(3)
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アーサーは宮廷に研究室として一室を与えられていたが、それはアーサーの本意ではなかった。緊迫しつつある王国を取り巻く情勢を憂えた大臣らに懇願されて、アーサーは仕方なく宮仕えをしていた。
貴族の次男坊、三男坊の生き残る道といえば、他家に婿入りするか、軍人、医者、弁護士といった堅い職を選び、手に職をつけるか、商売を始めるかである。そしてアーサーのように魔法が使えるのであれば、選択肢はより増える。
アーサーは魔法大学校からも、このまま大学校に残り教鞭を執ってほしいと乞われていたが、さすがにその余裕はないと断っていた。シュイッドの森に家を構えたのは、大学校で教鞭を執りながら静かに誰にも邪魔されず研究活動に打ち込みたかったからであるが、夢や理想の生活は現実から遠く離れていた。
今回、シャロンのおかげでアーサーは久しぶりに帰宅した。湖畔に繁る豊かな森を選んだのは、薬草の多く採取できる植生が魅力的であったし、かつ大学校からもほどよい距離にあったからである。距離は、光の魔法使いにとれば些末な問題であったが、アーサーはこの家を書庫としても使いたかったため、本を多く積載した幌馬車であっても半日足らずで都心部と往復できるのはありがたかった。
「見えてきたぞ」
幌馬車の御者席で二頭の馬を操っていたアーサーが、隣に座るシャロンに声をかけた。シャロンは木々を駆け回る栗鼠に目を奪われていたところだった。この森には兎や栗鼠、鹿、狐など多数の動物が生息している。アーサーの腕に寄りかかりながら、待ちきれないように立ち上がってシャロンが背伸びをした。シャロンの髪が、木漏れ日に反射してきらりと光った。
三階建ての、煙突が備えつけられた古い家が見える。貴族の屋敷のような荘厳な装いの邸宅ではない。壁には濃い緑の蔦が這い、いかにも魔法使いが好みそうな趣の家である。前の住人は、土の魔法使いと聞いた。地下室が作られているのもアーサーの気に入りだった。
家の前で馬車を停め、アーサーがひらりと御者台から降りる。そのあとシャロンの両脇に手を入れ、彼女の躰を御者席から地面に下ろした。
家全体にかけていた光の守りを解く。目に見えぬ光線が幾重にも張り巡らされており、誰か不届き者が触れたら、触れたところが焼かれるようになっている。アーサーが編み出した光の高等魔法だった。
木で作られた四段ほどの階段を、アーサーがシャロンの手を取りながら上っていく。一段一段シャロンが階段を上るのをアーサーが待つ。シャロンは母以外の大人と初めて手を繋いだ。アーサーの手は、母よりも大きくて、力強かった。
アーサーが鍵を開け、扉を引くと、シャロンは家の中から魔力の流れを感じ、身震いした。アーサーの脚にしがみつき、びくびくとしながら暗闇を覗く。
「わかるんだな。魔法書から漏れている魔力だ。怯えることはない」
アーサーの魔力で、家の中に光が灯っていく。
シャロンの目の前に現れたのは、壁面いっぱいに本棚が並んだ空間だった。
「わぁ、すごい……っ」
口を開けて惚けながら、吹き抜け構造になった広い屋内をシャロンが見上げる。
本棚には可動式の梯子も備えつけられている。宙に浮けるアーサーには特に必要ないが、前に住んでいた魔法使いの置き土産だった。これからはシャロンが使っていくことになるだろう。
アーサーに手を引かれ、本棚の前まで来ると、アーサーが一冊の本を手に取って、シャロンに見せた。
「これは、本、という」
「ほん?」
「先人たちの智慧を、後世に伝えるものだ。本は学びにもなるし、時には逃避や慰めにもなる。お前の人生にも彩りを与えてくれるだろう。文字を、言葉を覚えれば、いつかこれらすべての書物を読めるようになる」
「ほんと?」
「ああ」
シャロンに手渡したのは、魔法使いとその娘が孤島に流され、十二年後に再起を図る物語だ。革表紙に金字で題名が箔押されている。
とりあえずアーサーは家の窓を開けて回り、新鮮な風を取り入れることにした。こもっていた室内の空気が清浄になっていくのを感じる。
アーサーは片づけが得意でない。床の上には、本棚に入れて整理する時間もなかった本が山積みになっていた。
今は生活のための家具も揃っていないため、ほぼ書庫、図書館の様相である。
手洗い場にはシャロンのための踏み台も必要だろう。
「……色々揃えなきゃなんねえなあ」
三階の、何も物を置いていなかった日の当たる小窓を備えた一室は、シャロンの部屋にいいだろうか、などと考えながら、再びシャロンの隣に立つ。シャロンはアーサーの渡した本を大事そうに両腕で抱えていた。
シャロンを椅子に座らせ、王宮からくすねてきた……もとい厨房に頼んでもらってきた焼菓子と果実水をおやつとしてシャロンに差し出す。だが椅子も一脚しかないし、今のままではシャロンにとって机に対して椅子の座面が低すぎる。物臭な自覚のあるアーサーは、シャロンの持っていた本で高さを出そうとしたが、シャロンがそこに座るのを嫌がったので、まったく使ったことのない自分の寝台から枕を持ってきて、それを座布団にした。
シャロンが菓子に夢中になっている間、アーサーは幌馬車に戻って、馬を厩に繋ぎ直し、水と飼い葉を与えた。この馬と幌馬車は宮廷の管轄であるため、明日使いの者が取りに来ることになっている。幌馬車の荷には、とりあえず宮廷の研究室に置いていた私物を詰め込んできただけであったが、よくよく見れば、明らかにアーサーのものではない踏み台や、幼児用の高椅子、食器、衣服などが積まれていた。――犯人はわかっている。
「……おっさん気色わりぃな」
口をついて出た言葉は乱暴だったが、アーサーの顔は笑っていた。
ロバートには、アーサーより十歳以上年上の息子と娘がいる。子どもたちは魔法使いではない。アーサーがロバートの弟子になったときは既に二人とも結婚していて、あまり接する機会はなかったが、末の弟のように気にかけてもらったのは憶えている。はたしてこれは彼らが使っていたものか。あるいはロバートの孫のものだろうか。
さらに、青灰色のローブが、大人用と子ども用の二着ある。宮廷に属さない魔法使いたちは、師と弟子で揃いの色のローブを身に着けるのが慣例だ。
これは――小さいほうのローブは、アーサーが以前着ていたものだ。こんなものまで取って置いていたのかあのおっさんは。
シャロンにはまだ大きいだろうが、いつかちょうどいい大きさになる日が来るだろう。
「食い終わったか」
すぐにでもシャロンが使えそうな諸々の品を室内に運び込む。シャロンは大きなカップを両手で持って、果実水を飲んでいるところだった。ロバートのおせっかいがなければ、子どもに適した大きさの食器があるということにも気づかなかったかもしれない。
シャロンの使った皿とカップはとりあえず厨の流しに置いた。洗うにはあとで井戸から水を汲んでこなければならない。
魔法は一見派手に見えて地味なものである。物語の中の魔法使いのように杖を使ったりしないし、一切の家事を魔法に任せることもできない。空気を操る風の魔法使いであれば、物を動かしたり、浮かせたりするのは得意だろうし、水を操れる魔法使いにとっては、皿洗いや洗濯も意のままであろう。そのためアーサーにとっては、魔法使い、というよりは、元素使いという呼び名のほうがしっくりくる。
ふとシャロンを見ると、菓子を食べて腹を満たしたことで眠たくなったのだろうか、こっくり、こっくりと船漕ぎをしていた。
椅子から転げ落ちないように、アーサーはシャロンを抱きかかえた。アーサーの肩口で、シャロンが穏やかな寝息を立てている。
弟や妹がいないアーサーは、子どもの体温がこんなにも高いことを知らなかった。
寝室には、まだシーツも掛かっていない寝台がある。とりあえずシャロンを寝台に下ろそうとしたが、シャロンの手がアーサーのシャツをしっかと握り締めて離さなかった。仕方がないので、アーサーは少し自分も横になることにした。
シャロンの寝顔を眺める。髪色と同じ、絹色の睫毛は長く、緩く上を向いている。シャロンの髪は少し巻き毛なのか、今は肩先につくかつかないかほどの長さであるが、もし伸ばすとしたらそれは艶やかで美しいものになるだろう。腕も脚も細いが、これから毎日食事を摂れば、徐々に健康的な子どもらしい体つきになるはずだ。
アーサーは、この歳で弟子をとる気なんて、更々なかった。ましてや幼女など。
ロバートがアーサーを弟子に迎えたのは、四十そこらの頃だったはず。自分ももし弟子をとるならそれくらいの歳になるだろうと青写真を描いていた。
だが、シャロンは選んだ。選ばれたのはアーサーのほうだ。
己の人生は、この命尽きるまで、この、小さな生き物を中心に回っていくのだろう。
「……何なんだろうな、これは」
シャロンの頬を指の背で撫ぜる。
自身の中で生じた感情に名前を付けることなく、アーサーは静かに瞼を閉じた。
その日から、シュイッドの森で、アーサーとシャロンの、二人の生活が始まった。
シャロンは毎日アーサーと過ごせることが、嬉しくて、楽しくて、仕方なかった。
毎日朝陽を浴びられるし、おいしい食事も摂ることができる。躰を洗って、衣類を洗濯できて、清潔に保つこともできる。
朝起きたときに、またあの洞窟に戻っているんじゃないか。全部、全部、夢だったんじゃないか。時折思い出して、夜中に目が覚めることがある。母の冷たくなっていく体温を思い出して、涙が溢れる。
でも、そんなときはいつだって、アーサーがそばにいてくれた。シャロンの寝台が三階の部屋に用意されてからも、シャロンが夜に魘されていることを知っていたアーサーは、シャロンが枕を抱えて自分の寝台に入ってくるのを止めなかったし、寝衣を涙や洟で濡らされても何も言わなかった。ただ、シャロンの背や腹に手を添え、安心して眠りにつくよう促していた。
幸い日中は、シャロンが過去を思い出すことも少ない。アーサーが文字を、たくさんの言葉を教えてくれる。覚えた言葉でシャロンはアーサーに初めて手紙を書いて渡した。「ありがとう」と、お世辞にもきれいとは言いがたい字で書かれただけの紙きれであったが、アーサーはそれを額に飾った。
シャロンは時計の読み方や暦の存在、季節の移り変わりを学んだ。アーサーの薬草採取について行くこともあった。ハイランドでは見たこともなかった動物が、草花がこのシュイッドの森には生きていた。美しい湖のほとりでアーサーと昼食を摂る。シャロンがパンを頬張る姿を見て、「栗鼠みたいだ」とアーサーは喉を鳴らして笑った。
言葉を覚えると、アーサーの蔵書整理も手伝うことができた。まだまだわからない単語は多いが、アーサーに訊けばわかりやすく意味を答えてくれるし、シャロンは自分で辞書を引くことも覚えた。言葉の海に溺れて、本に埋もれながら寝入ってしまったときは、いつの間にかアーサーに抱えられて、シャロンは寝台に運ばれていた。
夜寝る前、アーサーは絵本を、簡単な魔法書をシャロンに読み聞かせてくれる。シャロンはその時間がたまらなく好きだった。
歯磨きのあとは磨き残しがないか確かめてくれるし、仕上げ磨きをアーサーの膝の上でしてもらえるのも好きだった。
アーサーと暮らしていると、好き、が無限に増えていく。
櫛で髪を梳かしてもらえるのも、不器用ながらリボンで結ってくれるのも。爪が伸びてきたら切ってくれるのも。森の中で転んだら手当てをしてくれて、アーサーに背負われて家路についたのも。温かい背に安心したのも。
これが、大好き、ということなんだと、シャロンは知った。
「よし、できたぞ」
シャロンがシュイッドの森に来て、ひと月を過ぎた頃だった。
革紐に通された、七芒星の形に模られた、柔らかく発光する石をアーサーがシャロンの首に提げた。
この結晶魔石に、アーサーが日光と月光を繰り返し当てていたのを、ひと月の間、シャロンは見ていた。
そして、地下の実験室でアーサーが石に光の魔力を籠めていたのも、その眼でしかと見た。パチパチと光る雷光が神秘的で、美しかった。
石はシャロンの小さな両手に収まるほどの大きさだった。
触れると、ほんのりと温かい。
「いずれ必要のなくなる日は来るが、それまでの守り石みたいなものだ」
床に膝をつき、アーサーがシャロンと視線を合わせる。
「お前に、星の加護があるように」
頭にポンと手を置かれ、髪を優しく撫でられる。
人は、死んでも星にはならないとアーサーは一蹴していたが、わざわざ星の形に石を彫り、磨いたのは、シャロンのためなのか。この石を通して、父と母に語りかけてもいいのだろうか。彼らはシャロンを今もずっと見守ってくれているだろうか。
――アーサーは、ずっと温かい。
言葉はぶっきらぼうだし、めったに笑わないけれど、彼の行動はすべて、シャロンに対する気遣いで溢れている。
アーサーが目の前に現れたあの日から、アーサーは、ずっと、シャロンのすべてであり、光だった。