(1)
「名は何という」
「シャロン……」
「家名は?」
「かめい?」
アーサーはシャロンを自身のローブで包み、宙に飛び立った。名を尋ねてから、アーサーは自分が貴族の常識に染まっていることを突きつけられた。庶民は貴族のように家名を名乗らない、あるいはもたないことを失念していた。
「……歳は」
「五さい」
「――ホリンシェッド様、パンとスープをご用意いたしました」
バスケットを手に持った光魔法使いが前方から現れる。アーサーは魔法使いたちと共に森の中に降り立った。村をかなり離れた宿場まで使い走りに回されていた魔法使いはどれだけアーサーに「急げ」と脅されていたのか、肩を上下に大きく動かして息をしており、額には玉のような汗が浮かんでいた。
アーサーは切り株の上に腰を下ろした。バスケットにはカップに入ったスープと、パン、イゼルネの実が入っていた。
温かいスープをシャロンの口に少しずつ含ませる。何日ぶりの食事だったのだろうか。意識を保つのも難しいのか、瞼を重そうにしていたシャロンが、スープを口に入れ、飲み込んだ瞬間、その味と温もりに驚いたのか目を見開いた。細く小さい喉を上下させ、んくんくとスープを飲み干していく。アーサーはシャロンの生きようとする力を目の当たりにした。
パンを小さく千切ってスープに浸し、食べさせる。腹を膨れさせると眠たくなったのか、トロンとゆっくり瞬きをして、すうと、シャロンはアーサーの腕の中で寝入った。イゼルネの実は起きたあとにでも食べさせればいい。
これでようやく一命をとりとめることができたのか。アーサーや周りの魔法使いも、安堵の息をついた。
宿場に到着した一行は、厩で村に入る前に置いていた替えの服に着替え、靴を履き替えた。身に着けていたものはすべて大釜で煮て、煮沸しなければらない。万が一にも王都に疫病を持ち込むわけにはいかなかった。
「セシル、シャロンを風呂に入れてくれるか」
「えっ」
今この場にいる光魔法使いの中で、唯一女であるセシルにアーサーは頼んだ。それが妥当であるとの判断だったが、セシルは「それが、その……」とアーサーから気まずそうに目を逸らした。その態度を訝しむようにアーサーが眉を顰める。
「あの、お役に立てず不甲斐ない限りですが、私は、この場に立っているだけでも精いっぱいで……。病の感染を恐れてとかそういうのでは決してなく、その……」
セシルの、喉から絞り出したようなか細い言い訳に、ああ、とアーサーは首肯した。自分より力ある存在を目の前にしたときの、魔法使いの本能的な恐れである。しかも闇の魔法使いは光の魔法使いの天敵。周りを見渡せば、みな顔色が悪く、冷や汗を浮かべていて、普段通りでいるのはアーサーくらいなものだった。シャロンに直接触れるなど、無理な芸当であろう。
じっ、と四人の魔法使いからもの言いたげにアーサーが見つめられる。
「――俺が入れんのか?」
こくん、とみなが頷いた。
この魔力酔いを中和させる方法はある。光の魔力を籠めた結晶魔石をシャロンに持たせるのだ。しかし、作製にはひと月余りを要する。アーサーは思わず、「チッ」と舌を打った。
「……土の魔法使いを二人、抱えて戻ってこい。早急に、大量に、村人たちを埋葬しなければならないからな」
「は、はいっ」
アーサーの命令を受けた四人の光魔法使いが、文字通り光の速さでその場を飛び去った。
魔法使いは、完璧な実力社会である。年齢や家格、性別などは一切関係がない。ゆえに、いかに年下であろうが筆頭魔法使いたるアーサーの言は絶対であった。
宿場の店主に風呂を用意させている間、起きたシャロンにイゼルネの実をアーサーが剝いて食べさせてやる。イゼルネの果実は、赤く熟れていて、甘く瑞々しい。シャロンは口の中に広がる甘味に感動したのか、目を輝かせながら「おいしい」とこぼした。
宿場は店主にいくらか金貨を握らせて貸し切っている。それでも、シャロンを抱えたアーサーの前で、店主は一度嘔吐した。明らかに貴族の雰囲気を醸し出しているアーサーの前での粗相に店主は顔面蒼白であったが、アーサーは「……ひと晩だけ世話になる。子どもの服と靴があれば、用意してほしい」と粗相には一切触れず、何食わぬ顔で告げた。〈覚醒〉したシャロンの力は、魔力に耐性のない者からすれば、無味無臭の毒と言っても過言ではなかった。
ここに水と火の魔法使いがいれば、風呂焚きもお茶の子さいさいであろうが、魔法使いは自身が使える以外の他の元素を思うように使うことはできない。それが当然と言えば当然であり、得意、不得意というより、できる、できないの話だった。
宿に浴場は一つである。子どもが二人ほど入れそうな大盥には熱い湯が張られていた。
「……服は、自分で脱げるか」
「うん」
シャロンはおそらく賢いのだろう。何も訊いてこないし、訊かれたことには答えてくれる。おとなしく、周囲の様子を見ている。子どもはわけもなく泣いて喚く小うるさい生き物だと思っていたアーサーの認識は、シャロンに出会ってから改めさせられた。
アーサーはシャロンの着ていた、服とも言えぬ汚泥にまみれた麻布のワンピースを洗濯桶に入れた。おそらくシャロンの母が繕ったものであるに違いない。そのまま捨てるには忍びなく、下着も同じくその上に重ねた。
服を脱いだシャロンを前にして、アーサーは思わず息を呑んだ。
あばら骨と、背骨が浮き出ている。
長く陽光にも当たれず、水浴びもできていないのだろう。肌がくすんで、不健康に青白い。
顔には出さないようにしたが、アーサーは村人全員を殴り飛ばしたい衝動に駆られた。……まあほぼ死に絶えたが。
ざまあない、とアーサーは心の中で悪態をついた。
――人は、人に対してどこまで非情になれるのか。
アーサーは、きれいごとが嫌いだった。この世は最初から不平等で、不公平で、不条理だ。貴族に生まれたからにはその責務は果たすが、貧乏人がどう生きようと知ったことではなかった。
だが、いわれない悪意をぶつけられた、か弱き存在をこうして目の前にすると、言葉が何も出なくなる。所詮、己は世間知らずの坊っちゃんなのだと、痛感させられる。
「目をつむれ。口で息をしろ。わかるか?」
「うん」
シャツの袖とトラウザーズの裾をまくって、アーサーが大盥の前に膝立ちになる。子どもを洗ったことなど一度もないが、やるしかない。
木桶で盥から湯を掬い、シャロンに掛け湯をしてやる。海綿と石鹸をこすり、泡立たせ、シャロンの躰を洗った。髪は一度の洗髪では泡立たず、三度目にしてやっと流した湯が汚れで濁らなくなった。流れる湯の中には小さな虫も何匹かいた。
「父親は……、他に家族はいるのか」
こざっぱりしたシャロンを盥の湯の中に座らせる。盥の縁に両手をかけ、湯に浸かったシャロンは、ふわあと気持ちよさそうに声を漏らした。それとは反対に、はあ、と溜め息を吐きながらアーサーが小さな木椅子に腰を下ろす。アーサーにとっては、模擬戦闘で十人抜きをしたとき以上に疲れを感じた。主に気疲れであるが。
シャロンに尋ねたのは、あの父子を思い出したからだった。死に倒れていたのは、もしかすればシャロンの家族だったのかもしれない。
「ううん。おかあさんとふたり」
シャロンが首を横に振る。「そうか」とアーサーは相槌を打った。
「おとうさんは、空にいるって。お星さまになって、みてくれてるって。おかあさんが」
「……人は星にならない。くたばったら土塊になるだけだ」
濡れた手でアーサーが自身の前髪を搔き上げる。アーサーの返答にシャロンは驚いたのか、瞳を大きく見開いた。おそらくロバートがここにいれば、アーサーの後頭部を勢いよく叩いていたに違いない。だが、真実はいつだって残酷なのだ。子どもだから何もわからないなんてことはないはずだ。
泣くか、と思ったが、シャロンはすぐには泣かなかった。ぽろぽろと涙をこぼしたのは、母を思い出したからのようだった。
「……シャロンが、悪い子だから、おかあさん、しんじゃったのかな」
ひっく、ひっく、と喉を鳴らして、シャロンは泣いた。もしかしたら、今の今まで泣くのを我慢していたのかもしれない。湯に温められ、緊張がほぐれてやっと、アーサーの前で感情を吐露できたのだろう。
「――シャロン。お前は、呪い子なんかじゃない」
アーサーは手を伸ばして、シャロンの涙を親指でぐいと拭った。
「お前は何にも呪われていない。少しも悪くない。村を襲った病はお前のせいなんかじゃない。村人が無知で、愚かだったんだ」
頬に添えられたアーサーの手に、シャロンが縋るように頬をこすりつけ、その手を自身の小さな両手で包む。ひぃん、と声にならない小さな叫びがシャロンの喉から漏れる。彼女の涙は止まらなかった。
誰かに言ってほしかった。ずっと。お前は悪くないよ、と。お前も、お前を産んだ母も、悪くない、と。
「お前の力は、闇の力という。今は制御が難しいかもしれないが、使い方を覚えれば、この国最強の魔法使いにだってなれる」
まほうつかい。シャロンにとっては、聞いたことのない言葉だった。ひっく、と喉を鳴らしながら、「まほうつかい?」とシャロンは復唱した。
「おにいちゃんも、まほうつかい?」
「ああ」
「……シャロンも、おにいちゃんみたいに、なれる?」
「なれるさ。必ず」
安請け合いなどではなかった。シャロンの力は、宮廷に属する魔法使いでさえ、恐れるほどのものだ。
然るべき師に出会い、然るべき学びと経験を得られたら、アーサーの力さえ及ばぬ闇の魔法使いになるかもしれない。
シャロンの濡れ髪をわしゃわしゃと撫でてやる。シャロンは、嬉しそうに笑みをこぼしていた。