(3)
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「はあ……。この失恋の痛手を癒やしてくれるような殿方はどこかにいないのかしら……。ジーク様に比べたら、もう、みんなガキくさくて敵わないわ」
校舎から帰寮しているときのことだった。シャロンの隣を歩きながら、はんっとカレンが大げさに鼻を鳴らした。周りの男子生徒に対するあまりにも明け透けな物言いに、シャロンが苦笑いをする。
魔法学園に入学して一週間が経った。初めての週末、シャロンは新しい制服に身を包んだ姿をロバートに見せに行った。濃紺のローブに、灰色の膝丈のスカート。シャツは白、ニットベストは象牙色で、タイと靴下の色は学年ごとに分けられている。シャロンの学年は深い青緑のような鉄色だった。「……似合ってますか?」とシャロンがロバートの前でくるんと回ってみる。ロバートは目を見開いたあと、「……よく似合っている。本当に可愛らしい。シャロンの髪と瞳の色がさらに引き立っているね」と優しく目を細めた。
「――しかし、どうしたものか。この愛らしさだと週明けにもすぐ求婚の列が並ぶんじゃないか。いいかいシャロン。男というのは基本的に脳みそが下半身についているような奴らばかりなんだよ。くれぐれも気をつけてくれ」
「……はあ」
ロバートの忠告に、シャロンは曖昧に笑って応えた。既にシャロンは何人かの男子生徒から声をかけられてしまっていたからだ。しかしそのたびに隣にいるカレンが威嚇してくれていたので、特に何事もなくこの一週間は平穏に過ごせていた。とはいえ、男子生徒から遠巻きに口笛を吹かれたり、上級生と廊下をすれ違ったりしたときに決まって話しかけられるのは、些か居心地が悪かった。反対に、女生徒たちからの嫉妬の眼差しが痛かったのは事実だ。
シャロンは周りの少年少女のことを何も知らないのに、シャロンが「アーサー・ホリンシェッドの弟子」であることはみなが知っていた。それほど、魔法使いの間でアーサーの名を知らぬ者はいないということをシャロンは改めて実感した。
ロバートはまだ研究開発段階であるという特殊な露光装置をそそくさと持ってきて、それに光魔法を施し、シャロンの姿を何枚もガラス板に焼きつけていった。この板を使えば、写し絵のように焼きつけたものを紙に転写できるらしい。
アーサーからの手紙はまだロバートのもとにも届いていなかった。シュイッドの森で彼を見送って三週間が過ぎた。こんなにもアーサーの姿を見ていないのは彼と出会ってから初めてのことだった。
これから何年もアーサーに会うことが叶わなかったら、どうすればいいのだろう。宮廷魔法使いのロバートのもとには戦況の情報が入ってくるのか、「一年で、終戦まではいかずとも、停戦に持ち込められたらいいのだが……」と思案げにロバートが呟いていた。
「シャロンは好きな人いる?」
カレンの声に、はっとシャロンが現実に引き戻される。週末のロバートとの会話が脳裏を占め、束の間上の空になっていたようだ。シャロンはいつの間にか寮の部屋に帰ってきていた。
「これまでに声をかけてきた不届き者の中で、誰かいいなって思う人はいた?」
不届き者という表現が、カレンの男子生徒に対する値踏みをそのまま表していた。シャロンは「……よく、わからない」と首を横に振った。「ま、当然よね」と言って、フンッとカレンが鼻の穴をわざと広げてみせる。
「シャロンって今まで誰かのこと、素敵! とか、かっこいい! って思ったことある?」
「……先生のことは、いつも素敵だな、かっこいいなって思ってるよ」
持っていた教科書を、机の上の棚に収納しながらシャロンが答える。
シャロンは、アーサーが眠っている姿や、新聞を読んでいる姿、手紙を書いている姿、実験している姿、教壇に立っている姿などを自身の記憶から反芻させた。さらに、大学校の授業で模擬戦闘の指導をしている姿や、宮廷魔法使いの黒いローブを身に着けていた頃の姿を思い出し、シャロンは頬を紅く染めた。
「――誰かにドキドキしたことは?」
「先生に触れていると、いつからかドキドキするようになったの」
幼い頃は気にしたことさえなかったのに、アーサーの首筋や骨ばった手、血管の浮いた腕に触れると、自分の躰との違いを如実に感じてドキドキするようになった。シャロンには父親の記憶がない。兄弟もいない。シャロンにとって一番身近な男性は、幼い頃から今の今まで、アーサーひとりだった。
「――それ、もう、アーサー様のことが好きなんじゃない?」
着ていたローブを衣装棚に収めたカレンが椅子に座り、脚を組みながらシャロンに問いかける。シャロンは後ろを振り向いて、きょとんと小首を傾げた。
「先生のことは、大好きだよ?」
「違うわ。もう、一人の男性として好きってことよ」
一人の男性として――。
カレンの補足を噛み砕こうと、シャロンが眉根を寄せる。今度は反対の方に首を傾げてシャロンは尋ねた。
「男性として好きって、どういうこと?」
「シャロンはアーサー様に、恋をしているんじゃない? アーサー様を他の女にとられたくない! ってやきもちをやいたり、自分を見てほしい、自分を好きになってほしい、結婚したいと思って、夜も眠れなくなったりしたことはない? 要するに、男性として魅力的に思っているってことよ」
カレンが自身の実体験を綴るように詳しく語る。「私は、自分がエレノアお姉様よりも早く産まれていたらって何度も思ったわ」と遠い目をして、彼女は深い溜め息をついた。
シャロンは、アーサーが貴族の娘と結婚するのでは、と思い悩んで夜中に眠れなかった日のことを思い出した。そして、アーサーと同い年の女生徒たちを見て、羨ましいと思ったことや、セシルがシュイッドの家に訪れたとき、アーサーの恋人なのではないかとひとりで勘繰ってしまったことも。
――ああ、あれが。あのモヤモヤとした昏い感情が。
「……私、やきもち、やいたこと、ある」
「でしょっ? やっぱり、シャロンはアーサー様に恋してるのね!」
カレンが、きゃあっと年相応の少女のように歓喜の声を上げる。
嫉妬、だったのか。
自分は、先生のことが、男性として好きだったのか。
何かが、ストンとシャロンの腑に落ちた気がした。
「私は……。先生が、笑ってくれるのが、嬉しくて。……それだけで、幸せで」
でも、アーサーと結婚したいだなんて思ったことは、一度もなかったように思う。現実味が、まったくなかった。ただ、いつか隣で肩を並べたい、と思ってしまったことはあるが――。確かにその憧憬には、アーサーの伴侶の姿を考慮していなかった。シャロンはアーサーと肩を並べて歩んでいきたいのであって、アーサーとその妻の隣に並びたいわけではなかった。
ロバート曰く、アーサーはシャロンに出会ってから、よく笑うようになったのだという。明らかに表情が柔らかくなった、と。「昔はもっと野良猫みたいに誰彼構わず威嚇していたよ」と昔日のアーサーを想い返しながらロバートは笑っていた。
ジークとエレノアの結婚式を思い出す。代々グレイバート家で受け継がれてきたという、色鮮やかな刺繍と、宝石がちりばめられた華麗な婚礼衣装に身を包んだ花嫁の姿は、とても美しかった。みなに祝福され、新郎新婦ともに至極幸せそうだった。
脳裏に浮かんだその情景を霧散させるように、シャロンが大きく頭を振る。
「でも、私が先生と結婚するなんて、無理だと思う。私は……貴族では、ないし。それに先生は、私のこと、女として見ていないってわかるもの。だって私、小さい頃、おねしょの片づけだって先生にさせてしまったこともあるし。歳も、離れているし……」
「アーサー様って、貴族かどうかで人を見ないんじゃない? 魔法使いよ?」
「それは……そうなんだけど」
アーサーが貴族らしくないのは確かだ。アーサーは人によって態度を変えないし、媚びへつらわない。優秀な魔法使いには家名をもたない庶民がいるのも事実だし、家名はもっていても貴族ではない、例えば商家出身の者も多い。貴族の中には金を扱う金融業や商家を〝成金〟と見下し、蔑む者もいるが、アーサーには、家がそれらを生業とする友人も多いのか、行く先々で歓迎されている姿をシャロンは目にした。
「アーサー様って、今何歳?」
「夏に誕生日だったから、二十六歳」
シャロンが即答すると、「ふうん。十二? 十三歳差ねえ」とカレンが組んだ膝の上で頬杖をついて、くいと片眉を上げた。
「でも、うちの両親も確かそれくらい離れてるわよ。別におかしくなんてない。私とジーク様も、十五歳くらい離れていたのかしら? そんな歳の差なんて、気にしたことさえなかったけどもね!」
ふるふると悔しがるように拳を握り締め、カレンが嘆く。シャロンは「そう、なんだ……」と目を見開いた。年相応の若い男女が清く正しく結ばれる恋愛物語しかシャロンは読んだことがなく、世間では夫婦の歳が離れていることも珍しくない、むしろ普通であることをシャロンは知らなかった。
カレンはそのまま組んでいた脚を元に戻し、その腿をタンッと手で打って、いきなり声を張り上げた。
「男は何だかんだ若い女が好きなんだから! シャロンに勝機はあるわ! 絶対に諦めないで、心から応援してる!」
立ち上がったカレンがシャロンと距離を詰め、シャロンの手を両手で握り、ブンブンと上下に大きく振る。いったい何から知識を仕入れているのか、カレンは自信満々に豪語した。
「ただ、一番の懸念事項は、シャロンが結婚適齢期になる頃まで、アーサー様が誰とも結婚しないなんてことが、あり得るのかって話よね」
問題はそこなのだ。
ふう、と息をつくカレンを見て、シャロンも溜め息をつきたくなった。
エレノアが二十歳でジークと結婚したように、レオルグ王国では二十代が男女ともに結婚適齢期とされている。
「……前に、先生が言ってたの。私が一人前の魔法使いになるまで結婚はしない、って」
「一人前の魔法使いって何歳くらいなのかしら。魔法大学校を卒業する二十二、三歳くらい?」
「十七とか? って、先生は言ってた……」
「それ、絶対アーサー様の基準よね。……でも、なるほど。少なくとも、それまでは安心していいってことじゃない」
カレンからポンポンと両肩に手を置かれ、励まされる。でも、根本的な問題は、歳の差などではないかもしれないことに、ふとシャロンは気づいた。
「……先生に、女として見てもらえるようになるには、どうすればいいんだろう」
「それは……。もう、成長するしか、ないんじゃない?」
シャロンの悩みに、カレンも言葉を詰まらせる。月経が始まるに伴い、シャロンの胸も膨らんできた。背もアーサーからシュイッドの家で定期的に測ってもらっていたから、毎年伸びていることもわかっている。
でも、今のシャロンがまだ、身も心も、魔法の技量も、アーサーの隣にふさわしくないのは、自分でもわかっていた。
「……早く、大人になりたい」
「そうね。わかるわ。痛いほど」
俯くシャロンを、カレンはぎゅっと抱きしめてくれた。
先生に、追いつきたい。
ただ守ってもらうだけじゃなく、自分も先生を守れるようになりたい。
それが、今のシャロンの願いだった。今は、安全な場所でアーサーの無事を祈っていることしかできないけれど、いつか、いつかアーサーの隣に追いつくことができたなら。彼もシャロンを一人の女として見てくれるのではないか。シャロンの想いに、応えてくれるのではないか。
アーサーに会いたい恋しさで、その夜、シャロンは枕を涙で濡らした。
シュイッドでアーサーを見送ってからひと月が経った頃、待ちに待ったアーサーからの手紙がシャロンのもとに届いた。
アーサーとはいつも一緒だったから、遊びでやり取りするような手紙や誕生日カードを除けば、このように何枚も便箋が綴られた手紙をアーサーからもらうのは、シャロンにとって初めてのことだった。
アーサーの筆跡は、貴族らしく流麗で美しい。シャロンは幼い頃から、彼の筆跡を手本に文字を綴る練習をしてきた。そのため、二人の筆跡は似ている、とセシルから指摘されたこともある。
アーサーの手紙には、急に発つことになってすまなかったこと、勝手に寮住まいを決めたことについても謝罪が重ねられていた。また、シャロンが元気でいるか、泣いてはいないか、困っていることはないか、いつも考えている、とも率直に綴られていた。あとは、アーサーが魔法学園に通っていた頃は図書館をよく利用していたことや、めったに人が来ない穴場の四阿、先生ごとの試験の出題傾向や押さえておくべき魔法書なども教えてくれた。
だが、手紙の中では、アーサーの身の回りのことや戦況のことは一切触れられていなかった。当然だ。私信に軍事機密を書くわけにはいかないことなど、子どものシャロンにでもわかる。
だから、シャロンも戦争のことには触れず、日常のことを手紙に書き綴った。おそらくアーサーもそれを願っているだろう。同室のカレンと友だちになれたこと。図書館にはまだ行ったことがなかったのですぐにでも行ってみること。薬草学の先生が少し怖いこと。属性ごとに分けられる実技の授業で力加減に迷っていること。女子の視線が痛いのもあって、あまり目立ちたくないこと。所構わず騒ぐ男子のことを子どもっぽいとカレンが嘆いていたこと。などを素直に書き綴った。
次のアーサーの手紙も、ひと月後に届いた。シャロンの手紙が届くのに時間がかかったのか、それとも半月ほどで届いていたのかはわからないが、緊急でない私信が戦地と王都の間を行き来する最短の期間が、ひと月なのだろうとシャロンは納得していた。
アーサーは、シャロンが綴っていたこと一つ一つに反応するように返事を書いてくれていた。さらに、ロバートからシャロンの制服姿を写した光画が届いたこと、とてもよく似合っていること、そして、もし誰かに言葉や暴力で傷つけられそうになったら、容赦なく魔法を使って懲らしめろ、とも綴られていた。あとは、もしそんな生徒がいれば名前を遠慮なく教えろ、とも。まさか報復などはしないだろうが、シャロンは手紙を読んでいるときに少しだけ身震いがした。
そしてアーサー曰く、薬草学の先生は、授業では気難しく見えるだろうが、薬草の世話や採取を手伝ったりすると、色々珍しい植物を見せてくれたり、薬草に関する高度な知識まで教えてくれるようになるらしい。また、同級生の男女の挙動については、そんなものだからさして相手にせず、いつでも大学校を目指していいと綴られていた。
そんなふうに手紙のやり取りを続けながら、秋が過ぎ、冬が過ぎた。
シャロンは半期ごとの期末試験で学科と実技ともに首席になり、学園長から表彰を受けた。
手紙で、「首席になりました」とアーサーに短く報告する。それからひと月後、春の初めに届いたアーサーからの手紙には、祝いの言葉が綴られていた。
――誕生日おめでとう、シャロン。そして首席も。
君を心から誇りに思うよ。
アーサーは、普段から歯に衣着せぬ物言いをするが、手紙の言葉も率直だ。
――なんて、嬉しい言葉なんだろう。
シャロンは手紙を読みながら、思わず涙が、一つこぼれた。
これからも自分は、あのアーサー・ホリンシェッドが誇りに思ってくれるほどの弟子で在り続けられるだろうか。
さらにロバートを経由して、シャロンのもとにアーサーからの贈り物が届いた。
それは、黒縞瑪瑙に浮き彫りが施された美しい髪留めだった。黒いベルベットのリボンの中央に石が着けられている。彫られている横顔の女性は、少し、シャロンに似ている気がした。
アーサーがロバートに頼んで、宝石店に以前から注文していたものであるらしい。宝石で、しかも職人の技が光る一点ものであり、おそらくシャロンが想像もつかないような値がつけられるものなのだろう。
寮の部屋に戻って、早速髪に着けてみる。鏡を見ると、白金の髪に黒い髪留めがよく映えていた。
シャロンには、まだ少し大人っぽい意匠な気がしたけれど、それがとても嬉しかった。
その日は、髪留めを手にシャロンは眠りについた。
「せんせ……」
私、あなたのことが、大好きです。




