(3)
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カムリヤやオルティゴには〝地獄〟という概念がある。地獄絵図というものがこの世にあるとすれば、まさにこの戦場なのだろうとシャロンは思った。ここでは人の死に触れすぎて、シャロンの感覚は麻痺していた。寝ているときでさえ爆発音や落雷の音が頭の中で響き、首のない遺体を回収しながらその血に塗れ、躰の芯にまで鉄の酸化臭が沁み込んでいるような気がした。
開戦から十か月が経過したところで、両者はこれ以上の消耗戦を恐れたのか、停戦協定が結ばれた。ここまでは、シャロンの知っている筋道通りである。
この十か月間、生き延びることができたのは奇跡だった。闇の魔法使いでなければ、この前線でアーサーの攻撃を何度も搔い潜ることはできなかっただろう。
十四歳になったシャロンは、魔法学園での寮生活を楽しんでいる頃だろうか。アーサーは彼女に手紙を書いただろうか。髪飾りを贈っただろうか。シャロンはザトラス砦で、瓦礫の山と化し、焼け野原になったソールの地と、西の彼方の王都カレオンに向かって沈む夕日をひとり眺めていた。
自分は、未来を変えていないだろうか。いや、変えているに決まっている。助からなかったはずの命を助けているのだ。しかもイヴァン帝国軍の歩兵だけでなく、魔法使いの命もシャロンは救っている。
一番の手立ては、もうこの戦場にアーサーが来ないことだ。そんな単純なことは帝国側も思っているに違いない。だが、アーサーの参戦は決定事項だろう。彼は王国一番の戦力である。その実、アーサーの訃報と同時に王国はソールでの敗北を受けいれるのだ。
次の戦争をどうやったら避けられるのか。もう、時間がない。二か月後にはこの束の間の平穏が崩される。それまでいったい自分に、何ができるというのだろう。ソール地方の領有権をどちらかが放棄するまで、この戦争は決着がつかない。それは当然といえば当然のことだった。
帝国の論理。王国の論理。どちらが正しいか、間違っているかなんて、考えてはならないのだ。
――戦争は、勝たねば意味がない。負けたら、負けた側のすべてが悪とされる。
アーサーの言葉が、不意に思い出される。戦争をするならば、必ず勝たなければならない。勝ったほうだけが終止符を打てる。〝正しい歴史〟を作ることができる。今ではもう、アーサーの言ったことがシャロンにはよく理解できた。
「〈すずらんの君〉って、軍の中で言われてるの知ってる? すずらんみたいに可憐で、でも毒があるからさ」
「……はあ。存じ上げませんでした」
沈みゆく夕日を眺めていたシャロンの隣にジルが立つ。このように、二人で並んだ日が、いつかあったような気がする。記憶の底を手繰っていると、同じことを考えていたのか、ジルがその答えをくれた。
「あの船で出会ってから、もう三年も過ぎたんだね」
正確に言えば、シャロンとジルの邂逅から、三年と四か月の月日が流れていた。シャロンのこの躰も、もう二十一歳に近づいている頃だろう。
この三年が、早かったのか、長かったのかもわからない。
ただ、生きていた。この男の隣で。
見ていただけだ。世界の成り行きを。
「今のうちに、僕たち結婚しとかない?」
城砦の石壁に頬杖をつきながら、ジルがシャロンを見る。シャロンは彼に何を言われたか、一瞬理解ができなかった。「……は?」と眉根を寄せて、訝しげに隣の男を見上げる。
「正気ですか」
「うん」
シャロンが予想していたのは、「冗談だよ」といつものようにへらりと笑って誤魔化すような返事だった。しかしジルは首肯し、彼の眼が思いのほか真剣だったことに、シャロンは言葉を失った。
「あのとき、涙を流しながら、ボロボロになるまで君が兵士を救っていたのが、あまりにもきれいで、美しかったから」
それまでも愛らしいなとは思っていたけど、惚れちゃったんだよねえ。
ふふ、とジルが照れたように笑う。美しい、愛らしい、だなんて、そんなきれいな言葉を、面と向かって言われたのは、ロバート以外の男からは初めてかもしれなかった。
そして、あのとき、とはいつのことだ。シャロンが初陣の日に恐怖と怯えで何もできず、自分のあまりの不甲斐なさに憤って泣いた日のことか。
「……あなた、皇子ですよ?」
「三番目だけどね。体のいい使い捨ての駒だよ」
信じられないものを見る目つきで、じっとシャロンがジルを見つめる。「ああ、その瞳も好きだなあ」とジルが微笑んだ。――本当に、この男は自分に惚れているのか。彼の言葉、表情、すべてが芝居であったなら、とんだ名優だった。
「ミランダ。僕と結婚してくれないか」
ジルがシャロンの前に跪き、彼女の手を取る。シャロンは思わず周囲を窺った。今ここには二人の姿しかなかったが、一傭兵が一国の皇子を傅かせるなんて、あってはならないことのように思えた。
男が女の前で跪いて求婚する、なんてことが、シャロンの身に起こるなんて想像もしていなかった。そんなのは、夢と理想に溢れた物語の世界だけだと思っていた。
「わたし、は……」
「うん。師匠を、愛しているんだろ」
今も。
言葉に詰まったシャロンに対し、ジルが眉を下げ、寂しげに微笑んでみせる。彼のそんな表情も、もしかすればこの三年で初めて見たかもしれない。
ジルは、いつから気づいていたのだろう。シャロンが師匠を愛していたことに。今もずっと想い続けていることに。
愛してる。アーサーを。彼だけを。
それは、シャロンの中でずっと揺るぎないものだった。アーサーが生きていれば、それでいい。生きていてくれるだけでよかったのに。それだけでよかったのに。
思わず下唇を噛んで、シャロンは俯いた。この人の前で泣く資格なんて、自分にはありもしないのに。涙が止まらなかった。これは、何の涙なんだろう。自分でも、わけがわからなかった。
ジルが立ち上がって、シャロンの躰を抱きしめる。シャロンは拒もうと一瞬彼を押し返そうとしたけれど、ジルがそれを許さなかった。行き場のなくなった彼女の手が、ジルの腹のあたりで動きを止める。
ずっと隣で、この男を見てきた。帝国の行く末を想う聡明な皇子。彼の背が、言葉が、アーサーと重なって見えたのも一度だけではなかった。
憎めたらよかった。この人を。心の底から。
ぎゅっとジルの服をシャロンが握り締める。
でも、この三年間で、イヴァンへの恨みも、憎しみも、形を変え、しだいに薄れてしまった。それだけの月日がシャロンの中で流れていた。
本当に、ジルがアーサーを殺すのだろうか。
アーサーを殺す闇の魔法使いは、いったい誰なんだろう。
――まさか。
(私が、先生を殺す?)
戦場では何が起こるか予測できない。何かの弾みで、自分がアーサーに危害を加えるかもしれない。そんな恐ろしい顛末を頭の中で霧散させる。それだけは絶対にあってはならないことだった。
諦めない。諦めたくはない。アーサーの死を。
過去の世界に自分が降り立った理由を、目的を、今一度反芻させる。
そのためならば、この、目の前の男さえ殺す覚悟を、自分はもたなければならないのだ。
シャロンは、ジルとあの船上で初めて会ったとき、己の殺意を気取られたことに、薄々気づいていた。ジルがシャロンをずっと手元に置いていたのは、監視の意味もあったのだろう。レオルグ人を心から信用なんてできないはずだ。現に、シャロンの心臓は、ジルに握られている。
シャロンを優しく抱きしめてくれるこの温もりさえ、すべて嘘ならば、よかったのに。
誰も信用していない。信用できない。ずっと警戒を崩さず、心を鎧で固めたような日々だった。
――ただ、今は。今だけは。
誰かに抱きしめられて心地よく感じる自分を、許されたかった。




