び起こされる。



「何と無茶な真似をなさるのですか!」


 アインが、強い声で訴えた。あの時、シリウスを木の下でエレノアは、受け止めようとした。すごい速さで駆けてきたアインが、寸ででシリウスを受け止めた。

 アインはすごい剣幕で、エレノアを叱った。アインに叱られたのは、あの時一度だけだ。エレノアの手を握る手は、震えて冷たかった。


「お嬢様には、アインがいます。忘れないでください」


 その時の、真摯なまなざしは、今のアインにぴたりと重なった。あの時、自分はどうしたろう。そう、確か――。


「ありがとう」


 初めて人前で、泣いたんだった。

 忘れていた遠い日のこと。なのに、どうしてこんなにも、鮮明だろう。

 エレノアは、笑った。涙が、零れ落ちそうになるのを、顔をあげて堪えた。そっと顔を覆って、目頭をおさえた。

 変ね。悲しくないのに、涙が出るなんて。テオドールの令嬢たるものが、動揺を見せるなんて。なのに、心は何故、こうも温かいだろう。


「私は変わりません。出会ったときの心で、ずっとお嬢様のお傍にいます」


 アインの言葉に、エレノアはただ、頷いていた――。



 しばらくして、エレノアは手を外した。その顔には、いつもの笑みが戻っている。


「なんだか、すっきりしたわ。ありがとう、アイン」

「いえ」

「遅くなっちゃったけれど、今から孤児院に向かえる?」

「はい」


 そう言うが早いか、アインは、歩き出した。エレノアは、虚をつかれ、その背を見送った。それから、慌てて後を追いかける。


「待って、アイン」


 呼ぶより早く、アインは歩調を緩めてくれていた。そして、すっと手を差し出した。その唇に、微笑を浮かべて。

 ――お前は、そんな風に笑うのね。

 大きな手に包まれ、エレノアは、自分が知らず手を差し出していたことに気づいた。エレノアも唇もまた、自然にほころんでいた。


 テオドールの馬車の脇に、車夫が待っている。

 さわやかな風が、二人の影の上を、静かに過ぎて行った。


 了

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― 新着の感想 ―
まぁ婚約を許して欲しいとは言ってもそのままでいいとは言ってないし、 周りがみんな分かってる以上臣籍に下るだろうな······
友情を壊したのも、信頼を失ったのも、人を傷つけたのも、浮気者2人なのに…。 酷いブーメラン発言。
自分本位な二人は勝った気でいても、周りは諦めているだろうからこのまま自滅していきそうですね。短編なのに最後に恋愛風味を匂わせで終わるのは最近多く見かけますが、優しくて誠実な主人公の幸せを祈るのみです。
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