(2)
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夜中に目が覚めて、シャロンが身じろぎをすると、隣に寝ていたアーサーが起き上がり、「喉が渇いたか?」と水差しからコップに水を注いでくれた。
アーサーは、風呂から上がったシャロンの髪を、躰を拭いてくれた。新しい下着と服を着せ、夜風で乾かした髪を、櫛で優しく梳いてくれた。歯だって磨いてくれたし、手と足の伸びた爪を切って、やすりで整えてくれた。
村で見ていた男と、アーサーは、何もかもが違う気がした。粗暴で、粗野で、女に手を上げる男が村にはたくさんいた。力が強く、威張っていて、女や子どもを下に見ている男しかシャロンは知らなかった。アーサーと村の男は、言葉の発音は言わずもがな、使う語彙すら違う。子どもの目から見ても、アーサーは村長より位が遙かに上であろうことが伝わってくる。だのに、アーサーはシャロンと目線を合わせて、シャロンの言葉に耳を傾けてくれる。
シャロンが再び眠りにつくまで、アーサーも待つつもりらしい。アーサーの腕を枕にしたシャロンは、彼から伝わる体温をじかに感じていた。おそるおそる手を伸ばし、アーサーの胸に抱きつく。アーサーは少し驚いたのか、しばらく固まっていたが、シャロンの背に腕を回し、優しく抱きしめてくれた。
最後、母の胸に抱かれて寝たのはいつだっただろう。格子越しに、母の手の温もりは感じられたが、触れられた時間はほんのわずかだった。
アーサーから感じる温もりは、泣きたくなるほど、安心する。
息を殺さずに生きてもいい。ここで深く呼吸をしてもいいのだと思える。
この温もりを、手放したくない。
離れたくない。
この感情を何と呼ぶのか、シャロンはまだ知らなかった。
翌朝、アーサーの始動は早かった。まだ鶏が時を告げるよりも前に、戸をノックする音に起こされる。戸を開けると、フラフラになった光の魔法使いたちが息を切らしながら立っていた。ひと晩じゅう、土の魔法使いを交代で背負って空を駆けてきたのだろう。アーサーは、とりあえず休んで食事を摂れと命じた。二人の土の魔法使いには、そのあと厩で待つよう指示を出した。
店主から届けられた朝食をアーサーが丸机に並べていると、匂いが鼻を刺激したのか、シャロンが寝台から起きてきた。
「食べられそうなものだけ食べるといい」
椅子は一脚しかないため、アーサーは自身の膝にシャロンを座らせた。
用意されたのはアーサーからすれば簡単な朝食だった。しかしシャロンはこのように机に食べ物が並ぶのを見たことがなかった。スープにパン。ミルク。羊の腸詰めに燻製肉。目玉焼き。色とりどりの茹で野菜。シャロンが食べやすいように、フォークとナイフでアーサーがそれらを小さく切る。
シャロンはアーサーの洗練された手の動きをまじまじと見ていた。初めて見る、銀色のもの。シャロンは今まで、指で食べる者しか見たことがなかった。
アーサーはシャロンが、食べてみたいと指差したものを彼女の口に運んだ。腐っていない、臭いのきつくない肉を食べたのは、シャロンにとり初めてかもしれなかった。
食事のあと、もじもじしていたシャロンを見て察したアーサーは、彼女を厠にまで連れて行った。「生理現象は恥ずかしいものではないからさっさと言え」とぼやきながら。シャロンは、この気持ちを恥ずかしいというのか、と子どもながら理解した。
アーサーが着替え、黒いローブを羽織った姿を見ると、凛々しくて、頼もしくて、心がソワソワと浮き立つのをシャロンは感じた。
「昼には帰る。それまで待てるな? 宿から外には出るなよ。厠の場所はわかるな」
シャロンが頷くと、アーサーが魔法で、シャボン玉のようにキラキラと煌めく光の玉をいくつも見せた。「わぁ、わぁっ」とシャロンが感動の声を漏らす。光の玉に触れると、ほんのり温もりを感じた。光の玉は昼にアーサーが戻るまで消えず、シャロンの心を明るく照らしてくれた。
夥しい数の死体の埋葬を終えたあと、アーサーと光の魔法使いたちは村から最も近い町役場に降り立った。訛りのひどい首長が、びくびくとした様子でアーサーを出迎える。
「闇の魔法は収束した。領主と話がしたい。使いを出せるか」
「いやぁ……ええと」
「……何だ。何か問題があるのか」
ハイランドのある北部の統治は王都のある南部と半世紀前に併合された歴史があるだけにややこしい。併合と同時に、北部の王族は公爵にある意味〈格下げ〉された。北部の貴族たちは北部の公爵に忠誠を誓い、レオルグ国王を〈南部の王〉と呼び、傅く対象として認めていない者のほうが多い。ゆえに、宮廷からの再三の呼び出しにも応じず、対話の糸口すら摑めない。南部は南部で、粗野な北部の民を見下しており、両者の対立は根深い。
「領主様は、……呪いを避けるために、レインベルに行ってしまいやした」
レインベルとは、レオルグ王国第二の都市、併合前の北部の首都である。
つまり、領主は真っ先にレインベルに置いたタウンハウスに避難したということか。
アーサーの後ろに控える四人の魔法使いたちは、全員、何かを覚悟したような面持ちで、瞼を静かに閉じた。
「――呪いを、避ける、だと?」
「ひぃいい」
町長が、青筋を立てたアーサーの剣幕におののき、怯えの声を上げる。
「貴様らは、魔法と呪いと疫癘の区別もつけられないのか? いいか? この紫黒病は鼠から蚤、蚤から人間に伝播する。貴様らが今からすべきは〈呪い〉なんてものを鵜吞みにして民を怯えさせることではない。村々の衛生環境を徹底的に見直し、これ以上の伝播を食い止めることだ」
「鼠? の、蚤だって!? そんなのどこにでもいるでねっか」
「そうだ、どこにでもいるが? このまま放っておいたらどうなるかわかるだろうな。領主にそのまま伝えろ。疾く動け。当然、陛下や宰相には報告する」
「へ、へええ」
魔法使いの多く生まれる国とはいうが、それは南部のことを指す。もちろんシャロンのように北部で生まれる元素使いもいるが、北部は独自の宗教と呪術を信仰する氏族が多い。そのうえ、ロバートのいう〈啓蒙活動〉を南部の押しつけ、ありがた迷惑と捉える風潮がある。況や末端の、僻地の村にまで浸透するはずがない。
しかし、今回は首都のカレオンにまで情報が上がってきただけ、マシだったのかもしれない。いや、あまりの事の大きさに北部では手に負えないと判断したのだろう。北部が南部に併合された理由は、圧倒的な戦力差――魔法使いの有無であった。
「宮廷はいつでも貴様らの反乱を鎮圧する用意がある。三十年前のように反旗を翻そうとはゆめゆめ思うなよ」
アーサーは当然その内乱を知らないが、その頃の筆頭魔法使いはロバートである。顔に皺を刻んだ町長の記憶にも当然残っているだろう。町長はみるみるうちに顔色を失い、躰をびくびく震わせながら何度も大きく頷いた。
「おお、おかえり、アーサー。無事で何より」
カレオンの王宮に戻ると、ロバートが一行を出迎えた。シャロンは道中、アーサーの腕に抱きかかえられていた。アーサーの首に細腕を回し、きょろきょろと宮殿の装飾を眺めている。シャロンには、目に見えるすべてが新鮮だった。
「ほうほう。ほうほうほうほう。利発そうなお嬢さんだ。絹のような髪の毛に、橄欖石の美しい瞳」
「歯の浮くようなセリフを浴びせんな」
ロバートにまじまじと見つめられ、シャロンが怯えたようにアーサーの首元に縋りつく。その様子を見て驚いたのは、ロバートだけでなく、周りの宮廷魔法使いたちもだった。あの子ども嫌い、いや、人間嫌いのアーサー・ホリンシェッドが、子どもに懐かれている。しかも幼女に。
「養護院に紹介を頼めるか。結晶魔石を持たせれば、養護院でも暮らしていけるだろう」
「ふむ、なるほど。結晶魔石の作製にはどれくらいかかる?」
「ひと月もあれば」
養護院とは、シャロンのように市井で生まれた魔法使いを保護し、育成する機関である。十三歳になってからは魔法学園に、学園を卒業すれば魔法大学校へ通う道もある。
光の結晶魔石を持っていれば、光や闇の魔法使いでなくとも今のシャロンに難なく近づけるはずだ。いずれシャロンの力が安定すれば、その石も必要なくなる。
光の結晶魔石は石英に日光と月光、雷光を当て続けることで完成する。
逆に光の魔法使いには、闇の結晶魔石を持たせる。アーサーも幼い頃は、闇の結晶魔石を首から提げていた。魔法使いは相互に助け合いながら生きていると言える。
「ひと月か。それまでどうするんだ? 他の魔法使いに世話をさせるのか?」
「闇の魔法使いで、誰か適任はいるか?」
アーサーは魔法大学校の教授陣を何人か思い浮かべた。弟子として迎え入れられる者がいるなら、そもそもシャロンは養護院に入らずともよい。
生涯の師に出会えるなら、シャロンにとってはそれが一番いい。
ロバートは腕組みをして、うーんと悩ましげに唸り、上下左右に首を傾けた。
「いやあ、それにしても強い力だなぁ。油断していると引っ張られそうになる。うん。この子の前で平然とメシを食えるのなんてお前くらいだ。頼んだ」
「――はあ?」
生温かい笑みを浮かべたロバートから、ぽんと肩に手を置かれ、アーサーは思わず目を剝いた。
「闇の魔力の暴走を止められるのは光の魔法使いだけだ。知ってるか? 魔法大学校を卒業した魔法使いは必ず弟子をとらなければならない。次世代育成の義務というやつだ」
「だからって、俺まだ十七だぜ?」
「普通は十七で卒業なんかしないんだよ」
確かに、ロバートの言うように、同属性どうしは力を増幅させることはできるが、抑制することはできない。だが、シャロンが自分で力を制御できるようになれば話は別だ。実際、魔法使いが弟子をとるのは力を制御できるまでに育った子どもが多い。アーサーもロバートに引き取られたのは十のときだった。
「そもそも弟子にするったって、性別も、属性も違う。ありえないだろ」
さらに、魔法使いは、血縁以外の弟子をとる場合は、同性、同属性の弟子をとることが慣例である。ロバートの提案は、些か常識から逸脱していると言えた。
「そうかな? 規格外どうしお似合いだと思うがな」
「おっさんさっきから何考えてやがる……」
アーサーは、唸り声を上げる犬のように、犬歯を見せて歯を喰い縛り、ロバートを睨めつけた。
「――だって、この子は、お前を離したくなさそうだからさ」
ロバートがシャロンを指して、両肩を竦める。
アーサーは、はっと息を呑んで胸に抱きかかえていたシャロンを見下ろした。
シャロンは、アーサーの肩と背に両手を回し、きゅ、とアーサーのローブを握り締め、彼に抱きついていた。彼の肩口に顔を押しつけ、両者の会話を神妙に聞いていたようだった。
失態だ。シャロンの身の去就なんて、本人の前で話すことではなかった、とアーサーは今さら気づいた。
はあ、と息をついたアーサーが、シャロンの躰を床に下ろす。
片膝をつき、シャロンと視線を合わせ、アーサーは彼女に問いかけた。
「――シャロン。お前は、どうしたい」
きらきらと濡れた黄緑の、宝石のような瞳が、アーサーをまっすぐ見つめてくる。汚れていたときはわからなかったが、シャロンの髪は、確かに絹のように光り輝いていた。
「俺の弟子になって、共に暮らすか。ひと月後、養護院に行くか」
たった五つの子どもに選択肢を与えるのは、酷だろうか。いや、シャロンならば、わかるだろう。自分が真に望むことも。
シャロンは、もじもじと自身の服を握り、視線を落とした。言ってもいいのだろうか。昨夜生まれた想いを。口にして、言葉にしてもいいのだろうか。でも、アーサーなら真摯に受けとめてくれる気がした。
シャロンは、屈んだアーサーにおずおずと抱きつき、その首元に顔を押しつけながら、小さく自身の願いを告げた。
「……おにいちゃんと一緒がいい」
消え入りそうな声が、アーサーの耳に届く。アーサーはシャロンの背に手を回し、何かを決心したように「――わかった」と頷いた。
ロバートを筆頭に、生ぬるい目が、数多く周囲から向けられていた。
再びシャロンを抱き上げたアーサーが、目を眇めながら、満面の笑みを浮かべる。
「俺はシュイッドにこもるが、いいんだな」
「げっ」
アーサーの突然の宣言に、ロバートが思わず、といった様子で声を漏らす。シュイッドにこもるということは、宮廷魔法使いを辞するという意味だ。弟子をとった魔法使いにとっては、弟子の育成が最優先である。現に昼夜問わず任務に駆り出される宮廷魔法使いは、弟子をとる前の若手や、弟子が既に一人前になって独り立ちした魔法使いたちで構成されていた。
「魔法大学校には顔を出す。だが宮廷業務は請け負わないからな」
そもそもアーサーは社交が嫌いである。接触を必要最低限にとどめ、王侯貴族と関わらなくてもよくなるのは万々歳だった。
「あれ。俺また自分の首を絞めた?」
「知るか。ばーか」
んべ、と舌を出してアーサーがロバートに悪態をつく。ロバートが両手で自身の下瞼を、頬を引き下げて苦悩に顔を歪める様がおかしかったのか、シャロンが鈴のようにころころとした笑い声を上げた。