10章 掴みかけた袖
あの日。
掴まれた袖に残る弱々しい手の感触が、今でも時々蘇る。
自分には実家に残る年の離れた姉がいたし、わりと自由にさせてもらった両親には、感謝している。
たいして勉強しなくても、二流の大学にすんなり入る事ができたし、地元で気の知れた仲間と上手くやっていく気持ちや、都会で人の羨むような暮らしをしたいなんて、自分は望んでなんかいなかった。中途半端にものが揃った町で、それなりの暮らしをしていく方が、不安も少なく、何よりも自分の生き方にはちょうどいい。そういう意味では、大学があった町は、それほど大きくもなく、それほど田舎でもなかった。自分の生まれた町よりもいくらか便利なこの町の公務員になった時、人並みの人生なんて、わりと簡単に手に入るんだと、俺は感じた。
大学の頃から付き合っていた彼女は、東京に行くからと卒業と同時に別れた。彼女なんかまたすぐにできると思っていたけれど、就職した先では女子職員がそれほど多くはなく、それでもそのうち、思いもかけない出会いがあって、たいして燃え上がる恋をするわけでもないけれど、人生の伴侶としてはちょうどいい相手と出会うのだろうと信じていた。
市役所に入った年の秋。
いつもの様に担当していたケースの様子を伺うため、家庭訪問に行った。その頃には先輩の指導はつかず、自分1人で行動しており、その日は母子家庭の家を訪問し、淡々と用件を母親に伝えた。特段変化のない親子の様子を確認した後、俺はそのまま玄関にむかい、靴に左足を入れた時だった。不意に、小学1年生の男の子が自分のスーツの袖を掴んだ。
「どうした?」
俺は男の子にそう言うと、母親はすみません、そうと言って、男の子の手を離した。
その夜。
母親は男の子を風呂場で包丁で刺し、自分も首を切って死のうとしているところを、子供の叫び声を聞きつけた近所の人に発見された。
男の子はすでに息絶えており、母親は重傷ではあったけれど、命だけは助かった。
少し前から鬱病で眠れなくなっていた母親は、時々、幻聴や幻覚に悩まされる様になっていたらしい。訪問した時には、そんな様子がなかったと言えば、なかったのかもしれないし、もう少し自分が違った見方をしていたら、母親の変化に気がつくことができたのかもしれない。
あの時。
か弱く自分の袖を握っていた男の子の目が、袖を掴んで離そうとしなかった感触が、今でもずっと忘れる事ができない。
その日から、俺は仕事が手につかなくなった。上司は俺を慰めもしたし、何度も注意や指導をした。
自分の中で乗り越えなければと思えば思うほど、どうしようもなく気持ちが空回りする。食事も味を感じなくなり、夜になると何度もあの日の夢を見た。見ていたわけではないはずなのに、男の子を包丁を握って追い詰める母親の形相が、まるで俺を追い詰めてくるかの様に、夢の中で追いかけてくる。
年が明け、人事の担当から、支所への異動を打診された。仕事ができなくなった自分は、忙しい部所にとっては、お荷物なんだろう。俺は何も判断する余裕がなく、とりあえずその話しを受ける事にした。どうせあと少ししたら、市役所なんて辞めて秋田の実家へ帰ろうとしていたけれど、少しだけ違う環境の空気でも吸ったら、せめて人並みの生活くらいは取り戻せるかもしれないと思った。そして、何もなかった様に秋田へ帰れば、あの日の事は少しずつ忘れていくだろう。
支所へきてからは、お節介な支所長が自分を食事に誘ってきたり、支所長の奥さんがお弁当を差し入れしてきた。職場にいるベテランの女性や、定年ギリギリの男性職員達と仕事をしているうちに、少しずつ当たり前の毎日が戻ってきた。
ここで暮らしていくのもそう悪くはない。出世からは外れてしまったけれど、1人で生きていくには十分だ。どうせこんな自分には、幸せな家庭なんて築けないんだろうし。
支所に移動してから、5年目。
大学の時に同じバイト先にいた渋谷結衣が、突然支所にやってきた。こんな時期に市役所から異動してくるなんて、きっと訳ありな事情があるんだろう。支所長からは、4月に新人が入るまでの期限付きだと聞いたけれど、理由はどうであれ、人懐っこい渋谷と話しているうちに、あいつと一緒にいる毎日が楽しくなってきた。
誰かを好きになるって事は、自分に足りない心の隙間を、崩れてしまうように埋める事なのかもしれないな。渋谷がぴったりとはめてくれた彼女というパーツは、これからの2人の未来を、描いているひとつの絵になるのだろうとさえ感じていた。
渋谷と付き合ってから3ヶ月。異動の打診は渋谷ではなく俺にやってきた。入社してすぐに人事交換の話しがあり、上司にその意向を伝えた事があった。もう6年も前の事なのに、最近は派遣に応じてもいいという職員がいなくなり、そんな話しを忘れ掛けていた俺に、その順番がやってきた。
渋谷と離れる事は辛かったけれど、本庁へ戻る事と交換に出された条件とでは、派遣の選択をするしか、俺にはなかった。
広島の配属先では、自分の事を詮索する人もいなく、わりと気を使ってもらえる職場で過ごす毎日は、けっこう楽しかった。
1年が過ぎた頃、本庁に戻る事に戸惑った自分は、もう1年派遣を延長させた。渋谷の事は気になってはいたけれど、連絡をしないままの関係に嫌気が差して、きっと他にいい人ができているだろうと思う様になった。今更、待っていてほしいだなんて言い出せないし、自分のわがままのせいで、渋谷の人生を縛り付けておくわけにもいかない。
派遣2年目の秋。
大学の教授から、系列の高校で教師にならないかと話しがあった。
俺は迷わず市役所を辞めた。このまま本庁へ戻っても、渋谷に合わせる顔がなかったし、派遣が終了する時が近づくにつれ、あの袖を掴んだ弱々しい手の感覚が、鮮明に思い出す様になってきたから。本庁に戻るという事は、あの時の事を知っている人も多いし、何よりもまた同じ事が繰り返されるのではないかと、不安でたまらなくなった。自分は本当に弱いやつだ。当時の上司が励ました様に、事件は不可抗力だと開き直る事もできず、未だにあの袖を握る感触を引きずっている。
渋谷と会っていた時は、そんな夢も見なかったのに、最近は同じ年頃の男の子を見掛けると、必ずあの夢を見るようになっていた。
この町に戻ってきてから半年。
仕事帰り、コンビニで買い物をしていると、同じ高校の教師の林紗佳と偶然に会った。
「城田先生、今帰りですか?」
「はい。林先生はこの近く?」
「そうです。すぐそこのアパート。」
今年英語の教員として採用された林は、少し前まではCAをしていたらしい。丁寧に化粧され、整えられた髪型は、生徒達からは憧れる存在であり、誰もが目を引いた。
「先生、良かったら晩ごはん一緒に食べませんか?」
林はそう言って城田を誘うと、俺は断る理由もなく、林の家について行った。
「城田先生、教師になる前は何をしてたんですか?」
林が聞いた。
「公務員ですよ。」
「へぇ~、堅い仕事に就いてたんですね。なんで、教師になったんですか?」
「俺はここの系列の大学の卒業生なんですよ。それで、教授に誘われて。」
「わざわざ安定した生活を捨てて、私立の教師になるなんて、変わってますね。」
「林先生だって、華やかな世界から教師になるなんて、変わってますよ。」
「城田先生が思ってるほど、CAの世界は華やかではないですよ。はっきり言って体力勝負です。」
「そうなんですか。みんな綺麗に歩いているから、そんなふうに見えないですけどね。」
林はテーブルに料理を並べた。きれいな器に盛り付けられた料理のひとつひとつが、つやつやと輝くようにこちらを見ている。
「これ、みんな作ったんですか?」
「そうですよ。時間がある時に、下処理をして冷凍しておくんです。」
「林先生は見掛けによらず家庭的なんですね。」
「見掛けによらずってなんですか。」
「あっ、すみません。きれいな手をしてるので、水仕事なんてしないと思ってました。」
「ちゃんとしますよ。料理するとは好きですし。城田先生は料理しないんですか?いつもコンビニ?」
「たまにしますよ。だけど、最近は買ってきて済ませる事の方が多いかな。1人だとその方が効率がいいし。」
「淋しい事、言いますね。」




