(5)
少し生活が落ち着いてきたので更新再開します!
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不浄に立ったときだった。
シャロンは、下着に血が付着していることに気づいた。
今、体調が悪いわけではない。ただ、最近、普段より体温が高い気がしていた。
人体のしくみに関する書は読んでいた。男と女の躰の違いも知っていた。シャロンは、これが経血だとすぐに気づいた。
「いいか。女は躰に月を抱えて生きてるんだ」
人体の解剖書を一緒に読んでいたときのアーサーの言葉を思い出す。そして、もし躰に変化の兆しがあった場合はすぐに言え、ともアーサーはシャロンに念を押していた。
何も恥ずかしいことではない。躰が、健康的に成長している証なのだ。
ただ、何とも言えぬ気恥ずかしさが、腹の奥底から湧いてくる。
最近、胸にもしこりができてきて、押すと痛い。
決して病気などではないのだろうけど、シャロンは自身の躰の変化に、少し、とまどってもいた。
「……あの、せん、せい」
「どうした?」
地下室に続く階段をおそるおそる降り、シャロンは何やら実験をしているアーサーに声をかけた。深緑色の毒々しい色をした薬品の入ったフラスコを掲げて、液体の状態を確認していたアーサーがシャロンに目をやる。
「あ、あの……。……つ、月のものが、始まった、みたいで……」
シャロンは俯き、自身の両手に視線を落としながら呟いた。もじもじとわけもなく指を動かしてしまう。やはり、何だか恥ずかしくて、アーサーの目はまともに見られなかった。
そのとき、パリンッとガラスが盛大に割れる音が地下室に響いた。
次の瞬間、シャロンの目の前にアーサーが現れ、彼女は思わず「ひっ」と息を呑んだ。
「体調は? 気分は悪くないか? だ、大丈夫か?」
矢継ぎ早に、まるで薬師の診察みたいなことを尋ねられる。アーサーに両肩を力強く摑まれ、シャロンは一瞬萎縮した。力をこめすぎたことに気づいたのか、アーサーがシャロンからバッと両手を離し、「す、すまない」と謝る。
「……体調は悪くないです。ただ、どうすればいいか、わからなくて……」
医学書には月経のしくみについては記述されていたけれど、世の女性が毎月それにどのように向き合っているか、どう処理しているかまでは書かれていなかった。シャロンは汚れた下着を洗い、今は新しい下着を身に着け、経血でまた汚れないように古いシーツの端切れを当てていた。
シャロンの困っていることがアーサーにも伝わったのだろう。アーサーは両目を片手で覆って何か考え込んだあと、「……適任者を、呼んでくる」とくぐもった声でシャロンに告げた。こんなに自信のなさげなアーサーを見たのはシャロンにとって初めてのことだった。
「え?」
「机には触れるなよ! 戻ったら俺が片づけるから!」
声がシャロンに届いたときには、もうアーサーの姿は地下室になかった。実験道具や紙が散乱した机上を見ると、アーサーが先ほど持っていたフラスコが割れたのか、中身が飛び散り、散々な状態になっていた。幸い、毒物ではなかったのだろう。異臭や目が沁みるなんてことはないが、所々泡立って見えるあの緑に触れる勇気はシャロンもあまり湧いてこなかった。しかし割れたガラスだけでも……と片づけたい衝動を抑え、シャロンは地下室をあとにした。
「セシル・ワトソンと申します。何でも尋ねてくださいね」
アーサーが連れてきた「適任者」は、一人の女魔法使いだった。
この家にアーサーが誰かを招き入れることは、シャロンの知る限り一度もなかった。ロバートでさえ、このシュイッドの森の家に足を踏み入れることはなかった。
ズキリ、と心臓を締めつけられたような心地がする。
ふわりと膨らんだ栗色の髪に、柔和な笑顔。彼女からは、何だか花の良い香りがする。
大学校で見る女生徒よりも、ずっと大人の女性。
「……シャロンと、申します」
顔がひきつらないように気をつけながら、シャロンは小さくお辞儀をした。
この女性は、アーサーにとって、どういう存在なのだろうか。
大切な、ひとなのだろうか。
将来を、誓えるほどの。
「まあ! 素敵なお部屋ですね」
セシルは三階に置かれたシャロンの部屋を見て、弾んだ声を漏らした。壁紙も、調度品も、すべてシャロンが好むようにアーサーが用意したものである。小窓からは柔らかな陽射しが部屋に射し込んでいた。
セシルを椅子に座らせ、シャロンは寝台の上に腰かけた。セシルが丸机の上に鞄の中から取り出したものを並べていく。
「月のものが始まったと伺いました。ホリンシェッド様から、色々教えてやってくれ、と……。これらは詰め物です。この海綿は洗って何度も使うことができます」
セシルが机に並べたのは麻の詰め物と、絹のような海綿だった。月の障りがあるとき、これらを女性は膣に詰めているのだという。そしてセシルは肌触りの良い新しい下着を五着もくれた。
「成長するにしたがって子宮も大きくなります。だんだん周期も安定してきますが、経血の量も増えてゆきます。人によりますが、痛みもさらにつらくなるかと思います。私の場合、月の障りの始まりや終わりがけに頭痛もします。シャロンさんも、そんなときは我慢せず、痛み止めを服用してくださいね」
セシルは月の障りは重いほうで、経血の量も多く、その期間は憂鬱だという。毎月このような面倒な処理に加え、痛みにまで苛まれるようになると知って、シャロンは少し心細く感じた。母がいれば、色々教えてもらえたのだろうか、とシャロンは首から提げた結晶魔石をぎゅっと握り締め、母の姿を思い出した。
「……私、実は一度、あなたが小さい頃に、お会いしているのですが」
月経についてひと通りの説明をしてもらったあと、シャロンがセシルに温かい紅茶を差し出し、互いにそれを口に含んで人心地がついたときだった。何を話そうか、何が話せるか、二人が沈黙の海を漂っていたとき、話を切り出したのはセシルのほうだった。
シャロンは「……え?」と瞬きを一つした。正直なところ、あの村から助け出されたとき、アーサー以外の魔法使いの顔を、シャロンは憶えていない。
セシルはシャロンが自分を憶えていないことなど、至極当然のことと受けとめているのか、眉を下げて微笑んだ。
「未熟だった私は、力の強い、あなたのそばに立っているのもやっとで。あの場にいた唯一の女であったのに、あなたをお風呂に入れてあげることすらできなかったんです」
なぜアーサー以外の魔法使いのことをシャロンが憶えていなかったのかというと、単純にシャロンのそばに誰も近づけなかったからであり、シャロンと物理的に接することのできた稀有な存在がアーサーひとりであったという話だ。シャロンは記憶力も良いほうだ。アーサーと暮らし始めた頃の思い出だって、宝箱に収めた宝物のように、一つ一つ、つぶさに思い出すことができる。ただ、それはアーサー限定の話であって、ときどきロバートが顔を出すくらいで、あとの人影は靄がかかったように思い出せなかった。
「――ずっと、心残りでした」
肩を落としたセシルがカップの中の液面に映った自身を見ているのか、視線を落とし、器の側面を指で擦っている。
「ホリンシェッド様にお会いするたび、不躾にも尋ねていました。あなたは元気にしているか、と。だから、あの、今こうして、顔を合わせることを許されたのだと思いますが……」
セシルが顔を上げ、シャロンと目を合わせる。何か言おうと口を開いたり、閉じたりして、唇を一文字に引き結んだあと、セシルが頭を下げた。
「あのときは、ごめんなさい」
突然の謝罪に、シャロンは何も言えなかった。セシルは、シャロンの許しなど端から必要としていなかったのか、すぐに言葉を付け加えた。
「この謝罪も、ただの自己満足に過ぎません。……でも、嬉しいんです。これから、少しでもあなたのお役に立つことができるのなら」
憂いを帯びた表情を浮かべていたセシルが、少し肩の力が抜けたように微笑む。
優しいひとだ、とシャロンは思った。
彼女にとっては数年前の一任務に過ぎなかったことを、いつまでも憶えていてくれたのみならず、こうして気を遣い続けてくれることに。それほど、彼女にとっては衝撃的で、後悔の残るものだったのかもしれないが、思い出しても決していい気分にはならない任務だったことだろう。
セシルはようやく胸の痞えが下りたような安堵の表情を浮かべていたが、まったく別の観点で安堵していたのは、シャロンのほうだった。
セシルの言葉から察するに、どうも彼女はアーサーの恋人ではなさそうだ。
ほっと息をついて紅茶を口にすると、少しの苦味とともに暗い気持ちが押し寄せてくる。純粋な心配を向けてくれる人に対し、自分は何を品定めしているんだという後悔だった。この卑怯な心がセシルに伝わっていないことをシャロンは願った。
「私も手紙を書きますので、シャロンさんも、よろしければ、手紙をくださいね」
照れたように笑うセシルのそばで、きらりとしたものが光った。彼女がカップを持つ手の薬指には、銀の指輪が嵌められていた。
セシルはシャロンの視線に気づいたのか、「あ、婚約指輪です。今度、同僚の光魔法使いと結婚することになって」と言って、ふわりとはにかんだ。
セシル曰く、婚約者とは、アーサーにこき使われるなかで仲良くなり、惹かれ合ったのだという。「あ、こき使われたって言ってたのは内緒にしてくださいね」とセシルがお茶目に片目をつぶりながら、唇に人差し指を置いてみせる。シャロンは思わず、フフッと小さく笑った。
それからセシルは、シャロンの良き文通相手、もとい相談相手になってくれた。それは、セシルが結婚したあとも、彼女が子どもを授かってからも続いた。




