私だけ異世界転生しない件 プロローグ
「あれぇ、高橋さんって今日休みぃ?」
オフィスに、同僚の中村恵の声が響く。
始業時間5分前の出来事だ。
「高橋さん?まだ来てないの?珍しいね」
そう返したのは、私の2年先輩にあたる小林和也。所属している部署のサブ・リーダー的存在だ。
「誰か報告受けてますか?」続けて誰ともなく問う。返事はなかった。
まだ出勤をしていない高橋さんこと、高橋真理は遅刻や無断欠勤とは無縁の人だ。少なくとも体調不良等の突発的な事情があった場合は、わかった時点ですぐに連絡をする真面目な性格をしているのだ。
だからこそ、5分前に出勤していないだけで、この騒ぎとなる。
「まだ始業前だし、もしかしたら電車遅延とかかもしれないから、少し待ってみよう」と、小林さんが言った直後、ピコンとスマホのアラート音がした。
『すみませぇぇぇぇん!!!!』
アラート音とともに、スマホから高橋さんの声がした。
『通勤中にわたし"転生"しちゃいまして…しばらくお休みさせてください。ホントすみません』
言うなり、高橋さんの声の背後から謎の怪音がし…高橋さんの『なんなのよぉ~ココぉ~』という声とともにプツンと通話が切れた。
「…とうとう高橋さんもか」
小林さんがポツリと呟く。
「えぇぇ~っ。どうすんですか、今月これで4人目ですよ?」
「…どうにもならないだろう」
悲哀の込もった小林さんの言葉に、始業のチャイムが重なった。
「とりあえず、ミーティングで考えよう。…佐藤さん」
「はい」
「とりあえずしばらく一人で大丈夫?」
「…できる限りでなんとか頑張ります」
「すまないが、よろしく頼む。あとは業務の分担を考えよう。中村さん、石川君、ちょっといいかな?」
「は~い」
「…はい」
「佐藤さん、しばらくミーティングするから、あとはよろしく」
小林さんはそう言って、中村さんと石川君を引き連れてパーティションの奥に姿を消した。
「……ふぅ」
なんとはなしに溜息をついて、私--佐藤美奈子--は、パソコンを立ち上げた。
机上のコーヒーカップを両手で持ち、一口すすりながら
「ほんと、これからどうなっちゃうんだろう」と、答えのない呟きを漏らす。
「早く帰ってきてくれればいいけど…。まだ"帰還"できたの、一人もいないんだよね…」
--パーティションの奥からは、中村さんの悲鳴じみた「無理ですぅ~」という声が聞こえてくる。
私が勤める「イノベーション・ネクスト」社は、IT企業だ。
近年では、スマホアプリの開発に力を入れていて、その中で現在開発中の「リアル・メタワールド」略して「リアメ」は、別名「異世界転生アプリ」として、我が社で一番力を入れている事業である。
「リアメ」は、もともとは、メタバース空間に異世界を組み込んで、仮想異世界転生を体験できるアプリとして開発をしていた。
しかし開発中に予期せぬアクシデントが発生した。それは、「本当に異世界転生をしてしまう」というバグだった。
原因は、現時点では不明。そのため開発チームは必死になって不具合の修正を行っているが、その甲斐むなしく、今日4人目の犠牲者が出た。
そして、高橋さん以前に転生をしてしまったメンバーも、いまだこちらに戻ってくる気配もない。…そもそも、本当に無事帰って来られるかどうかも分かっていないのだけれど。
これ以上、新たな犠牲者が増えないことを祈りつつ、私は立ち上がったパソコンでいくつかのアプリを立ち上げた。
高橋さんは、どの異世界に転生してしまったのだろうか。確認をしておく必要がある。
そして高橋さん以前の3人の"犠牲者"の進捗も確認しないと…。
頭の中で今日の業務内容を確認しながら、立ち上がったアプリに高橋さんのアイコンを追加した。




