(2)
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シャロンは、魔法大学校の四年生として無事復学することができた。シャロンにとって嬉しい報せだったのは、シャロンが失踪した秋にカレンが大学校に合格していて、彼女と最終学年をともに過ごせることだった。カレンは六年制の魔法学園に四年間通ったあと、大学入試に挑戦した。シャロンを驚かせようと、合格するまで秘密にしていた間にシャロンが闇の魔法の実験で姿を消したと知って、カレンは号泣し、しばらく茫然自失の日々を送っていたらしい。二人は再会したときに、涙ながらに抱き合って喜び、その日シャロンはカレンの寝台で一緒に眠りについた。カレンだけでなく周囲にも秘密にしておかなければならないが、今のシャロンはカレンよりも一つだけ身体年齢が上回っていることになる。でも、そんなことは些末な問題で、シャロンは再びこうしてカレンと語り合い、笑って、勉学に励むことのできる日々が送れる幸運に感謝した。
復学当初は研究にひたすら没頭していた四年前の記憶を手繰り寄せなければならなかったけれど、すぐに頭は切り替えられ、シャロンは再び研究に夢中になった。
それからシャロンは無事に三つの論文を書き上げ、今日という卒業の日を迎えた。カレンは地学を修め、シャロンは物理学と言語学、薬学の三つの専攻を修めた。
この日だけは、普段、色とりどりのローブを身に着けている学生たちが全員、黒の式服に着替える。黒の房飾りが付いた角帽を被っている卒業生の顔は、喜びと安堵で満ち溢れていた。シャロンは首席卒業のため、角帽に付いている房飾りがひとりだけ金色だった。
「――で、告白はしたの?」
式典の最中、カレンからヒソヒソと話しかけられ、シャロンが首を横に振る。カレンはシャロンがアーサーに想いを告げる日々を今か今かと待ち侘びているらしい。大方、アーサーに自分の気持ちは伝わっているような気はしているものの、カレンからは「ちゃんと、男性として好きだって伝えるのよ」とシャロンはいつも念を押されていた。
えーっ、とカレンが大げさに口を歪めてみせる。思いのほか彼女の声が響いたので、しーっ、とシャロンは唇に人差し指を当てた。
いっそう声を小さく潜ませたカレンがシャロンの耳元で囁く。
「まだしないの? もう二人、すっごいお似合いじゃない」
「……そう、なのかな」
「そうよ! この前なんか、もうほんとドキドキしちゃった!」
この前、というのは一日中開放されている大学校の図書館で夜遅くまでシャロンが論文審査に向けた準備に励み、仮眠をとっていた日のことである。ソファで寝落ちしていたシャロンは、いつの間にかアーサーの膝枕で寝ていた。シャロンを迎えに来たアーサーは、よく寝ていたから起こさなかったとのことだが、その間にカレンから目撃されていたというわけだ。
「アーサー様は静かに本を読まれていてね……でもシャロンにはご自身のローブを掛けていらしたの。私に気づいたアーサー様が何も言わずにウインクをされたのが、もう……もうもうもうほんっとうにかっこよかったわ……あ、このかっこいいというのは一般的な感想だからね。あなたの想い人に懸想しているとかじゃないから」
その情景を思い返しているのか、カレンが両頬に手を当てて、うっとりとした表情を浮かべる。シャロンはカレンに、アーサーとお似合いだと言ってもらえたのが、正直とても嬉しかった。
「ほら、アーサー様がシャロンを見てる」
講堂の壇上には教授陣がずらりと座っている。正面に視線を移すと、確かにシャロンはアーサーと目が合った。私語が目立っているのかとシャロンは一瞬ヒヤリとしたが、カレンと一緒に卒業式に出席するシャロンのことを、アーサーは微笑ましそうに目を細めて見ていた。
「断言するわ。あれは、アーサー様も恋をしている目よ」
おっほほ、とカレンが口を片手で覆いながらほくそ笑む。正直、シャロンには恋をしている目か、していない目かなんて違いがわからなかったけれど、もしアーサーが、シャロンの想いに応えてくれるとすれば、それはどんなに幸せなことだろう、と思った。ちなみに、カレンは恋愛に百戦錬磨のようでいて、純愛を夢みており、貴族令嬢らしく乙女の操は守っていた。
式典のさなか、総代の辞を恙なく終えたシャロンに、割れんばかりの拍手が贈られる。
講堂からほかの卒業生と一緒に退場するなか、シャロンは振り返り、教授陣が身に着ける式服をまとったアーサーを目がけて走り出した。
真っ先にアーサーのもとに駆け寄り、シャロンが人目も憚らず勢いよく彼に抱きつく。
「――卒業おめでとう、シャロン」
いつかの中庭で受けとめてもらったみたいに、アーサーがシャロンを抱え上げる。周囲からはヒュウと高い口笛が飛び、シャロンはアーサーに抱き上げられたまま、風の魔法で花々が舞う空の下を彼と一緒に笑いながら潜った。
確か、あのとき初めてアーサーの体躯を意識し、ドキドキしたのを思い出す。そのときと同じように新鮮で、でも今はもっと深い想いを、シャロンはアーサーに抱いていた。
シャロンはアーサーに、ずっと恋をしていた。
しかしその日の夜から、シャロンは卒業論文に根を詰めすぎていたのか、緊張の糸が切れたように寝込んでしまった。
高熱に魘されるシャロンをアーサーが甲斐甲斐しく看病する。さすがに幼い頃に熱を出したときのように着替えさせられはしなかったが、シャロンは汗の搔いた肌着を脱ぎ、アーサーの用意してくれた蒸しタオルで躰を拭いて、同じくアーサーに用意された新しい寝巻に着替えた。ふう、と不快感が拭われ、再び眠りにつく。二日目には熱も下がり、三日後にはシャロンも完全に復活した。
「……第三皇子が、快復したのなら見舞いに来たいと抜かしやがったが、断った」
「ああ、はい。ありがとうございます」
様子を見に来たアーサーが、シャロンの寝台に腰かける。シャロンは夏用の薄手の掛布団から出て、アーサーの隣に自分も腰かけた。
あれからジルは、時折シャロンのもとを公務の合間を縫って訪ねてくるようになった。シュイッドの森の家は、ジルを問わずシャロン以外の人間は出入り禁止のため、ジルは魔法大学校に現れるようになった。それは食堂だったり、図書館だったり、研究室だったりした。そのたびに、ジルの闇の魔法を感知したアーサーが追い払いに来るのだが。
「――よかったのか?」
「……ええ、まあ」
なんだろう。歯切れが悪い。
シャロンが訝しげに眉根を寄せて答えると、アーサーは珍しく何かを迷うように口を噤んでいた。しばしの沈黙を経て、アーサーが口を開く。
「――イヴァンに渡ってからのことを、話してくれるか」
それは、アーサーが本当は、ずっと、シャロンに訊きたかったことだったのかもしれなかった。だが、シャロンが研究に熱中している間は、気を遣ってくれていたのだろう。シャロンは「――はい」と頷き、訥々と過去に渡った日からアーサーと戦場で相まみえた日までのことを話し始めた。
ソール地方に向かう船の上で、ジルに出会ったこと。ジルの副官として各地を回ったこと。初陣は、ジルの補佐ではなく、主に救助に当たっていたこと――。
「……俺の攻撃は、どれくらい受けたんだ」
「……えっと……何度か」
違う。本当は、何度も、だ。
今でも、あの凄まじい雷撃をシャロンは憶えている。正直なところ、何度自分が死んだと思ったかすらわからない。それが暗に伝わってしまったのか、アーサーは顔を青ざめていた。両目を片手で覆い、はあ、と息を短くついてアーサーが俯く。今、具合が悪く見えるのはどちらかと問われたら、十人中十人がアーサーと答えそうなほどに、彼は気を落として見えた。
「先生、あの……」
「……続けてくれ」
口を手で覆い、戦場の日々を思い出しているように、アーサーが空を静かに見つめる。シャロンは今でも戦場のことを夢にみる。目を背けたくなるような凄惨な光景を、鉄と硝煙の混じった臭いを、鼓膜が破れそうになるほどの轟音を、硬直した死体を運ぶときの重く冷たい感触を。
「……何が、最善なのか、……私には、わからなくて」
「当然だよ。十七のときの俺も、国家間の戦争の行く末なんて予測できなかった」
アーサーがシャロンに視線を移し、肩を竦めてみせる。とはいえ、アーサーであれば、もっと効率的に、かつ効果的に動けたのだろう。シャロンはずっと迷って、考え倦ねた結果、ジルとアーサーを戦場で引き離すことしか思いつかなかった。
束の間、沈黙の時間が流れる。アーサーとの沈黙はまったく苦ではない。ただ、シャロンはひとり緊張していた。なぜかそのとき、卒業式で語り合ったときのカレンの表情が脳裏をよぎった。
――あれ、……今か?
今が、アーサーに想いを伝える、絶好の機会なようにシャロンは思えた。
「先生、あの」
「ん?」
アーサーがシャロンの顔を窺うように、小首を傾げる。
――なんで、こんなに優しいんだろう。
この人の、こちらが話し出すのを、ゆっくり待ってくれる姿勢が好きだ。
優しい表情が好きだ。
皮肉に口の端を上げて笑うのも、片眉を生意気な少年みたいに上げて笑っているのも好きだ。
「先生、私、先生のことが、好きです」
あの……男性として。
ちゃんとそこは念を押せた自分を、無性に褒めてあげたい気持ちになる。もしカレンがこの場にいたら、「上出来よ!」と褒めてくれたことだろう。
「その、五歳の頃から先生にお世話になっていて、先生は、私のことを、女として見られないのはわかっています。……私が、先生のことが好きだとはっきり自覚したのは、十三のときでした。学園に入って、カレンと話していて。……いや、もっと前かもしれません。それこそ、五歳のときから、先生は私のすべてでした。……あと、結婚をするのか、と先生に尋ねたことがありましたよね。そのとき、私、分不相応にも、イヤだと思ったんです。先生に、誰よりも大切な存在ができて、先生の隣に並べる人を想像したとき。胸が張り裂けそうに苦しくなったんです」
両腿の間に置いた自身の手に視線を落とし、シャロンは言葉を懸命に紡いだ。
「先生を、どうしても喪いたくなくて、先生のことが好きで好きでたまらなくて、禁術を犯すのになんの躊躇もしなかった」
顔を上げたシャロンの眦から、透明な雫が流れ、頬を音もなく伝っていく。
「先生が、生きてくれているだけで、幸せなんです。先生がいる世界だけでいいんです」
シャロンがアーサーのほうを向き、えへへ、と眉を下げて笑う。
すると、シャロンの世界が、突然反転した。
アーサーから、寝台の上に押し倒された、と気づいたときには、彼の顔が目の前に迫っていた。
「あんま可愛いことを言うな。ばか」
どうしてくれるんだ……。
シャロンの手首を握るアーサーの手が熱い。シャロンから一瞬顔を背け、再びアーサーと目が合う。耳が紅く染まっているアーサーをシャロンは初めて見た。
「俺もお前が好きだよ。世界で一番、大切に想っている」
アーサーが、ふ、とシャロンを安心させるように顔を綻ばせる。シャロンは、アーサーが吐露してくれた想いが信じられなかった。これは、自分にとって都合のいい夢なのではないかとさえ思った。でも、彼から伝わる熱が、真摯な眼差しが、それを現実だと告げていた。
とめどない涙が、シャロンの瞳からこぼれ落ちてゆく。
「……ただ、正直に言えば、頭が追いつかない部分もある。だって、十四だった娘が、いつの間にか成人して目の前に現れたんだ。……お前の成長を、見たかった。お前が歩む路に落ちた小石だって事前に拾ってやりたかった」
顔を少し曇らせたアーサーが「……それに」と慎重に言葉を続ける。
「――刷り込みみたいな、ものだから。お前が頼れるのは、俺しかいなかった」
あのとき、シャロンの命を救い、力が溢れるシャロンのそばで彼女を世話できたのは、アーサーしかいなかった。シャロンが純真無垢に自分を慕ってくれるのは、親代わりのようなものだとの気がかりがアーサーの中では拭いきれなかった。
シャロンが、アーサーの懸念に首を横に振って答える。
「先生、違います。私は選べたんです。先生は、選ばせてくれた」
シャロンは決して忘れていない。王宮で、五歳のシャロンと視線を合わせ、アーサーがシャロンに問いかけた日のことを。
あのとき、自分で、自分の運命を決めたことを。
「私が、先生を選んだんです。先生は、私の光です」
シャロンが手を動かし、アーサーの両の頬に触れる。
「大好きです」
はにかむように、シャロンが笑う。
そんな彼女を見てアーサーは一瞬、言葉を失ったのか、視線を逸らし、……はあ、と何かに耐えるように深く息を吐いた。
もう一度シャロンを正面から見たアーサーが、シャロンの額と自身の額をくっつけて笑う。鼻先をこすり合わせ、二人の唇が重なった。
額に、瞼に。アーサーの口づけが降ってくる。あまりにも愛おしそうに触れてくれるから、シャロンは自分が宝物になったような、あるいは壊れ物になってしまったかのような心地がした。
病み上がりのシャロンに気を遣ったのか、アーサーは口づけ以上のことをしようとはしなかった。でも、その日はシャロンがアーサーに一緒に寝たいとねだったので、二人は久しぶりに同じ寝台で眠りについた。だが、シャロンがすやすやと安心したように眠る横で、アーサーが一睡もできなかったのは、言うまでもない。




