(1)
シャロンが時を超えて過去の世界に降り立ってから、二年と半年が過ぎた。
この年の初秋、イヴァンとレオルグとの、最初の戦いの火蓋が切られた。
二十歳になったシャロンは、年相応の娘に成長していた。体つきは女性らしく丸みを帯び、背もすらりと伸びて、短く整えた白金の髪から覗く黄緑色の瞳はまるで宝石のようだった。さらに軍服に身を包んだ姿は、まさに男装の麗人で、見る者が思わず感嘆の息を漏らすほどの凛々しさだった。
「ミランダは、髪を伸ばさないんだね」
「――短いほうが、手入れが楽ですので」
宮廷の中をジルについてシャロンが足早に歩く。二人の闇の魔法使いが連れ立って行動する姿は、使用人や官僚、軍人にとっても見慣れたものになっていた。
このたびザトラスの民が武装蜂起し、一斉にソールへ雪崩れ込んだとの報せが入った。燻っていた火種がとうとう暴発したのだ。ジルとミランダにも緊急参集がかかり、二人は闇の魔法で空間転移をして宮廷に現れた。
緊迫とした空気が宮廷内に漂っている。廊下を駆け回る官僚、軍人の姿、そして帝国の魔法使いが一堂に会するのをシャロンは初めて目にした。
にもかかわらず、ジルはいつもどおりの軽薄さでシャロンに話しかける。この二年半、シャロンはこの男が焦り、動揺する姿をついぞ見なかった。
いつもの小競り合いであれば、宮廷を介さず現地に直行するところだが、今回は御前会議が開かれるとのことだった。シャロンはまだ一度もイヴァン皇帝に拝謁したことはなく、遠目でしかその姿を眺めたことがなかった。
御前会議の参列者は、半年ほど前にオーガス連邦との戦に勝利したマクシム第二皇子、そして軍司令のルイ皇太子、大将クラスの軍人、イヴァンの筆頭魔法使いたちであった。シャロンをはじめとする副官の席はなく、それぞれが壁際に控えている。
この異様な空気の中、最後に部屋に現れたのはイヴァン皇帝だった。一同が立ち上がる。ロバートやマクファーレンと同世代だろうか。豊かなひげをたくわえ、威厳に満ちた姿に、室内は一瞬しんと静まり返った。ジルと同じ琥珀色の瞳が、参列者の姿をひとりひとり捉える。
重厚な長机の上座に腰かけた皇帝は「座れ」とみなに指示した。参列者が座り、口火を切ったのは皇帝の右手前に座るルイ皇太子だった。軍服の襟に届かない程度に揃えられた白茶の髪に、灰紫色の瞳。三兄弟の中で唯一、魔法使いではないとのことだが、そのような劣等感など微塵も感じさせないほどの風格と、理知的で冷静沈着な雰囲気が醸し出されていた。
「本日、ザトラスの民が一斉に蜂起した。これに乗じ、ソール奪還作戦を開始する。レオルグ側は二十年前から世代交代が行われており、二十年前のソール戦線に参戦していた闇の魔法使いのヘンリー・マクファーレン、光の魔法使いのロバート・エイドリアン、風の魔法使いのアリサ・エヴァンズ、水の魔法使いのトーマス・ウォルシンガム、火の魔法使いのクレア・ターナーは王都やカムリヤの防衛を任される模様。他方で……」
イヴァンが調べ上げた、最新のレオルグの戦力状況を淡々とルイが報告する。壁際に控えたシャロンは背に置いた手をぐっと握り締めた。――よくぞここまで詳しく調べたものだ。確かアリサ・エヴァンズは、カレンの師の名前のはずだ。
「皆も知っての通り、この戦にはアーサー・ホリンシェッドが参戦する。ホリンシェッドは、十五年前にはドーメルンの傭兵として、我が帝国軍に牙を剝いたこともある。弱冠十一歳の彼奴の力を目の当たりにした者も多かろう」
中年の軍人や魔法使いたちが苦虫を嚙み潰したような顔になる。ドーメルンとはイヴァン帝国の東にある小国で、常に四方の国から領土を狙われているが、そのたびにレオルグが魔法使いを傭兵として派遣している。なぜならレオルグとドーメルンの関係は古く、二つの王家にはそれぞれの王家の血が混じっており、両者は縁戚関係にあると言えたからだ。
まだ年若い少年だったアーサーは、いったいどれだけの力をイヴァン軍に見せつけたというのだろう。「ホリンシェッドが生きている間にドーメルンは獲れぬ」といった禍根をイヴァン軍に植えつけたのは間違いなかった。そして同じことはソールにも言える。しかしイヴァンは、このたびソール奪還を決意した。それはなぜか。
「だが、我が帝国の対人兵器は二十年前、十五年前とは比べ物にならぬほど飛躍的な発展を遂げている。恐れるな。近く〈魔法使いに頼らない戦争〉の幕が開けるだろう」
ルイが述べた〈魔法使いに頼らない戦争〉という文言が、深くシャロンの耳に残った。
最新の対人兵器に関する情報は、この二年半、シャロンが帝国軍に所属していても摑めなかった情報だ。自分から片時も離れず仕えることを命じながら、ジルは巧妙に副官にはその情報に触れさせなかった。おそらく傭兵クラスでは知り得ない国家機密であったのだろう。
重々しく口を開いたのは皇帝だった。
「……彼の地には、二十年前、共に戦った我らの同胞も眠っている。我らの帰りを、待っている。必ず、ソールを取り戻すのだ」
御前会議の参列者が「はっ」と勢いよく応えた。
奪い、奪われ、敵を殺し、同胞を殺されてきた二つの国の歴史が、幾重にも堆積するソールという大地。あの美しい土地が、戦火に晒される。シャロンは瞼を閉じ、束の間、彼の地に想いを馳せた。
「ジル、貴様が現場の舵をとれ」
「――御意」
ジルは皇帝より西方軍司令を任命された。
御前会議の終盤、ルイの目が、ふと壁に控える副官たちに向いた。誰かを探すように動き、彼の視線がシャロンに留まる。
「闇の魔法使い、ミランダ、といったか」
「……はっ」
背に拳を置いたまま、シャロンは姿勢を正して返事をした。
「ジルの支えとなれ」
裏切るな、と言外に聞こえたのは、シャロンだけではないはずだ。ルイの冷徹な瞳が彼女の一挙手一投足を捉える。だがそれは、一傭兵への釘差し、というよりは、弟に対する案じと慈愛に満ちた言葉だった。「――はっ」と今一度シャロンが声を張る。冷や汗が、彼女の背をひと筋走った。
「ミランダは、アーサー・ホリンシェッドって知ってる?」
「……王国で知らない魔法使いは、いないと思われます」
「まあ、そうだよねえ。あいつってなんか弱点あるの? ほんと戦いたくないんだけど」
執務室で鈍色の戦闘服に着替えながらジルがぼやく。シャロンも既に白い軍服から着替えていた。白は否が応でも戦場で目立つため、イヴァン帝国軍においては普段の制服と戦闘服が明確に分けられている。確か、アーサーがソール戦線に発ったあの日、シュイッドの森の家で着替えていた黒い軍服は、王宮での緊急参集に応じるための士官服だったのだろう。レオルグ王国軍の戦闘服も、確か黒だったはずだ。
「それで? ルイ兄上は君の参戦を既に決定事項として作戦に織り込んでいるようだったけれど、当の君は、戦場までついてくる気はあるのかい? 従軍するのであれば、誓約してもらわなければならないよ」
戦闘服に着替えたシャロンを上から下まで見て、ジルが片方の眉を上げてみせる。
誓約――魔法大学校でも習った、遠隔で効力を発生させる高等魔法だ。
唇を真一文字に引き結んだまま、ごくりとシャロンが唾を呑み込む。
「君の心臓をね。一瞬のうちに無に帰する魔法だ」
人間ってねえ、心臓を喪ってもすぐには死なないんだよ。しぶといよねえ。
クスクスと軽口を叩きながらジルが上着の釦を留めていく。
「君は、レオルグ人を殺せるか」
――とうとう、この日が来たのだ。
次にジルがシャロンに向けた瞳からは、一切の笑みが消えていた。
シャロンの覚悟を確かめるように、琥珀色の瞳がまっすぐ彼女を捉える。
「僕はね、殺されるなら、六元素の中で闇の力が一番だと思っているよ。一瞬で死ねるし。何が起こったかもわからぬうちに闇に取り込まれるんだ。痛みもないだろう。実際は死ぬか、どこか別の時空に連れていかれるか、わからないんだけどね」
死人に口なし。闇の魔法における戦闘では死体が残るほうが珍しいとされる。そのため闇の魔法は表立った戦争だけでなく、暗殺にも重宝されていた。
「誓約破りって、過去に見たこともあるけど、裏切り者はみな壮絶な死に方だよ。火の魔法使いとの誓約なら丸焦げ。水の魔法使いは、躰の水分を容赦なく奪っていたし、溺死させられた者もいた。土の魔法使いと誓約した奴は、鼻や口、耳の穴から土を出して死んだのも見たことがあるなあ。光の魔法使いを裏切った奴なんて雷に打たれていたよ。即死だったのが救いだろうか」
まさしく、神の雷のようだった。とジルは語った。
「君の裏切りが発覚したときに、僕がこう、指を鳴らすだけで、君は死ぬ」
パチン、とジルが指を鳴らしてみせる。魔法で心臓を握られる、とは、読んで字のごとく、そのままの意味だった。むしろ、もっと早くにこの誓約の魔法をシャロンにかけることもできたはずだ。もしかすればルイやマクシムは、既にジルがシャロンに誓約の魔法をかけているものと思っている、ないしは傭兵の契約に本来であれば含まれていたのかもしれないことに彼女は気づいた。
「僕たちは闇の魔法使いどうしで、殺り合うとなれば相性は最悪なわけだけども」
特に魔力量が同じであるなら、互いの魔力が枯渇するまで殺し合いは終わらない。もはや、それこそナイフや銃火器といった、対人間用の兵器を使ったほうが決着は早くつくだろう。
「でも君の心臓を初手で握ることができたなら、さすがに僕が勝つよ」
勝負の分け目は一瞬だ。指を鳴らして、などと言ったが、別に鳴らさずとも、瞬時に魔法を発動させることができるのだ。
「どうする? 誓う?」
戦闘服に着替え終えたジルが、シャロンの正面で腕を組み、小首を傾げてみせる。
――今さら、この男から離れるわけにはいかなかった。
「私は、ジル・セザールの命に従います。天地神明に誓って」
ジルを見上げ、シャロンが直立不動のまま宣誓する。ジルは手を伸ばし、シャロンの前髪を搔き上げ、彼女の瞳を上から覗き込んだ。
「美しい瞳だ」
ジルがシャロンの心臓の前に手を翳す。
彼の闇の魔力がシャロンの躰に流れ込んできた。
だが心臓を縛る誓約の魔法は、彼女の予想に反して、背すじが凍るような冷たいものではなく、じわりと温かいものだった。
フッ、とジルが口の端を上げて笑う。
「せいぜい、僕に君を殺させないでくれたまえ」




