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短編

義妹と才能

作者: 待鳥月見

 柊は夕食の準備を整えたあと、傘を持って稲羽の通う塾へ徒歩で向かった。

 駅前はこんな時間でも人が多い。闇の中に浮かぶビルや街頭の灯り、雑踏。濡れた路面を車が走る音。人の行き交う道を茫洋とした目で眺めながら煙草を吸う。

 塾から出てきた稲羽に傘を差し出すと、予想通り彼女は不機嫌な顔をした。


「今日は濡れて帰りたい気分だったの! だから持って行かなかったの!」


「嘘だろ。風邪ひくよ」


「ふん」


 稲羽は差し出された傘を手に受け取り、すぐに放り投げた。傘は水たまりに落ちる。通行人がトラブルなのかとやや迷惑そうな顔で二度見してくる。稲羽は腕を組んで通行人を睨んだ。視線を向けてくる人は減った。


「なにしてんだ。反抗的なのはよせよ」


 柊は傘を拾い、もう一度差し出した。

 稲羽は柊から顔をそむけた。秋月稲羽。癖のついた色素の薄い髪の毛が特徴的な、彩星高校の女子制服に身を包んだ少女だ。背中の黒いリュックサックにつけられたマスコットキャラクターが揺れている。

 背筋を伸ばし凛然と立つ稲羽は目立つ。


「っていうか煙草くさ。わたしは柊のこと、家族だと思ってないし、迎えに来られるとか不愉快なんですけど。二人で一緒に帰らないといけないのも不愉快」


「ありがとうくらい言えないのか」


 さすがに柊も呆れる。稲羽は首を振った。


「むー。だって家族じゃないし」


「じゃあなんなの」


「不審者。居候」


「……は?」


 心から出た声だった。溢れそうな心情を飲み込んだ末の一言。

 しかめ面の柊に、稲羽は臆することもなく指を突き付けた。


「そういえば相談したいことがあった。ママが最近、土日は綺麗なカッコしてどこか行ってるんだよ。どこに行ってるか調査しよう!」


 今どきの高校生の感情の盛り上がり方がよくわからない。


「本人に訊けばいいだろ。朱音さんは変なことしてないよ」


「彼氏かもしれないじゃーん! 尾行してみようよ」


「ドラマとか漫画じゃないんだから」


「だって暇でしょ? あんたニートだし。土曜日に行こう」


 変な話をしているふうに見えるのか、塾の周りにいた学生の目が稲羽をちらちらと窺っている。

 これ以上話を長引かせたくなくて、しぶしぶ柊は頷いた。

 ようやく稲羽は傘を受け取った。泥水に塗れていても気にしていない。満足そうに稲羽は傘を開き歩き出した。そのすぐ後ろを柊はついていく。歩き出すと二人の間に会話はなくなった。

 煙草を取り出して火をつけた。


「居候ってなんかまだ高校生みたいだよね。高校生の不良っていうか」


 しばらくして、稲羽はそんなことを言った。


「どういう意味? 喧嘩したいの?」


 柊は低い声にも稲羽は怯まず、なおも言い募る。


「髪も金髪だし、ピアスじゃらじゃらで、なんていうか社会不適合ですって顔してるから。正直な気持ちとしては近寄ってほしくないってか、家族っていうのが恥ずかしい」


「べつにどんな格好しようがお前に関係ないだろ」


 住宅街に入って人気がなくなると、稲羽は水たまりの上で跳ねだした。


「小学生かよ。ローファー乾かすの面倒だからやめろよ」


 稲羽は振り返って猫のように笑ってみせた。

 次の瞬間には家まで走り出した。


「あっ」


「煙草吸い終わるまで家に入れてあげない」


「おまえなぁ、飯は俺が用意してるのに……」


 思わず非難の声を出してしまったが、もちろん届かない。柊を置いてきぼりに、稲羽は先に家に入ってしまった。


 古びた洋館の佇まいの家。この家は友人からは幽霊屋敷と呼ばれていた。黒塗りの門を通り抜ければ、レンガで細工した庭が出迎えてくれる。玄関前には童話の小人のような愛嬌のある石像が木製のボードを掲げている。「あきづき」。ペンキで色付けされたカラフルなそれは、柊の目から見ても、温かい家庭を象徴するように思えた。よく手入れされた庭も、修繕箇所ひとつない古い家も、幽霊屋敷なんて呼ばれる風情を感じない。もっともその友人はこれらを羨ましそうに眺めて、「お前いつも暗い顔してっからさ」「お前が幽霊っぽいからね」などと述べていた。そのような目で見られても、柊は困ったように笑うことしかできなかった。


 柊の父である譲治と、稲羽の母である朱音は七年前に結婚した。そのとき柊は十六歳、稲羽は十歳。柊は高校の三年間は実家で過ごし、大学生になってから大学の寮に引っ越した。職場の近くに部屋を借りたが、退職を機に部屋を引き払って実家に戻ってきたというのが現在の状況だった。成人済みなのに職なしで実家に転がり込んで、家計に負担をかけている自覚はある。だから掃除や料理などの家事を手伝っている。

 一分ばかり家の前の道端で煙草を吸うと、ほのかに温かいそれを指先から滑らすように落とした。靴裏でもみ消して家に入る。稲羽の姿はなく、暗いばかりの玄関が出迎えた。



 稲羽とは別に夕食を摂り洗い物を終える。柊は散らかった物を片付けていた。普段あまり使われない客間は物置同然になっている。通販の段ボールや譲治が買った悪趣味な置物などを仕分けして捨てる。客間が埃くさいので扉を開けているが、やけに広い廊下から冷気が入り込んでくる。開放した扉から見える位置に稲羽の絵が飾られている。譲治が手伝いながら描いた、大きな油絵だ。客間の押し入れには何年も前の稲羽のスケッチブックが何冊も仕舞われている。稲羽の写真で埋め尽くされたアルバムも何冊かある。褪せた緑色のアルバムを開きページをめくると、溌剌とした稲羽がポーズを決めていた。今の顔立ちにも通ずる童顔で、やたら人懐こそうな表情を浮かべている。


 カメラを向けられることのなにがそんなに楽しいのだか柊には理解できない。柊のアルバムは共有空間ではなく、自室のクローゼットの暗がりに放り込まれている。それも写真は小学生のころまでのものしか収められていない。どれも実の母が撮影したものだ。


 アルバムに収められた写真に特に感想はない。


 柊はアルバムをそっと閉じた。


「なにしてるの?」


 背後から声をかけられて、柊は飛び上がりそうになった。

「な、なんにもしてない……」


 廊下の暗がり、ひまわり畑の絵の下で、稲羽が部屋着で立っていた。闇の中で稲羽がどんな表情かはわからない。近づいてくる様子はない。ただ息を潜めて、稲羽は柊を観察している。


「そういえば就活は? 面接とか決まった?」


「それは考えてるから」


「余計なことしないでよね。就職先ちゃちゃっと決めて、はやく出て行ってよね。居候」


 そう言うと、稲羽は階段を上がって行ってしまった。

 アルバムの山の下に表紙の破れたクロッキー帳があるのに気が付いた。引き出してみると、表紙には柊の名前があった。その瞬間、部室の絵の具の匂いが鼻腔の奥につんと広がる。柊はつい真顔になってクロッキー帳を開きもせずにゴミ袋に投げ入れた。



 就活の進展などなにもないまま土曜日になった。朱音を追跡するために午前中に家を出た。朱音は飾り気のない私服にいつもの鞄を持って移動中だ。だいたい向かっている場所は、稲羽が見当をつけていた。駅近くの第二ビル。レストランや服、本、雑貨屋などが寄せ集められたビルだ。

 ビルのどこの入口から入るかだいたい予想し、入り口が見える自販機横に二人は陣取る。


「ここからどうやって探すつもりなんだ」


「うーんと……とりあえずママが来たら、追って。巡ってみる?」


 さきほどから朱音の姿を見失っていた。あまり近づくわけにもいかず、遠目に見ながら追っていたので当然だ。


「見つからねえだろ。てか俺よく知らねえけど、朱音さんってバイトでもしてるんじゃないのか。ここってスタッフ入り口とかないの? 行くとしたらそっちじゃない?」


 稲羽は耳元のイヤリングを指で弄んだ。表情から不安や不快を覚えているのは察することができるが、それらは言葉にならず、ただ口元が歪んでいる。

 柊は短く嘆息した。

 この日の稲羽はロングワンピースに煙草の箱しか入らないような小さい鞄を提げていた。柊はパーカーにサンダル。この恰好に稲羽は不満なようで、時折向けられる視線が痛い。今度は持っていた観光客向けのリーフレットで脇腹をつつかれた。


「なんだよ」


 稲羽はそっと自身の唇に指をあてる。


「しー、向こうから来るのは同級生だから」


 柊も稲羽の指し示す方向を察して見遣る。階段のほうから、両手を広げて走ってくる制服姿の少女がいるのに気が付いた。走り寄ってきた女子生徒は勢いよく稲羽の後ろから抱き着いた。


「マイスイートハニー稲羽さんじゃーん。こんなところで偶然!」


 稲羽の友人は甲高く叫んだ。動き方がどこか愛らしい小動物を思わせる。

 破顔した女子生徒とは対照的に、稲羽の表情は強張っていた。


「離れて、鶴来」


「そんなこと言わず。すーはーすーはー」


「やめてったら。制服? 部活? おつかれ」


「そ、展示のイベント準備のためにね。稲羽、誰このひと? 彼氏?」


「絶対違う。お兄ちゃん」


「おお!」


 鶴来と呼ばれた友人の視線が柊の上下をいったりきたりする。柊のほうが恥ずかしくなったが悟られるのは不愉快なので、姿勢を一切崩さずに受け止めた。


「へへ、らぶらぶ兄妹デート。やるな」


 鶴来は稲羽に向かって親指を立てた。稲羽は親指を下げた。


「気色悪いこと言うな。もう行けよ」


「稲羽ちゃん、ツンデレなんだからぁ。学校ではもうずっとデレデレなんですよ。もぉこないだもぉ本当にぃ、稲羽ったら好きな人のことで一喜一憂しててぇ。もちろん好きな相手ってわたしのことなんですけど。あ、これ、ここだけの話で」


「意味わからない。お前もう喋んな」


「ふふ、お兄さん、ライン交換しましょう。稲羽の写真送りますから。あ、稲羽ママともわたしは仲良しなんですよ」


 妙に親しい空気に押されて、柊はラインの連絡先を交換した。


「きもっ。デレんな」


「デレてねえし」


「仲良しなんですね。お兄さんと稲羽。羨ましいなあ」


「どこが? っていうか私の写真送るってなに。やめて」


 鶴来が笑顔で去って行くと、稲羽は柊に不機嫌そうな顔を向けた。


「調子乗らないでよね」


「いまのどこに調子乗る要素が? お前ずっと俺に対してチョー塩じゃん。っていうかそんな扱いするなら帰るぞ」


 稲羽は腕組みして顔を背けた。自由にしろと言わんばかりの態度に柊は嘆息すると、黙ってその場を後にしようとした。


「帰っちゃうの?」


 声に怒りの感情が滲んでいる。


「帰ってほしくないのかよ? じゃあ言い方ってもんがあるだろ」


「……パパみたいに、居候もこのまま消えちゃったりしない? 家にちゃんと帰るよね?」


 柊は稲羽を睨んだ。稲羽の表情からどういった心境での発言なのか窺えない。だが柊を引き留めようとする意志は感じられた。


「……素直な言葉でもう一度」


「もしママがこの場に来なかったら、駅前のジェラート屋さんに寄って帰ろうよ」


「ギリギリ及第点に届きそうな落第点だなぁ」


 ぼやきながら、柊はようやく思い至った。稲羽からしてみれば母親が、譲治が失踪している間に違う男と会っているのではないかという不安を胸で燻ぶらせていたのだろう。

 昼近くになり、ビルの出入りも多くなってきた。

 過ぎゆく人の群れを眺めながら、柊は眉間を揉んだ。


「稲羽を連れて帰るために残ることにする」


「人を迷子みたいに言うな。居候のくせに」



 この日、朱音は現れなかった。

 柊と稲羽は適当にビルの中で暇をつぶしてから、ジェラートを買って帰った。

 夜も遅くなってから帰宅した朱音は買い物袋を持っていた。風呂から上がった稲羽はすでに自室で休んでいる。リビングで朱音を出迎えたのは柊だけだった。


「お帰りさない。朱音さん。どこでバイトしてるんですか?」


「駅ビルの占いの館あるでしょ、あそこ。どうして気づいたの?」


「気づいたのは稲羽ですけど」


「ああ、そう。でもあの子、私がどこで働いてるか正確に知らないでしょ? 知ってたら突撃するだろうし。稲羽には言わないでね。恥ずかしいから」


 柊の予想通り、朱音の土日の外出はアルバイトらしい。


「ちゃんと給料出るとこに務めたら、渡すので。いまだけちょっと休ませてください」


 柊は頭を下げた。


「この程度は心配いらない」


 朱音が手を振った。高校時代から柊と朱音は割り切った役割分担をしてきた。干渉しない義理の家族としての関係。朱音は稲羽の母であっても、柊の母ではない。朱音は買い物袋の中身を片付け終わると、冷蔵庫からビールを取り出した。

「柊君の年齢を考えると次にこうして家を頼るときには、結婚相手ができましたっていうときかもしれないしね。純粋な意味で私が柊君の世話焼けるのも今だけでしょう。親らしいこと全然してこなかったし、甘えさせてあげることも今までできなかったし」


「ありがとうございます」


「でも柊君、私を疑っているんでしょ。譲治さんがいなくなった理由を知っているんじゃないかって」


 朱音は缶を開けて豪快に飲み干す。缶を軽い音をたててテーブルに置くと、朱音はにこりと笑う。

 その笑みは柊が怯むほど無邪気だった。柊の後ろめたい部分を指摘するような、ある種の強さを感じた。躊躇いがちに柊は、朱音に訊ねてみることにした。


「父からハシを越えたときの話を父から聞いていますか?」


「ハシ? 橋? なあに、それ。どこの?」


「あの、聞いていないなら、べつに……」


 柊は首を振って話を終わらせようとした。だが朱音はまた微笑むと、冷蔵庫の磁石フックに引っかけてあった鍵を手に取った。


「見せたいものがあるんだ。書斎へ行こうか」


 朱音は柊を譲治の書斎に招いた。

 書斎は意外にも片付いていた。窓際にはデスクトップパソコン、テーブルには三台のモニタが並べられている。壁際の本棚にはノートと資料と見られる書籍が隙間なくしまわれている。

 鍵をかけているのは防犯対策だ。数年前にこの地域で空き巣事件が多発していた時期があり、仕事道具を他人に破壊されるのを恐れた譲治が取り付けた。譲治が不在時には鍵をかけるようにしている。もっとも鍵自体はダイニングにあるので、意思さえあれば入れる。柊はこの家に戻ってきてから一度も書斎に入ることはなかった。わざとこの書斎を避けていた。ここに柊が自分で鍵を開けて入ることは、譲治が日常にいないことを実感させられてしまうから考えないようにしていたというのが正しい。

 柊の父である譲治は小説を書く。二か月ほど前に譲治は「取材に行ってくる」というメモを書いて姿を消した。警察に届け出は出したものの、書き置きあり、成人済み男性、しかも普段から珍妙な場所に行きたがる譲治の行方など、あまり力を入れて捜査されていないようだった。コンビニやスーパーの防犯カメラの映像で稲羽の通う高校近くを通ったようだということは判明しているが、それ以降の足取りが掴めていない。

 いまどこでなにをしているのか、痛い思いをしていないのか、飢えていないのか、考え始めると夜眠れなくなるほどの不安に苛まれる。有名な失踪事件のまとめサイトなどを見て、凍り付くような気分を味わう。朝のニュース番組を見るたびに緊張する。

 朱音は柊の腹の中で蠢く感情に気が付いたのか、少しだけ唇を歪めた。


「『人は人を理解できない』。譲治さんならこのあと、こう続けるでしょ」


「……『それを踏まえてこそ、ようやく交流が始まる』」


 柊は続けた。


「そうそう。さすが柊君。ほら、だから、私のことをそんなに警戒しなくていいんだよ」


「父の作風だとそう書いて、腹の探り合い始めるやつだけど」


 譲治の書く小説はミステリ要素のある犯罪小説だ。読みやすい綺麗な文章を並べて、暴力表現と陰惨な事件の謎解きを得意とする。


 朱音は譲治の小説の強烈なファンだった。人は好きなものから影響を受ける。朱音の言動の演技臭さはこのあたりから来ているのかもしれない。


「柊君って現実主義者なんでしょ。じゃあ、単刀直入に訊くけど、私が譲治さんをどこかにやったと思っているの?」


「……考えてもわかりませんでした。どうなんですか?」


 朱音と譲治はお互いが二度目の結婚同士だ。お互いが子供を持ちながら、家族になった。譲治にとって朱音は愛する人だが、柊にとっては共同生活させられている他人。稲羽の認識も柊におそらく近い。では朱音はどう考えているのだろう。朱音が譲治に怨恨や復讐や異常な執着などを持つ可能性があるか考えてみたことがあるが、朱音の普段の飄々とした態度や暮らしぶりからはそうした粘着質な気配は少しも匂わない。


「ふふ、犯人かもしれない人物に直接訊ねるなんて、探偵失格だな。探偵は証拠を集めて、言い逃れできないようにしてから、詰め始めないと。せっかく現場に残っていた証拠を消されてしまうかもしれないよ」


「朱音さん、小説の読み過ぎですよ」


「まあ、犯人は私じゃないけどね。だって私、譲治さんの小説好きだし。ずっと書いていてほしい。それこそ老衰で死ぬまで。小説家を監禁して自分の好きな小説を書かせるヒロインに魅力を感じないでもないけどリアリティないよね」


「踊って、絵を描いて、ネトゲして、サウナ行って、散歩して、ピアノ教室と陶芸教室に通わないと父さんは書けないですから」


 譲治は多趣味だった。むしろ執筆業すら趣味のひとつかもしれない。


「そう。そうなんだよ。常に日光に当てて温室に置いておかないと枯れちゃう植物みたいな人だから、無理なんだよね。狭くて暗い所に独占するのは無理」


「じゃあ失踪先に心当たりはありますか?」


 朱音は無言でファイルと本を差し出した。

 渡されたものを受け取る。ファイルには大きなフォントでタイトル、口裂け女らしきイラストが載っている。どうやら子供向けのウェブサイトを印刷したのを譲治がまとめたようだ。この地域に伝わる怪談、稲羽の通う彩星高校の怪談も記載されていた。紙束の隙間から抜け出た紙片が床に落ちる。


 柊はそれを拾って読みあげた。


「『星巡りを試しませんか?』……誰の字だろう?」


「稲羽の字ではない。探しているのだけどわからない」


 朱音は形のいい頬骨に指先を這わせた。腕を組んで机に腰をよりかからせる。思案しているのか朱音の目が鋭い光を帯びる。今まで纏っていた空気が一変したように感じた。柊ももう一度紙片に視線を落とす。読みやすい、たおやかな字だ。

 懐かしい匂いがした。この場にそぐわない匂い。なぜか呼ばれていると思った。


「朱音さんはこれが失踪の手がかりだと思いますか?」


「うん。根拠はないし、オカルトじみているから警察には話さなかったけど」


「俺もそう思います」


 資料を借りて、明日から探索することにした。譲治の行方。この世でたった一人の血の繋がった父が消息を絶った理由が知りたかった。




 明くる日も雨だった。稲羽が傘を忘れているので、塾に届けにいく。少し前にもこんなことがあったと考えて、塾の前で傘をさして待っていたがどうもおかしい。稲羽が現れない。稲羽は好んで勉強する性質ではない。そのとき勘付いた。

 稲羽の電話番号はスマートフォンに登録されている。電話をかけると、喧噪が聞こえてきた。


「お前なにしてんだ」


「ちょうど良かった、お兄ちゃん」


「なんだ? 周りに人がいるのか」


「ねえ、塾からいちばん近くのゲーセン。すぐ来て。お願い」


 質問は稲羽の興奮した声に遮られる。

 電話は一方的に切られてしまった。

 嫌な予感がしていた。

 自販機の横に稲羽の姿を見つけた柊は、荒い息を整えなければならなかった。友人らと談笑していた稲羽は柊に気が付くと、冷ややかな視線を向けてきた。


「塾をサボってこんなところで暇つぶしとは良い身分だな」


「ニートに言われたくない」


「帰るぞ」


「……なんか無性にいらつく」


 稲羽と柊の口論になりそうな雰囲気に、意外にも稲羽のそばにいた友人たちは遠ざかった。稲羽とあまり親しくはないのか困惑した顔をしながら、ゲームセンターの中へと引きかえしていた。まだ店内に友人らがいるのかもしれないが、いまさら稲羽が輪の中に戻っていっても空気が白けるだけだろう。そう思った矢先。


「稲羽」


 ガラスの扉を手で叩く勢いで、鶴来がやってきた。顔は赤い。口を大きく開ける。その前に稲羽が手を目の前に翳した。


「お兄ちゃんに近づくのはやめて」


「あの話は……」


 なおも何か言いかけた鶴来に、稲羽は首を振った。


「言う必要はないから。私は鶴来のこと恨んでないから。焦がれる気持ち、わかるから」


「なんなんだ。俺に関係ある話か?」


 稲羽は鋭い目で柊を睨み、すぐに目を背けた。


「とにかくもう帰る。気分悪いし雨ひどいし。鶴来は中に入って。寒いでしょ」


「でも」


「もういいから。鶴来だって、いつも画塾で忙しいよね。たまには遊びなよ。じゃあね」


 渋々、鶴来はゲームセンターの中に戻る。扉の開閉で建物内の浮足立った音楽が聞こえ、すぐに静かになる。重苦しい曇天と雨がすぐに柊を現実に引き戻す。


「どうしたんだ。慣れないことして」


「うるさい」


 柊が傘を差し出すと、稲羽はそれを奪い取った。柊のことなど構わず歩き出す。紺色のセーラー服が濡れて重く体に張り付き、見るからに寒そうだった。柊はその背を追いかけた。激しい雨に道はすでに水浸しになっている。この勢いでは交通制限がかかるのは時間の問題だった。

 元々、稲羽を家に戻すのが目的なので、家の方向に歩き出しているのなら異存はない。柊は無言で足早に歩く稲羽を追いかけているだけだったが、ふと家の手前あたりで稲羽が帰宅の最短ルートを外れて駅に向かっていると気が付いた。


「どこへ行く気だよ」


「星巡り」


 稲羽は口にしてから我に返って口元を手で抑えた。


「なんで稲羽が星巡りのことを知っている」


「学校の怪談だから」


「こんな天気の日に家に帰らないとか正気じゃないぞ」


「…………いっ」


 稲羽がなにかを叫んだ。


 雨の音がうるさくて聞こえない。


 訊き返そうとしたが、突然稲羽は傘を畳んで走り出した。靴どころか制服に雨が跳ねるのも構わない。傘を持って豪雨に耐えていた通行人たちが驚いている。稲羽の勢いに柊も呆気にとられているうちに、稲羽の背が小さくなっていく。迷っている暇はなかった。


「なんでこんな日に限って、いつにも増して」


 文句を吐き捨てて、柊も傘を畳み走り出す。駅に近づくにつれて多くなっていく人の流れを逆流するように、一心不乱に稲羽を追いかける。

 ほどなくして、駅の構内で柊は稲羽に追いついた。稲羽はやってきた電車に乗ろうとしているところで、柊はやっとの思いで濡れた制服の腕を掴んだ。

 稲羽は鬱陶しいものを見る目つきで見た。


「放してよ」


「放さない。本当はどこに行くつもりなんだ」


「……どこだっていいじゃん」


「お前さあ、俺のこと呼び出しておいてそれはないんじゃないの。せめて説明くらいしろ。どういう気持ちでそういう行動に出ました、とか」


「嫌だ。居候だっていちいち説明しないくせに」


 電車のドアが閉まる。時間帯と天気のせいもあり、電車内は空いていた。稲羽を座席に座らせて、柊はその前に立つ。濡れそぼった服が体温を奪う。柊は寒気に身を震わせ、稲羽を窺うが俯いて固まる彼女が何を考えているのかはわからない。この雨が続けば電車は止まるかもしれない。火を止めて置いてきた鍋のシチューを想う。厄日だ。


「とにかく、どういうつもりなんだ。塾もさぼって」


「居候にはわからないよ」


「ここまで来て説明せずに済むと思うなよ。正直に言え」


「もし、自分じゃない違う人になれたら、って妄想することない?」


「……宗教か?」


「違う。ただ最近流行っているの。そういう噂が。他人の才能がもらえる、特に絵が上手くなるんだって。才能を憑依させるって言い方してた」


「それが星巡りなわけだな」


 稲羽がかすかにうなづいた。


「どうしていまその話が出てくる」


「…………」


「今からそれをやりにいくのか? アホくさ。ガキの妄想じゃん。俺、腹減ってるんだけど」


 反応がない。

 柊は畳みかける。


「説教はするのもされるのも嫌いだが忠告はしてやる。目に見えないからって、そこになにもないわけではないんだぞ」


「星の王子様?」


「違う。そういう温かな話じゃない。忌まれるものは理由があって遠ざけられているっていう話だ」


 科学技術が発展した現代では、だいたいのオカルト現象は説明がつく。たとえばこっくりさんは強烈な暗示による指の震えでコインが動くし、鬼火はプラズマもしくは死体から漏れたリン酸が発光する現象と見当がついているし、よく当たると評判の占い師が口にするのは統計学から得た知見でのアドバイスだ。学校の怪談は小学生の好奇心を満たすための根拠のない噂でしかなく、臨死体験を経た数多くの人間が語る故人との再会は脳内の科学物質がみせた夢とされている。現実はどこまでいっても現実だ。神話や妖怪や魔術や神秘なんてものは、今の時代に必要とされていない。


 オカルトの中でも、警告の意味が込められた話もある。


 たとえば土葬や風葬文化が残る地域では、死者は墓や朽ちる体の近くにいるとされる。だから「定められた期間以外は無暗に近づいてはいけない、近づけば死者から手をひかれる」。これは疫病対策のためのオカルトだ。「河原の石を拾ってはいけない、野晒しの石の山を崩してはいけない」という話も、遺体を埋めた場所の目印かもしれないという理由がある。


 そうした話を柊はかいつまんで稲羽に説明した。


 稲羽は黒髪から雫を滴らせて聞いていた。


「つまり、なにか理由があって星巡りが残っているかもって言いたいんだね……」


「そうだよ。彩星高校は古いから、たしかに階段話があっても不思議じゃない雰囲気ではある。でもオカルトが都合のいい超能力とか与えてくれたり、非日常のバトルの世界とかに案内してくれることは絶対にないから夢をみるな」


「……」


 稲羽は無言だったが、腹が鳴る音が聞こえた。


「今日はシチューだぞ」


 ダメ押しにそう言えば、稲羽の肩から力が抜けていった。

 家の裏に、譲治のアトリエがある。土砂降りの日から数日経って、稲羽は学校から帰宅すると、そこにこもるようになっていた。建物は立派なものではなく、ただ人間が二人か三人ほど入ったらいっぱいになるような洋風の小屋だ。灯りはあるが暖房はない。譲治専用の作業部屋。棚に絵画の用品などを置いたり、好きな作品集を好きなように飾ったりしている。これまで書斎を避けていたのと同様に柊はアトリエを避けていたが、ようやく決心がついたので、アトリエの鍵を回した。


 見たくなくても現実は変わらず時間は過ぎていく。目を逸らして重要なことを取りこぼすか、扉を開けて進むことで知りたくないことまで知ってしまうかもしれないという二択なら、柊は後者を選ぶ。いまだに稲羽は怖いけれど、理解しあえないほど断絶した関係ではないと思いたいから。


 開錠し扉を開けると、アトリエの暗闇に細い茜色がさす。籠った画材の匂い。無意識に柊は呼吸を止めた。

 ひらけた視界の中央に、やけに毒々しい絵がある。橙色の中に真っ黒な太陽がある。そうとしか表現できない、引き裂かれるような描画。


 机の代わりになっている棚の上にはクロッキー帳が広げてある。真っ黒い絵。線を何度も描き直したのがうかがえる。ページをめくる。鉛筆で塗りつぶされた真っ黒なページを境に、人体の絵が増えていく。骨、臓器、筋肉。資料を模写したものなのか、グロテスクにも感じられる鮮明な描写。柊は息を止めて見つめる。


 譲治と画材が合わさると、実母のことを思い出してしまう。


 実母は厳しい人で、譲治の散財癖が気に入らず、よく喧嘩をしていた。譲治の出費の原因は書籍と絵画と美術の材料だった。譲治の職業にはたしかにそれらは直接的な繋がりはないものだったが、すべて不必要なものと断言することもできず、結果的には離婚の遠因になった。

 譲治は離婚して少しした後に柊に語った。


「僕がもうすこし、奥さんのほうに歩み寄ってあげられたら良かったのだけど。創作物へ打ち込むために僕は生きている。この時間を奪われたら、魂は死んだことと同然だと思った」


 頭を掻きながら、譲治は困ったふうに笑った。


「柊からお母さんを遠ざけちゃってごめんね」


「べつにいいよ」


 その言葉は本心だった。

 離婚の当時、柊は十歳だったが悟っていた。宿題をやらなかったとか、ものを壊したとか、いたずらしたとか、柊もくだらない失敗を母に責められて押し入れの中に押し込められて、魂というものについて考える時間がたっぷりあった。


「居候、なにしてるの」


「うわっ」


 振り向くと、また稲羽がいた。

 充血し潤んだ目。鬼気迫る表情。殺気の滲む荒々しい呼吸。稲羽は緊張している。


「……お、お前な。これお前が描いたのか」


「そうだけど。やっぱり譲治さんのとは違う? 譲治さんのみたいに、うまくない?」


「形だけ精巧だけど……」


 つばを飲み込む。絵を見て感じた不安を、なんと表現すべきかわからない。


「ごめん、やっぱ、俺は絵のことはわかんない。父さんが帰ってきてから訊いて」


「わかった。じゃあ、集中したいから出て行って」


「……稲羽、才能がほしいのか? ただの現実逃避じゃなくて」


 答えはなかった。


「また話をしよう」


 絵を描き始めた背中を見て、柊も無言で背を翻した。

 数日経って、アトリエから家の中に運び込まれたのは、最近完成したという稲羽の絵だった。そのキャンパスは廊下の絵の横に無造作にたてかけられていた。絵の中には湖か沼のそばに座る女がいる。

 廊下でその絵を眺めていた柊の隣に朱音が立った。


「ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの絵を思い出すね。構図が近い」


「誰ですかそれは」


「ヴィクトリア朝の画家だよ。芸術品は人の真似をしたら価値を減らすって理解しているのかな、あの子。好きな絵を模写しただけかもしれないけど」


 朱音は絵に顔をくっつけるようにして目を眇めている。


「もし誰かの才能を抽出して、ほかの人に憑依させるようなシステムがあったらどう思いますか」


「才能という定義が曖昧じゃない?」


「元の抽出された人と同じ作品を創る能力だと仮定したら」


 朱音は絵から顔を離し、柊のほうを向いた。


「よくわからないな。それ、才能じゃなくない? 才能ってもっとさ、瑞々しく脈打つ心臓みたいなものじゃない。見たら一目でそれとわかるようなものじゃないかな。その人の絵を見たとき感動して涙が溢れてくる、みたいなの」


 朱音はさらに言葉を続けた。


「才能とは創る人の能力と資質と哲学と知識と積み重ねてきた年月といろいろなものを下敷きに醸成し発揮される表現力でしょ。それを他人に移す? 移したほうも移されるほうも人生つまんなさそう。上手にできているだけが才能じゃないと思うし」


「そうかもしれないですね。まだ世界にない創作物を生みだそうとすることは、自分で挑戦するから楽しい。才能だけほしいっていうのは絵に描いた餅を美味しそうって言っているのと変わらないですよね」


 朱音は嘆息した。


「もしかして稲羽が譲治さんを星巡りに誘ったんじゃないかって疑っているの」


「いいえ、その可能性は捨てました。稲羽が星巡りを勧められた可能性を考えていました」


 考えてみればおかしなことがいくつかある。才能という単語に心躍るのは、せいぜい中学生くらいまでだ。大人になって真面目に働いていれば、才能なんて言葉が自分とは無縁だと気が付く。才能の有無に関わらず、本人の意思に反しようとも、できる仕事をして収入を得ないと生活していけない。


 譲治は人から憧れを受けやすい職業ではあったが、本人からしてみれば理由はわからないが出来るから従事しているという状況だった。締め切り前になると部屋の中で奇妙な呻き声をあげていることもよくあったし、ネタが降りてこないからと新たに趣味の講座に通いはじめようとすることもあったし、収入が増えた月は部屋で踊る小学生じみたところもあった。譲治はいまさら才能がほしいと駄々をこねるような年齢でもないし、今以上の生活を漠然と夢見る人柄でもない。

 誘われていたのは、稲羽のほうだ。




 今日は稲羽の塾がない。稲羽はアトリエでひっそりと絵を描いていた。

 扉を開放しても稲羽は反応がない。絵から目を逸らさない。


「稲羽、お前はなぜ絵に向かいあう?」


 無言。

 稲羽は振り向きもせずに、ただ筆を動かし続けている。

 柊はじゅうぶん待ってから、もう一度、声をかけた。


「なんで絵なんか描くんだ? お前はいま勉強する時期だろ。この間も塾サボってさ」


「うるっさいなぁ! 黙っててよ! 出て行って」


 稲羽が振り向いた。


「いや、理由を聞くまで戻らないよ」


「集中させてよ! 私は今、自分が描ける究極を描きたいんだよ! 別にいいじゃないか。勉強だってなんだって。今からすっごく勉強したって東大とかMITに入学できるわけじゃないんだし! 構わないでよ!」


「本当に行きたいなら応援するけどな。俺も、朱音さんも。この場にいない父さんもきっと。浪人かもしれないけど、それをわかっていて努力できるならいいんじゃないのか」


「馬鹿にしてるでしょ……。私の成績を知っているくせに」


「馬鹿になんかしてない。俺は稲羽と話をしに来た。いままで避けていてごめん」


「構わないで」


「構うよ」


「なんで。理由を言ってよ。私が納得する理由を」


 稲羽が筆を置いた。柊に完全に体を向け、刺々しい目つきで威嚇してくる。

 柊は稲羽に近づいた。


「困難を目標にしてはいけない。それはかえって夢を遠ざける」


 稲羽はわざとらしく笑った。


「意味わかんない」


「俺は稲羽の気持ちがわかる」


「は?」


「血のつながりがなくてもわかる。才能なんかなくても、特別に頭が良くなくても、弱くても、頭が悪くても、俺は稲羽をかけがえないと想っている」


 大きな音をたてて、稲羽が椅子から立ち上がった。柊を押しのけて出て行こうとするのを、腕を掴んで止めた。


「聞けよ、稲羽。お前が俺のこと怖がっているように、俺もお前が怖かった。避けていた。でも、俺はお前が大切だ。父さんが稲羽や朱音さんを大切にしていたように、俺もそうしたい」


「……なんで。今更」


「家族だから。ふつうの家族とは違っても、奇縁で繋がっている。だから正直に言うぞ。稲羽、無理に大人ぶろうとしなくてもいい。父さんのことも朱音さんのことも気にする必要ない。同級生も、みんな。周りがどうだって、稲羽はそのままでいい。そのままでいるしかない。才能があろうとなかろうと、もう稲羽は他の何者かになれはしないし、誰かが稲羽の代わりになることもできない」


 柊は稲羽の肩腕を掴んだまま、背中に隠し持っていた小型の斧を取り出した。小学生のときに譲治がキャンプに夢中になって使っていた斧だ。捨てられることなく、倉庫のなかに保管されていた。


「だから、誰かの望む絵なんか描かなくていい。期待に応えようとしなくていい」


 左手で斧を振り上げる。そのまま力いっぱいキャンバスに叩きつける。痛ましい破壊音をたてながら、キャンバスの中心に斧の刃が食い込んだ。

 稲羽が悲鳴をあげる。


「なんで、こんなことを……」


「本当は自分でもわかっているだろう。お前は自分自身の絵を描け。誰かの真似なんかじゃなくて、稲羽にしか描けない、稲羽が描きたい絵を探すべきだ」


 アトリエの中にみっちりと詰まっている見えない何かも悲鳴をあげている。




 幼いころから柊は不思議なものが見える子供だった。明確にその異能を意識し始めたのは、亡くなった祖父が母親の後ろにいると実母に伝えたときだ。舌ったらずな指摘に母はみるみる顔を蒼褪めさせて柊を恐れた。

 実母からの扱いは柊が歳をとるごとにひどくなっていき、とうとう看過できなくなった譲治は離婚して柊を引き取った。


「お父さん。お母さんはお祖父ちゃんのこと、殺したの」


 譲治は首を振った。


「違うよ。お祖父ちゃんはお母さんのことを守っている。お母さんはお祖父ちゃんのことを、死ぬまで勘違いしていたみたいだけど……。生きている間はどうしてもわかりあえない関係っていうのもある。ごめんね。柊、この目が遺伝するなんて知らなくてさ」


 そのとき譲治は本当に困ったようにしていたと思う。自分もきっとそんな表情をしていたはずだ――と柊は想像する。確実なのは実母と譲治の離婚の原因は柊にあるということ。その特異なものを見る目のせい。

 見えないはずのものが見えてしまうのは不幸でしかない。


「柊、ハシには近づいてはいけないよ。人とは違うものが見える人はね、ハシに惹かれやすい……。呼ばれているような気がする場所へは行ってはいけない。帰ってこられるかわからないから。ああ、怖い場所に連れていかれるわけじゃない。ただ居心地が良くて帰ってこられなくなるかもしれないって意味だよ」


 譲治は微笑みを浮かべて、そんな恐ろしいことも言っていた。

 けれど今回は、珍しくこの目が役に立ちそうだった。

 割れたキャンパスから不自然にぬるりと抜け出た女性はゆらゆらと宙に漂っている。女性は古い学生服を纏って、絵のほうにばかり気をとられている。思念、魍魎、怨霊。彼女をなんと言い表すのか細かなことには興味がない。

 それが稲羽をおかしくした原因で、譲治を失踪させたきっかけであるという事実だけが柊にとっては重要だった。


「鶴来ちゃん、出てきてくれ」


 扉のほうに声をかけると、鶴来は放心した状態で従った。扉の影で待機していた鶴来は稲羽を見て我に返った。


「いつの間に。鶴来」


「悪いが、鶴来ちゃんが稲羽に星巡りのことを吹き込んだと予想して、呼ばせてもらった」


 鶴来は所在なさげに立っている。体は稲羽のほうを向いているが、視線は足元に落ちて指先は自分の制服の袖を弄んでいる。


「鶴来ちゃんが、稲羽と父に星巡りをさせたんだな」


「違う」


 否定したのは稲羽だった。鶴来は固まったまま何も言わない。


「あててやる。鶴来ちゃんは、稲羽が羨ましかった。だから稲羽を誘った。それがヤバいものだと気付いた父が止めたんだろう。父がどういう止め方をしたのかは、これから話してもらいたいんだが」


「パパは止めてない。むしろ教えてくれって言ってた。私たちが前に試したときは特になにもなかったのに、なんで今になってパパだけ……」


「稲羽いいよ。話さないで。稲羽はぜんぜん悪くないから」


 鶴来は首を振る。だがその動きは力ない。


「鶴来ちゃんがどういうつもりだか知らないけど、努力せずに結果を得ようとしても、かならず報いを受けるものだと思う。それに星巡りは鶴来ちゃんの意図した結果にならなかったはずだ。譲治の行方を、鶴来ちゃんは知っているはずだ」


 鶴来はしばらく口を開かなかった。

 柊は辛抱強く返答を待った。稲羽も鶴来が連れてこられたせいか悄然としている。


「わからないですよ、稲羽とお兄さんには。幸せなあなたたちには……。才能がないって言われて家族に絵を破られる、わたしの気持ちなんて。美大に進学したいって言っても笑われる惨めさなんて。どうせ就職に繋がらないんでしょとか言われる気持ちなんて……」


 やがて、震える声で鶴来はそう言った。


「ああ、わかんないよ。お互い余ってしまったパズルの不良なピースみたいな家族だけど、自慢の家族だから、稲羽がしたいことは応援する。鶴来ちゃんは人の物や結果に嫉妬しないほうがいい。無意味だ」


 鶴来は顔を赤くし、身体を強張らせている。


「人は弱いから、うまくいっているひとを羨んでしまうのはわかる。でもそれを行動に移してしまうのはルール違反だし、自分が成功したいなら、自分のことに集中するしかない。真剣にやるしかない。人の真似をしても上手くいくわけがない。だってそれはその人の成功法だから。自分の目標を達成したいなら自分がいまできることをやるしかない」


 柊たちは棘を持っている。相手が自分と同じく棘を持っていることを知っているから、適度な距離を保って近づかないし、甘えないし、傷つけあってもお互いを許せる。譲治と朱音がなぜ微妙な年齢の子供を持ちながら結婚したかといえば、それはきっと弱くて繊細なものをお互いに守ろうとしたからだ。一人で手のひらに脆いものを抱え込んで、外界からの強風をしのいでいれば、いつか壊したくなってしまう時がくる。子供さえいなければ自由に生きられるのに、なんていう甘い誘惑がやってくる。そのときにもう一人、同じく強風に耐えていた大人がそばにいることで理性が効くのを期待して家族になった。そう柊は考える。


 譲治は男手ひとつで柊を育てるのに苦労していた。作家というやや在宅の傾向が強い職業ということもあり、連絡をとる人間は限られる。子供のことを相談できる先もなく、また離婚したこと自体を嘆いている時間もない。譲治がなにかを言ったわけではないが内に抱えた苦悩を柊は感じ取っていた。


 コンビニのお弁当。保護者のサインが必要な学校の配布物。家庭訪問。あのころの複雑な事情。家に帰りたいが帰りづらいという言葉。錆の味。それらすべてを人に説明し理解してもらえるとは思わない。きっと稲羽に聞かせてもわからない。逆に稲羽の内に秘めた感情も、説明されても柊は十分の一も共感してやれるかどうか自信がない。つまるところ人は一人で狂おしいほどの想いを抱きしめて生きていかねばならない。孤独だろうが家族がいようが同じこと。


 悩んで葛藤して無力に打ちひしがれ、それでも進んでいかなければならない。


「感情は無自覚よりは自覚的なほうがいい。自覚が持てるなら制御もできる。汚いなんて思わず、受け入れる。評価されたいという想いも、今よりなにかを上手くなりたいとかいう想いも、なにもかもを清濁併せて受け入れて、そこからだろ」


 どこへ弾けとぶかは知らない。


 だがどこかには弾け飛ぶだろう。



 鶴来は譲治の行方については知らないと一点張りだった。鶴来は譲治が裏山に上って、それからわからないという。眩しくて目を瞑っていたら、譲治の姿が消えていたとのことだ。非常にファンタジーな失踪だ。

 稲羽に至っては、譲治が高校の裏山に来て、鶴来と話をしていたことは知っていたがそれまでだった。失踪の鍵を握っているかもしれない友人と消えてしまった父の間で稲羽は揺れていた。

 柊はもう譲治がハシの向こうだと確信していた。ハシには不明点のほうが多いので、あまり細かなところは推測しようとしても無駄だ。それより譲治をハシから呼び戻すのは何が必要かわからないのが問題だった。加えて柊はともかく朱音と稲羽を置いていくという点に疑問を覚える。ハシの近くに寄ったら何が起きるのか予想できない。


 ここで詰まってしまった。


 完全に夜になる前に鶴来は家に帰した。


 鶴来を咎めるつもりは元からなかった。絵を破壊してからは稲羽もおとなしくなった。アトリエも軽く片付けると鍵を閉めてしまった。夕食も摂らずに眠っている。柊はリビングでテレビを見ていた。二十四時になる前に稲羽は階段を降りてきて、リビングに顔を出し小さな声で柊に告げた。


「ごめん。それからありがとう」


「俺は父さんが戻ってきたら、ちゃんと就職して、また家を出て行くつもり。だから早く呼び戻す」

 テレビを見ながら柊がそう言うと、めずらしく稲羽が不安な表情をしたのが雰囲気でわかった。何かを言いたげに口を開き、また閉じた。それに気が付かないふりをしていると、稲羽は諦めて部屋に戻った。





 譲治が失踪して三か月経とうとしている。夕方、柊は彩星高校を訪れていた。隣には制服姿の稲羽もいる。今日は稲羽の三者面談の日でもある。近頃は保護者ですら教師に事前に連絡しておかないと学校に入れない。校内に入って星巡りを検証するためには安全な日を選ばなくてはならなかった。二人は少し予定時刻より早めに来た。もう少ししたら朱音もやってくるはずだった。


「さて稲羽、やろう」


「ロクなことにならないってわかっているのに」


「父さんが帰ってくるのに必要なことだから」


 稲羽は不服そうだったが、それ以上は文句を言わなかった。

 星巡りは七不思議だ。二人は校内を巡った。今は使われていない美術室で絵を描き続けている女子生徒の姿を探しに行き、三階まで駆け上がったあとに呪文を叫びながら降りる。体育館横の来賓用玄関で、いるはずのない誰かとかくれんぼ。渡り廊下でなんの変哲もない鏡を見て、校長室の扉に耳そばをたてる。外に出て裏山を登る。墓碑ではなさそうだったが、縦に長い巨石を見つけたとき、あたりは陽が落ち始めていた。


「満足した?」


 射し込む茜色に眩しそうに目を細めた稲羽がそう問う。


 柊は稲羽を見た。一秒ごとに橙色が強くなる。


 色素の薄い髪が、頬が、光の中で輪郭を失う。


 歌うような声が柊を呼んでいる。優しく非現実の先へと招いている。


 暖かな気持ちのいい風が、石の向こうから吹いている。この平和な心地にさせる匂いがなにか思い出した。これは母がいたころの家の匂いだ。


 無意識に一歩踏み出した。


 あの光の先に、父と母がいるのが想像できた。けして帰ることのできない場所。記憶と理想が溶け合った、夢の中にしかない場所。


 懐かしい憧れがここにある。


 ――ダメ。


 かすかに背後から声が聞こえた。


 ――そっちはダメ。


 声は急に明瞭になる。


 咄嗟に柊は後ろを振り向く。


 稲羽の描いた絵から抜け出たあの女子生徒がいた。黒髪を揺らし漂っている。

 そういえば彼女は稲羽に憑依していたが、どこからやってきたのかは確かめる術もなく手付かずになっていた。美術室の霊というのは推測できるが、どうして柊の目の前にいる。

 柊は現実に引き戻される。急速に世界が褪せる。周囲が冷えて暗くなっていく。

 今ならば言葉を交わせる気がした。


「なんでお前は稲羽に絵を描かせていた?」


「描き足りなかったから」


「まだ描くのか?」


「ううん。もう、いいの。ありがとう」


 彼女は優しい声でそう言って微笑んだ。彼女の姿も白い光に霞んでいく。

 気が付くと柊は一人きりで石の横に立っていた。焦って急に駆け出そうとしたのを、後ろから聞こえた声が止める。


「……お兄ちゃん、どこ?」


 涙声の稲羽だった。稲羽は石に背をつけてしゃがみこんでいた。

 あたりは暗く、稲羽の姿は迷子そのものに見えた。


「稲羽……」


 言葉が出てこない。

 稲羽は柊の姿を認めて嗚咽を抑えた。なにかを言おうとしていた。


「私、謝らなきゃいけないことがあるの。お兄ちゃんが高校生のとき、家を出て行く前にお兄ちゃんの描きかけの原稿を隠したのはわたしなの」


 突然の告白に、柊は今度こそ言葉を失う。稲羽は顔をみせないまま言葉を続ける。


「あの……ね、下手だなんて言ってごめんね。私、……私……お兄ちゃんに嫉妬していた。いいなって。やっぱりパパの子供だからきっと才能があるんだろうなって、羨ましくって。仕方なかった……。ごめんね。私、自分で自分の嫉妬、抑えられなかった。お兄ちゃん悲しかったよね。傷ついたよね。ごめんね。それで描くのをやめちゃったから、私、すごく悪いことをしたんだってわかった。私も答えのない問答をするようになって気づいた。すごく上手な周りの人たちを見て、彼らが上手いのは才能なんかじゃなくて、ただ単純に私の努力が足りてないんだって……」


 柊は稲羽の頭に手を伸ばした。

 初めて触れる小さな頭。この頭で頑張って考えてきたのだ。両親のこと、ある日突然できた父と兄のこと、己の将来のこと。きっと稲羽だって柊の味わったのと同様の錆は心に残っているだろうに、それでも完全に家庭を拒絶せずに輪をつくる努力をした。


「言ってくれてありがとう」


「なんで、怒ってないの?」


 徐々に稲羽は落ち着きを取り戻しはじめていた。


「まっすぐに生きている人は強い」


「なんの話?」


「これまでと、これからの、全部の話。稲羽にはまっすぐに生きてほしい」


「お兄ちゃん、本当に家、出て行っちゃうの」


「……だって、そうしないと」


 稲羽が振り返った。その拍子に涙が落ちた。


「ねえ、お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんだよね」


 家族が増えた日に、どうせ寄せ集めの他人だと胸の内で冷笑していたのは柊のほうだった。楽をさせてくれない朱音も嫌いだった。わがまま放題の稲羽なんて嫌いだった。そんな二人を笑顔で見つめる譲治も許せなかった。

 だが、柊は大人になった。このまま永遠に死ぬまで対立しているわけにもいかない。オカルトは人を救わない。人を救うのは――


「稲羽は妹だよ。家族だよ」


 稲羽は目に涙を溜めたまま笑った。




 二人は下山する。三者面談の時刻は迫っていた。突風が吹いて、木々が揺れる。ふと人の気配がしたので、柊は何もないはずの山の斜面を見上げた。


「このあたりは暗くなると下りるのが大変だね」


 聞き覚えのある、かすれた声。

 譲治がいた。失踪したときと同じ格好をしている。言葉を失う二人の前に譲治は降りてきて、服についた土やらをはらった。


「やあ、なんか、柊の声が聞こえた気がして歩いてきてみたら、ちょうど稲羽と柊もいるじゃないか。呼ばれてやっと帰れた感じかな? 小説のネタになるなあ」


 こんなときでも小説のことしか考えていない変人。本物の譲治だ。


「ねえちょっと、電話しているのに反応してよね。裏山に昇るって聞いたから来てみたんだけど」


 見れば朱音が後ろからやってきていた。

 朱音が譲治を見つけて言葉を失う。その場に荷物を放り出し、駆け寄って抱き着く。


「どういうこと? 朱音さんが愛情表現するなんて」


「どうもこうも心配させないでよ、譲治さん。あなた三か月もどこに行っていたの」


 顔を真っ赤にさせた朱音が拳で譲治を殴りつけた。泣くのをこらえているように唇を食いしばって、これまでに見たことがない酷い形相をしている。

 稲羽はそんな母を見て吹き出した。

 柊もこらえきれずに肩を震わせる。

 二人は譲治に向かって駆け出した。


 譲治が戻ってから二週間ほどは慌ただしかった。警察署に赴き行方不明者届を取り下げしたり、仕事の関係者に頭を下げて回ったりなど、煩雑な処理を終えてようやく一息ついた。稲羽はあれから美大を受験することにした。急に進学先を変えたものだから、すでに絵を描いている人に追いつかなければと稲羽は焦っている。画塾に通って描いては意気消沈してまた描くというのを繰り返しており、傍目には楽しそうに見えるが、本人はストレスで限界なようだ。ヒステリーは日常茶飯事だが、柊に対しての執拗さはなくなった。


「お兄ちゃん、ピアス穴開けて」


「嫌だ。どうしてもって言うなら父さんに許可もらえ」


「やだ! 不良ごっこしたい!」


「本当にお前は受験を控えた高校生なの? おもちゃ売り場の二歳児か」


 リビングのソファに寝転がり全身で嫌を表現する稲羽を、柊は冷めた目で見下ろした。稲羽は猫だ。これは本気ではない。あれ以来、稲羽の性格は理解できるようになった。


 柊は就職が決まった。遠方での営業職。前職は工場で自分には向いていないことを痛感したので、以前から興味があった仕事に決めた。実家からはまた離れることになる。朱音が言った通り、次に戻るのはおそらく結婚するときになるだろう。髪の色はきちんと黒に戻し、ピアスは全部捨てることにした。これがあると稲羽が真似をする。


 時間ができたころに、書斎で仕事をしていた譲治に訊いた。なぜ星巡りなど試したのか。ハシの気配に気が付きながら、鶴来に招かるままに裏山へ行ったのか。それだけは考えてもわからなかった。


「彩星高校には姉も通っていてね。七不思議を聞いたときに、ピンときたよ。姉の話だって。描き足りないって生きている間もいつも言っていたから。まさか七不思議になってまで描いているとは。だから会いに来てくれなかったのかって納得はしたけど、それなら自分が行くしかないだろう」


「父さんはハシを越えてなにを見たの」


 譲治は寂しげに首を振った。

 答えるつもりなどないという表情に確信する。

 父が見ていたものは、あのとき柊が垣間見たものと同じだ。


「叔母さんは父さんのこと見守っているよ」


 柊がそう言うと、譲治は遠い目をした。


「見えなくても知っているさ」



 明日も譲治はきっと小説を書き続ける。朱音は譲治の小説を楽しみにしている。

 稲羽も絵を描き続ける。家族みんな、鶴来も一緒になって稲羽を応援している。

 灯りを消して布団にくるまると、脳裏に描きかけの原稿が思い浮かんだ。少し前から稲羽に触発されて机の引き出しにしまわれていた漫画の道具を取り出していた。じつは脳裏に描きたいと考えていたことはたくさんあった。大学生活や仕事が忙しいふりをして、それらから目を逸らしていただけだった。自覚ができるなら制御できる。制御できないほど強い想いなら弾け飛ぶ。結果なんて知らない。才能の有無なんて見た人が勝手に決めたらいい。柊たちはただ一心にまだ見ぬ世界へ、てのひらに乗せた心臓をさらけ出すために創る。

 稲羽が「完成したら読ませてよね」と言ってくれた。

 夜の闇に抱擁されて、柊は目を瞑った。


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