(4)
*
「殿下」
「そろそろジルって呼んでよ」
「……皇子殿下、最近のレオルグ軍の動きに、少々違和感を覚えました」
「つれないなぁ。――続けて」
この二か月、ジルとシャロンはレオルグ軍の魔法使いの動きに翻弄されていた。レオルグ軍は的確に〈賢者の石〉の配備情報を読んでおり、その合間を縫うように着々とイヴァン軍の歩兵の数を減らしてくる。帝国の魔法使いは歩兵の盾となるべく王国の魔法使いの後を追うが、王国もさらに戦力となる魔法使いを本土から投入しているのか、彼らの畳みかけるような猛攻が続いていた。
「ホリンシェッドは殿下と正面から相対するのを避けたいのでしょう」
「なぜ?」
「殿下の力は脅威で、あなたを足止めできれば、レオルグ軍の損害が減るのは事実です。しかし、それではいつまで経っても戦争が終わらない。イヴァン軍の最大の武器は歩兵です。私がホリンシェッドであれば、補給路を潰しに行きます。補給拠点には、光と風の魔法使いが空から向かうはずです」
イヴァン軍もレオルグ軍の強襲に応戦するため、大陸中からどんどん兵士を集めている。兵士だけでなく、植民地の防衛に当たっていたマクシム第二皇子やそのほかの要所に配置していた魔法使いたちまで、ソールの地に結集させていた。
「なるほど。ならば、ホリンシェッドが一番嫌がることをしよう」
ふむ、とジルは自身の顎に手を当てて考えながら、シャロンの読みに一票を投じた。
「ミランダ。補給拠点の守備に当たれ」
その命令は、シャロンの予想の範囲内だった。だが、これは一種の賭けでもあった。
ソールへの侵攻が再び始まって、疾うに秋は過ぎ、冬の終わりが近づいて、辺りではウォーティアが花芽を付け始めている。シャロンの知るアーサーの死が、着実に近づいている。
アーサーの訃報が王国に届くまでは、彼の行方を探す期間を含め、数週間かかったのかもしれない。
シャロンの目的は、アーサーとジルを引き離すことだった。
もし自分がアーサーの標的を先読みできれば、ジルとアーサーが対峙する瞬間を少しでも潰せるかもしれない。
「君はホリンシェッドが僕を避けていると言ったが、僕は君を避けているのではないかと思っていたよ。僕と相対したときに、眉の一つも動かさなかった奴が、即座に撤退した。これを利用しない手はない。……一度あることは二度あるか、確かめたい」
ジルは眉根を寄せて、奥歯を噛み締めていた。まるで、本心とは真逆のことを語らなければならない立場を懊悩するように。
「僕もなるべくホリンシェッドの足止めをしたいが、あいつ光速で動けるだろう。しかも雲の上の上をだ。〈賢者の石〉が配備されていない歩兵を狙う魔法使いの群れも見逃せない。それらを掃討次第、補給拠点に僕も向かう。それまで耐えてほしい」
ホリンシェッドと真正面から戦わせる、ということが、どういう意味をもつのか、ジルはわかっているはずだ。
仮にも求婚した相手に「死地に向かってくれ」と言えるだろうか。
「ミランダ。僕を赦さないでいい」
ジルがシャロンの頬に手を置き、眉尻を下げて笑う。
ゆっくりと近づいてくる彼の顔を避けなかったのはどうしてか、シャロンにもわからなかった。
触れるだけの口づけが交わされ、ジルが離れる。
二人の目が合わないまま、ぎゅっときつく抱きしめられた。
――ああ、この人は、生まれながらにして、皇子なんだ。
シャロンはなぜか、安心した。
大勢の兵士の命と想い人で天秤をかけられたときに、彼は一切の私情を捨てられる人なのだ。
ジルに想いを告げられてから八か月は経っただろうか。真摯に向けられてきた彼の想いを、既にシャロンは疑っていなかった。彼女の心に、確かに届いていた。
だが、シャロンは己の私欲でしか動いていない。自らの目的のためならば、何を犠牲にしてもいい。そんなことしか考えていない愚か者だった。
過去に固執する愚者と、未来を静かに見つめる皇子。呪い子として蔑まれた者と、皇族に生を受けたがゆえに、死ぬまで国に縛られる者。二人の共通点は、ただ闇の魔法使いとしてこの世に生まれたことだけだった。
遠くから雷鳴が聞こえる。
空がだんだんと暗くなってきた。
前線に物資を供給するための補給拠点には、帝国軍に志願した十代の若者たちで構成される幼年部隊が配置されていた。彼らの奮闘する姿を見て、いつかの自分も、アーサーの力になりたい一心で、その役割を買って出ようとしていたことを、シャロンは不意に思い出した。
足音を忍ばせるように、遠雷が徐々に近づいてきている。
――近い。
シャロンが上空から光の魔力の波動を感じたとき、大地を一面に覆うように闇を広げた。
辺り一帯、目に見える範囲すべてを狙った雷霆が、絨毯上に広がる。
それらを必死に受け止めるが、いくつかの光がすり抜け、兵士が次々と霹靂に巻き込まれていった。
シャロンは両手を空に掲げたまま、大きく呼吸を繰り返した。一度の攻撃を防いだだけで、息が上がっている。手が痺れ、震えが止まらない。
あと何度、あの攻撃を受けきれるだろう。防ぐことが、できるのだろう。
しかし、シャロンの読みは当たったと言える。この、すべてを巻き込むような雷撃を行使できる光の魔法使いは、敵も味方も含め、アーサーしかいなかった。
シャロンが息を整える間もなく、王国軍の風の魔法使いによって竜巻が引き起こされ、物資や兵が巻き上げられていく。
土の魔法使いが頑丈に作り、今も力を籠めて守っている塹壕に、兵士が逃げ込んでいくのをシャロンは尻目に見た。
――使い手は、どこだ。
先生はどこだ……っ。
視線を空に動かした瞬間、世界が真っ白に光る。
と同時に躰を闇と同化させたのは無意識だった。
耳を劈くような轟音が、遅れて聞こえてくる。
シャロンが次の呼吸をしたとき、逃げ遅れた少年兵や、塹壕を守っていた土の魔法使いたちが地に伏して倒れているのを見つけた。自分の身を守るのに精いっぱいで、また守れなかった。
心臓が大きく鼓動し、シャロンは目の前のすべてを闇に染めていった。
辺りは夜の帳が下りたように暗くなり、高く、高く逃げていく光と風の魔法使いたちを影が追いかける。シャロンは影を半球型にして彼らを囲い込み、風呂敷で包むように捕まえ、一瞬のうちに無に帰した。
まるで、元から何もなかったかのように。
彼らがどうなるのか、どうなったか、闇の魔法使いも知らない。永遠に奈落をさまよい続けるのか、人の躰が目にも見えぬほど小さく圧縮されたかもわからない。
竜巻も、雷撃も止んでいた。補給拠点を急襲する魔法使いを一掃するのにシャロンは成功した。
ただひとりを除いて。
上空に、最強の光の魔法使いが佇んでいる。
アーサーに闇の触手が届いていないのはわかっていた。彼に速さで敵う魔法使いなどいない。
ただ、肩で息をしているようだった。仲間を一瞬にして喪ったことで、心が乱されているのだろうか。ゴーグルも、マスクも外されていた。
アーサーの素顔を見るのは、何年ぶりだろうか。
シャロンはもう一度、影を広げた。いつ雷撃が来ても受け止められるように。
が、アーサーに一瞬で追いつかれ、影と同化するのも、闇に潜るのも間に合わなかった。
光る手に腕を捕まれ、死を覚悟したとき、最後の力を振り絞るように、ありったけの魔力でアーサーを撥ね除ける。
声を上げる暇もなかった。
ゴーグルはいつの間にかどこかにいってしまった。
「シャロン、なのか」
アーサーは、シャロンの魔力を初めて全身で浴びた。
殺意の籠められていない魔力に触れ、アーサーが導き出したのは、一つの答えだった。
一瞬でシャロンの闇の魔法を霧散させ、アーサーが問う。
シャロンは、闇を広げ、アーサーを覆った。
再び霧散される。
「〈闇の回廊〉を、抜けたのか……っ」
――どうして。
アーサーに摑まれた腕が、熱い。
シャロンは視界が滲んだことで、自分が泣いていることに気づいた。
これ以上、ここにはいられない。撤退だ。
空間転移を行おうと闇の魔法を発動させる。
だが、それは許されなかった。
瞬時に厚い雲を幾層も越え、遙か上空にまでアーサーがシャロンを連れて飛ぶ。
「シャロン、話せ。何があった」
――どうか、もう、呼ばないでほしい。
アーサーの片腕で腰を力強く支えられ、頬には手を添えられ、マスクがずらされる。
「誰にも見られない。誰にも聞こえない。話せ」
背けていた顔を容赦なく正面に向き直され、アーサーと視線が交錯する。
懐かしい、銀鼠色の瞳が、揺らいでいた。
「俺を信じろ」
その一言で、シャロンの中でずっと張り詰めていた何かが決壊した。
「せん、せ……」
か細い声を漏らし、シャロンが顔を歪める。
彼女の瞳の色と声を間近で確かめたアーサーが、はあ、と深く息を吐いた。
「シャロン……」
ぎゅっと痛いくらいにアーサーから抱きしめられる。
涙が、止まらなかった。
「せ、先生が、帝国の、闇の魔法使いに討たれたとの報せが、王国に入り、レオルグは、イヴァンに、降伏しました……っ十七になった私は、大学校の研究で、〈闇の回廊〉に、辿り着き、ました……過去の世界に降り立ち、それから、私は、帝国軍に入って……っ」
涙が次々に溢れて、呼吸をするのもままならなかった。嗚咽を漏らしながら、シャロンが事の次第をアーサーに説明する。彼が再び大きく息を吐いた。
「無茶なことを……」
「申し訳、ございません」
「――謝るな」
ごつん、とアーサーに額と額をぶつけられる。「この、バカが」と焦点の合わない距離で吐き捨てられ、ビクッとシャロンは思わず身を縮めた。
「……おれが、おまえを、殺していたかもしれない。この手で殺めたことも知らず、のうのうと生きていたかもしれないんだ。――そんなの、耐えられると思うのか」
アーサーの声が掠れている。シャロンは、アーサーが泣くのを今まで見たことがなかった。彼の眦が、微かに濡れている。「ド阿呆……」と小さくこぼし、シャロンの後頭部を抱え込むようにアーサーが彼女を抱きしめる。
「おれは、おまえのいない世界で生きる気なんて、ない。おまえがいるから、おれは戦っていた。――頼むから、守らせてくれ」
僅かに震えたその声が、シャロンの胸に沁み入る。シャロンは喉に言葉が詰まって、何も言えなかった。
「よく、生きてくれたな。……ひとりにさせて、すまなかった」
ずっと、心が空いていた。
母が死んでも、アーサーがいてくれた。そのアーサーを喪って、シャロンは初めて孤独を知った。
「せん、せぇ……っ、っえっ」
アーサーの首に縋りつき、シャロンは声に出して泣いた。何もかもを捨ててでも、取り戻したかった人。今その人が、目の前でシャロンを抱きしめてくれていることを、奇跡と呼ばずして何というのだろう。もし、神々という存在が本当にいるのなら、シャロンは彼らに感謝せずにはいられなかった。
アーサーの腕の中でしゃくり上げるのをシャロンが何とか収めたとき、アーサーは彼女の濡れた頬を拭いながら尋ねた。
「――俺が死ぬ、それは本当か?」
「……この目で、ご遺体を見たわけではありません。でも……遺品は、私の元に送り返されました。その中には、私の書いた手紙も、ありました」
「――なるほど」
思案を巡らせているのか、アーサーが束の間黙り込む。
「……イヴァンは、魔力を封じる拘束具の開発に成功しています。〈賢者の石〉といって、それを銃火器にも利用しています。……それで、先生が殺されるのかと思って」
「ああ。〈賢者の石〉については承知している。俺も魔封具の複製品は十代の頃から作っていた。だが、魔法使いが主戦力の王国軍で〈賢者の石〉を兵器化するのは現実的じゃなかったんだ」
――ああ、やはりアーサーは知っていたのだ。
レオルグ側でも〈賢者の石〉の研究は進んでいるだろうとジルが述べていたが、アーサーもその研究の一端を担っていたのだ。
はあ、と息をつき、アーサーが眉根を寄せながら呟く。
「――王国が負ける。これは、理なのか」
「……こと、わり?」
「どう足搔こうと覆してはならないってことさ。歪みがさらに大きくなるだろう。……シャロン、お前を生かして元の時代に戻すためなら、俺は死んでもいいし、レオルグがイヴァンに負けてもいい」
「……何を、仰っているのですか」
アーサーの言葉の意味がわからず、シャロンが訊き返す。彼女の瞳は動揺で大きく揺れ動いていた。
「お前の来た世界は、レオルグが負けた世界だ。〈闇の回廊〉の入口には目印を置いたはずだ。大きく未来を変えてしまっては、その目印を見つけようにも二度と見つけられない」
「それ、では、私が、時を超えた意味は、何だったのですか」
過去はどうしたって変えられないのであれば、自分は、いったい何のために時を超えたのだろうか。
「意味は、ある。俺と、今、この時、こうして話せたことこそが」
「……私が、時を超えたから、王国は負けるのですか」
そうじゃないか? 王国が負ける発端を招いたのは、シャロンということになるのではないか。
シャロンがイヴァン軍にいなかったら、レオルグはイヴァンに勝っていたかもしれないのだ。
「違う。このまま戦い続ける道もある。だが、歪みが広がって、お前は〈闇の回廊〉に囚われる。そんな未来は、御免だ。……俺が、お前を、喪いたくないんだ」
わかってくれ、とアーサーの手がシャロンの頬を包む。彼の熱をもった眼差しが、彼女の心を貫いた。「……はい」とシャロンが小さく頷く。
「シャロン、今から〈闇の回廊〉を渡って、未来に帰るんだ。いいな」
「せ、先生は、どうされるのですか」
「俺も、お前を追っていくよ。〈光の回廊〉を渡って」
アーサーの出した結論に、シャロンは思わず目を瞠った。やはり、アーサーは〈光の回廊〉を渡るすべを知っていたのだ。
「わ、私は、未来に帰れなくても、いいのです。覚悟はしました。だから、先生と王国は、救いたいのです」
「却下だ」
アーサーがにべもなく断る。少し拗ねたようにシャロンの頬をつねり、アーサーが片方の眉をくいと上げてみせた。
「敗戦後、王国はどうなった? 確かにソールは失ったのだろうが、大学校では研究が変わらず続けられたんだろう」
アーサーがシャロンの頬をぷにぷにと触れている間、彼女は驚いたようにまばたきを繰り返した。
そういえば、そうだ。レオルグはイヴァンの植民地にはならなかった。ソールに住む民にとっては、故郷を失う悲劇となったが、土地を選んだ者は帝国民となり、国を選んだものはレオルグ本土で暮らすことを選んだのだ。
「まあ、運よく時を渡れたとして、もし出口を誤ってイヴァン領にでも出たら、俺は戦犯になり、それこそ魔封具で捕らえられるだろう。何千、何万と帝国軍人を屠ってきたからな」
己の所業を顧みたアーサーが、フッと鼻を鳴らして皮肉に笑う。
「そんな……っ、どうすれば」
「どうするもこうするも、それが負けるということだ。軍事裁判に公平性など担保されない。……だが、イヴァンを取り巻く情勢は、終戦から時を経れば経るほど大きく動いているだろう。猫の手も借りたい状況のはず。俺がイヴァンの軍司令であれば、みすみす処刑したりしない。死ぬまでこき使ってやるね」
「……すみ、ません。私、研究していた間、どのような世の中になっていたか、疎くて」
「いい。謝るな。そもそも俺が出口を間違わなければいい話だ」
出口、とアーサーが言及し、咄嗟にシュイッドの森がシャロンの脳裏に思い浮かぶ。自分は、果たしてあの森に帰ることができるのだろうか。だが、シャロンはもう、レオルグ人を、同胞を何人も殺めた身だ。自分が犯した罪の大きさを想像し、手の震えが、止まらなかった。
「……でも、先生。わ、わたしは、レオルグには、もう、帰れません。この戦争で、わたし、は、何人もの魔法使いを、消してきました。今さっきだって」
「――シャロン。ここは戦場だ。殺し、殺されるのが当然の世界だ。……でもお前が、それを罪に感じているのなら、俺が一生、一緒に背負ってやる。死ぬまで、ずっと」
シャロンの震える手を握り、アーサーが彼女の手のひらに口づけを落とす。
「生きてくれ、シャロン」
目を合わせたあとに、アーサーがシャロンを再び強く抱きしめる。シャロンもぎゅっと彼の背に腕を回して応えた。
しばしの沈黙を破ったのは、アーサーだった。何かに気づいたのか、唸るような低い声がシャロンの耳に届く。
「……お前、セザールと誓約の魔法を交わしているだろう」
シャロンの肌からジルの魔力を感じたのか、アーサーが顔を大きく歪めて不快感をあらわにする。「は、はい」とシャロンが答えると、チッと盛大な舌打ちが聞こえ、「胸糞わりぃ」とアーサーが悪態をついた。
「今ここでは解除できないが、必ず反故にしてやる。――俺が死んだとの報せが王国に流れたのはいつだった?」
「……二週間後の、春の初めでした」
「おそらく、イヴァンもレオルグも、消えた俺たちの消息を辿っていたんだろう。決断すべきは、今、ここだ」
シャロンの躰は、アーサーが光の魔法でずっと浮かせていたらしい。アーサーはシャロンに後ろを向かせ、背後から彼女を抱きしめた。
「目印は、どこに」
「――シュイッドの森です」
「わかった」
ポンとアーサーに背を押されたのが合図だとシャロンにはわかった。
闇の魔法で、どんな光をも吸収する漆黒の渦を目の前に生み出す。地に足をつけていなくとも、ここが上空でも、〈場〉はつくり出せたようだ。
シャロンは思わず後ろを振り返った。
アーサーの手を最後に握り締める。
「必ず、迎えに行く」
アーサーが頷き、シャロンの手を強く握った。
また、再び逢えることを信じて、シャロンが今にも泣きだしそうな顔で頷き、アーサーの手を放す。
シャロンは闇の渦に飛び込んだ。




