12章 数えた星
真夜中。
またあの夢を見て目が覚めた。
さっき見た夢の中で、自分の袖を掴んでいたのは、あの男の子ではなく、雪にまみれている結衣だった。
「眠れないの?」
隣りで寝ていた紗佳が言った。
「ちょっと嫌な夢を見ちゃってね。」
城田は自分の左の手首を触った。
「さっきの子の事、思ってた?」
「ん?」
「なんか今日の潤、少し変だから。」
紗佳はそう言って城田の頬を触った。
「そんな事ないよ。」
城田は紗佳を抱きしめた。
心と体って、けして同じじゃないんだな。城田はそう思いながら、紗佳の唇に近づいた。さっき見た結衣の顔がずっと目の奥に残っている。
「ねえ、誤魔化さないでちゃんと話して。」
紗佳はそう言って城田を避けた。
次の日。
結衣は昨日と同じ時間に、本屋にきていた。もしかしたら、城田がやって来るかもしれないと思うと、何度も着替え、何度も鏡を見て、本屋にやってきた。
会えなくてといいし、もし会えて素っ気の態度を取られたとしても、それならそれで諦めがつく。
もう前の様には戻れないんだ、そう確信が持てたのなのら、この先二度と誰かを好きになんかならない。
昨日の時間の1時間前から立ち読みを始め、かれこれ3時間は粘っている。
本の内容なんかぜんぜん頭に入ってこないし、そろそろ店員さんの視線が痛くなってきた。
23時か。
閉店の音楽が流れ始めたので、結衣はそこにあった本を一冊手にとってレジにむかった。
冷え切った車のエンジンを掛けると、運転席の窓を誰かが叩いた。
「隣り、いいか?」
城田が助手席に乗ってきた。
結衣は震える手をハンドルから離すと、城田は結衣の手を握った。
「遅いよ。」
結衣がそう言うと、
「ずっと待ってたのか?」
城田は結衣の手を握った。
店の明かりが消え、辺りが暗くなる。
「俺が運転するから、渋谷はこっちに乗れよ。」
城田はそう言って外に出ると助手席から運転席に移動した。
助手席に乗り換えた結衣は、城田が運転する横顔を見ながら、言い出せない言葉を何度も飲み込んだ。
「元気だったか?」
城田が言った。
「うん。城田さんは?」
「元気だよ。」
今どこにいるのか、何をしているのか、一緒にいた人は誰なのか、どうして連絡をくれなかったのか、これからどこへ行くのか…。
どうしてこんなにも穏やかな顔で、城田は前を見る事ができるのだろう。
「どうした?」
信号待ちで停まると、城田が結衣の方を見た。
「ううん。別に。」
結衣はそう言って下をむいた。
城田は大学の前に車を停めると、フロント硝子越しに星を眺めた。
「何もかもが小さく見えるよな。」
城田が言った。
「星の事?」
「全部だよ。昔の事も、今の事も。」
城田は結衣の方をむくと、
「ごめん。」
そう言った。
「わかってる。もう、いいから。」
結衣は涙がわからないように強く瞬きを繰り返した。
「山岡さんと付き合っているのか?」
「違うよ。」
「今はどこにいるんだ。」
「農林。」
「そっか、それで作業着なんか着てたのか。」
「私、獣の匂い、した?」
「は?」
城田は少し笑った。
「帰ろうよ、もう遅いから。」
結衣はそう言って前をむいた。
「あっちに高校があるだろう。」
「うん。」
「俺、今はそこにいるんだ。」
城田は指を指したあと、結衣の方を見た。
「そうなんだ。」
結衣は城田の方をむかず、下をむいたままだった。
「昨日一緒にいた人は、俺の彼女だよ。」
「そう。きれいな人だったもんね。」
このまま通り過ぎるのを待っていた言葉が、結衣の耳にはっきりと聞こえた。
もう、いいよ。そんな話しなんてしなくてもいいから、すんなり振ってくれたら良かったのに。
「さっき、振られたけどな。」
結衣は城田の言葉に耳を疑った。
「なんで?」
恐る恐る城田の顔を見る。
「俺が渋谷の袖を掴んだりしたから。」
城田はそう言って結衣の袖を掴むと、
「ごめん。じゃあ、取り消すよ。彼女に謝って。」
結衣は涙を溜めながら城田の手を離した。
「もういいから。もう、いいんだ。」
城田はそう言って結衣の溢れた涙を手で拭いた。
聞きたい事も言いたい事もたくさんあるのに、言葉が喉元までやってきては、また心の中に隠れてしまう。
私、まだ好きのままでいいのかな。
大学からそう遠くはない城田のアパートに着くと、結衣はストーブの前に座った。
「寒いか、すぐに温まると思うけど。」
立ち上がろうとする城田の袖を掴むと、結衣は黙って城田の顔を見つめた。
城田は結衣の隣りに黙って腰を降ろした。
「また停電にならないかな。」
結衣が言った。
「そうだな、あの時はクリスマスの日だったよな。」
「大雪の日で、すごく寒くて。」
「ストーブもつかなくて、体も冷え切っててさ。」
「停電になったら、また近くにいられるよ。」
結衣は堪えきれず涙が溢れてきた。
「ごめんな、今度はちゃんとそばにいるから。」
城田は結衣の髪をほどく。
「こっち。」
ベッドに入ると、城田は結衣の体を抱きしめた。
「電気、消して。」
城田は結衣の唇に近づいた。いつの間にか部屋の明かりが消えていたのに、城田が自分を求めている顔が、暗闇の中でもはっきりと見える。
「許した訳じゃないからね。」
結衣が言った。ずっと苦しかったんだから。こうしていても、また1人になるんじゃないかってすごく不安なんだから。城田の手が自分に触れる度、閉まってあった言葉が、少しずつ暖かい空気に触れて溶けて始めていく。
「渋谷じゃなきゃ、ダメなんだよ。」
城田はそう言って、結衣の体の上に重なった。
離れていた時間が、あっという間に巻き戻っていく。どうしてお互いの存在を、もっと大切にしてこなかったんだろう。
明日も明後日もその次の日も、永遠に続いていくんだと勘違いしたら、寂しさの雪はそのまま解けずに春を迎えていた。やっと顔を出した春の太陽は、明日にはまた雲に隠れてしまうかもしれないけれど、こんなに深く恋をしてしまったら、道端に残っているドロだらけの雪でさえ、真っ白で眩しく感じてしまう。
周りからしたら、都合のいい話しだよね。2人の間にあるものは、誰にもわからない色付いた空間なのだから。
明け方。
自分の袖を掴む弱々しい手の先を見てみると、あの男の子が俺を見て笑っている。
「なんだよ、元気にしてたのか?」
城田はその子の頭を撫でた。
夢か。
目が覚めると、カーテンの隙間から差した冬の日差しは、思った以上に眩しかった。隣りでまだ眠っている結衣の寝顔は、初めて寝顔を見た日と同じ彼女のままだった。頬に触れても起きない事に気がつくと、城田は少し緩みかけている結衣の唇に近づいた。
「起きてるよ。」
結衣は目を閉じたままそう言ったが、城田はそのまま唇を重ねた。結衣の頬を触っていた右手は、冷たくなった結衣の小さな肩を包み込むようにそっと抱きしめた。
自分の腕の中に抱かれ、少し熱を帯び始めた結衣の肌に触れると、言い表せない言葉が心の奥から溢れてくる。
「また好きになってもいいか?」
城田は結衣に言った。結衣は少し微笑むと、
「私はね、ずっと好きだったんだよ。」
そう言って、城田の背中に手を伸ばした。
月曜日。
「今日は眼鏡か。」
山岡が言った。
「朝、時間がなくて。」
結衣がそう言うと、
「本当は泣き過ぎて目が痛いんだろう。」
山岡は言った。
「山岡さんの手袋は編めません。」
結衣は頭を下げた。
「そっか、そうだと思ったよ。不器用な渋谷には無理だよな。俺はさくらちゃんに頼むよ。」
山岡はそう言って席に戻った。
「渋谷、牧場にキツネの親子が入り込んでるらしいから、見に行くぞ。」
下田が車の鍵を結衣に渡した。
「えっ、私1人ですか?」
結衣は下田の顔を見た。
「今日は岡島さんが休みだから、俺と一緒だ。」
下田は結衣に地図を渡した。
「わかるか、ここだ。」
下田が指を指した場所は、結衣には検討もつかなかった。
「町の外れだからな。じいさん、よくここに1人で住んでるよな。」
夕方。
溜まっていた書類を片付けていると、
「まだ帰らないのか。」
山岡がやってきた。
「山岡さん、帰ったんじゃなかったんですか?」
結衣が言った。
「今まで会議だよ。少し長引いた。」
山岡はそう言って結衣の隣りに座った。
「この前は、すみません。」
結衣は山岡の顔を見た。
「城田とちゃんと話したのかよ。」
真剣な顔の山岡の前で、ふざけた事も言えず、
「話しました。」
そう言って結衣はうつむいた。
「はっきり振られたか?」
「いいえ、またやり直します。」
結衣は山岡に答えた。
「お前、あんな綺麗な彼女と張り合うつもりかよ。」
「はい。そのつもりです。」
「その格好で?」
「そうですよ。」
「そっか。城田が作業着フェチとはな。」
「この頃思うんです。この格好でいると、なんでもできるんだなぁって。」
「渋谷、お前一応女だろう。」
「まあ、一応。」
「また、放っておかれるかもしれないぞ。」
「それでもいいです。」
「あんなに泣いていたのに、勝手な奴だな。」
「自分でもおかしいって思います。」
結衣が書類をファイルに挟むのを手間取っていると、山岡が手伝ってくれた。
「今度泣いてたら、その時は俺が黙ってないからな。」
「あら、頼もしい。山岡さん、さくらちゃん待ってますよ。早く帰ったらどうですか?」
結衣はそう言って、山岡を見て微笑む。
「本当、腹の立つ奴だな。」
山岡は帰っていった。
21時。
机の上に置かれた書類を読み返していると、暖房が切れて寒くなった。残りは明日にしようと思い、玄関を出ると、城田と一緒にいた女性が立っていた。
「あの、あなたが渋谷さん?」
女性はそう言うと結衣を女性の車に連れて行った。




