(1)
イヴァン帝国の第三皇子、ジル・セザールに名を尋ねられる。皇帝の一族は姓をもたない。セザールというのは、彼が皇子であることに加え、セザール公爵領を有していることを示しているのだろう。シャロンは頭の中にイヴァン帝国の地図を思い描いた。
シャロンはあらかじめ考えておいた名前――ミランダ、という名を答えた。シャロンが好きな物語『ペンと杖』に登場する魔法使いの、娘の名前だった。
「とりあえず傭兵として、イヴァン軍に入ってみるのはどう? それこそ色んな国に行けるよ。西に東に、北に南に」
ジルがシャロンに、帝国軍への入隊を軽い調子で提案する。魔法使いが傭兵として軍に雇われるのは別に珍しいことではない。彼の提案はシャロンの考えていた選択肢の中でも上位に含まれるものであり、渡りに船とは、まさにこのことかもしれなかった。傭兵として雇われれば、この先食いっぱぐれることもないだろう。
「……イヴァン人でなくとも、入れますか?」
「もちろん。色んな民族がいるよ。その代わり、傭兵といえど軍規には従ってもらうけれどね。イヴァン語は話せる?」
「はい」
ジルが、レオルグ語からイヴァン語に切り替えてシャロンに問う。シャロンもイヴァン語で答えた。ただ、レオルグでもイヴァン語を話せるのは普通、上流階級の子女のみだ。弟子をとる魔法使いは基本的に大学校を卒業した者であるため、国の最高水準の教育は受けている。イヴァン語を話せるのは、師匠に習ったとでも言えば差し障りないだろう。
「イヴァンはレオルグに比べて、魔法使いの数も圧倒的に少ない。僕は優秀な魔法使いを見つけたら、異国の民であろうと一度は勧誘することにしている。君、よく上空を飛ぶ光の魔法使いたちに気づいたよね」
ジルが感心したようにシャロンを見る。光の魔法使いの存在に気づけたのは偶然だったのか、はたまた光の魔法使いであるアーサーと長く一緒に過ごしていて、光の魔法の捕捉に自分が長けていたからなのか、シャロンにはわからなかった。
確かに、皇子がひと声かけるだけで魔法使いが集まるのであれば、得られる恩恵に比べて労力は少なく済みそうだ。魔法使いが一人いるかいないかで、作戦や任務の達成率も大きく変わってくるはずだ。シャロンは大学校でアーサーが教鞭を執っていたときの、戦闘や戦術に関する講義を思い出した。
イヴァン帝国――大陸を制する覇者は軍拡を止めない。イヴァンの領土は、双方の植民地を除いても、レオルグの三十倍近くにのぼる、とレオルグでは試算されていた。にもかかわらず、なぜ、新たにソールまで狙う必要があるのか。
だがイヴァンにとって、ソールの奪還は歴史的悲願であることはシャロンもわかっていた。それでも、怒りと憎しみの嵐に、囚われそうになる。この男に殺気を気取られてはいけない。シャロンは奥歯をギリと食い縛った。
――この男のそばにいれば、わかるのだろうか。
イヴァンの思惑も、なぜ、アーサーが殺されたのかも。
――覆せるだろうか。先生の死を。
この男と船上で出会えたのは僥倖だった。何としても、この男のそばから離れるわけにはいかない、とシャロンは思った。
おそらく、イヴァン帝国軍の魔法使いを指揮しているのはジル・セザールこの人だ。傭兵としてイヴァンの戦争に参加するのであれば、大方、彼と行動をともにすることになるだろう。
「……なぜ、私が闇の魔法使いだとわかったのですか?」
「僕は君より魔力量は少ないけれど、魔法使いを捕捉したり、属性や魔力量を分析するのは得意なんだよね。君も感覚を摑めばできるようになると思うよ。君はもう少し、自分の力を抑えられるようになったほうがいい」
ジルから軽く付け加えられた忠言に、はっ、とシャロンが目を瞠る。
――そうか。光の結晶魔石で抑えていた分の力を、自分はまだ制御しきれていなかったのか。
あるいは、この男のそばで図らずも負の感情が昂り、思うように力を御せていなかったのか。
シャロンは己の力量不足を恥じるように俯いた。
「ああ、ごめんごめん。落ち込ませる気はなかったんだ。……それで、軍に入ってみる? 入るなら、ゼンヴァールまで同行しよう。そのあとは今進行している作戦次第だけれど、僕の補佐に入ってもらうかもしれない」
だが、シャロンの魔力量を見込んで声をかけたのだろうから、結果的には力が漏れていて良かったのかもしれない。
シャロンは顔を上げ、ジルの琥珀色の瞳をまっすぐ見つめた。
「――イヴァン軍に、入ります」
目の前の男は、イヴァン帝国の皇族に生まれ、地位も名誉も権力も、そして魔法使いとしての実力も備えた男だ。軽薄そうな見た目や醸し出される雰囲気とは裏腹に、瞳には冷たい感情が混じっていることにシャロンは気づいていた。
信用も信頼もしない。互いの間にあるのは、腹の探り合いと雇用関係のみ。
ジルがニコリと微笑み、シャロンに右手を差し出した。
「了解。これから、よろしく。ミランダ」
ジルと握手を交わす。ここで彼の手を振り払ったり、拒絶したりするのは、この場においてふさわしくないことくらいシャロンも承知していた。
船は半日足らずでエストレルの港に到着した。船を降りる間際、シャロンは疑問に思っていたことをジルに尋ねた。
「――レオルグへは、何用でいらっしゃったのですか」
「お詫び行脚さ。帝国の民が武装してレオルグとの国境……ソールになだれ込み、王国軍に盾突いてしまってね。鎮圧のために双方、魔法使いを出動させることになった」
やれやれ、とジルが大げさに肩を竦めてみせる。帝国の皇子自らが、おそらくレオルグの宮廷にまで謝罪に出向かなければ収拾がつかないほどの事態だったのだろうか。
「……便衣兵、ということですか?」
「いいや? 民兵だ。軍は関与していない」
船の客室にでも置いていたのか、ジルは手に持っていた外套を身に着けながら言った。軍靴とタイは黒だが、外套も軍帽も真っ白に染まっている。海風に翻った彼の外套が、西日を眩しく反射させた。
シャロンは、ジルが言った「民兵」という単語について考えた。今の今まで、戦争は国家が、軍が引き起こすものである、とどこかで認識してしまっていたことにシャロンは気づいた。もしかすれば、イヴァンの軍も、皇族も、魔法使いも、戦争なんて望んでいないのかもしれなかった。
自分たちの生まれた土地を返せ、と民衆が蜂起する。レオルグに向けられた戦意は、鎮圧すればするほど、やがて内部に向くだろう。なぜ、軍は、皇族は、ソールの大地を、我々の国土をレオルグにとられたままで良しとしているのか、と。
各国の歴史を学ぶなかで、〝革命〟が民衆によって引き起こされ、王政や帝政が崩壊した国々があるのをシャロンは知っていた。
戦争は、民の不満を解消する手段、捌け口にもなる。
もはや、シャロンひとりの思惑でどうこうなる問題ではないのだろう。ただでさえ、表舞台に出てくる情報は限られている。アーサーはソール戦線に召集されたとき、何を考えたのだろうか。その前に、戦争が起きるのを止めようと思ったことはなかったのか。
もっとたくさん、国家間の戦争についてアーサーに聞いておけばよかった。そう思うと同時に、彼は戦争や軍の話題から、常にシャロンを遠ざけようとしていたことを思い出した。
「どこか寄りたい街はある?」
船から降りて、ジルがシャロンに尋ねる。ジルの姿は船上でも目立っていたが、地上でも人目を引いているのは明らかだった。イヴァン軍の正装に身を包んだ彼の姿に見惚れている女性も群衆の中にはいた。シャロンは一段とフードを深く被り直し、「……ヴェルダで、一度両替をしたくて」と小さく呟いた。
「そう。ヴェルダには僕も立ち寄ろうと思っていた。行こうか」
「え? ……ひゃっ」
腰に片腕を回され、ジルに力強く引き寄せられる。彼の胸に抱きつくような格好になり、シャロンは一瞬息を止めた。
次の瞬間、眩暈のような揺れに襲われる。
ジルによって空間転移が行われた、とシャロンが気づいたときには、見知らぬ街の外れに二人は立っていた。
――なんという、暴挙だろうか。
闇の魔法は、本当に恐ろしい力なのだ。レオルグでは、他人を巻き込んだ空間転移など平時では考えられなかった。イヴァンでは常識なのだろうか? シャロンは開いた口が塞がらなかった。パクパク、と口を開閉させながらジルを見上げる。
「……君も闇の魔法使いだし、特に気兼ねもいらないかと思って。……ダメだった?」
ごめんね、とジルが肩を竦めながら軽い謝罪を口にする。彼が謝ったのは、シャロンが眉を顰め、抗議の眼差しを向けていたからであろう。相手に断りをいれたり、許しを得る前に事に及ぶ姿勢は、改めて彼が皇子であることをシャロンに強く印象づけた。
別に謝罪などは求めていなかったが、ふとシャロンはジルの躰に抱きついたままだったことに気づいた。急いで彼から躰を離し、距離をとる。香水でもつけているのだろうか。石鹸のような爽やかな香りがシャロンの身に移っていた。
エストレルからヴェルダに空間転移ができるということは、ジルも何度か訪れている土地なのだろう。ということは、ここからイヴァンの帝都ゼンヴァールまでも同じ方法で転移するのだろうか。自分の生活圏を超える、都市と都市を結ぶような長距離の転移をシャロンはこれまでしたことがなかった。ジルは相当な闇の魔法の使い手であるらしい。
「……ここまで転移ができるのであれば、船に乗らずともよかったのでは?」
「船はね、乗るのが好きなんだ。自分の足で赴かないとわからないことも多い。まあ、今回は拾い物もあったし。回り道して重畳だった」
ジルがシャロンにウインクしてみせる。つまり、敵情視察を兼ねていた、ということだろうか。今回シャロンは、グリムゼルとエストレルという二つの港町を通過したが、まだそれらの間を容易に空間転移できるほどの自信はなかった。点と点を結ぶように、何度も自分の足で土地を渡り歩くことで、ジルも空間転移のイメージを自分の中で確立してきたのかもしれない。
魔法大学校でシャロンは、マクファーレンのもとで主に魔法の理論を研究してきた。だが思い返せば、実践はまだまだ足りていなかった。
――この男から学ぶことは多そうだ。
シャロンは、いついかなるときもこの男を注意深く観察せねば……と胸に誓った。
ヴェルダはソール地方で最も栄えている商業都市である。ソールを治める辺境伯の居城もあるはずだ。ジルはその辺境伯に用があるらしい。二人は一旦別れ、各々の用事を済ませることにした。
「――ジル殿下、お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま」
ヴェルダでの所用を終えたあと、ジルはもう一度シャロンを伴って空間転移を行い、イヴァンの帝都ゼンヴァールに着地した。シャロンはソールからイヴァンに入国し、ゼンヴァールに到着するまで、最低ひと月はかかると試算していたが、ジルとの邂逅でその距離もゼロになった。そのうえ、堂々とジルに同行する形で、こうしてイヴァン帝国の宮廷に足を踏み入れることができている。ジルの訪れに傅く者たちを横目に見て、シャロンは彼が本当に帝国の皇子であることを実感した。
「……今回、お付きの者はひとりも連れて行かなかったのですか?」
「僕だって、闇の魔法使い以外を空間転移に何度も巻き込めるほどの鬼畜ではないよ。闇の魔法使いで手の空いている者は戦場に駆り出されているからね。かといって、足手まといはいらないし」
シャロンがジルの背に疑問を投げかける。ジルは、はは、と朗らかに笑ってそれに応えた。一応、それなりに常識はあるようだが、自分についてこられない者を切り捨てる冷酷さも併せてシャロンは感じた。そして、たとえ異国の地であっても、彼のような実力のある魔法使いは警護の者を特に必要としないのだろう。もし、アーサーが王族であったとしても、彼に警護が必要だとは誰も思わないことは容易に想像できた。イヴァン帝国において、この男を警護できるほどの魔法使いはいないのかもしれない。
「入って」
ある部屋の前で立ち止まったジルに促され、シャロンは室に入った。ジルがそれに続いて、扉を閉める。――ここは、彼の執務室だろうか。大きな世界地図が壁面に貼られ、執務机の上には地形図が幾重にも重なっている。兵棋台の上には色分けされた兵棋や、それらの駒を動かすための棒が置かれていた。
「――これは傭兵として帝国軍で働いてもらううえでの契約書。よく読んでおいて。納得したらここにサインして」
応接のためのソファに座るようジルに促され、シャロンが腰かける。向かいのソファにはジルが座った。間に置かれた重厚な机の上に、ジルが契約書を数枚広げてみせる。机の脇には羽根ペンとインク壺も置かれていた。
「そこに書いてあるとおり、従軍魔法使いの月給はイヴァン金貨十枚。君の働き次第ではさらに増えるし、戦果を上げれば上げた分だけもっと増える」
レオルグで、シャロンはひと月に銀貨一枚ほどで生活することができていた。これまでシャロンがした最も高価な買い物は、昨日の定期船の乗船券だった。レオルグ硬貨とイヴァン硬貨では貨幣価値にも多少の差があるものの、破格の給料ではないか。同時に、オルヴァン銀行で見たアーサーの遺した財産を思い出す。もしかすれば、あの金貨の山は、彼が傭兵時代に荒稼ぎしたものだったのかもしれない。
契約書のすべてに目を通す。契約違反者はイヴァン帝国軍法で裁かれ、最も重い罪は死刑とのことだった。つまり、軍で指揮官の命令に背くことはできない。当然といえば当然であるが、魔法使いを捕らえて殺すのもまたひと手間であろう。相対する属性の魔法使いに粛清させるか、不意打ちの物理攻撃か。帝国は、何か魔法使いを縛る秘策でもあるのだろうか。
契約書にサインを綴る。シャロンが紙を上下ひっくり返してジルに差し出すと、それを手に取った彼が、彼女のサインを見つめているのか目を何度かしばたかせた。
「ふむ、美しい筆跡だね。……女性に年齢を訊くものではないかもしれないけれど、ミランダは今いくつなの?」
「……十七です」
「へえ、まだ十七なんだ。若いのにしっかりしてるねえ。ちなみに僕は二十三だよ」
ひらり、と契約書を掲げながらジルが微笑む。――歳も、アーサーと同じなのか。立ち上がって執務机のほうへ歩を進めるジルの背を見ながら、シャロンは師の背中を思い出した。
「今日はもう休むといい。客室に案内させよう」
ジルが振鈴で人を呼ぶと、時を待たずにノックの音が聞こえた。執務室に現れたのはジルに仕えている執事だろうか。シャロンを客室に案内すると、彼は「御用があればお呼びつけください」と彼女に告げて、その場を去った。
客室には、既に軍服一式や寝巻、その他諸々の生活用品が用意されていた。旅装を解かないまま、寝台にバタンとシャロンが横になる。明日からはイヴァン軍の傭兵として自分は生きるのだ。ふう、とシャロンは溜め息をついた。緊張と疲労のせいか瞼がとろんと落ちてくる。かろうじてここが敵国であることを思い出したシャロンは、闇の魔法で部屋の周囲に結界のようなものを張ったあと、意識を手放した。
翌朝、まだ日も明けきらない時間帯にシャロンは目覚めた。――厠はどこだろうか。闇の結界を解いて扉を開け、廊下を見渡してみる。すると控えていた数人のメイドがこちらに近寄ってきた。交代制なのだろうか。一晩中、ここで控えていたのだとすればご苦労なことである。
「あの……厠は、どちらに」
「こちらへ。浴室にもご案内いたします」
シャロンはメイドの恭しい態度や昨夜の執事の言葉を思い出し、少し面食らったような心地がしていた。自分は今、ジル皇子の客人、ということになっているのだろうか。それとも魔法使いが希少な帝国では、魔法使いに対しここまで礼を尽くしてくれるのか。そのどちらでもあるような気がした。
「御髪を……」
「いえ、自分でできます」
「お背中を……」
「結構です」
メイドの手伝いをすべて断って、シャロンは用意された湯船に浸かった。可愛らしく金の猫足が底に付けられた真っ白な浴槽であった。宮廷や貴族の邸宅ではこのような浴槽が主流なのだろうか。でもシャロンは、シュイッドの森の家で風呂に使っていた大盥が懐かしかった。
着替えを持ってくるのを失念していた、と湯船から上がったシャロンが思っていると、手早くメイドから浴巾で躰を拭かれ、断る間もなく新しい下着を身に着けさせられた。さらには客室に置いてきていた軍服も抜かりなく準備されていた。
この国で、魔法使いはいったいどういう立ち位置なのだろう。先ほどから貴人のごとき扱いを受けている。レオルグ――特に南部では、魔力量の多い少ないはあれど、一族に一人は魔法使いが生まれるような環境だった。
「……あの、イヴァンで、魔法使いは珍しいのですか」
着替えを手伝われながら、思わずシャロンはメイドたちに尋ねた。彼女たちは、少し驚いたようにまばたきをして、「――はい」と答えた。
「わたくしは、皇族の方以外に初めて拝見いたしました」
「丁重にもてなすように、とジル殿下から申しつかっております」
この国でも魔法使いは前線に派遣されているのだろう。宮廷勤めであれば、戦場の魔法使いを見ることがないのも頷ける。レオルグは、自分が思っていた以上に、魔法使いの生まれる国、であったのだ。シャロンは王国と帝国における魔法使いに対する認識の差異を感じた。
「ああ、似合っているね。真っ白で、すずらんみたいだ」
客室で朝食を摂ったあと、シャロンはジルの執務室に案内された。帝国軍の白い制服に身を包んだシャロンを見て、ニコリとジルが微笑む。
「昨夜はよく眠れた?」
「はい。……あの、私はこれから、何をすればよいのですか」
「君は僕の副官として任務に当たってもらうことになる。僕としても、闇の魔法使いがそばにいるのは心強い。こちらにおいで。戦況を説明しよう」
兵棋台の前に来るようジルがシャロンに手招きをする。戦場で魔法使いは、基本的に同属性どうしで行動をともにする。同属性どうしであれば、魔力を互いに増幅することもできるからだ。加えて攻撃力をさらに高めるならば、火と風、土と水、のように力を掛け合わせる戦術も別段珍しくはない。
「イヴァンは今、小競り合いを含まなければ主戦場は南の一つ。オーガス連邦との戦だ。エリス運河の運営権を巡ってね。あ、地理と歴史の授業は必要かい?」
「結構です」
兵棋台の上に広げられた地形図を眺めながらシャロンが即答する。エリス運河とは、百年近く前にイヴァンがオーガスに建設技術を提供しながら建造されたものだ。海上輸送の要に位置する。しかし半世紀ほど前に、運河を経営していたオーガスの民間会社が経営難に陥り、イヴァンが運営権を買い取った。なぜなら多数の植民地を抱えるイヴァンにとっても欠かせない海の要所であったからだ。だが近年になってオーガス連邦政府が突如エリス運河の国有化を宣言し、両者は数年前から戦争を始めた。
「僕は小競り合いの調停に回ることのほうが多い。オーガスとの戦争には次兄のマクシムが派遣されている。水の魔法使いだ。ちなみに長兄のルイは魔法使いじゃないよ。皇太子として宮廷で政と軍司令を担っている。弟から見ても兄皇子たちは優秀でね。三番目でみそっかすの僕が、北に東に西に飛び回っているというわけ」
帝国軍の魔法使いを指揮しているのはジルだと予測していたが、どうやら軍と魔法使いで指揮系統が分かれているのではなく、軍のトップは皇太子であるらしい。まずは宮廷で作戦が立てられ、魔法使いと兵士を各地に配置していくのだろう。魔法使いの数が多いレオルグとは作戦の立て方も異なることをシャロンは知った。
みそっかす、とジルは自分のことを卑下したが、本当のみそっかすに国の名代は務まらないだろう。軍司令の皇太子からも信頼されているはずだ。だが、第三皇子だからこそ次々と戦場に派遣できるのも否定できない。捨て駒、という意識がジル本人にもあるはずだ。
「――なぜ、イヴァンは、争いの火種を各地で蒔き続けるのですか」
ぽつり、と自分の頭で考えるよりも前に、シャロンの口から言葉が滑り出る。はっと顔を上げ、シャロンは兵棋台から向かいに立つジルに視線を移した。
「……おや、人類史上、人間が戦わないことがあったかね」
ジルが片眉と口の端を上げ、冷笑を浮かべる。――アーサーも同じようなことを言っていたのをシャロンは思い出した。
「さては、王国の罪を知らないのかな? 歴史の授業で学ばなかったのかね、お嬢さん。王国が最初に、大規模に魔法使いを戦争に投じ始めたんだよ。内戦を収めたことで味を占めたんだ。王国民がどうして日常的に紅茶を飲むようになったか知ってる? その茶葉は植民地からもたらされたものなんだよ」
シャロンも、そんなことは知っていた。頭の中ではわかっていた。だが、「王国の罪」と一方的に決めつけられるのは我慢ならなかった。
何か言い返そうとシャロンが咄嗟に口を開くも、ジルは矢継ぎ早に彼女に畳みかけた。
「それまで魔法使いは、戦いから一線を引いていた。戦争は軍人の仕事だった。魔法を人を殺めるために使ってはならない、と我々の祖先は教えを説いた。神話時代からの古の教えを覆したのは、今のレオルグ王家だ。教義を拡大解釈し、魔法使いによる殺人を正当化した」
――魔法使いは、神々の末裔である。レオルグ王国やイヴァン帝国を含む周囲の国々では、そう言い伝えられていた。高次元にすまう神々は、過去も未来も行き来できる存在であるとされる。気まぐれにこの次元に降りてきた神々が、人の形を真似たのが最初だといわれている。神々の本当の姿は伝えられていない。
神々は、人の営みを見て、人と同じように、愛することを学び、死を悼むことを学んだ。彼らの中で、人は憧憬の対象であった。
世界にちらばるそのほかの神話を読んでいてシャロンが驚いたのは、最初に在ったのが人ではなく神であり、神が自分の似姿に人を創ったと言い伝えられている国もあったことだ。最初にこの世界に在ったのは人で、その姿に憧れを抱いたのが、別次元からやって来た神々であると言い伝えられていたのは魔法使いが生きる土地ならではの神話だ。そこには上下関係や主従関係などはなく、人と魔法使いの先祖が対等であったことの表れでもあった。
人と交わる神々もいた。神の血は薄れるが、始祖の神々の系譜を受け継ぐ一族は、この世界のどこかにもまだ存在しているらしい。
つまり、神話によるならば、今生きる魔法使いたちは、神々と人の子孫であり、魔法使いたちが人を守り、慈しみ、共に生きることを始祖は願っていた。だが、時代は下り、その願いも、教えも希薄化し、魔法使いは人を殺め始めた。それが、王国の罪だ、とジルは指摘しているのだろう。
シャロンは、アーサーが受けもっていた古代史の講義で、学生らに神話の教えを語り継いでいた際、彼は王国の〝罪〟を嘆くわけでもなく、「――時代の趨勢だ」と、淡々と説明していたのを思い出した。
「洪水、津波、地震、火災、天変地異。風が火をさらに広げ、大地を焼き尽くし、土石流が民を襲った。天災というより人災だよね、もはや。文字通りあらゆる大地が火の海になったんだ。王国の魔法使いによって。圧倒的戦力差だった。おかげでこっちは、対人兵器の開発が進んだけどね」
シャロンは、他国で自国の所業がどう語られているか、レオルグ王国が他国にどう思われているかを初めて知った。驚愕だった。誰がどう語るかで歴史は物語にも、物語が歴史にもなり得るのだ。
シャロンは唾を呑み込み、わなわなと震えそうになる口を開いた。
「……王国はカムリヤに魔法使いを派遣して灌漑を行い、学校を立て、現地の民に文字を、言葉を教え、生活の質の向上に努めています。以前の彼の地には病と飢餓が度々襲いかかり、多くの子どもたちが死んでいました。迫害されていた魔力もちの人間が、魔法使いとして活躍できるようになった。学びの機会を得て、王国の大学校に通っている者も中にはいました」
「へえ、王国は未開拓の地に住む野蛮人を教化したって言いたいの? 魔法使いの力で散々脅し、土地を分捕っておいて。果たしてどちらが野蛮なのか」
ジルの冷たい眼差しに射抜かれたシャロンは、呼吸も、まばたきをすることもままならなかった。
沈黙を破ったのはジルだった。「――なんてね」と肩を大げさに竦め、クスリと微笑んでみせる。
「その王国に追随し、魔法使いを戦争に投入した二番目の国は、我々イヴァン帝国だ。貴重な意見をどうもありがとう。君が王国の魔法大学校でよくお勉強していたのはわかったよ。師匠の遺言どおり、もっと広い世界を見るといい」
ジルの厳しい一言が、シャロンの胸に深く突き刺さる。そして、魔法大学校に通っていたことも知られてしまった。余計なことしか言わない自分の口に、シャロン自身も呆れていた。
「僕はこれから兄上のもとに報告に向かう。この部屋のものは好きに使っていいよ。しばし楽にしていてくれたまえ」
衣架に掛けていた外套を羽織りながら、ジルが退室する。シャロンはひとり残された部屋の中で下唇をぎゅっと噛み締めた。




