(4)
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「――シャロン。お前、学園に行きたいか」
「学園、ですか?」
週に一度、アーサーとシャロンは一緒に洗濯をする。洗濯板も盥も二人分ある。アーサーは比較的大きいものを、シャロンは細々としたものを中心に洗う。結果として、自分のものは自分で洗っているとも言える。
アーサーは、ひと通りの家事を自分でこなすことができる。貴族としては珍しいが、他人からの干渉を極力避けたがるのは、魔法使いらしいと言えば魔法使いらしかった。
家の近くに生えた木にロープを繋いで、洗濯物を干していく。
真っ白なシーツや浴巾、衣服が風になびき、はためいた。
「別に学園を経ずに初めから大学校に入学したっていいんだが……。もし俺が突然死んだりしても、学び続けられる場は、あったほうがいいからな」
まあそのときは、おっさん……ロバートに頼ればいいさ。
アーサーが、何でもないことを言うように呟き、干した洗濯物たちを仰ぎながら「んーっ」と気持ちよさそうに伸びをする。
シャロンは、思わず持っていた籠を落としそうになった。
「……どうして、そんなこと、仰るのですか」
アーサーの発言は、この爽やかな休日の朝にまったくふさわしくなかった。少なくとも、シャロンの心には得も言われぬ焦燥とざわめきをもたらした。
シャロンの顔が色を失っているのに気づいたアーサーは、「……何も悲観的になってるわけじゃないぞ」と肩を竦め、彼女の抱えた籠を代わりに持った。
「いつだって、最悪のことは想定しておくに越したことはないという話だ」
少し腰を屈めて、アーサーがシャロンと視線を合わせる。アーサーはいつだって、シャロンと目を合わせて言葉を紡いでくれる。そのことにシャロンが気づいたのは、いつだっただろう。
「いいか、いつも通りの明日が来るとは、思うな。非日常は唐突にやってくる」
アーサーがシャロンの頬に片手を置く。その温かさとは裏腹に、彼の言葉は鋭い矢のようにシャロンの心臓に深く突き刺さっていった。
シャロンは、アーサーの言葉の意味を、よく、わかっていた。だって、この闇の魔力が自身に初めて発現した日のことを、シャロンはまだ、憶えている。あの日を境に、自分を、母を取り巻く世界が、一瞬で暗転した。昨日と今日とでは、世界が一八〇度変わりうることを、シャロンは身を以て知っていた。
でも、シャロンは、ぽろぽろと涙がこぼれていくのを止めることができなかった。
アーサーがこの世界からいなくなるなんて耐えられない。
アーサーがいなくなったら、どう生きればいいのだろう。
「すまない。つらい記憶を、思い出させたな」
アーサーがシャロンの頬に流れる涙を拭う。籠を地面に置いて、彼はシャロンを抱きしめた。ぽんぽん、と優しくシャロンの頭と背に手を置き、彼女を宥める。シャロンはアーサーの背に腕を回して、彼の着ているシャツをぎゅっと握り締めた。顔をアーサーの腹に押しつけた彼女の喉から、こもった泣き声が漏れる。
アーサーは、シャロンにとって、師であり、指針であり、道しるべだ。
それは、シャロンが生きている限り、永遠に続いていくものだと、今の今まで思ってしまっていた。だがそれこそが、甘えだったのだろうか。アーサーは、自分に依存するシャロンを戒めようとしているのか。いや、違う。おそらくシャロンが、突然アーサーを喪ったときに、前に進めなくなったり、向学心を失ったりして、泣き暮らしてほしくないのだろう。
でも、今だけはこの温かい腕の中で、彼に甘えて、泣いてもいいだろうか。
アーサーはシャロンが泣き止むまで、ずっと抱きしめてくれた。
昼食を摂ったあと、アーサーが手ずから紅茶を淹れてくれた。紅茶の淹れ方も、シャロンはアーサーから最初に教わった。
シャロンももう、だいぶ気持ちが落ち着いていた。泣き腫らした目はまだ腫れが引いていないが、先ほどよりもずいぶん頭は冴えていた。アーサーの言葉にシャロンは気が動転してしまったが、そもそも事の発端は、魔法学園の話だった。
「先生は、学園にも、通われたのですか?」
「ああ。……正直、学園の方は俺は別に通わずともよかったと思っている。魔法がちっとばかし使える貴族のボンクラどもが偉そうにのさばってやがるし、授業も初歩的すぎてつまらなかったしな」
アーサーが口を僅かに歪め、忌々しい記憶を思い出したかのように、ふてぶてしげに頬杖をついた。自分だって貴族なのに、アーサーは典型的な貴族を嫌っている節がある。貴族であるにもかかわらず、使用人を一人も雇っていない時点で、性格が捻くれ……変わっていると言えるのだろう。
「だが、大学校は違う。魔法を扱える者の中でも、試験に合格した者しか入学できない。いくら寄付金を募ったって無駄だ。上級生や下級生の隔たりもなく、完璧な実力社会だった」
……金儲けの一環として時折、聴講生は受けいれなきゃならないが。
苦虫を嚙み潰したような顔でアーサーが呟く。十三歳から入学できる魔法学園は六年制で、上級生と下級生の区別は厳密になされているという。アーサーからすれば、自分より学力も実力も劣る人間に従おうとする気すら湧かなかったのだろう。
「学園には、どれほど通われたのですか?」
「一年で見切って、大学入試を受けた。それから三年で学位を修めた」
つまり、十三で学園に入り、十四で大学校に入って、十七で卒業したということか。
――天才としか形容できない。
「大学校は、楽しかったですか?」
「……こんな俺でも、友に恵まれた。同世代で話が合う、と感じた人間に会ったのは初めてだった」
嫌味でも何でもなく、正直な感想なのだろう。先ほどとは打って変わって、楽しい記憶を思い起こしたように、アーサーが目を細めながら微笑む。同世代といっても、ほぼ学生は年上だっただろうが、師のロバートより若く、それでいて対等に議論ができる相手に巡り会えたのが、アーサーは嬉しかったに違いない。
「教授の講義も面白い。地学、医学、薬学、化学、生物学、物理学、文学、言語学、哲学、法学、歴史学。音楽、美術といった芸術分野まで、ありとあらゆる学問体系に触れることができる。俺は歴史学、薬学、物理学を選んで学位を修めた」
ああ、だからか。シャロンは腑に落ちた。なぜアーサーが、科目の異なる多様な講義を受け持つことができているのかがわかった。すべて、彼の専門だったというわけだ。
「三つも専攻できるのですか?」
「余力があればな」
複数学位を修めるということは、在学中の研究がそれぞれ認められて、論文を評価されたということである。アーサーは、膨大な魔力を備えていながら、座学にも精通している。彼が百年に一人の魔法使いと称されている理由を、シャロンは垣間見た気がした。
「ただ、同い年の友人が欲しいとなれば、最初に学園に通うのはアリだ」
アーサーも学園に入学した当初は、友だちという存在に期待していたのかもしれない。だが、学園で十三歳の枠に嵌められ、上から押さえつけられ、学園が世界のすべてであり、井の中とも気づいていない周りの生徒たちの姿が、さぞ彼の目には蛙のように映っただろう。
友だち。仲間。シャロンは、物語を通してその存在を知っていた。なんと甘美な響きだろうか。夢や空想の中でなくとも、そんな存在が、自分にもできるのだろうか。
魔法学園に通うのは、魔力量の多い少ないはあれど、みな魔法使いを目指す志をもった者たちだ。シャロンの魔力を理由に、いきなり石をぶつけてきたりしないだろう。
シャロンは、村で遊んでいた子どもたちのことを思い出し、胸に提げた星形の守り石をぎゅっと握り締めた。石を握ってその温かさに触れるのは、気を落ち着けたいときのシャロンの癖にもなっていた。これを握っていると、不思議と勇気が湧いてくる気がする。
「……あの、私も、友だち、欲しい、です。学園にも、通ってみたいです」
シャロンが、学園生活を想像し、期待に目を輝かせる。アーサーが「そうか」と頷いた。
「学園には友だち作りに通ったらいい。楽しくなければ大学入試を受けたらいいさ。お前は俺と違って明るいし、社交性もある。必ず、良き友人に恵まれる。授業に関しては、普段から大学校レベルの勉強をしているんだ。少々退屈に感じるかもしれないが、色んな人間を観察するのも後学のためになる。大学校に入れば、外国に留学だってできるしな。もっともっと広い世界を見てこい。……今は、少しきな臭いが、お前が入学している頃にはまた情勢もよくなっているかもしれない」
アーサーが、憂いを含んだ眼差しをシャロンに向ける。新聞は日夜、レオルグと隣接する国や植民地の情勢を伝えてくれるが、シャロンは彼が何を読み取って、何を憂えているかまではわからなかった。
「先生も、留学されたのですか?」
「俺はロバートに連れられて、学園に入る前に色んな国を見て回ることができた。あの頃に見聞を広げられたのは感謝している」
アーサーがある種達観しているのは、その頃に外の世界を見ることができたのも大きいだろう。元々早熟だったのかもしれないが、ロバートは、自分が抱えてきたものよりも大きなものが、アーサーの双肩に背負わされる、とその頃から気づいていたのかもしれない。つまり、ただの筆頭魔法使いとしての地位ではなく、国防――国家の存亡を、である。
アーサーが「……これは誰にも言うなよ」と珍しく前置きをして、自身の唇に人差し指を当てながらシャロンを見る。シャロンは、こくん、と神妙に頷いた。
「――ロバートは、各国の情報収集に尽力せよという密命を陛下から受けていた。魔法使いはどこの国でも戦力として重宝されるからな。……俺も他国の戦争に傭兵として何度か参加した。人を初めて殺したのは十一のときだ」
ロバートが諜報任務を極秘に請け負っていた、というのをシャロンは初めて知った。ロバートは普段、ちゃらんぽらんとしているように見えるが、人好きのする、憎めない人だ。他人の懐に入るのが絶妙にうまく、そういう人間が、間諜に向いていると言えば向いているのだろう。陛下の目は慧眼だと言える。
人を殺す――相手の生命活動を止める行為だ。魔法大学校での模擬戦闘ではなく、実際に相手の息の根を永遠に止める行為。シャロンは、冷たくなった母の屍を思い出し、身震いがした。
「生きとし生けるものすべてに等しく訪れる、それが死だ」
初めて会ったときにアーサーが言っていたように、人によって死の要因となるものが、戦争か、病気か、天災か、事故か、ただ運が悪かったかは分かれるが、いずれにせよ、誰も免れることができないものなのだろう。
「人を殺さない平穏な人生を歩めるなら、その方がいいさ。だが、魔法使いとして生きる以上、無辜の民の盾となり、剣とならねばならない日が、遅かれ早かれ必ず来る。そして、守っていたはずの民から牙を剝かれ、間抜けにも後ろから刺されることだってある」
アーサーが、フッと自嘲ぎみに笑った。シャロンは思わず息を呑んだ。アーサーの背にある刺傷を、シャロンは小さい頃、彼の背を流したときに見たことがある。まだ痛いか尋ねると、もう痛くない、と彼は答えた。
あれは、そのときの傷だったのか。
アーサーは、身を挺してまで守った人間から、刺されたのか。
「人を信じるな、とまでは言わない。だが、死と隣り合わせの日々を通して、俺が学んだのは、最後に信じられるのは、結局のところ自分だけだ、ということだ」
アーサーが両肩を竦めて、息をつく。もしかすれば、アーサーが負傷したのは、ロバートがそばにいないときだったのかもしれない。戦場では予測不可能なことが次々に起こり、か弱い女や子どもでさえ安易に信用してはならず、便衣兵も多く紛れ込んでいるという。
平時の今だって、アーサーが機密性の高い集まりに呼ばれたときや陛下に拝謁するときなど、シャロンもアーサーと四六時中共にいられるわけではない。彼がいないときに危機に陥っても、そのとき頼れるのは、自分だけだ。
アーサーの言いたいことが、何となくわかったような気がした。
「俺が共に在れるときは、お前を必ず守る。この命に代えても。だが、もし俺がしくじったとき、最後にお前の身を守れるのは、お前だけなんだ」
アーサーが机の上に置かれたシャロンの手を、上から包むように握る。
「強く在れ、シャロン。お前の力は、大勢の命を救い、守ることのできる力だ」
まっすぐ、真摯にアーサーがシャロンの目を見つめる。
アーサーの力強い言葉に、「はい……」とシャロンが頷いて、俯いた。
止まっていた涙が、再び溢れ出す。
誰かに信じてもらえるだけで、信じてくれる人がそばにいるだけで、こんなにも、心が温かくなる。胸が熱くなって、自分の自信に結びつく。
この力は、いつか、誰かを守ることが、できるだろうか。
シャロンでも、何かの役に立てる日が、来るだろうか。
そのとき、守っていた者から裏切られようと、攻撃されようと、傷つくな、前を向け、とアーサーは言いたいのだろう。
「泣きたいときは、思いっきり泣け。何も生き急がなくていい。時には立ち止まってもいい。学びは誰かに強制されるものでも、急かされるものでもない。ゆっくりでいいんだ。子どもはよく寝て、よく食え。以上だ」
アーサーが少し立ち上がり、シャロンの頭に、ぽんと手を置いて彼女を慰める。茶請けに用意していた焼き菓子を、アーサーがシャロンの皿の上に何枚も置いていった。
涙の混じった焼き菓子は、甘く、少しだけ塩辛かった。




