繰り返す気持ち
今日も雨だ。
梅雨入りして雨が降る日が増えていった。明治ガラスの扉越しに見える空の色は灰色だ。店の傍の小さな庭に:鴨跖草色をした紫陽花が薄暗い日の中で鮮やかに彩られている。
祖母がしていたお店は木造建築で、隙間も多い。しとしとと雨の音が中でも聞こえる。音を聞きながら、またこの時期が来たなと頭をよぎり、憂鬱になる。そういう時は梅雨と一緒に忙しくなる仕事に没頭した。
父の顔は知らないが水商売をしていたようだ。両親は結婚はしておらず、母親は俺の小さい時に新しい人と出会い新しい家庭を作った。
時々思いついたように俺に会いにくるが、「元気そうでよかった」と様子を見たら、お茶を一杯飲んだ後、今の家族の元へ帰っていく。そんな両親の元に生まれた俺は児童施設に行く予定だったが、見兼ねた母方の祖母が引き取ってくれた。
祖父は戦争で亡くなっている。祖母は祖父がしていた傘の修理屋を引き継いでおり、店と子育てと二足の草鞋で、俺を育ててくれた。
あの日も梅雨の時期で雨が地面を濡らしていた。湿気で高校の制服が肌に貼り付いたような不愉快さを感じ帰路する。祖母はいつも扉を開けてすぐの上がり:框の畳の上で傘の補修をしていた。
家の前に行くと、店の前に人だかりが出来ていた。
「:春君よかった!さっきサエ子さんが倒れて、救急車で病院に運ばれたの。」
唖然とする俺に近所のおばさんが病院まで付き添ってくれた。駆けつけたときには祖母は息を引きとっており、ベッドに眠る様に横になっていた。死因は心筋梗塞。大病を患ったことがない祖母の死は急だった。
葬式の時に母親からこの先どうすると嫌そうな顔で聞かれた。今更母親のところに行きたいとは思わなかったし、店は引き継ぐ人がいなければ、更地にして売ると言っていた。祖母との思い出が残っているこの場所は俺の帰る場所だった。だから傘の修理屋を継ぎたいと返事をした。
祖母が亡くなって早10年が経過し、俺は28歳になった。祖母がいつも座っていた場所に俺は座る。傘の骨組みを入れている筒に祖母が生前好んで使用していた:臙脂色の和傘がある。竹は痛み、現在傘としては使えないけれど、和紙を変えたり、天日干しをしたりして時々眺めている。
がらら、と店のガラス扉が開く。今日もお客さんが来てくれた。祖母が亡くなってから遠のいた客足も、京都の傘屋で修行した後は徐々に戻っていった。傘の修理屋はなかなか無いので、遠方から来てくれる人もいる。
「いらっしゃいませ。」
俺の背丈ぐらいの扉を少し屈みながら入ってきたのは、体格のいい男性だった。
「こんにちは。」
低めでよく通る声だ。その男は傘は持っていなかった。
どうしたのだろうかと思っていると、目が合って、男が「あ。」と目を見開く。
「春じゃないか?」
「そうですが…。」
苗字を呼ばれて頭の中で過去に出会った人物と目の前の人物を当てはめるが該当者は見当たらない。
「おおっ!まじかあー。ここで傘屋やってんだな。俺の事覚えてない?」
俺の方へずんずんと近づき、間近で顔を見せてくる。黒髪の短髪ではっきりとした顔立ちをしている。175㎝ある俺より10㎝は高そうだった。黒のTシャツから覗く腕は太い。大きいゴリラみたいだ。考えを巡らせるがやはり見たことがない。
「…申し訳ございません。どちらでお会いしましたか。」
「敬語とか寂しいわー。小・中と一緒だったじゃん。:圭助だよ。わかる?」
「圭助……」
昔の記憶の苦い記憶が蘇る。ここは小学校から中学校まで1クラスだけの、子どもが少ない地域だ。俺の知っている圭助はかけっこが速くて、いつもみんなの中心で笑っていた。背も体重も平均だったので、目の前の男と結びつかなかった。でも確かに目の上にホクロがある。
「思い出した?」
「………うん。」
「反応薄いな!もっと、よ!久しぶりじゃん〜とか、何でここにいるんだ〜とか聞いてよ。」
「…久しぶりじゃん。何でここにいるんだ。」
「復唱かよ!」
がははと大きな口で笑った顔は昔の面影があった。昔感じた甘い感情が溢れていく。
:軽井圭助は俺が初めて好きになった相手だった。小学生の時、祖母に育てられていると言うだけで、軽いいじめを受けていた俺を、遊びやら、駄菓子屋での買い食いなど誘ってくれて、みんなの輪に入れてくれたのが圭助だった。
その時はただの憧れだったが、中学2年の時に、俺は運動場のトラックを走っていたら転けて、両足と手の平から血が出た。うまく歩けなくて、保健委員だった圭助が俺に肩をかけて保健室に連れていってくれた。
小学校の時はよく肩を組んだりしていたが、中学校に上がってからは殆どなくなり、長時間触れ合ったのは久しぶりだった。
俺はその時感じた胸の高鳴りも顔が熱くなっていくのも怪我のせいにしていた。恋とは自覚がないままだったが、それからは無意識に圭助と距離を取るようになってしまい、高校が別になると疎遠になっていた。
高校、大学でも胸が高まるのは男性ばかりで、俺はゲイと言われる分類なのだと気づいた。
今更初恋の相手と会い、心の中が少しうるさくなる。
「俺は隣の空き店舗でケーキ屋をすることにしたんだよ。だから商店街の人に挨拶回り。」
圭助が右側を指差しながら答える。確かに右側は1年前に空き店舗になっていた。
「お前がケーキ屋?正気か?」
こんなゴリラみたいな見た目で可愛いケーキ屋を売るのか。どっちかと言うと居酒屋とかの方が似合う。
「おい失礼だな!一度食ってみろ。美味いぞ。」
「すっげぇ自画自賛。」
「馬鹿。美味いと思えるやつ商品として出さなきゃ逆に失礼だろ。」
「…確かに。」
10年来に会ったとは思えないほど、軽口をたたける。
「春のばあちゃん亡くなったのは知ってたけど、まさかお前が傘屋継いでるとは思わなかったよ。」
「……ばあちゃんの大切な店だったから。」
圭助は少し目を見開き、「そういうとこお前らしいな。」と微笑んだ。
「どういう意味だ。」
「ばあちゃんっ子だなぁって意味。」
「うざい。」
「おい、辛辣だなー。家族思いなのはいい事じゃないか。」
家族思い…。家族の縁が薄いのを必死に繋いでいるだけだ。
「…ばあちゃんしか知らないけどな。」
「ばぁか。それでもすげぇよ。」
ぽんぽんと頭を撫でてくる。昔から思った事をそのまま言葉にしているような奴だけど、嫌味もなく、そのまま心に響くのが困りものだ。
「…圭助は地元いつ戻ってきてたの?」
「俺?こっちで店やる為にちょっと前に戻ってきたよ。それまでは色んなところでケーキ修行してた。」
「…へぇ。」
そうなのか。ここで店をやると言うことは、関わりが増えていくことになる。甘い希望とコーヒーのように苦い現実が渦巻く。
がららと再度扉を開く音が聞こえた。
「あら。珍しい。若いお客さんね。」
ツネ婆さんがきた。:梔子色の傘を傘立てに直し、もう一つ持っていた紺色の傘を持ち、2人の前へ来た。
「こんにちは。」
「あら、こんにちは。イケメンねぇ。」
「ツネさん。この人軽井さんちの息子だよ。」
「軽井さんちの?あら、こっち戻ってきたの?」
「隣でケーキ屋やります。是非来てください。」
あら、そうなの、とツネさんと圭助はその後も少し話した。
「じゃあ俺お暇するな。また今度。」
いつ会話の間に入ろうかあぐねていたら、圭助が扉を開けて去っていく。人との会話に入るのは苦手なのでほっとした。
これからの事を考えると憂鬱になる。梅雨の時期は俺の気持ちを乱すことが何でこんなに多いのだろう。
「これ旦那のなんだけど、上の方が折れちゃって…」
今は深く考えなくていいように仕事に集中しよう。傘を使う頻度が増えるこの時期は年間で一番の忙しさだ。
「はい、詳しく見てみますね。」
傘を受け取り、ゆっくりと開いた。
**
「…うま。」
「だろー。ほらもっと食え食え。」
圭助と会って一週間とちょっと。空き店舗の改装工事が始まり、時々ガタガタと大きな音が日中は聞こえるようになった。それと共に圭助は改装中のお店へ足を運び、ついでに俺の傘屋に寄って行くのが毎日の流れになった。
今日はフィナンシェだった。昨日はザッハトルテ。毎日毎日甘いものを作ってきて、俺が日本茶を入れて、店の奥の座敷で食べている。
「こうした方がいいとかってある?」
「……俺は上に乗ってるアーモンドはスライスよりも粗めに砕いたのを乗せてる方が好き。あとピスタチオとか。」
「そうなん?何で?」
「スライスアーモンドが油か何かをじとっと吸って、噛んだ時に少し滲んでくる感触が嫌い。あとアーモンドだけ口に残る。」
「あーなるほどね。それは嫌かも。じゃあそっちで作ってみようかな。」
ケーキや菓子の専門家でもないのに、俺の意見をいつも聞いて、少し時間を置いて反映したお菓子を持ってくることもあった。俺の好みに合わせんなよとつっこむと、「俺がいいって思ったから改善したんだよ。嫌なら変えないさ。」と言って、俺を嬉しくさせる圭助に心中穏やかではなかった。
食べるか迷ったが、美味しそうなバターの匂いには勝てず2つめのフィナンシェに手を伸ばす。
「もう作ってくんなよ。」
咀嚼しながらぽつりと呟く。
「え、何で?食ってくれてるじゃん。」
「…お前のせいで太りそう。」
「そんなひょろひょろならもう少し太ったがいいんじゃないか?」
「うるせぇゴリラ。」
「おいおい、何でゴリラなんだ。」
「…鏡見ろよ。」
「春〜!」
こめかみを中指を少し立てた拳でぐりぐりとされる。痛い、やめろと叫ぶが、力は加減してあったので、ふふっと笑いながら返した。
ケーキやお菓子も毎日持ってきてもらうのも嫌なわけがない。
太るのは困るが、好きだった人の手作りなのだから嬉しいに決まっている。
しかし作ってここに訪れてくれる行為は淡い期待が積もり、いつ終わりがくるのだろうと怖いのもあった。
「あのな〜、春のとこ来るのは今の俺の癒しなんだよ。」
笑いが落ち着いた後、圭助が身体を後ろに反り、天井を見ながら言った。
「…俺、塩対応しかしてないけど?」
「それは間違いない。」
「あ?」
「でもそれが落ち着くんだよな。変な気張らなくていいし。」
「お前が気張ってんのとか見たことないんだけど。」
「ばぁか。結構してるって。特に客商売なんだから。」
「……そうなのか。気づかなかったわ。」
「まぁお前の前じゃ気使ってないけどな。だからつい来ちまうんだよ。」
「…なんだそれ」
あまり顔には出さなかったが、胸が大きく高鳴る。駄目だ、駄目だ。勘違いだ。仕事の事を考えろ。
「ええー。結構思いきって言ったのに。わぁ嬉しい!とか言ってよー。」
「わぁー嬉しい〜」
「なんて嬉しくなさそうな返事!」
そんな事を言いながら、圭助がすごくいい笑顔で笑った。
そんな圭助を見ながら、俺は好きの過去形が現在進行形に変わるの心に戸惑いを感じていた。
**
「すげぇ。まじで傘の先っちょ綺麗に直ったな。」
「………おい、離れて見てろって言ったろ。」
顔の向きは変えず、目だけ傘から外し、圭助を睨んだ。
今日もいつものようにお菓子を持ってきて俺のところに来た。いつもは1時間ぐらいしたら帰るが、今日は「傘直してるとこ見たい」と言い始め、最初は拒否したが、会話途中途中で見たいと連呼され俺が折れた。
近くでは気が散ってしまうので、いつもお菓子を食べている座敷に圭助はいてもらい、俺はいつものように:框で作業を始めた。
この傘は遠方から来てくれた町田さんと言うお客さんの傘だった。
:撫子色の傘で:陣笠(傘の先っぽの事)の木が割れてしまい、金具が剥き出しになっていた。
在庫からお客さんと一緒に選んだ新しい陣笠を取り付ける。雨の線で駒(傘の生地の部分)が変色している部分もあったので、綺麗にした。
「すごい集中力だったな。俺が近づいたの気づいてなかった。」
圭助が関心した声で俺に言う。
「…お客さんの大事な傘だ。集中できずに、失敗しました、じゃ取り返しはつかない。」
使い捨て傘やリーズナブルな傘が溢れている中、わざわざ傘を修理に来る人は様々だ。
孫からプレゼントされた、息子の試合にいつも使ってたから、お母さんの形見だから…など何かしらの思い出がある。
ずっと使いたいと思わせるから修理を頼むのだ。多くの傘の中の一本であっても、その人にとっては唯一無二なのだ。大切に扱わないといけない。
「…春見てたら俺も頑張らないとなぁってなるな。」
傘を開いたり、閉じたりして、全体のチェックを一通り行った後、丁寧に傘を畳んだ。依頼用の傘立てにゆっくりと直し、圭助を見た。
「なんだ。店の準備うまくいってないのか?」
圭助の声がしみじみとしていたので、うまくいってないのではと不安になる。
「大丈夫、特に遅れもないよ。」
「…ん?開店するまで大変なのにこれ以上何を頑張るんだ。」
俺は祖母の店を継いだ時も、名義変更やら色々とする事があった。まして、内装やら、機械類やら揃えないといけないので大変なはずだ。
「まぁ確かに準備頑張ってるよ。そういうのじゃなくて、心意気。」
「心意気?」
「そうそう。修行している時とか、特に繁盛店ではさ、効率よくしないと在庫切れでお客さんに迷惑かかるからひたすら作るって感じだったんだ。春見てると一つ一つ丁寧にしよう、大事にしようって思えた。」
「………恥ずかしい事をぺらぺらと…。」
ああ、もう。なんでこんなに喜ばせるのが上手いんだ。顔に熱が溜まっていくのを感じる。
「…嬉しかった?」
「はい、はい。嬉しいですよー。」
「ははっ。抑揚ねぇー。」
ばんばんと背中を叩かれる。「痛え、ばぁか。」と照れるのを隠した。
「なんか春見てたらサエ子ばあちゃん思い出したわ。」
「………お前、」
俺を誉め殺す気かと心の中でごちる。大好きな祖母と姿が被ったと言われると見守ってくれている気もする。
「あ、そういえば。」
「ん?」
「明後日。祖母の命日なんだよ。俺その日は店閉めるから、来てもいないぞ。」
7月15日。祖母の命日だ。この日はいつも店を休んで、墓参りと、店の中で思い出に浸って泣いていた。日頃は仕事で忘却させていた記憶を、この日だけはいいと自分で決めて、心ゆくまで想い、吐き出し、そして翌日は仕事に戻るのだ。
「そうなん?お墓どこ?」
「あ?善道寺のとこだけど…」
「近いやん。俺も一緒に墓参り行っていい?」
「はぁ?!なんで!」
「サエ子さんに帰ってきたよー、隣にお店オープンするよーって伝えないと。商売繁盛するように見守ってて下さいって。」
「………一人で行けよ。」
「えっ、何で。」
この日は俺が唯一感傷に浸っていいって決めた日だから。………とは言えない。ふぅと息を吐き出す。
「………仕方ない。じゃあ10時ここ集合。」
「おっ、ありがと!」
その後はお参りのお花やお水はどうするかなど細かいところを話し合った。
**
7月15日。この日も雨だった。小雨がぱらぱらと昭和ガラスを濡らす。この時期は梅雨が明ける事もあるが、今年はまだ続いている。
「春、おはよ。」
がららと扉を開け、圭助が来た。ビニール傘を畳んで、中へ入っていく。ガタイが大きいので、傘からはみ出したのだろう、黒いTシャツの上に羽織っているリネンシャツの肩が少し濡れていた。全て俺が用意すると言ったので、手ぶらで来ている。
「ん。行くか。」
空のペットボトル、花、線香、ライター、スポンジ、祖母の好物だった葛餅を持って墓へ向かって歩きだす。
雨も強くはなかったので、徒歩で向かった。15分程で到着し、1ヶ月ぶりに墓の前へ立つ。以前活けていたお花は枯れていた。墓地の端にある、備え付けの蛇口からペットボトルに水を汲み、墓を綺麗に掃除し、花や水を替え、お供物を置いた。
線香をそれぞれ2本ずつ持ち、:香炉に線香を寝かせ、ゆっくりと手を合わせる。
「ばあちゃんお久しぶり。今日は圭助来てくれたよ。覚えてるかな?」
俺は返答はない墓に向かって小さい声でいつも話しかけている。
「隣でケーキ屋するんだって。似合わないよね。」
「おい。」
一緒に合掌していた圭助がつっこみを入れる。俺はくくっと笑った後「ほら、挨拶しな」と圭助を肘で小突いた。
「お久しぶりです。圭助です。ケーキ屋をすることにしました。」
これは俺が作った菓子です、とリネンシャツのポケットをごそごそとすると、中からラッピングされたフィナンシェが出てきた。よく見ると、上のスライスアーモンドが砕いたピスタチオに変わっている。
俺と目を合わせ、「お供物追加で。」と笑ってきた。
「今は梅雨で、傘屋は大盛況だよ。忙しいけど、色んなお客さんの傘と触れ合えて嬉しい。引き続き頑張ってくね。あと、圭助のケーキ屋も潰れないように見守ってて下さい。」
「いやいや、大盛況になるように見守ってて下さいだろ。」
「くく…、大盛況になるようお願いね、ばあちゃん。」
そうやって墓に笑いかけている俺をそっと優しい目で見てくれていたのは祖母ぐらいしか見えてないだろう。
圭助とあーだこーだと言いながらも、無事に墓参りが終わった。
雨足は変わらず、弱くも強くもない。
「春はいつも一人で墓参りきてるの?」
「うん。何で?」
歩道が狭いため、縦一列に並んで会話をする。圭助が前で俺が後ろだ。圭助は少し振り向きながら話しかける。
「お母さんは?」
「……知らん。行ってるかもしれないけど、一緒には行ってない。」
「そっかぁー。他の人とも来ないの?」
「墓参り積極的にしたい人は俺の周りにはいないぞ。」
お前以外な、と心で答える。
「ふーん。」
会話が途切れるが、前後で歩いているとあまり気にならない。
「春って好きな人いないの?」
「……は?何て?」
前を向いたまま圭助が言うので、俺の聞き間違いだと思い、もう一度聞き返す。
するとビニール傘越しに見えていた逞しい背中がくるっと回り、目が合う。
「春って好きな人いないの?」
「………急になんだよ。」
どどど、と胸が脈打つのがわかる。傘の手元を握る手のひらからじんわりと汗をかく。
「えー知りたいから。」
「…………俺は知られたくない。」
知られたら終わりだ。毎日来てくれる事もなくなる。隣の店なのに、顔を合わすのすら大変になる。言える訳がない。圭助は再度前を向き、歩きながら会話の時は俺の方を向いて話す。
「知られたくないの?」
「……………ああ。もういいだろ。おしまい。」
早くこの場を去りたかったが、圭助を置いて先に行くのは変だと思い、ぐっと我慢し、「前向け」と伝える。
「ええー、終わってないー。大好きな春ちゃんの事知りたいのに。」
大好きと言われて、心臓が跳ねた。でもこの物言いは友達としての好きだ。落ち着け、落ち着け…。
「…キモい事言ってんじゃねぇ。」
「相変わらず辛辣〜。知られたくないって事はいるってことでしょ?もう恋人?」
「恋人とかいねぇ。」
「あら、これは失礼〜。」
調子軽く答える様子に俺の気も知らないでとイラつき、思わず膝で軽く蹴りをかます。
「いてて。春も俺の事好きでしょ?だからいいじゃん、教えてよー。」
好き。好きだよ。今更初恋の相手に再燃して、俺は大変なんだ。お前が思っているような友情じゃなくて、愛情なんだよ。ばか。くそ。平気で好き好き言いやがって。でも好きとか言えるチャンスはこういう時しかないだろう。
せっかくだ。せっかくのチャンスなんだから、軽い感じで言ったら大丈夫。
「………あー好き好きー。」
「……それは恋愛的な意味で?」
「な、なんだそれ。はいはい、恋愛的な意味でだよ」
言った。言えた。この感じなら大丈夫だろう。変には思われない筈だ。言えたという達成感とバレるのではとヒヤリとする。
目の前に俺の店が見えてきた。ほっと息を吐く。
「ほら。店着いたぞ。俺はこの後ぼーっとする予定だから、お前はさっさと帰って店の準備でもしてろ。」
手でしっしっと払うと、その手をぐっと掴まれ、店の中へ入っていく。
「はぁ?!お、おい、どうしたんだよ!」
何も言わず、急な行動をする圭助に戸惑いながらも、手に触れているドキドキで身体は為すがままに動く。
店の中へ入り、傘を傘立てに置くと圭助はがしりと俺の両腕を掴んだ。体格のいい圭助の力は強い。
「ばかっ、力強ぇ。急にどうしたんだよ。」
俺の言葉に指の力が少し緩む。
「お前の癖ひとつ教えてやる。」
「は?癖?」
急に何を言いだすんだ。今日の圭助は少しおかしい。
「俺が言った事が、春の思っている事と同じ時、お前は俺の言葉を復唱するんだよ。」
「………は?」
ど、ど、ど、と心臓の音が大きく耳に奥にこだまする。
まさか、え、いや、俺は………
「俺の事好きかって聞いたら好きって言った。恋愛的な意味かって聞いたら恋愛的な意味だとも。」
やばいやばい。どうしたらいい。
梅雨で不快な湿気が、さらに上がったように感じる。
「い、言ったけど……、あれは……」
特別な意味じゃない。友達としてに決まってるだろ。って言わないと。水分が取られたように、喉がカラカラになる。
「俺は春が好きになったよ。」
腕を引かれ、ぎゅっと強く抱きしめられる。訳の分からないうちに圭助に包まれ、圭助の汗の匂いや体温を感じる。
「え、えっ…」
俺は混乱を極めた。友達で抱き合うのか、好きは友情なのか、これはまるで告白じゃないかと。
「春の気負わない雰囲気が好き。仕事に対する姿勢も好き。家族想いのところや、隠そうと思ってても隠せてないところが好き。」
次々と言われ、顔に血がのぼる。これは。もしかして。これは、本当に……。
「俺春と一緒にこれからも過ごしたい。恋人になってエッチなことしたい。俺と付き合って下さい。」
告白してくれてる。
圭助と目が合い、じっと見つめられた。信じられなくて、びっくりして、言葉が出ない。
「…返事聞きたい。付き合う?付き合わない?」
圭助が2択を出す。嬉しくて、涙が溢れてきた。
圭助にぎゅっとしがみつき、「付き合う…」と圭助の肩を濡らしながら、俺は答えた。
✳︎✳︎✳︎
がららと今日も扉を開ける音がする。昨日梅雨明けが発表され、今日は晴天だった。
外から匂いが流れ込んでくる。雨が降った時の独特な匂いではない、甘い匂い。
その匂いを纏った彼に包まれた後、お互いの店で仕事をする。
がらら。再度扉が開いた。孫が大切にしている傘だと桃色の小さな傘をおばあさんが持ってくる。
「こんにちは。昨日傘が壊れちゃってね、直せるかね?」
傘を検分して、ゆっくりと頷く。
「はい、修理承ります。」
甘い匂いを纏わせた俺の恋人は、お店が終わったらまた満面の笑みで俺のところにくるだろう。
そして俺も少し口角を上げて迎えるのだ。
「好きだよ。」
「……俺も好きだバーカ。」
完