14章 春の風
せっかく咲いた桜は、夕べの雨でそのほとんどが散ってしまった。
陽の当たらない所にあったヒョロヒョロの桜の木についた堅い蕾だけが、次にやってくる暖かい日差しを待っている。
「せっかくの休みなのに、仕事してんのか?」
土曜日。
ラフな格好で職場にきた山岡が、結衣に話しかけた。
「月曜日まで提出だった書類、すっかり忘れてました。」
結衣はそう言って髪の毛を耳に掛けた。
「ずいぶん切ったんだな。失恋か?」
「違います。長いとドライヤーをかけるのが面倒くさいんですよ。」
結衣はショートになった自分の髪を触った。
「渋谷はさぁ、男の好みとか気にしないの?あいつは女らしいのとか、キレイだよなって、そんな風に思われたくないのかよ。」
山岡は結衣の机に寄りかかった。
「思ってますよ。かわいいものだって好きだし。キレイって言われて、嫌な思いをする人なんていないでしょう?」
「じゃあなんで、女として手入れする事を面倒くさいって言うんだよ。」
「時間を掛けたら、キレイになるわけじゃないんだし。」
「それって素材がいいからそのままでいいっていう自慢かよ。よく女優さんとかが、私はこれ1本ですとか言って宣伝してるけどさぁ、裏ではきっとすごく努力してんだろう。もちろん金だってかけてるだろうし、いろいろ調査なんかもしてさ。」
「山岡さん、そんな話しを急にしてきて、一体どうしたんですか?」
結衣はキーボードを打つ手を止めて、山岡を見た。
「渋谷みたいに洗ったまんまの姿で、外出できるなら、待ってる城田は楽だろうなって思ってさ。」
「そういう事ですか。」
結衣はまたパソコンにむかった。
「城田の前でも、そんななのか?」
「そんなって何ですか。少しはオシャレくらいしますよ。」
「渋谷のオシャレなんかしれてるだろう。ほとんどすっぴんみたいなもんだからな。 こっちは素顔すら見たことがないんだよ。」
山岡はそう言ってため息をついた。
「さくらちゃんの事ですか?」
「そう。」
「見られたくないものを見てはダメですよ。玉手箱も鶴が機織りしているのも、覗いた男が終わらせてしまったんです。秘密を見たがるなんてバカですよ。」
結衣はそう言うと、
「確かにそうか。」
山岡は笑いながら頷いた。
「渋谷が男だったら、好きな女について、あれこれ話しでもできたのになぁ。」
「山岡さん、携帯なってる。さくらちゃんじゃないですか?」
山岡はそのまま鞄を持って職場を出ていった。
15時過ぎ。
昼食を食べないで、パソコンにむっていたので、なんとか書類が完成した。
月曜日に下田課長に点検してもらったら、これを総務課に持っていこう、結衣はそう思い、ホッとしてパソコンを閉じた。
お腹減ったなぁ。
城田は夕方までテニス部の練習があると言っていたし、帰り道にあるスーパーでお菓子でも買って帰ろうか。結衣は職員玄関を出ようとすると、赤ん坊を連れた女性が玄関の前に立っていた。
この人、笹本の奥さんだ。
結衣は軽く会釈をすると、そのまま彼女の前を通り過ぎた。春と言ってもまだ肌寒いこんな日に、赤ちゃんと薄着の女性の後ろ姿は、とても寒そうに感じる。職員なんだし、どうして正々堂々と中に入らないのだろう。
「あの!」
女性は結衣の背中に向かって呼び止めた。
「この子、抱っこしててもらえませんか?」
振り返った結衣に女性が言った。
「えっ、私?」
結衣は自分を指さすと、
「そうよ。女なんだから、赤ちゃんくらい普通に抱っこできるでしょう。」
女性はそう言って赤ちゃんを結衣に抱かせると、そのまま庁舎の中へ入っていった。
困ったなぁ。今にも泣き出しそうな赤ちゃんを見て、結衣は困り果てた。
「寒いから、中に入ってなさい。」
結衣に気がついた守衛のおじさんが、玄関の中に入るように手招きをした。見るからに子供が好きそうなその人は、抱っこさせてくれよと、結衣から赤ちゃんを自分の腕に移動させた。
「いつの間に、子供が生まれたんだよ。」
結衣が何も答えないと、
「お母さん、あんたの事。」
守衛はそう言った。
「あっ、この子、私の子じゃありません。抱っこしててって言われただけです。」
結衣がそう言うと、女性が玄関に戻ってきた。
「栄養士さんの子供だったのか。」
守衛はそう言って赤ちゃんを女性に渡した。
「笹本は仕事に来てませんか?」
女性はそう言って来庁名簿に目を通した。
探していた名前が名簿にないのがわかると、女性は急いで庁舎を後にした。
「あんたも早く帰りなさい。土日に仕事するなんて、公務員やってる意味がないよ。」
守衛はそう言って笑った。
スーパーでお菓子の棚をウロウロしていると、笹本がさっきの女性と買い物をしていた。
結衣は姿を見られないように棚の影に隠れる。
2人は待ち合わせだったのかな。
いい歳をして、お菓子の棚で迷っている自分が情けない。何よりも、幸せそうな笹本親子と目が合うことが恥ずかしかった。
自分の選んで来た道は、いつになったら胸を張って大丈夫だと言えるのか。
急いでレジを済ませると、結衣は城田の家にむかった。
「ずいぶん、お菓子買って来たんだな。」
買い物袋を覗いた城田がそう言った。
「お腹減ってて…。」
結衣は言った。
「午前中で終わらなかったのか?」
「うん。でも、明日は仕事に行かなくてとよくなった。」
「渋谷は途中で休憩するとか、あんまり考えないからな。お昼食べてないんだろう?」
「ねぇ、城田さん。私、いつまで渋谷って呼ばれるの?」
「渋谷もいつまで城田さんって呼ぶんだよ。」
「そっか。そう言えばそうだね。」
「名前で呼ばれたいのか?それとも自分も城田になりたいのか?」
城田はそう言って結衣を見つめた。
「ううん。別に今のままでいい。」
城田は結衣を見て微笑んだ。
「川の方の桜が、まだ咲いてるみたいなんだ。明日、見に行こうか。」
「いいの?」
「あぁ、行こう。」
「強い風ですぐに飛んじゃうくらいだから、桜の花びらってお互いそんなにくっついてないんだね。」
「そうだな。咲いたと思ったら、すぐに離ればなれだ。」
城田は結衣の髪を触った。
「やっぱり、切りすぎたな。俺は少し長いほうが好きだったのに。」
「城田さんの意見は聞かないよ。」
結衣はそう言って、城田を見て笑った。
「これなら風がわかるだろう。」
城田は結衣の頬を触った。
「髪が長い時も縛っていたから、風があたっていたよ。」
結衣がそう言った。
「違うよ。風が抜けて髪が音を立てるだろう。」
「そういう事か。そうだね、だけど、あんまり意識したって事ないかな。」
「明日、結衣の隣りにいたら、俺にも風の音が聞こえるかな。」
「えっ、なんか言った?」
「恥ずかしいから、ちゃんと聞いてくれよ。」
「ん?」
「明日、結衣の隣りで風の音を聞くから。」
初めて名前で呼ばれた事が、恥ずかしくなった結衣は、お菓子をひとつ手に取った。
「一緒に食べようよ。」
「ひとつだけ食べたら、ご飯にしようか。」
「じゃあ、我慢する。」
結衣をそう言ってキッチンにむかった。
少し冷えてきた春の夜は、いろんな人の別れや出会いを通り抜け、窓の外を叩いている。
服の袖を掴んで離さないのは、寂しさを隠そうとしている心なのか、好きだと言っている心なのか。
言葉が見つからない2人の間には、これから何度目の春が、やってくるのだろう。
終




