(6)エルネスト 3
長期休暇の最終日。
エルネストは寮の部屋で明日の入学式に向けて、制服に袖を通した。孤児院でも試着はしているが、万が一にもほつれや不備があっては怖い。
「ちょっと大きめだね、エルネスト」
「うん。きっと背が伸びるからって、大きいのを買ってもらったんだ。クリスはぴったりだね」
「そんなに先のことなんて、僕は考えてなかったから。すごいな、エルネストは」
エルネストと同じく部屋で臙脂色の制服に袖を通しているのは、寮で同室となったクリス・ストランダ。
貴族の家の次男で、イーダの街にも大きな屋敷があるらしい。そこから通おうと思えば通うこともできたが、世間のことをちゃんと学びたいと考えて寮暮らしを選択したという。
エルネストが寮に着いたとき、すでにクリスは部屋で暮らし始めていた。エルネストより三日も早く寮に入っていたらしい。屋敷を出て生活するのは初めてのことだから、早めに慣れておこうと思ったという。
自己紹介をしたとき、エルネストは不安に思ったものだ。こんなにもしっかり自立しようという考えを持った子と、うまくやっていけるだろうか、と。
ところが一日一緒に過ごしただけで、エルネストにはその不安が杞憂であったことがわかった。クリスは自立したいという意志こそ強いものの、現状としては抜けているところが多々あるおぼっちゃまだったのだ。
それでいて、クリスには貴族であるということを鼻にかける様子がない。むしろ自分が世間知らずであることを恥じていて、エルネストを含めた周囲からたくさんのことを学ぼうという必死さが伝わってくる。
その熱心な姿を見たエルネストは、自分もクリスを見習って、この学園生活でしっかりと学びを得ようと改めて決心した。
互いに学び合い、高めあうことのできる良いルームメイトを得ることができた。一日でそのことを察した二人は、極めて良好な関係を築きはじめている。
「僕は今日、このまま一旦家に帰って、両親にこの姿を見せてこようと思うよ。エルネストも一緒にどうだい? できれば両親に、ルームメイトとして紹介したいんだが」
「うーん、それはありがたいんだけど。でも今日は僕、先輩と約束があるんだ。だから、また今度でも良いかな?」
そうだったのか、とクリスは残念そうに言う。しかしすぐに肩をすくめて「先約があるなら仕方がないね」と表情を改めた。
「残念だけれども、両親への紹介はまたの機会にしよう。それで、先輩というのは初等科学園でお世話になった人とかかい?」
「あ、いや。初等科学園で一緒だったことはないんだけど……」
まだ自分が孤児院から来たのだと言えずにいるエルネストは、アンリのことをなんと説明したものか悩んでしまった。隠すつもりはないが、この話の流れで「実は僕は孤児院の出身で、先輩はそこの先輩で」などと話しても、クリスを困惑させるだけだろう。
「ええと、僕、試験前に一回ここの学園の見学に来たんだけど、そのときに案内してくれた人なんだ。魔法を見せてもらったりしたよ」
嘘のない範囲でエルネストが説明すると、クリスは特段疑問を持つこともなく「なるほど」と頷いてくれた。
「それで仲が良いんだな。僕もこの学園には何人か知り合いの先輩がいる。いずれ機会があったら、エルネストのことも紹介しよう」
「うん、僕も。近いうちに紹介するよ。……きっとクリスも、アンリさんとは気が合うと思うから」
努力家のクリスと、優しく面倒見の良いアンリ。二人なら、きっと仲良くなれるだろう。アンリは友人一人なら一緒に魔法を教えてくれると言っていた。その友人にクリスを選んでも良いのではないか。ルームメイトであるクリスにアンリの素晴らしさを伝えることができれば、エルネストとしてはありがたい……
と、考えにふけっていたエルネストはふと顔をあげて、クリスが目をまん丸にしていることに気がついた。何かに驚いたような様子だが、急にそんな顔をされるとエルネストもぎょっとしてしまう。
「ど、どうしたの、クリス」
「ああ……その、エルネストの知り合いの先輩は、アンリさんというのかい? もしかして、三年生のアンリ・ベルゲンさん……?」
「アンリさんのことを知っているの?」
エルネストが問い返すと、クリスは目をまん丸にしたまま「そりゃあ、アンリさんと言えば……」と震える声で続けた。
「……それで、彼はなんて?」
向かい合ったアンリから低い声で問われ、エルネストは「ええと」と口ごもった。
待ち合わせていた寮の談話室で、エルネストはアンリに、ルームメイトから聞いた話をそのまま伝えていた。つまり、ルームメイトがアンリの名前を知っていたこと。それも、さも誰もが知っている偉人を語るかのごとくであったこと。
話を聞くにつれて、アンリの眉間の皺が深くなった。エルネストは恐る恐る、クリスから聞いた話を続ける。
「ええと……アンリさんと言えば、一年生にして模擬戦闘大会で優勝し、二年生のときには会場を修復不可能なほどに壊す大乱闘を見せた、魔法士科始まって以来の天才だって。あと、街で泥棒を捕まえた話や、店で強盗を捕らえた話も聞いているって言っていましたけど……」
クリスは興奮し、目を輝かせながらアンリの偉業を語っていた。アンリはまさにヒーローであり、学園の英雄だとまで言っていた。
つまり、クリスはアンリのことを讃える言葉を口にしていたのだ。それなのに、それを聞いた当のアンリの表情は晴れない。
「……それ、誰から聞いたとか、言ってた?」
「さ、さあ。そこまでは……」
クリスからの話を聞いたとき、エルネストは誇らしい気持ちになったものだ。やはりアンリはすごいのだ、その素晴らしさは新入生にもすでに知れ渡っているほどなのだ、と。
アンリがすごい人であることは、エルネストもわかっていた。顔を合わせて挨拶をしたのは学園見学のときが初めてではあったが、孤児院ではよく小さい子たちが「アンリ兄ちゃんはすごいんだよ!」と教えてくれた。エルネストも実際に年越しの休みの際、アンリの素晴らしい魔法を見る機会があった。学園見学の際に見せてもらった模擬戦闘も圧巻だった。
そのすごさを口にするなと止められて落ち込んでいたエルネストにとって、話のわかるクリスがルームメイトになったことは極めて幸運だった。
エルネストはそのときに感じた喜びと興奮のままにアンリに語って聞かせようと思ったのだが、アンリにとってはお気に召さなかったようだ。
「ほかには何か言ってた?」
「ええと……二年生の魔法授業中の模擬戦闘では一度も負けたことがない、とか。少し前まで、この世代の天才はアイラ・マグネシオンさんだって言われていたけれど、今ではアイラさんとアンリさんは並び立つ天才、あるいはアンリさんのほうが」
「あ、いいや。もういい、やめて」
クリスから聞いた話を半分も伝える前に遮られてしまった。不完全燃焼の気分でエルネストはむっとアンリを睨んだが、気づけばアンリはエルネスト以上に不機嫌な——というよりも、うんざりしたような、諦観さえ漂う顔をしていた。
何が彼の機嫌をこんなにも損ねてしまったのだろう。エルネストは内心で慌てる。
「あ、あの、その……ええと。僕、何かまずいこと言いました……?」
「まずいっていうか……俺、あんまり噂になるの好きじゃないんだよ。言っただろ、騒がれたくないんだ。何事もなく学園生活を送りたい」
そういえば、そんなことを言っていたような気もする。つまりアンリは、たとえ良い噂であろうと、新入生にまで自分の名前が知れ渡っていることが不満なのだろう。
けれどもそれはアンリが素晴らしい魔法力を有している以上、避けられないことだ。
「でもアンリさん、クリスの話に嘘はないんですよね?」
「あるよ」
アンリは忌々しそうに言った。
「授業中の模擬戦闘なら、俺は負けたこともあるから。特にアイラとの勝ち負けは五分五分……そうなるように気を付けてやってるっていうのに、なんで間違った噂が広まるのさ」
なぜと言われても、エルネストにはわからない。それよりも、今のアンリの言葉——戦歴が五分五分になるようわざと結果を調整しているかのような話し振りが気になった。しかし、藪を突つけば蛇が出るように思えたので、深くは追及しないことにする。
「ええっと、じゃあ、クリスには訂正しておきます」
「そうしておいて」
ため息をつきながらアンリは立ち上がって、寮の出口の扉へ向かう。エルネストも慌ててそれに続いた。
今日はアンリに、とっておきの魔法を見せてもらう約束なのだ。
寮の自分の部屋に戻ったエルネストは、机の上に積み上がった教本の中から、地理学の教本に付属した地図を引っ張り出した。
(ええと、最初に行ったハーツさんの家がここで、次のイルマークさんはこっち。で、ウィリアムさんの家がここか……みんな遠いなあ)
今日一日で行った場所に、エルネストは目立たないように印を付けた。
行き方は簡単だった。アンリと手を繋いで、目を閉じているように言われて目を閉じ、開けていいと言われて目を開けるともうその場所にいるのだ。目を閉じている間にふわりと足下の地面がなくなるような覚束ない気分になる瞬間はあるが、目を開けると自分の両足はちゃんと地についている。不思議な体験だった。
もちろん、アンリの魔法だ。転移魔法と言うらしい。
行く先々で、アンリは友人の家を訪ね、その友人を連れてイーダへ戻った。アンリはただエルネストに見せるためだけに魔法を使ったのではなくて、帰省した友人たちを迎えに行ったのだ。彼らは休み中に孤児院に魔法を見せに来てくれた人たちで、孤児院に来たあと、同じようにアンリの魔法を使って実家へ帰省していたらしい。休みの最終日にアンリが迎えに行くという約束だったようだ。
アンリ曰く「休暇の最後に、中途半端に日が余ったから。余った日数でできることを考えたら、それが一番良いかと思って」とのことで、休み前から計画していたことではなかったようだ。それでも実行できてしまうのだから、アンリにとって転移魔法は、計画も準備も要らないほど簡単なものなのだろう。
エルネストには、その魔法が一般的にどれほど難しい魔法なのかはわからない。しかし、もしも転移魔法が誰でもアンリのように簡単に使える魔法なのだとしたら、おそらくこの国の移動手段の主流は馬車ではなく魔法になっていたはずだ。そうなっていないということは、転移魔法はアンリにしか使えない——あるいは少なくとも、使える人がごく限られる難しい魔法であるに違いない。
アンリから「俺がこの魔法を使ったことは誰にも言わないでね」と何度も念を押されたことも、これが一般的な魔法ではないという証左に思われる。
(やっぱり、アンリさんはすごいんだ)
アンリはすごい。そのことを、エルネストはたくさんの人に伝えたい。自分の兄はすごいのだと自慢したいし、何よりアンリには自身の力を誇ってほしい。騒がれたくないとアンリは言うが、これほど素晴らしい力を持っているのだ。多少の騒ぎくらい、気にするほどのことはない。
(とはいえ、アンリさんの意見を無視して触れ回るのはよくないし……)
どうしたらアンリは自身の素晴らしさを周囲に知ってもらうことに、肯定的になってくれるだろうか。エルネストは考える。
(少しずつ広めていくのはどうだろう。まずはルームメイト。幸い、クリスは元々アンリさんのことを少し知っているみたいだし)
誤解を解いておくようにとアンリには言われている。たしかに誤った事実を元にクリスがアンリを信奉しているのは良くない。だから、模擬戦闘の戦績が全勝でないことはちゃんと伝えよう。
けれどもあわせて、アンリがいかに素晴らしいか、今許されている範囲で伝えられないだろうか——エルネストは考える。
(そうだ。一人だけ、一緒に魔法を習っていいって言っていたはず。その相手にクリスを選ぼう。そうすればクリスにも、もっとアンリさんのことをわかってもらえるはず……)
クリスは貴族の家の出身だから、もしかしたらすでに魔法が使えるかもしれない。けれどもアンリの話をするときの彼の目は輝いていた。そのアンリの指導を受けられると言えば、彼ならきっと話に乗ってくれる。
(まずはクリスに声をかけてみよう。それから一緒に魔法を習って……それで、どうしたら良いか、二人で相談しよう)
せっかくこの学園への入学が決まり、気の合いそうな友人とルームメイトになることができたのだ。それを活用しない手はない。
これから始まる学園生活における当面の目標を得たエルネストは、ひとり部屋の中で「よしやるぞ」と力強く声に出して気合いを入れた。
10.5章はここまでです。お読みいただきありがとうございます。
11章も引き続き、お付き合いいただけると幸いです。




