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訓練の見学を終えたアンリは廊下に出ると、鬱陶しいフードを外しながら早足に歩き、訓練場の受付に向かった。
頑張る新人たちを見ていたら、久しぶりに自分もしっかりと魔法を使いたくなったのだ。たくさんの防御壁を張ってもらった専用の訓練場で、しっかりと威力のある魔法を撃ちたい。
威力のある魔法と言うと先ほどの新人訓練と逆を行くように思われるかもしれないが、実際のところはそうでもない。強い魔法を使いつつ、訓練場を壊さない程度の威力に抑える。もはやアンリにとっては、そのくらいのことをしないと魔力操作の訓練にもならないのだ。
しかし、そうして意気込んで受付へやって来たアンリに、後ろから「あれ? アンリ君?」と声がかかった。
アンリはぎょっとして振り返る。防衛局は広く人が多い。だからフードを外したところで、知り合いに会う心配はないだろうと思っていたのに。
アンリの反応に、呼びかけた人は戸惑ったようだった。
「あ、ごめん。もしかして、名前で呼んじゃいけなかったか」
「い、いえ、その、いけないとかではないんですけど……びっくりしただけです。お久しぶりです、スグルさん」
アンリと同じく訓練場の受付へと続く廊下を歩いてきたのは、イーダの中等科学園でアンリの一つ上の学園に在籍するスグルだった。
スグルは以前、防衛局で魔法の訓練を受けていた。ロブの始めたその訓練を誰がどう引き継いでいるのかアンリは知らなかったが、ここにいるということは、今でも訓練は続いているのだろう。
「うん、久しぶり。ここで会うのは初めてだな。アンリ君が防衛局の制服を着ているのは、なんだか不思議な感じがするけれど……もしかして、俺、敬語を使った方がいい? アンリ君って上級戦闘職員なんだよな?」
上級戦闘職員用の制服をまじまじと眺めて、スグルがはたと気づいたように慌てた様子で言った。「いいですよ、そのままで」とアンリは苦笑する。
「学園では先輩と後輩なんですから。そもそもスグルさんは防衛局の職員でもないんですから、俺が上級だからってかしこまる必要なんてないですよ」
「ああ、そっか。……でも、そうすると来年からはやっぱり、気をつけた方がいいよな。アンリ君のほうが、先輩になるわけだし」
「来年?」
来年になると何か変わるのだろうか。首を傾げたアンリは、しかしすぐに、はっと思い至った。
「もしかして、スグルさん」
「うん。実はこの間の試験に受かって、来年から防衛局の戦闘部に入れることが決まったんだ」
イシュファーが研究部の試験に合格したように、スグルは戦闘部の試験に合格したのだろう。そしてイシュファーと違って、防衛局に入ろうという意思はもう固まっているようだ。
「おめでとうございます」
「ありがとう。とはいえ大変なのは入ってからだろうから、これからも頑張らないと。今日もこれから訓練を見てもらうことになっているんだ。アンリ君は?」
「俺は、新人さんたちの訓練を見学してきたところなんです。頑張っている人たちを見たら、久しぶりにちゃんと訓練しようかなっていう気持ちになって」
「アンリ君のちゃんとした訓練か……ちょっと見てみたい気もするね」
スグルの目に好奇心が宿る。まずいなと思って、アンリは「見るほどのものじゃありませんよ」と軽く流した。近くに誰かがいる状態で思い切り魔法を撃つのは危険だ。それを安全にできるよう制御するのも訓練かもしれないが、今日は周りを気にせずに、ガンガン強い魔法を使いたい気分だ。
アンリの顔を見て、スグルは「安心して」と笑った。
「俺もこれから訓練の予定なんだ。アンリ君の邪魔はしないよ」
「……俺、そんな変な顔してました?」
「邪魔されたくないって顔をしていた」
そんな顔をしたつもりはなかったのだが。アンリの表情がそれほどわかりやすいのか、それともスグルの観察力が優れているのか。いずれにしても、バレてしまったことには違いない。アンリは軽く肩をすくめた。
「いずれ、先輩には何か面白い魔法でもお見せしますよ。今日は先輩も訓練、がんばってください」
「ありがとう、楽しみにしてる」
そうしてアンリはスグルと平和に別れる、はずだった。
「……お前らなあ」
後ろからの低い声に、アンリはびくりと体を震わせる。
「こんな人の多いところで、そんな格好で、何やってるんだ。もうちょっと場所を考えろ」
「トウリ先生……と、ヤンさん……」
振り返ったアンリの前に立っていたのは、学園教師と防衛局職員を兼ねているトウリ。そしてその後ろには、つい先日学園を卒業して防衛局に入ったばかりのヤン・ヨーステンがいた。ヤンはアンリにとっては学園で世話になった先輩だ。しかしアンリはヤンに、自身が上級戦闘職員であることを伝えていない。
「えっ……ア、アンリ君……? そ、その制服は……?」
迂闊なことをしたと気づいて、アンリは頭を抱えた。
訓練場に来るなら、せめていったん着替えてから来れば良かったのだ。
とりあえず出会った知合い全員を連れて、アンリは避難でもするように訓練場へ入った。アンリ専用の、防護壁を百枚張ることのできる部屋だ。ただし今日は急いでいたので、防護壁は五十枚しか張っていない。
「……お前、普段こんなところで訓練しているのか」
「普段と言っても、最近はそんなに来てませんけど」
おそらくトウリは防護壁の多さに呆れているのだろう。学園の訓練室では数枚しか張られていないし、防衛局の訓練場でも、普通の部屋なら多くても二十枚程度だ。しかしこの部屋には普段から五十枚の用意があって、しかも必要に応じて百枚まで増やすことができる。
「で、こんな立派な訓練場を壊したのか」
「…………まあ、はい」
昨年、アンリが訓練場を壊したことは、防衛局内では有名な話になっているらしい。当然トウリも知っているし、目を逸らしているスグルももしかすると、防衛局内で過ごすなかで聞いたことがあるのかもしれない。
気まずくなったアンリは「それはそうと」と自分から話題を変えた。
「トウリ先生はどうして訓練場に?」
「聞いていないのか。一番隊の副隊長から頼まれて、昨年からスグルの訓練を見ているんだ」
ロブはこの国を去る際、それまで見ていた学園生の訓練を誰かに引き継いだ。どうやらその相手がトウリだったということらしい。スグルが訓練場へ向かっていたのは、トウリの訓練を受けるためだったのだろう。
さらに話を聞くと、今日からその訓練に、ヤンも参加するのだという。
「新人研修の合間に自主訓練をしたいと言うから、一緒にやることにしたんだ。それで、お前はなんでそんな格好でここにいるんだ」
「ええっと」
アンリはトウリの斜め後ろにいるヤンに目を遣った。未だ状況を把握できずにいる彼はただ目を丸くして、周囲をきょろきょろと見回したり、恐る恐るアンリの様子を窺ったりを繰り返している。
自分の身分を明かすべきか。それともあくまでも誤魔化すべきか。
ヤンからすれば、馴染みのある学園の後輩が突然、上級戦闘職員用の制服を身に纏って現れたのだ。そのうえ訓練場の受付で「今すぐ自分用の部屋に入りたい」と受付職員に無理を言ったところまで見られている。
これで誤魔化せると思うほうがおかしい。
それでもアンリは最後の悪あがきとして、へらりと笑って首を傾げてみせた。
「実は知り合いの上級戦闘職員に制服を借りて着てみたんです……なんて、ダメですかね?」
「駄目に決まってるだろ」
呆れた顔をしたトウリにばっさりと切り捨てられて、アンリは深くため息をついた。
結局、アンリはヤンに、自身が以前から上級魔法戦闘職員として防衛局に在籍していることを説明し、トウリには訓練場に行く途中の廊下で偶然スグルに会ったことを話した。
ヤンは驚きに言葉も出ないようだったが、トウリは「そんなことだろうと思った」と苦い顔でため息をつく。
「……新人職員は真面目だから、研修後は訓練場に向かうことが多い。中にはもちろんヤンのように、イーダの学園から来た新人もいる。お前は交流大会で目立っていたから、魔法士科以外の卒業生でも知っている奴はいるだろう」
すでに防衛局に入った職員たちにアンリの身分がバレたところで、支障はない。けれどもその職員たちを通じて後輩に、つまりアンリと同じ学園に通う在学生たちにそれが伝わってしまうとしたら問題だ。「アンリ・ベルゲンが防衛局で上級戦闘職員の制服を着ていた」なんて噂が立った日には、アンリは学園内を平穏に歩くこともできなくなってしまうだろう。
「わかったら、お前はその制服を着ている間は顔を隠せ。それからスグル、お前も見かけたからといって、気軽に声をかけてやるな」
スグルが肩を落として「はい」と静かに頷く。自分の事情に巻き込んでしまい、アンリとしては申し訳ない限りだ。
ひと通りの説教を終えたトウリは「これからは気をつけろ」と最後に言って、この話を終わりにした。それからにやりと笑って、改めてアンリに目を向ける。
「せっかくだから、お前がやろうとしていた訓練をこいつらに見せてやってくれないか。高度な魔法を見て学ぶのも、訓練のうちだからな」
訓練場に入ったときからそうなることを予想していたアンリは、ため息混じりながらも「いいですよ」と頷いた。スグルやヤンには、今日ここで会ったことを黙っておいてもらわなければならない。その口止め料と思えば、安いものだ。
思い切り魔法を使うという当初の目的は後回しにして、アンリは防護壁五十枚でも耐えられる程度の、他人に見せるための魔法を披露した。




