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深恋  作者: 早能 せい
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3章 明け方の轍

 引っ越しが決まってから、残業して帰った後、少しずつ荷造りをした。

 大学の頃から10年近く住んでいたアパートは、思っていたよりも物が溢れている。せっかくだから、断捨離どころか終活に近い片付けをしようと思い、ガラクタになるものは、みんな処分する事にした。

 真夜中。

 昔を懐かしむ余裕も、寂しさが募る隙間もないくらいに、生活していくための最低限のものだけを選んで、淡々とゴミ袋に思い出を詰めていく。

 世の中なんて、捨てる者と必要な者が、こんな感じで仕分けされているのだろうと思いながら、結衣は星のない空を見上げた。


 送別会、やっぱり行きたくないな。


 明け方少し眠っただけの結衣は、コンタクトを入れるのが面倒になり、また眼鏡で出勤した。

「ひどい顔してんな。」

 山岡が言った。

「引っ越しの準備で、眠れないんです。」  

 結衣は曇った眼鏡を拭いた。

「手伝いに行こうか?」

「けっこうです。ある程度終わりましたから。」

 眼鏡をかけ直した結衣は、パソコンに顔を近づける。

「渋谷、今日は俺が送って行くから、安心して飲めよ。ていうか、お前の家、段ボールだらけなんだろう?ゆっくりできないなら、うちに泊まっていけばいいよ。」

 山岡は結衣の肩を触ったが、

「そろそろ仕事の引き継ぎをしてもいいですか?課長から直接山岡さんに引き継ぎをするように言われたんで。」

 結衣は素っ気なく山岡に言った。

「あぁ、いいぞ。それなら今日1日掛けてやろうか。」

「大丈夫です。1時間もあれば終わりますから。」

 結衣はコピー機の前にむかった。数枚の書類をまとめてホチキスで止めていると、

「やっぱり、眼鏡じゃないほうがいいな。」

 山岡が言った。

「じゃあ、10時でお願いします。」

 結衣は山岡の言葉を無視して仕事を始めた。


 送別会は結衣の他に、先月で別の課に異動した会計年度職員の若い女性の分も合せて行われた。

 朝からずっと不機嫌な影山の隣りには、それをなだめるように石山課長が座っている。

 

 結衣が税務課に異動になってからすぐに、石山の奥さんが職場にやってきた。影山との事を知っての行動なのか、奥さんは突然、結衣の頬を平手で思いっきりひっぱたいて、そのまま黙って玄関を出ていった。

 あっという間にの出来事だった。たまたま影山は席におらず、税務にいた女性職員は結衣だけだった。ざわついた市役所の中で、人を怒らせる様な罪を犯したと疑われている自分には、誰も声を掛けようとしなかった。もしここで、涙なんか流してしまったら、自分が罪を犯した事を認めてしまう事になる。悔しくてバカバカしくて情けない空気の塊に躓きながら、結衣はそれでも淡々と電卓を叩いていた。

 張り詰めた空間。

 青くなっている石山は、奥さんを追いかけてしまったら、何もかもが周りにバレてしまうと思い、まるで知らないふりをして、書類に目を通していた。

 山岡が結衣に声を掛ける。

「知り合いか?」

 山岡は石山の奥さんだと知っていた様だが、影山と結衣を間違えた事を公にせず、その後もくだらない冗談を言いながら、仕事を続けていた。

 夕方、給湯室でポットのお湯を捨てていると、さっそく騒ぎを聞きつけた女性職員が、あれやこれや噂をしていた。結衣とその女性の間にあったトラブルを勝手に作り上げ、面白おかしく話しを盛っている。噂の本人、結衣がその場にやってくると、彼女達はサーッといなくなった。

 笹本から誰もいない書庫に呼び出され、彼はずっと結衣を責め続けた。今考えると、笹本だって浮気をしていたくせに腹が立つ話しだ。

 影山と自分を勘違いした石山の奥さんの行動は頭にくるけど、あの時の奥さんの気持ちが、今の自分には痛いほどわかる。何より、石山が事の顛末をガラス越しで見ているような態度が、結衣は未だに許せないでいた。

 言い訳も弁解もできないような性もない恋をするからこうなるんだよ。情けないね、誰一人として幸せになっていない。不倫だとか浮気だとか、そんな事に燃え上がっているなんて本当に笑ってしまうよ。

 今回の異動は、事情を知らない市役所の職員にとっては、私が人から恨まれる様な情事をしたから、きっと支所に飛ばされたんだと思い込んでいるのだろう。  

 確かに石山課長だって影山だって、私に謝罪なんかをすれば、2人の不倫を認めた事になるんだし、余計な事を言わず知らんぷりしていた方が、ある意味利口なのか。

 なんで人を傷つけてまで、自分達の愚かな感情を抑えられないのかな。いい大人になってもまだ、誰かのものを欲しがったり奪ったり、寂しさを埋めようと、馬鹿みたいにもがいているなんて、本当にくだらない。

 いや、違う。

 恋に溺れるほど、人との距離の取り方がわからなくなってしまうんだ。もう少し近づいても怒られないと勘違いしたら、誰の心にも土足で入ってきて汚したまま去っていく。

 あなたの足跡、とても汚いよ。

 

「渋谷、お前の番。」

 いつの間にか、自分の挨拶の番がきたようだ。石山課長と影山の事を考えていたせいか、挨拶の言葉がまるで浮かばない。

 立ち上がったまま少し沈黙が続くと、

「渋谷は最後に挨拶したいそうだから、課長、乾杯の挨拶お願いします。」

 山岡がそう言って、石山へ話しを振った。

「山岡さん、ありがとう。」

 結衣は山岡にお礼を言った。

「最後の挨拶はちゃんと考えておけよ。」

 山岡は結衣のグラスにビールをついだ。

 宴会がはじまり、結衣はビール瓶を持ちながら、ひとつひとつの席に挨拶にまわった。たいして楽しくもなく、あたり当たり障りのない話しをしていると、川井の席でビールを注ぐなり、あの日の平手打ちの話しを川井は聞いてきた。

「渋谷さん、とばっちりだったよねぇ~。」

「えぇ、まあ。」

「俺の本音を言えば、こんな事になった張本人こそ、どっかに飛ばして欲しいんと思うんだけどなぁ。」

 少し酔っている川井の声は大きいので、結衣は話しを早く終わらせようと、すぐに隣りの席に移ろうとした。

「川井さん、冷めないうちに食べてください。」

 結衣は取り皿を川井に渡して、次の席の人のコップにビールを注いでいると、

「渋谷さんは大人だよね。普通の女の子なら、あんな場面があったら泣き出すのに。」 

 川井はそう言って結衣の方に体をむけた。

「もう、いいですってその話し。」

 結衣は顔では笑っていても、心の中では川井を睨みつけていた。

「よくないよ。そうやって上手くやっているつもりでも、俺はけっこう心配してるんだよ。本当の事は誰も知らないまま異動になんかなっちゃうなんて、しかも支所だなんて、バカにしてると思わない?このまま渋谷さんが辞めたら、これで何人目だよ!なんで影山のためにみんなおかしくなるんだよ!」

 川井が大きな声で影山の名前を言ったので、影山は結衣の方をチラッと見た。

「川井さん、少し酔い過ぎです。」

 結衣は川井をたしなめた。

「いいだろう、最後なんだし。渋谷さん、もっと注いでよ。」

 仕方なく川井のコップにビールを注いでいると、

「川井、早くあの子に告白してこい!」

 山岡はそう言って川井を別の席に向かわせ、結衣を自分の席を戻らせた。川井はフラフラと、今日のもう一人の主役、会計年度職員の若い女性の隣りに座り、今度は彼女を口説き始めた。

「ストレス、溜まってるんですね。」

 結衣が山岡にそう言うと、

「川井、さっきまで保険税の奴らと喧嘩してたんだよ。保険税の職員が固定資産税を払いにきた客を捕まえて、滞納してた保険税を先に納めたから、川井の担当している固定資産税は未納のままになったんだろう。せめて客と相談させてくれって、保険税と言い合ってたよ。」

「お金の関わる場所ってちょっと苦手です。川井さんの気持ちもわかるけど、自分が保険税の立場だったら、そうしてしまったかも。」

「渋谷は去年まで福祉だったか?」

「そうです。」

「あの、仏さんみたいな課長のところか?」

「いえ、それは隣りの援護の方です。福祉の課長は四角い顔の。」

「あぁ、わかった。よく居眠りしてるあの人。」

「そうです。本人は居眠りしているつもりはないんですけどね。」

 結衣がそう言うと、

「笹本とは福祉で知り合ったのか?」

 山岡の言葉に、結衣はびっくりして飲んでいたビールを少しこぼした。

「知ってたんですか。わざわざここで言わなくても。」

「たまたま町で2人を見たんだよ。最近、別れたのか?笹本は、今は別の子と付き合ってるって噂だから。」

「そうですけど…。もう、この話しはやめましょう。」

「笹本と俺は同期なんだよ。」

「そうですか。もういいです、そんな事。」

「渋谷は誰と同期だ?」

「水道や戸籍に1人いますけど、あとは名前がわかりません。あっ、総務の澤田さんと一緒でした。」

「あぁ、あの派手な子か。」

「初めはそうじゃなかったんです。だけど、彼氏の影響なんですかね。」

「あの子は地元の高校を卒業してすぐに市役所へ入ったんだろう。縛られるものがなくなると、女の子は一気に派手になるんだよな。」

「男だってそうじゃないですか?派手に遊んでる人、たくさんいますよ。」

「渋谷は笹本が初めての男だったのか?」

「何を言ってるんですか!」

 結衣は顔が少し赤くなったのを感じた。

「やっぱりな、違うのか。お前も実はけっこう遊んでたんだろう。」

「山岡さんの誘導には乗りません。」

「あぁ、もう少し一緒に働けると思ったんだけどなぁ。」

「これで良かったんです。」

 結衣はそう言って見えない様にため息をついた。


 ダラダラと二次会まで付き合った後、結衣は酔った山岡をタクシーに乗せた。

「またですか。」

 山岡は結衣の手をずっと握っている。

「起きてるんでしょう。」

 結衣は山岡を揺すったが返事はなかった。

 先に山岡のアパートに着くと、結衣の手を掴んだ山岡は、結衣を無理やりタクシーから降ろした。

「最低ですね。」

 結衣はそう言いながらも山岡を玄関に運ぶと、

「それじゃあ。」

 と言って、歩いて自分の家に向かった。

「渋谷、もう少しだけ話しをしないか?」

 寝ていたはずの山岡が、結衣の後を追ってきた。

「山岡さん、いろいろありがとうございました。明日は朝早く引っ越しするんです。だから今日は帰って寝ます。」

 結衣はそう言うと、また歩き始めた。


 秋の入り口では、少し湿った風が吹いていた。

 支所での仕事合わなかったら、民間にでも転職しようかな。

 安定しなくてもいいから、もっと気を使わなくてもいい仕事に。


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