(2)
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夏の盛りが過ぎた頃、湖のほとりの木陰で、シャロンとアーサーは午睡をしていた。敷布の上に寝転び、アーサーは目を隠すように開いた本を置いて眠っていた。シャロンはアーサーの腹を枕にして至福の時を堪能した。鳥の鳴き声と、風の音しか聞こえない、穏やかな午後だった。
「シャロンは、自分の誕生日がいつ頃か、わかるか」
昼下がりに二人が起きて、敷布を片づけているときだった。アーサーがふと思い出したようにシャロンに尋ねる。シャロンはその言葉を知っていたが、正確な日づけまではわからなかった。アーサーもそれを見越しての問いだったのだろう。
「……春、青いお花が咲きはじめたころに、うまれたって、おかあさんが」
「ああ、おそらく、ウォーティアのことだな。ハイランドではちょうど春の初めに咲く」
春生まれだったんだな。とアーサーがシャロンに笑いかけた。
でもハイランドであの青い花は、ウォーティア、とは呼ばれていなかった気がする。シャロンの母に至っては「シャロンの花」と勝手に呼んでいた。あとで草花図鑑を見てみよう、とシャロンは思った。
今年も咲いたね。と、薄青色の花弁が花開いたのを見て、母と笑い合ったのを憶えている。
あの春の日、村の子どもたちが、野に咲いたウォーティアを花冠にしてシャロンにくれた。めったに食べられない、砂糖とバターの入った小さなケーキを、母が焼いてくれた。
シャロンにとっては、母と過ごした、最後の、楽しかった記憶と言えるのかもしれない。
誕生日といっても、細かい暦など日々の暮らしに関係のない庶民にとっては、至極大雑把なものだった。シャロンのようにあの青い花が咲き始めた頃だとか、あの赤い星が東の地平線に見え始めた頃だとか、そんな類のものだった。
――誕生日。そう、誕生日だ。貴族のアーサーにとって誕生日とは、シャロンのように大まかな季節ではなく、明確な日づけであるはずだ。
アーサーの誕生日を祝いたい。何かシャロンも彼に贈れるかもしれない、と期待に目を輝かせながらシャロンが口を開いた。
「先生の、たんじょうびは、いつですか?」
「俺? 俺は確か……今年は過ぎたな」
アーサーが答えた日づけは、夏真っ盛りの頃だった。だがそれは、ほんのつい最近、と言えた。ずっと一緒に過ごしていたはずなのに、アーサーは一言も、何も言わなかった。自分の誕生日など今の今まで忘れていたかのような口ぶりだった。
でも、シャロンは、祝いたかった。おめでとう、いつもありがとう、と。ありがとうなんて、毎日伝えても伝えきれないくらいアーサーには感謝しているのに。
アーサーの誕生日を祝えなかったという悲しみが洪水のようにシャロンの心に押し寄せてくる。シャロンは、ふえ、と思わず泣きだした。「おいっ、どうした」と、焦ったアーサーはせっかく畳んだ敷布を放り出してシャロンを抱き上げた。
誕生日を祝いたかったのだ、なんで言ってくれなかったのか、とシャロンがえずきながらアーサーに伝える。母がケーキを焼いてくれたとか、子どもたちが花冠をくれたとか、村人も祝ってくれただとか、シャロンは自分の誕生日の記憶も全部一緒に吐き出した。さらには、態度を豹変させた村人たちのことも思い出して、シャロンの涙は止まらなくなった。
「悪かった。なあ、黙ってたのは、悪かったから。忘れてたんだ。本気で」
昔からそうなんだ。とアーサーは急いで言い訳をした。いつも家族やロバートから祝われて初めて思い出すのだ。今年も誕生日カードが父母と兄、ロバートから届いてやっと、「そういえば誕生日だったか」と思い出したのだった。
シャロンに誕生日を尋ねたのは、そのロバートからの手紙に「シャロンの誕生日はいつだい?」と追伸に書かれていたからだ。だがその前からアーサーは、ハイランドで庶民は誕生日を祝う風習はあるのか、などを調べていた。暦がわかるようになったシャロンには尋ねてもいい頃合いだろうとアーサーは判断した。
「また来年な」
その前に、シャロンの誕生日だな。ケーキも一緒に食べような。
アーサーがシャロンの額と自身の額を合わせながら微笑む。
「……ほんと?」
「ああ。約束だ」
「……かたぐるまも、してくれる?」
「肩車? そんなの今してやるよ」
この間、父親に肩車をしてもらっている子どもを街中で見かけた。次は僕も肩車してえ、とねだるもう一人の子どもが父親の脚に巻きついていた。おそらく兄弟なのだろう。シャロンは、手を繋いでいたアーサーに自分も肩車してくれないかと、ねだろうとして、結局言えなかったのだった。
シャロンを地面に一旦下ろし、「ほら、乗れ」とアーサーが背中を見せる。シャロンはおずおずとアーサーの肩を跨いで、彼の頭に両手を置いた。アーサーの黒髪はさらさらしていた。
アーサーがシャロンの脚を持って立ち上がる。シャロンは「うわぁ」と思わず声を漏らした。涙は疾うに引っ込んでいた。
見える世界が、高い。木の枝が、手を伸ばせば届きそうな距離にある。
闇の魔法使いは、光や風の魔法使いのように空を駆けることができないと知ったときは悲しかったが、闇の魔法使いは闇の魔法使いで、他のどの元素使いにもできないことがあるのだという。闇の魔法の入門書をアーサーが読み聞かせながらシャロンに教えてくれた。
シャロンが、アーサーの頭をぎゅっと後ろから抱えこむ。いたずら心で彼の目を隠すように両手で覆ってみると、「こら、前が見えないだろ」とアーサーがシャロンに注意した。だが、その顔は優しく笑っていた。
湖から帰って、シャロンは早速、アーサーが最近買ってくれた水彩絵具を使って、自分を肩車するアーサーの姿を描いた。「先生、お誕生日おめでとう。いつもありがとう。大好き」と覚えたての言葉を書き加える。紙が乾くのを待ってから、赤いリボンを結んでシャロンはアーサーに絵を贈った。
それもまたアーサーは額に入れて、シャロンの初めて書いた手紙の横に飾った。
来年も、再来年も、ずっとずっと、先生と一緒にいられますように。
シャロンは夜、寝台の上で胸に提げた石を握り締めながら、星に願った。