(1)
アーサー・ホリンシェッドの訃報に、レオルグ王国は静まり返った。
百年に一人の魔法使いが、帝国の闇の魔法使いに討たれた。その躯さえ、残っていない、と。
闇の魔法使いとの戦闘で遺体が残らないのは当然と言えた。闇に取り込まれた者たちは、須臾にしてこの世界から消え去る。何が起こったかもわからぬうちに。
その恐ろしい力に唯一抗えるのが光の魔法使いだった。アーサーを殺せるような闇の魔法使いなどこの世に存在しない、と王国の民はみなが疑っていなかった。
……嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
沈痛な面持ちのロバートが、シャロンを抱きしめる。ロバートは弟子の死を悼み、静かに涙を流していた。しかし孫弟子は、彼の腕の中で、ただ茫然と目を見開いていた。
シャロンはずっと、ずっと、悪い夢をみているような心地がした。何もかも信じられなかった。涙も、出なかった。
ソールはイヴァンの領土となり、こたびの戦争は終結した。イヴァンがレオルグの本国にまで攻めてきた場合は、この王都が戦火に晒されることになる。一時は戒厳令が敷かれたが、やがてレオルグとイヴァンとの間で、二度とレオルグがソールを侵さない旨を記した協定が結ばれ、戒厳令は解除された。
海を隔てた肥沃な地、ソールをレオルグは永遠に失ったが、植民地のカムリヤはまだレオルグの統治下に置かれていた。海路や物流が元通りになり、街には活気が取り戻され、学校では授業が再開された。
シュイッドの家の郵便受けには手紙がいつの間にか溜まっていた。一つ一つ検める。セシルやカレンからの手紙には、突然のアーサーの訃報に自分たちも驚き、悼んでいること、できればシャロンと会って話したいと記されていた。
シャロンは、今はまだ自分も気持ちの整理がついていないけれど、話ができるようになったら必ず会いに行く、と二人に返事を書いた。のちに、セシルの夫は無事生存していることを、シャロンはロバートから聞いた。
さらに、シャロンのもとに一通の手紙が届いた。オルヴァン銀行からだった。
アーサーの資産をすべてシャロンの名義に変更するため、一度銀行を訪ねてほしいとの内容だった。シャロンはそのようなことは一言もアーサーから聞いていなかったが、これは彼の遺志であるらしい。
シャロンはオルヴァン銀行で、アーサーから預かっていた鍵と指輪型の印章を、銀行の担当者に渡した。
案内された銀行の奥の小部屋で、シャロンは金貨の山を見た。
その日からアーサーの遺したすべての財産が、何の血縁関係もないシャロンのものとなった。
アーサーは、己の死んだときのことを常に考えていた。それはシャロンもわかっていた。
自分が死んでも、シャロンが何不自由なく学べるように。生活できるように。
そんな願いが、アーサーの遺したものから、伝わってくる。そのたびに、シャロンは今の感情をどう表せばいいのかわからなくなり、何かが決壊しそうになるのを堪えて、無表情になる。
しばらくして、シュイッドの森の家に、軍からアーサーの遺品が届けられた。
それは、終戦までの半年間にシャロンが書いた手紙の束だった。シャロンの贈った守り石や手巾は、身に着けてくれていたのだろうか。遺品の中にはなかった。
アーサーの力がなければ、この家を明るくするすべも、シャロンはもたなかった。手燭に立てた蝋燭に火を灯し、それを手に持って歩く。
この家は、こんなに暗かっただろうか。まだ、シャロンを呼ぶアーサーの声が聞こえる気がした。
――他に、何か、遺されていないだろうか。
アーサーの執務机の引き出しに、初めて手をかける。しかし引き出しには、最初から鍵がかけられていなかった。そして遺書のようなものも、まったく見つけられなかった。アーサーらしいといえば、アーサーらしかった。
ただ、シャロンがこれまで書いた手紙は、きれいに、しかも年代順に保管されていた。さらに、紙魚や腐食から何百年も紙を守る光の魔法も施されていた。
幼い頃に何気なくアーサーに渡していた花々は、すべて押し花にされ、きれいな栞になっていた。
シャロン自身も描いたのを憶えていないような絵も、すべて保管され、あるいは壁に飾られている。
机上には、シャロンの制服姿を写した光画や、彼女が小さい頃に拾ってきた木の実、粘土の工作物、河原で拾ってきた小石まで整然と飾られていた。
実験机の上は乱雑としているのに対し、この執務机だけは羽箒で定期的にアーサーが掃除していたのをシャロンは知っていた。
視界がジワリと滲み、目と喉の奥が、熱くなる。
「うっ、……うっ、せんせえ……」
アーサーの訃報を知ってから、シャロンは初めて、声に出して泣いた。
しだいに立っていられなくなって、膝から床に崩れ落ちる。
「うあぁっ、……あぁっ、うっ」
もう、先生は、いないのだ。どこにも。
誰よりも大好きな師。大好きな人。
自分の命を救ってくれた人。居場所をくれた人。生きるすべを、教えてくれた人。
まだ、彼がくれた温かさを、憶えている。命を助けられた日に、アーサーの胸に抱かれて眠りについて、心から安心したことも。文字を、言葉を教えてくれたこと。歯を磨いてくれたこと。爪を切ってくれたこと。髪を梳いてくれたこと。一緒に洗濯をしたこと。誕生日のたびに、祝ってくれたこと。すべて、憶えている。
ずっとずっと、アーサーは、シャロンにとって光だった。
でもその光は、喪われてしまった。永遠に。
この闇の中を、ひとりで、ずっと、死ぬまで歩き続けなければならないなんて。
そんなの、耐えられるのだろうか。
自分も、もう、こんな世界、消えたかった。消えてしまいたかった。
アーサーのあとを、一刻も早く、追いかけたかった。
――でも。
「強く在れ、シャロン」
どこからか師の声が、聞こえたような気がした。
「ああぁあっ……あ、あぁっ」
シャロンは床に這いつくばるように泣き続けた。
それからシャロンは、寝食を忘れるように研究に没頭した。
終戦から二年半、シャロンが大学校に入学してからは三年の月日が流れた。
十七になったシャロンは、物理学が専門で、闇の筆頭魔法使いでもあるヘンリー・マクファーレンのもとで、闇の魔法の研究に明け暮れていた。マクファーレンはロバートと同世代の男であり、歳は六十を超えている。銀灰色の長い髪を束ねて胸の前に垂らし、同じ色の口ひげを生やしていた。そして彼は先のソール戦線で、後継ぎとも言える弟子を亡くしていた。
「……ホリンシェッド君に然り、本当に惜しい人を亡くした。これからのレオルグを支える、若く優秀な魔法使いたちが、ソールの地に散った。後に残さるるは、頭の凝り固まった老いぼれのみ。……いや、君のようにこれからの王国を担う子どもたちが戦地に向かわずに済んだことが、何よりの救いだったのだろう」
マクファーレンの嘆きは深いものだった。
シャロンにとって、師はこれからもずっと、アーサーひとりだ。
だが、互いに弟子と師を喪い、同属性どうしということもあって、シャロンはマクファーレンに師事していた。アーサーの専門の一つが物理学であったことも、それに専攻を決めた理由だった。他にもシャロンは言語学と薬学を専攻した。
シャロンには、ずっと、気になっていたアーサーの言葉がある。
「光と闇の魔法使いは、他の魔法使いとは一線を画していると言える。――時空を、司るからだ」
シャロンはアーサーが書いた論文をすべて読んだ。
彼が十代の頃から解読を進めていたという古文書も読んだ。
色々なパズルのピースが頭の中で繋がっていく。
空間と空間を繋げる闇の魔法。刻を止めないまま保存されていた懐中時計。アーサーが受けもっていた「光魔法と時空の関係」と題された講義。
アーサーは、早くからその可能性に気づいていたに違いない。
(――光と闇の魔法使いは、時を、超えられるんだ)
……だが、これは、明らかに。
「――そう、禁忌の力だよ。時を超えるのは。だから、大学校や魔法院以外では門外不出の研究だ」
マクファーレンは、シャロンの思惑に気づいているのか、それを戒めるように首を横に振った。
アーサーは講義の中で、決して人間が、魔法使いが時を超えられるとは語らなかった。ただ、光の速度で物体を動かした場合の原理原則を説明していたのみだ。
アーサーはもとより、シャロンにはすべて教えるつもりだったのだろう。シュイッドの家の本棚に収められた本の内容は、すべてシャロンの頭の中に入っていた。そうすれば自ずと師の考えを導き出せたのは必然だった。
「マクファーレン先生。……アーサー・ホリンシェッドは、本当に死んだのでしょうか」
ずっと心の奥底で燻っていた疑問を、シャロンが口にする。
闇の魔法に取り込まれた人は、物体は、どこに消えるのか。一瞬で目に見えないくらいまでに圧縮され、死に至るのか。それともどこか別の時空に飛ばされるのか。闇の魔法使いでさえ、それはわからない、確かめようのない問題だった。
だが、光の魔法使いであるアーサーならば。
その瞬間に、時を超えることも可能だったかもしれない。
「……君が、そう疑問に思うのは当然だ。この研究を知っている者はみな、一度はその可能性が頭をよぎっただろう」
彼は、生きているのではないか、と。
マクファーレンが、古文書の解読書を取り出して、シャロンに手渡す。
「ホリンシェッド君がいなければ、我々はこれを読み解くことは決してできなかった」
それは、未来から来たという、闇の魔法使いの手記であった。
――私は遠い未来から来た
幼い頃から、私は魔力が人より何倍も多かった
そのため、〈場〉は難なくつくりだすことができた
〈闇の回廊〉を渡り、私は過去の世界に降り立った
理由は一つ
まだ、美しかった頃の世界を、見てみたかっただけだ
私は感動した
理想の時代に流れ着いた
〈闇の回廊〉の目的地は、使い手の想いに左右されるのかもしれない
この時代では、まだ魔法が戦争に使われていない
魔法使いが魔法で人を殺すのは最悪の外道であるという古の教えが生きていた
私は、過去の人間たちに紛れ、生活を愉しむことにした
十年の月日を経て、私は再び〈場〉をつくりだした
しかし、この〈闇の回廊〉は、私が元在った時代には繋がらないと、本能的に悟った
私は過去で死すことを決めた
いつの間にか未来は大きく変わってしまったらしい
しかし、未来が変わったのであれば、私という存在も消えてなくなるのではないか?
私の元在った時代は、消滅したのか?
あるいは、未来は何通りもあるのだろうか
これを解読した者へ
時間旅行は片道だ
どうしても変えたい過去があるのなら、なおのこと片道になる
未来に影響を及ぼさねば、元の時代への扉は開いたのかもしれない
ただ、私には二度と検証できない
いや、検証する気がない、と言ったほうが正しいか
それでも私は、この美しい世界で骨を埋められることに満足している
「……元の時代に戻れた者は、ひとりとしていないといわれている。時を渡った先で、元の時代に続く〈闇の回廊〉を開くことができず、その時代で死んだ者の記録だけが、古文書に残っている」
マクファーレンが説明を加える。古代文字とも違う暗号で記された手記の解読は、相当骨が折れるものであったことだろう。アーサーは本当の天才だったのだ。
そして直感的にシャロンは悟った。あの、木箱に封印されていた銀時計は、過去に取り残された闇の魔法使いの、置き土産だったのだ。
「――〈闇の回廊〉を渡れば、私も、時を超えられるでしょうか」
シャロンが解読書からマクファーレンに視線を移し、彼の目をまっすぐ見る。
マクファーレンは、ふうと大きく息をついた。
「……〈場〉をつくりだすことができれば、扉は、開くかもしれない。だが、〈闇の回廊〉は、いつ、どこの時代に繋がっているかもわからない、奈落の底なのだ。……残念ながら、私は同意できない。君をみすみす死地に向かわせたくはない。私は、君が大学校を卒業した暁には、闇の筆頭魔法使いの席を譲りたいと考えている」
どうか、今、この時代にとどまっていてほしい。
マクファーレンが、己の年齢の半分も生きていない小娘に向かって、頭を下げる。シャロンは、自身の胸がチリと痛むのを感じた。しかし、彼の懇願は、シャロンの決意を覆すものではなかった。
後日、シャロンは王宮の魔法院を訪ねていた。アーサーの訃報から二年半、ロバートは再び光の筆頭魔法使いの座についていた。
シャロンが初めてこの王宮でロバートに出会った日から、既に十二年以上の歳月が流れていた。彼の顔には、年相応の皺が刻まれていた。
「ロバート様。……〈光の回廊〉は、ありますか? 先生は、本当に亡くなったのでしょうか」
いつか、シャロンが〈光の回廊〉の存在に辿り着くとわかっていたのか、ロバートは彼女の質問に動じなかった。
「……〈光の回廊〉は、〈闇の回廊〉のように、過去には行けない。というより、〈闇の回廊〉のように記録が見つかっていないんだ。おそらく、未来にのみ繋がっているのだろうと我々は予測していた」
闇の魔法のように、光の魔法は時空を歪めることはできないからね。
執務机の上に両肘をつき、手を組んだロバートは、眉根を寄せながら答えた。
それは、もちろんシャロンも予想していたことだった。アーサーの講義を思い返せば、それは当然の理のように思えた。
反して、〈闇の回廊〉は過去も未来も綯い交ぜになった世界だといわれている。
まさに、高次元の神々が住まう世界のようだ。
「まだ、アーサーが生きている、などと期待をもたせるようなことは決して言わない。ただ、何年、何十年先に、あいつがひょっこり帰ってくる可能性を、……俺はまだ、信じている。この可能性については、既に陛下にも報告している」
ロバートが立ち上がり、シャロンに近づいた。
シャロンはロバートを見上げ、下唇を噛んで彼の碧眼を見つめる。
もう、シャロンがこれからしようとしていることに、ロバートは気づいているのだろう。
彼が彼女の肩に手を置いた。
「だから、シャロン。お願いだ。ゆめゆめ、〈闇の回廊〉を渡ろうなんざ、思わないでくれ。危険すぎる。アーサーに、頼まれているんだ。君を、ずっと見守っていてくれと」
こんなにも真剣な眼差しをしたロバートと長く視線を交差させるのは、初めてかもしれない。シャロンは目を逸らしたくなるのを堪え、ロバートの揺れる瞳を見ていた。
「アーサーは覚悟していた。唯一の心残りは、君だけだった。シャロン。もし、もしアーサーが帰ってきたときに、君がいなければ、アーサーはどれほど哀しむだろう」
そんな未来を想像して、ドクン、とシャロンの心臓が大きく鼓動する。
「……一緒に待とう」
ロバートに抱きしめられるのは、アーサーの訃報を彼がシャロンに知らせたとき以来だった。
――先生を、待つ?
それは、何年、何十年、何百年先のこと?
そもそも、本当に、闇の魔法で殺された可能性も、捨てきれないじゃないか。
シャロンは両の瞼をぎゅっとつぶった。
――何もしないでいるのなんて、絶対に無理だ。
シャロンは、「……はい。わかりました」と頷いた。しかし腹の内ではまったく反対のことを決めていた。瞳から意志の炎を消すことに努める。
「私も、いつか先生が帰ってくると、信じています」
泣きそうに笑いながら、シャロンがロバートに告げる。それも決して嘘ではなかった。シャロンだって、ずっと、アーサーがまだ生きていると信じたかった。
ロバートは、シャロンの言葉にとりあえず安心したらしい。「……お茶でも、飲んでいくかな?」といつものようにニコリと笑った。
真夜中。シュイッドの森で、いつも物干しに使っている木の洞の中に、シャロンは革袋に入れた光の結晶魔石を置いた。この結晶魔石は、五歳のときからいつも肌身離さず身に着けていた、己の分身のようなものだった。自分の躰から離れたのを、シャロンは少し寂しく感じた。
目印として、これは、ここに置いてゆくことにした。
また、このシュイッドの森に、帰れるように。
……いや、帰れなくても、いい。
先生の死を覆すことさえできれば、それでいい。
一生を、過去に、〈闇の回廊〉の中に囚われても、いいから。
もう、私は、先生の帰りを待つことしかできないだけの子どもじゃない。
シャロンは、闇の魔法を発動させた。
目の前に、大きな闇の渦が出現する。
森が、異変を察知したのか、ギャアギャアと鳥が鳴き喚き、木々を飛び立つ羽ばたきの音や、逃げ惑う小動物の鳴き声が次々に聞こえる。
シャロンが生み出した闇は、漆黒だった。夜の闇よりも深く、渦の中は月明かりが届かないほど真っ暗だった。
シャロンの心は、決意と覚悟を決めてから、ずっと凪のように穏やかだった。
どうやら、〈場〉は、つくれたらしい。
その感覚は言葉で説明できるものではなく、闇の魔法使いとしての本能だった。
この、〈闇の回廊〉は、生きている。
「――先生、私、行きます」
過去へ
「先生を、殺させない。絶対に」
シャロンは、闇の渦の中に、飛び込んだ。




