9章 桜散る
4月。
本庁へ戻った結衣は、農林課の配置となった。
「女なのに、農林課とは災難だね。」
農林課の課長下田が言った。
「スーツなんか着てないで、明日からは動きやすい格好で来るんだよ。熊が出たら、山に行ってもらわないといけないからね。まったく、女なんか足手まといなだけなのに、なんでここに配置したのか、人事担当の連中は現場を知らないんだな。」
隣りの商工課にいる山岡は、下田の言葉にクスッと笑っていた。
「作業着、早めに用意してね。」
結衣の指導になった岡島係長は、そう言って結衣に仕事の説明をした。
お昼休み。
山岡が結衣の弁当を覗いた。
「明日から女を捨てろよ。おじさん達と早く打ち解けないと、ここではやっていけないぞ。」
「別にいいです。もう嫌われてるってわかりましたから。だいたい、仲良しこよしで仕事をするつもりなんて、私にはできません。」
「渋谷のそういうところが、農林初の女性職員に選ばれたんだろうな。言っとくけど、ここの課長、新人を何人も辞めさせてるから。パワハラ、モラハラ、かなりキツイぞ。」
「最低ですね。私は負けませんけど。」
「失恋の傷は治ったのか?」
「何言ってるんですか!」
「城田、本当に辞めるとはなぁ。支所は会計年度で賄うって決まったし、きっとこっちへ戻ってきても居場所がなかったんだろうな。」
「居場所なんて、みんな模索中です。」
結衣はお弁当箱を濯ぎに給湯室へ行った。
帰ってから洗えばいいものの、プラスチックの容器についた汚れは落ちにくい。せめて、ザラザラとした感触だけでも、この場で落としてしまいたかった。
城田が退職した事は、人事の発表で知った。
去年の夏の初め、1度だけ着信があって以来、何も連絡がなかったから。
あの時。
すぐに折り返して電話をしたのに、城田は電話に出なかった。今考えると、きっと別れを告げる話しをしようとしていたのだろう。はっきり別れると言われなかったおかげで、失恋の傷が浅く済んだのか、それとも、ずっと生傷のまま癒えないのか。
初めて城田に好きだと言われた日。大雪が降って停電にさえならなければ、そんな言なんて聞けなかったのに。やっぱり、事故みたいな出来事だったんだよ。
大丈夫。
私にしては、上手くできた恋だった。
久しぶりにあった元彼の笹本は、最近結婚して、子供が生まれるそうだ。
影山と不倫していた河田課長は、とうとう奥さんから離婚を言い渡されたらしい。影山にも、そうとうの慰謝料の請求をしているそうだ。河田は離職率No.1の厳しい病院医事課へ異動になり、影山は、民間委託されている病院会計課に派遣異動となった。
同期の澤田真由が、この2年間にあった事を聞いてもいないのに全部教えてくれた。
4月の初めの金曜日。
部の中で歓迎会が開かれた。結衣の隣りに山岡が座る。すっかり気持ちが沈んでいる結衣は、一通り挨拶回りを終えると、席につき黙々と食事を食べ始めた。
「愛想笑いくらいできないのかよ。一応、農林の華だろう、お前。」
山岡はそう言った。
「愛想笑いなんかできないし、私は華ではありません。」
結衣は箸を止めず食べ続けた。
「つわりは治ったのか?」
「はあ?」
「そっか、イケメンいない部所なら、仕事もつまらんか。」
自分をからかって楽しんでいる山岡に、結衣は少しムカついてきた。
「そんな野蛮な感情で、仕事なんてしていませんから。」
「可愛げない女だな。渋谷は一生結婚できないぞ。」
「別にいいですよ。山岡さんこそ、そろそろ40が見えてきてますよ。自分から優良物件だって言っておいて、まだ1人じゃないですか。」
「それがさ、この前高校の同窓会があって…。」
「そうですか、おめでとうございます。」
「まだ何も言ってないって。」
「彼女の自慢なら、聞かなくてけっこうです。」
「違うって渋谷。俺、同級生の中で一番イケてるっていうか、皆と違うんだよ。」
「きっと、気持ちがまだ子供だからでしょうね。」
「なんだよ、それ。ていうか、渋谷、さっきから食い過ぎ。つわりの次は2人分食べてるのかよ。」
「山岡、渋谷ちゃんって妊娠してるのか?」
近くの席にいた山岡と同い年の真島が言った。真島も結衣と同じ農林課で、係長をしている。
「してませんよ。山岡さんの妄想です。」
結衣はそう言うと、山岡の残している茶碗蒸しに手を伸ばした。
「いいぞ、ほら。」
山岡は結衣に茶碗蒸しを渡した。
「最近はずっと外勤してるよな。今日も1日山に入って、熊出没注意の看板を建てに、岡島さんとずっと回ってたんだろう。そりゃお腹空くだろうな。」
真島が言った。
「うちの課長もキツイよな。渋谷ちゃんには電話番でも伝票打ちでもさせたらいいのに。」
「岡島さんにいろいろ教えてもらいました。いつもお菓子もくれるし。まだまだ知らない仕事ってあるんですね。」
結衣はそう言うと、烏龍茶を飲み干した。
「渋谷ちゃん酒、飲めないの?」
真島が言った。
「やめたんです。飲んだら頭が痛くなってくるから。」
結衣はそう言った。
「渋谷ちゃんは32か。」
「違いますよ、29です。」
「そっかギリギリのラインか。それくらいって男が一番扱いにくい年齢かもな。新人ならチヤホヤされるのに、ある程度仕事に慣れていると、男は身構えるし、だからと言って、自分が女だっていう事も忘れてほしくないだろうし。」
真島がそう言った。
「そうですかね。私にはわかりません。」
結衣は茶碗蒸しを食べ続けた。
「渋谷は新人の時からずっと同じだよ。時々女に戻れなくなって男の中にしれ~っと入ってくる。一緒にいると、調子狂うわ。」
二次会へと流れるタイミングで、結衣はうまく人の輪から抜けた。酔った下田が自分にさんざん愚痴を言い始め、それにうんざりした結衣は、少しずつ皆の後ろを歩きながら、自分の姿が前を歩く集団から確認しずらくなると、急いで曲がり角を曲がり、タクシーに乗った。
タクシーのドアが閉まり、行き先を告げると、結衣はホッとしてシートに深く腰掛けた。
「お客さん、久しぶりだね。」
タクシーの運転手が言った。
「あっ、あの時の。」
「元気そうだね。こっちに戻ってきたのかい?」
「はい。4月から戻ってきました。」
「この前、別の会社の人を乗せたんだけど、その人も少し前まで支所にいたって言ってたよ。」
「そうですか…。」
結衣はいるはずのない城田が、ここへやってきたのかもしれないと、少し期待した。でも、もし城田が来ていたのなら、どうして自分とは会わないでいるのだろう。もう既に新しい彼女ができて、自分の事なんてとっくに忘れてしまったんだ。自分こそ、たいして恋愛をしたわけでもないくせに、いつまでもいつまでも見苦しい。
山岡から電話がきた。
「渋谷、さっきから下田課長が探してるぞ。」
「具合が悪くなったので帰ります。」
「最低だぞ。今日くらい付き合えよ。お前の歓迎会だろ。」
「商工には新人の美穂ちゃんだっているじゃないですか。他の課にも異動してきた人だっているし。」
「本当、扱いにくいやつだな。」
「おやすみなさい。」
家の近くのコンビニでタクシーを降りると、暗闇に光る眩しい明かりに吸い寄せられる様に、店の中に入った。あんなにたくさん食べたはずなのに、お腹が空いて仕方がなかった。
家に帰りシャワーを浴びると、生理が始まった。抑えきれない食欲と、止まらないイライラは、自分が女だと実感する度に溢れてくる。たいして温まりもせずに浴室から出てきた結衣は、痛み始めたお腹を押さえながら、ベットに入った。
真夜中。
下腹や腰の痛みがひどくなり薬を飲んだ結衣は、この痛みと共に1人で過ごす夜の寂しさも、皆消えてなくなればいいのに、そう思った。
どこにも居場所がなくなった自分を笑っている月は、少し歪んだ丸い形をしている。自分がもし男だったら、好きになった子に、こんな寂しい思いをさせたりはしないよ。違う、誰かを守るとか大切にするとか、かえって男の方が面倒くさいや。次に生まれる時は、ただそこで春を待っている桜の木にでもなりたいな。
薬が効いてきた結衣は、そのまま深い眠りについた。




