(2)リリイ 2
兄とその友人たちが来たのは夕方遅く、リリイがメアリとともに夕食用のサラダやグラタン、スープの調理を終えて、あとはテーブルに並べるだけとなった頃合いだった。もちろん、食後のデザートも後で出せるようにとちゃんと用意してある。
兄が帰ってきた。その事実に、リリイもメアリもぱっと表情を明るくして、玄関に飛び出して行こうとした。それを母が「ちょっと待ちなさい!」とものすごい剣幕で止める。
「話はまだ終わってないの! どういうつもりなの、これは!」
どうやら母は帰ってきた兄たちの出迎えを父に任せ、娘たちへの説教を続けるつもりらしい。メアリが「えー」と口を尖らせた。
「ねえ、母さん。話なら後で聞くからさ。兄さんと会うの久しぶりなんだから、行ってきていいでしょ?」
「その大好きなお兄ちゃんとの再会をめちゃくちゃにしようとしているのは、あなたたちでしょう! ちゃんと反省しなさい!」
母は変わらず、厳しい声でリリイたちを責める。
リリイは泣きそうだった。なぜこんなことになってしまったのだろうか。
メアリと一緒に料理をした。リリイはまだ包丁と火を使うことを許されていないので、そういう難しいことは姉であるメアリの仕事だ。リリイはただレシピを見ながら、メアリの切った食材を混ぜたり、火の通った熱いスープを器に注いで、最後の仕上げにソースをかけて飾りの葉っぱを載せたりしていただけだ。
ただ、メアリと相談して、レシピから少しだけ調味料を変化させたりはしていたが。
「どうしたらこんなに真っ赤なグラタンができるの! ……どうするのよ、こんなの、お兄ちゃんたちに食べさせるわけにいかないでしょうよ。かといって、私たちだって食べたくはないし。あなたたちだって、こんなの食べられないでしょう」
怒りを通り越して困り果てた様子で、母は深いため息とともに言った。
リリイはちらりと、出来上がったグラタンに目を向ける。
材料を混ぜ合わせて器に盛り、父が仕事で開発した魔法器具のオーブンで焼いたら、あっという間に美味しそうなグラタンが出来上がった。事前に母に言われていたように、八皿つくった。リリイたち家族の分が五皿。兄の連れてくる友達の分が三皿。
出来上がったグラタンは、五皿と三皿で明らかに色が違っていた。五皿は白いチーズがとろりと溶けつつ、上にふりかけたパン粉が程よく焦げて茶色くなっている。最後にかけたパセリの緑色が良いアクセントになっていて、今までにつくったどんなグラタンよりも美味しそうに見えた。
対して残りの三皿は。白いチーズが赤く染まり、追加でかけたソースが更に毒々しい赤みを加えている。一見トマトソースのように見えなくもないが、横にいくつも並んだ空容器のラベルを見れば、この赤色がトマトの色でないことは容易に想像がつく。
スープも同じだ。煮込んだ野菜の旨みが色に現れたスープと、もはや使われた野菜が何であったかさえ定かでない赤いスープが並び、隣にはグラタンのそばにあるのと同じラベルの空容器が転がっている。
「なんなの、この激辛ソースって。いつのまにこんなものを、こんなにたくさん買ってきたの!」
こんなはずではなかった。リリイはじっと口を閉じたまま思う。
メアリと二人でお小遣いを出し合って買い集めた激辛ソース。計画では、その激辛ソースを大量に使った料理を兄の友人たちに出すはずだった。きっと彼らは何も知らずに激辛グラタンを食べ、あるいは激辛スープを飲み、そうして辛さに耐えきれずにどこかへ逃げ帰るだろうーーそうリリイは期待していた。
こんなふうに、見た目で明らかに違いのわかる料理になるなんて、思ってもいなかったのだ。
「……まったく、もう。どうしたらいいのかしら」
娘たちが二人して不貞腐れて黙ってばかりいるからか、母は大きくため息をつきながら、苛々とした調子で言う。
「今からじゃほかのものを作るのも間に合わないし、外食するしかないかしら。今から行って、席があるかしら……」
困った様子で額に手を当てる母。リリイは内心で、これはうまく行くかもしれないぞと期待した。激辛料理をそうと気付かせずに食べさせる作戦は失敗してしまったが、どのみちほかに食べるものがなければ、リリイたちの作った料理が食卓に並ぶのではないだろうか。
「母さん? どうしたの?」
なかなか出てこない母親を心配したのか、兄の声が近づいてきた。リリイはぱっと笑顔になる。隣でメアリも、表情を明るくしていた。
「兄さん! おかえりっ!」
今度こそ、メアリが母の制止を振り切って台所を出た。リリイも負けじとそれを追う。
「お兄ちゃんっ!」
「ああ。メアリ、リリイ、こんなところにいたんだ。ただいま」
「おかえりっ! あのね、兄さんたちに食べてもらうご飯をリリイと一緒に作ってたの。でもちょっと失敗しちゃって……それで、母さんに怒られてたんだ」
兄は少しびっくりしたように目を見開いて、「メアリもリリイも、もう料理ができるんだね」などと感心したように言いながら、台所へと足を向ける。
そこで台所の入口に般若のような形相で立つ母の姿を見つけ、さらに台所の奥におかしな色をしたグラタンを見つけて、兄は笑顔を引き攣らせた。
「……ええと、母さん。ただいま」
「おかえり、ウィル。ちょっと待っていてちょうだいね。今、そこの悪い子たちに説教している最中だから」
「えっと……メアリは、料理に失敗したって言っていたけど」
「あら、ウィル。あなたにはこれが失敗なんていう可愛らしいものに見えるのかしら?」
引き攣った笑顔を苦笑に変えた兄は、もう一度台所の中に目を向けて、そうして小さく首を横に振る。
どうしてこうなってしまったんだろう。リリイはまた泣きたくなった。
それでもその日の夕食には、リリイがメアリとともにつくったグラタンとスープとサラダとが並ぶことになった。
「助かったよ、アンリ。変なことさせてごめん」
「いや、別に。役に立てたならよかった」
食卓に着いた八人全員の前に、白くて少し焦げ目のついた、美味しそうなグラタンが並んでいた。スープも八人分全てが同じ色で、食欲をそそる香りがただよっている。サラダも同じく、最初にかけたはずの激辛ドレッシングがどこかへ消えてしまっている。
食卓に並んだ料理に、父が感心した様子で息をつく。
「いやはや、魔法にこんな使い方があるなんて。考えたこともなかった」
「前に人から頼まれたことがあるんです。料理に塩と間違えて砂糖を入れちゃったから、抜くことができないかって」
リリイに難しいことはわからない。しかし、どうやら兄の友人だという男が魔法を使って、リリイの作った真っ赤な料理から激辛ソースだけを抜き取ったのだということはわかった。
「料理から砂糖だけを抜くなんてことができるのかい」
「うーん、物にもよりますけど。魔法って、自分の魔力と魔法の素になるモノとを繋ぎ合わせる作業じゃないですか。だから、料理の中にある砂糖にうまく自分の魔力を繋ぐことができれば……。完全に溶け切って料理として出来上がっているものから一種類の素材だけを取り出すのは難しいですけど、入れてすぐの調味料とか、間違えて入れちゃって異物みたいになってるものとかなら、割と成功しやすいです」
リリイには彼の長い説明の半分も理解できなかったが、父はなるほどなるほどと感心した様子で何度も頷いていた。母はとにかく料理がなんとかなってよかったと安心した様子で微笑んでいて、ひとまずリリイたちに対する怒りは忘れてくれたようだ。
「つまり今回は同じ要領で、ソースだけを分離して抜き取ることができたというわけか」
「そうですね。ソースを使っていない料理があって比較もできたから、わりと簡単にできましたよ。……まあ、やっちゃって良かったのかはわかりませんが」
そう言って彼は、リリイとメアリに目を向けた。慌てて目を逸らすリリイの横で、メアリは彼の視線を受けて、へにゃっと笑う。
(お姉ちゃん、この人のこと、認めちゃったんだ……)
リリイは確信する。もはやメアリは、味方ではない。兄の友人たちのことを姉は「テストする」と言っていた。姉にとって彼らはーーもしかすると、魔法で激辛ソースを分離してくれた彼だけかもしれないがーーテストに合格した、兄の友人としてふさわしい人なのだ。
姉は昔から「できる人」に弱いところがある。頭の良い人、運動神経の良い人、歌の上手い人、巧みに絵を描く人ーー何かしらの技術を極めている人に惹かれる性質があって、それは「頭の良い」兄を強く慕う理由にもなっている。
同じように「魔法のできる」彼に、姉は気を許してしまったのだろう。
しかしリリイはそう簡単になびかない。へらへらと笑う姉の横で、リリイはむすっとしたままそっぽを向いた。
「こら、リリイ。あんたのやったことを解決してくれたんだから。お礼くらい言いなさい」
母に強く言われても、リリイは黙ったまま口を開かなかった。兄や父、姉からさえも、責めるような視線を感じる。けれどもリリイは決してお礼など言いたくはなかった。彼自身が、やって良かったのかはわからないと言っていたではないか。リリイにとって彼のやったことは、やってほしくなかったことだ。むしろ、謝ってほしいくらいだ。余計なことをしたと謝って、そうして早く帰ってほしい。リリイたち家族の時間を邪魔しないでほしい。
言いたいことはたくさんあるのに、口を開けば泣いてしまいそうだ。けれども泣いたところで責められるか困られるかのどちらかで、リリイの希望が叶うことはないだろう。だからリリイは、ぐっと涙を堪えて押し黙る。
「まあ、そう責めないであげてください」
そんなとき、ふわりと優しい言葉が降ってきた。
兄の連れてきた友人の一人で、激辛料理を台無しにする魔法を使ったのとは別の人だ。
「リリイちゃんだっけ。君、俺たちに帰ってほしかったんだろ。ごめんな、大好きなお兄ちゃんとの時間を邪魔しちゃって」
腰掛けていた椅子から離れた彼は、わざわざリリイの隣にやってきてしゃがんだ。少し見上げるようにして、リリイに視線を合わせる。
「心配しなくても、ウィルのことを取ったりはしないから。俺たち、何日かはここにいさせてもらう予定だけど、君とウィルの邪魔はしない。約束する」
「ちょっと、ハーツ。あんまり甘やかさないでくれ」
「甘やかしてるんじゃないって」
兄が口を挟んだことに対して、彼は不満げに言い返した。
「お前さあ、こんなに妹たちに慕われてるんだったら、もうちょっとちゃんと話してやれって。帰りが遅くなるとか、いつからいつまで実家にいる予定だとか……どうせ、親にしか連絡してないんだろ」
「そりゃあ、父さんと母さんに伝えれば、メアリたちにも伝わるし」
「それじゃダメだって。この子、お前と会えるのこんなに楽しみにしてたんだぞ。ちゃんと応えてやれよ、お兄ちゃんだろ」
なあ、と言って彼はその大きな手をリリイの頭にのせる。その手の温かさに、リリイはついに涙を堪えきれなくなった。
突然リリイが泣き出したことに慌てもせずに、彼は「よしよし」とリリイの頭を撫でつつハンカチを取り出す。「ほら、泣くなって」と励ましながら涙を拭ってくれようとする彼の腕に、リリイはぎゅっとしがみついた。
彼は嫌がることなくリリイを受け止めて、そのまま背中を撫でてくれる。
「寂しかったんだな、ごめんな。俺、もっと早くに君のお兄ちゃんに言ってやるべきだったな。早く帰れって」
ぎゅっと腕にしがみついたまま、リリイはこくこくと大きく何度も頷いた。そんなリリイの気持ちが落ち着くまで、彼はずっと、リリィの背中を撫で続けてくれた。




