(1)
「――ソール戦線に、向かうことになった」
シャロンが魔法学園に入ることのできる年齢、十三になった年のことだった。
とうとうアーサーが、レオルグ王国軍に召集された。
海を渡った先の領土、ソール地方は、大陸の東西に跨った広大な国土を抱くイヴァン帝国と接している。
二十年前までソール地方はイヴァン帝国の領土だった。だがその前はレオルグ王国の領土、その前は――と、ソール地方に堆積した両者の歴史は複雑だった。
ソールは実り豊かな平地だ。海にも面しており、恵まれた漁場も周囲に広がっている。この肥沃な大地を奪還しようと、イヴァン帝国軍が本格的に動き始めたらしい。
「これまでも小競り合いは何度か起きているが、それとは比べ物にならないほどの物資と人員が動き始めたんだ」
帝国に潜ませている斥候から報告が上がってきたという。王宮からの緊急参集に応じるため、軍から一時帰宅したアーサーが、険しい表情を崩さないままシャロンに事の子細を語る。羽織っていた青灰色のローブを手早く脱ぎ、軍から支給されたらしい黒のタイを締めていく。
「どうして、戦争は、起きるんですか……?」
開戦の予兆は、確かにこれまでもあった。軍から魔法大学校への要請にせよ、アーサーへの度重なる依頼や呼び出しにせよ、以前よりいっそう頻度は増していた。
だが、こんなにも唐突に、平時が〝戦時〟になるなんて。
どれくらいで帰って来られるのか、どれほど危険なのか。シャロンはアーサーに訊きたいことが山ほどあったけれど、アーサーがシャロンに言わないということは、どれもまだアーサー自身もわからない、あるいは伝えられないことなのだろう。
フッ、とアーサーが諦念を帯びた笑いを浮かべる。
「古今東西、人間が争わなかった時代なんてないさ」
確かに、そうなのだろう。同じ王国でだって、内戦が起きている。況や、言葉も民族も人種も価値観も信仰も違う人間たちと、仲良く手を取り合って生きていけると考えるほうが、現実的ではない。
アーサーの身支度を手伝おうと、シャロンは軍からの支給品を検めた。軍服、外套、軍帽、軍靴――金糸と銀糸の刺繍や縫い目以外、すべてが黒に染まっていた。
「……戦争は、勝たねば意味がない。負けたら、負けた側のすべてが悪とされる」
この国の百年が決まるんだ。
アーサーの瞳は、静かだった。だが、覚悟を既に決めている目だった。
王国を背負って、帝国と戦う覚悟を。
「……っ、もう、ここには戻られないんですか? 次は、いつ……帰って来られますか?」
シャロンは、尋ねる声が震えるのを止められなかった。アーサーが軍服の上着を羽織り、眉尻を下げながら答える。
「今夜までにはソールに向けて発たなければならない。俺は、というより、魔法使いは前線を任される。前衛がなし崩しになれば戦線は崩壊する。猶予が、あまりないんだ。いつこの戦の片がつくかも、正直今はわからない。……すまない」
上着の釦を留めながら、至極申し訳なさそうにアーサーがシャロンを見つめる。
本当は、シュイッドの森に戻る暇すら、なかったのかもしれない。着替えなんて、軍でだって、王宮でだってどこでもできるだろう。戦いの火蓋が切られ、一刻を争うなか、アーサーは出征前に、シャロンに別れを告げるためだけに帰ってきてくれた。それに気づいたシャロンは、もう、何も言えなかった。
行かないでほしい、なんて、口が裂けても、言えなかった。
「学園への入寮手続きは済ませている。明日にでも、寮に移るといい。金子が足りなくなったときは、オルヴァン銀行にこの鍵と指輪を持って行け。何かあれば……、いや、なくてもいい。どんな些細なことでも、ロバートを頼ってくれ」
革紐に通された鍵と指輪を、アーサーがシャロンの首に提げる。指輪型の印章には、ホリンシェッドの家紋が彫られていた。
魔法学園の新学期は初秋に始まる。入学式は二週間後だった。シャロンは闇の魔法を使ってこのシュイッドの森から通おうと思っていたため、寮に入る気は更々なかった。だが、元々アーサーは「寮生活も楽しいかもしれないぞ」とシャロンに選択肢を提示していた。
確かにアーサーのいないこの家で、たったひとりで過ごす想像が、今のシャロンはうまくできなかった。それよりはアーサーの言うとおり、寮に入ったほうが楽しく、気が晴れるのかもしれない。
「……そばにいてやれなくて、すまない」
アーサーが何度目かの謝罪を口にする。シャロンをひとり残してしまうことを、心から憂えていることが、彼の表情から伝わってくる。シャロンは首をブンブンと大きく横に振った。でも、今にも泣きそうな顔をしてしまうのは、どうしようもなかった。
アーサーに、シャロンから何も渡せないのが、ひどくもどかしかった。武運を祈る守り石もこの場にはないし、今さら手巾に刺繍もできない。
泣いてはダメだ。笑っていないと。笑って、先生を見送らないと。
「っ、無事に、帰ってきて、ください」
どうにか我慢しようとしたけれど、ぽろぽろ、と瞳から涙がこぼれ落ちていくのは止められなかった。シャロンは唇をぐっと引き結んで嗚咽が漏れるのを堪えた。
「――ああ、必ず」
アーサーがシャロンを抱きしめる。今までにないくらい、ぎゅっと、強く。シャロンの背は、出会った頃は、アーサーの腰にも届かないくらいだったのに、今では彼の胸元にまで伸びていた。
手を繋いで扉の外に出て、シャロンがアーサーを見送る。
去り際、彼はシャロンの両頬に手を置き、彼女の涙を拭った。
「手紙を書くよ、シャロン。――元気でな」
アーサーがシャロンの頭頂部に口づけを落とす。
そのまま優しく笑って、アーサーは彼方に飛び去っていった。
須臾にしてその姿は、空の向こうに見えなくなった。
もっと、シャロンが強かったら。もっと成熟していたら。アーサーの隣に並んで戦えたのだろうか。
ずっと、ずっと、離れ離れにならず、一緒にいられるのだろうか。
「……っ、ひっ、……っ、ひぃん」
その場にうずくまって、シャロンは声もなく泣いた。




