11章 冬の入り口
害虫駆除に明け暮れた夏が終わり、今度は冬眠しない野生動物が道路に出てこない様に、日々その対応に追われた。経験や知識が物を言う仕事は、専門の業者へ委託でもすればいいものの、やれ予算が足りないだとか、請け負う業者が近くにはないだとか、結局、長くいる職員の勘と独自のルールによって、その場を凌いでピンチを乗り切っている。
結衣は地域の人への注意喚起用のチラシを作るために印刷室へ入ると、踵の高い靴にスカートをはいて、楽しそうに話しをしている若い女子職員の間を通って印刷機の前に立った。
同じ女性なのに、作業着を着て、ただ束ねただけの髪の自分は、道に出てきてしまった間抜けな狸の様だ。
そう言えば、下田課長の女のくせにとか、女なんかというネチネチとした嫌みは、最近あまり聞かれなくなった。課長は時々日に焼けて黒くなったこの手の甲を見ながら、渋谷はこのままでいいのかと、心配そうに聞かれる様になっていた。別にそれはそれで、笑って返す事ができる質問だからいいけれど、こんな風に女性の集まりの中で感じる自分のみすぼらしさは、とても辛い。
このまま雑草の様に生きていくと決めた方が楽だと自分に言い聞かせても、まだ諦めきれない色づいた想いが、時々眠れない夜を連れてくる。
結衣はガラガラと回転している印刷機の前で、はぁ~、とひとつため息をついた。
近くにいた女性が、そのため息に気がついた様で、結衣の近くにまで寄ってきた。
「ねぇ。渋谷さんだっけ?農林の隣りにいる商工の山岡さんって、彼女いないんですか?」
女性はそう言って結衣の顔を見た。
「いないと思いますけど。」
結衣は女性に答えた。
「なんでですかね。わりとかっこよくて仕事もできるのに、あの年で彼女がいないなんて、何かあるんですかね。」
印刷機の音に負けないよう、女性は声を大きくして結衣に聞いている。
「さぁ、今度聞いてみたらどうですか?」
少し照れくさそうに上目遣いになった女性は、
「渋谷さん、山岡さんとよく話してるから、今度誘ってくれませんか?私達4人と、山岡さんの課の人達と、一緒にご飯を食べに行きましょうって。」
言っている事はけっこう大胆なんだし、わざわざこんな格好をしている自分を通さなくても、そうやって可愛らしい顔をしながら、正々堂々と山岡に声をかければいいものを。
「はぁ、言っておきます。」
なんとなく返事をしてしまった結衣は、お昼休みにその事を山岡に話した。
「渋谷もくるのか?」
山岡が言った。
「なんで私が?あっ、ほら来てますよ。」
山岡の所に、さっきの女性達がやってきた。
「渋谷ちゃん、ゆっくりご飯食べてないで、もう行くよ。半には出るって言ってただろう。」
岡島が結衣を呼んだ。
「すみません。」
結衣は立ち上がると、
「早く長靴はいて。」
岡島はそう言って車の鍵を手にした。
「帰りに甘い物でも買ってあげるから、今日も頑張ってよ。」
岡島は笑っていた。
12月。
忘年会がある日の夕方。
畑の網にキツネが引っ掛かっていると住民から通報があり、岡島と現場にむかった。
帰りの車の中で、
「渋谷ちゃんが来てから、動物だらけだよ。」
岡島が言った。
「それって私のせいですか?」
「だって、今年の出動は去年の倍だよ。」
「きっと山に食べ物がないからですよ。」
「それもあるし、たぶん動物自体が増え過ぎたんだろうな。居場所だって少なくなってきて、みんな生きるのに必死だよ。」
「じゃあ、私のせいじゃないですよね。岡島さん、お腹空きました。甘い物買ってくれるって言いましたよね。」
「ああ、忘れてたよ。」
「じゃあ、売店のチョコでもいいですよ。」
「渋谷ちゃん、もうこんな時間だよ。売店はとっくに閉まってるし、忘年会は始まってしまったよ。俺はこのまま店に行くけど、渋谷ちゃんは着替えてからおいで。」
「家に帰る時間なんてありませんよ。私もこのまま行きます。」
「えっ、もしかして家から作業着で来てるの?」
「そうですよ。だって、いちいち着替えるの面倒くさいし、スーツよりもこの方が楽ですから。」
「渋谷ちゃん、4月の頃はそんな子じゃなかったのになぁ。自分の娘がこんなふうになっちゃったら、ちょっとショックだよ。」
「岡島さん、娘さんいるんですか?」
「いないよ。息子が2人。」
1時間遅れて忘年会が開かれているのお店につくと、空いていた端のテーブルで、岡島と料理を食べ始めた。
「親子コンビは最後まで大活躍だな。」
下田が言った。
「ほら、2人とも飲みなよ。渋谷も今日は飲めよ。」
下田がお酒を注ごうとすると、
「すみません、私、」
そう言ってビールを断った。
「渋谷、飲めないんですよ。」
山岡がお茶を持ってやってきた。
「一度、腹を割って話ししたいと思ったんだけどなぁ。」
下田が言った。
二次会に行こういくつかのグループが塊り始めた時、結衣は家に帰ろうとタクシー乗り場へ向かった。
「渋谷、帰る気かよ。」
山岡が追いかけてきた。
「今日は疲れました。ていうか、いつも疲れてますけど。」
結衣はそう言って歩き続けた。
「この後、着替えて2人で飲みに行かないか。」
「行きません。山岡さん、ほら、皆行っちゃいますよ。」
結衣は皆が歩いている方向を指さしたが、山岡は結衣についてきた。
「俺、車そこに停めてあるから乗れよ。」
「飲酒運転はダメですよ。」
「酒は飲んでないよ。初めから渋谷を送っていくつもりだったから。」
山岡は結衣の隣りに並んだ。
「それなら本屋に寄ってもいいですか?」
結衣はそう言って山岡の顔を見た。
「いいぞ。どこにでも寄ってやるよ。」
本屋に入ると、結衣は編み物の本を探した。
「渋谷、そんな趣味があったのか。」
山岡が言った。
「自分で手袋を編んでみたくって。」
結衣はパラパラとページを捲っていた。
「それなら俺の分も作ってほしいな。」
山岡は一緒に本を覗いた。
「ダメです。この前の女の子に頼んだらどうですか?」
「ああ、さくらちゃんの事か。」
「あの人、そういう名前なんですか。良かったですね。山岡さんにも本当の春が来て。」
「一緒に飲む約束をしただけだよ。それだけ。」
結衣が本をレジへ持って行くと、山岡それを手に取った。
「買ってあげるよ。その代わり、俺の分も頼んだぞ。」
山岡は結衣の前で左手を広げた。
山岡が本屋の玄関の扉を開けようとすると、外から来た男性が先にドアを開けた。
「あっ、城田…。」
山岡はそう言って一瞬固まると、結衣は山岡の後ろから、その男性の方を見た。
城田の後ろから、きれいな女性が不思議そうにこちらを見ている。
「渋谷、行くぞ。」
山岡は結衣の腕を掴むと、そのまま結衣の引っ張った。城田は結衣とすれ違いざまに、結衣の服の袖をキュッと掴んだ。2人の目があったと思った瞬間、結衣の腕は山岡に強く掴まれ、城田の手は結衣の袖から離れた。
玄関を出て、山岡の車の前までくると、山岡はすぐに結衣の腕を離した。城田の姿を見るために振り返る勇気がなく、結衣は山岡の車に乗った。
車の中では、カーラジオから流れてくる懐かしくて悲しい曲が、2人の間の空気を震わせている。
「渋谷、お前、作業を着てんだぞ。」
山岡が言った。
「あっ、そうだった。」
結衣がうつむいたままそう言うと、
「これで諦めがついただろう。城田はお前の格好を見て残念だと思ったし、むこうには女がいるんだよ。しかも、お前には敵わないような相手がな。」
山岡の言葉を結衣はそのまま飲み込んだ。まるでトゲが入ってるチョコレートの様に、喉が痛くて、とても苦い。
「わかってますよ。」
結衣はそう言って、ズボンの膝をギュッと握った。
家の前に着くと、山岡は部屋に勝手に入って来ようとした。
「帰ってくださいって。」
結衣は玄関で山岡を押し返した。
「今日はどうせ眠れないんだろう。朝まで愚痴を聞いてやるからさ。」
山岡はそう言って中に入ってきた。
「なぁ、一緒に風呂でも入るか。」
「何言ってんの!」
「渋谷、お前獣臭いぞ。早く風呂入ってこいよ。」
「そんなに?」
「ああ、早く着替えてこいよ。」
山岡は結衣の背中を押した。
結衣が浴室から出てくると、山岡は缶ビールを飲んでいた。
「ちょっと!飲んだら帰れなくなりますよ。」
結衣は山岡の缶ビールを取り上げた。
「俺も風呂入ってくるわ。」
山岡はそう言って浴室へ向かった。
いろんな事が整理しきれず、結衣は編み物の本を開いては、編み目の数を何度も数えていた。
待っていてほしいと言ったのは城田の方なのに、1人で前に進んでいるなんて許せなかった。だけどもしかしたら、勝手に待っていようと決めたのは、自分の方だったのかもしれない。連絡が来なくなった時点で、それを察して区切りをつけてしまえば、こんなに悔しい思いなんてしなくても済んだのに。
もう何周も何周も編み目を数えているうちに、そろそろ4桁の数字が見えてきた。山岡の言う通りどうせ眠れないんだし、朝までグダグダ話して夜を明かそうか。結衣は山岡の飲みかけの缶ビールを飲んだ。
「おい、渋谷の分もあるぞ。」
山岡はそう言って冷蔵庫を開けた。
「いつ、買って来たんですか?」
「渋谷が風呂に入っている時。」
「そこのコンビニですか?」
「そうだよ。着替えも買ってきたし、今日は朝まで付き合うよ。」
山岡は結衣の隣りに座った。
「あっ、布団、ありますよ。」
結衣は押し入れにむかう。
「いいよ。寝る時に俺が出すから。」
山岡はそう言って、結衣を隣りに座らせた。
「渋谷にどれを作ってもらおうかな。」
山岡は机の上で開きっぱなしだった、編み物の本を捲った。
「何色が好きですか?」
「青かな。こんな感じの。」
「この色は雨の色ですね。」
結衣はそう言って、本を眺めた。これは涙の雨の色だよね。結衣はそんな言葉を飲み込むと、
「ああ、そうだな。」
山岡が言った。
「曇り色にしますか。その方が無難だし。」
結衣はそう言ってページをめくると、堪えきれず涙が溢れた。
「渋谷、」
山岡が結衣の顔をのぞき込んだ。
「1人だったら泣いたりしませんよ。山岡さんがこんな青を選ぶから。」
結衣は袖で涙をぬぐった。
「俺のせいなのかよ。」
山岡は結衣の頭を撫でた。
「違います。私が悪いんです。ごめんなさい。」
山岡髪を撫でていた手を止め、結衣を胸に寄せようとした。
「無理すんなって。」
結衣は山岡から離れ、また開いているページの編み目を数え始めた。
「涙で字なんか見えてなんかいないだろう?」
山岡がそう言った。
結衣は立ち上がり机の引き出しを開けると、眼鏡を取り出して掛けた。
「眼鏡掛けると、ブスになるな。」
山岡はそう言って笑った。
「それって下田課長以上のセクハラです。」
結衣も笑ってそう言った。
「お前はあの課長の下でよくやってるよ。」
「どういう事ですか?何もうれしくなんてありませんけど。」
結衣はそう言うとまた涙が出てきた。
「泣くのか笑うのかどっちかにしろ。」
山岡はそう言った。
「じゃあ、泣きます。」
結衣は眼鏡を外し、両手で顔を覆った。
山岡結衣の震える肩をそっと抱くと、そのまま結衣を自分の胸に抱いた。
「たくさん泣けよ。」
山岡は顔を覆っている結衣の手を掴むと、泣き顔を隠そうとして自分の胸に顔を押し付けた結衣の頬を包んだ。
「城田はまだ渋谷の事を好きかもしれないぞ。」
山岡が言った。
「慰めてくれなくてもいいです。」
結衣は山岡が自分の頬をあてている手を降ろした。
「もう、大丈夫ですから。」
結衣はそう言って缶ビールに手を伸ばした。
「おい!このまま押し倒したっていいんだぞ。」
山岡は結衣の肩を強く掴んだ。
「山岡さんはそんな人じゃありませんよ。」
結衣は山岡を見て微笑んだ。
「渋谷さぁ、俺だって辛いんだって。2人でいて、何もしないって、どんな気持ちがわかるか?」
「そうですか。じゃあ、いいですよ。」
結衣は笑いながら山岡の手を握った。
「本気で言ってんのか?」
山岡は結衣を押し倒した。そして、固く目を閉じた結衣の体を静かに起こすと、
「俺は自分を好きになってくれる奴としかしない。」
山岡はそう言った。
「山岡さんの事、大好きですよ。いつも助けてくれるし、一緒にいて楽しいし。」
結衣はそう言って山岡の顔を見た。
「渋谷、ふざけるなよ。ちゃんと城田と話してこい。それで振られたら、その時はこっちを見てくれ。」
山岡は立ち上がり、押し入れから布団を出した。
「ひどい1日だな、まったく。」
そう言って布団を敷くと、
「もう少し話そうか。話してるうちに、城田よりも俺の方が好きになるかもしれないしな。」
結衣の頭を軽く撫でた。




