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翌日の授業後、アンリは食堂で友人たちとともにテーブルを一つ占領し、教本を広げていた。
アンリが開いているのは歴史の教本だ。この国の発展の歴史、そして周辺国との関わりの歴史。
歴史を学ぶことの重要性は、アンリにもわかっているつもりだ。これからの未来を創るにあたって、これまでと同じ失敗を繰り返さないために歴史を学ぶのは必要なことだ。
そのほかにも、たとえば他国と良好な関係を築くにあたって、その国と自国との歴史を知っておくことは大切だ。歴史を学ばなければ、その国が自国にとって友好的な国なのか否か、強者なのか弱者なのか、そもそも友好な関係を築くことのできる相手なのかどうか、そんな根本的なことさえわからない。
だからこそ、歴史を学ぶのだ。周辺国と良好な関係を築き、この国の、より良い未来を描くために。
そういう根本的なことは、アンリにもわかっている。
だが、それとこれとは話が別だ。
「……フィスカって、人の名前なの? なんか、そんな名前の街なかったっけ?」
「フィスカは歴史上の騎士団長の名前であると同時に、西にある比較的大きな街の名前ですね。騎士団長フィスカの領地のなかで最大の街が、彼の没後に、彼にあやかって街の名前を変えたものだったかと思います」
「えっ、あの街で生まれ育ったからフィスカって名前なんじゃねえの?」
「そんなことを言ったら、イーダで生まれ育った人は皆イーダって名前になっちゃうよ!」
アンリの素朴な疑問を発端に、イルマークの解説とハーツ、マリアの話が続く。よくわからないが、とにかくフィスカとは人名でもあり地名でもあるらしい。
歴史の教本を読んでいると、こんなことばかりなのだ。地名かと思ったら人名で、人名かと思ったら地名で、かと思えば人名でも地名でもある名前が飛び出してくる。それを一つ一つ、何をした人なのか、何があった場所なのか、覚えていかなければならない。
まだ試験範囲の四分の一も勉強できていないのにこうなのだから、先が思いやられる。
アンリは深くため息をついて、静かに教本を閉じた。
「無理……俺、ちょっと休憩」
「あ、ずるい、俺も!」
「私も、私も!」
アンリが諦めて休憩を宣言すると、ハーツやマリアも便乗して教本を閉じる。イルマークとエリックはやれやれと首を振るが、強いて止めないのは、すでに勉強会を始めてからそこそこの時間が経過しているからだろう。ここにウィルがいたら休憩など許してもらえなかったかもしれないが、幸い、ウィルは面談に行っている。
「まあ、疲れたときには休憩を挟んだほうが、効率も上がるからね」
エリックの諦めたような一言を合図として、アンリたちは試験勉強とは全く関係のない話を始めた。
話し始めてわかったのは、皆それぞれ三者面談に向けて親に連絡し、その予定を組み始めているということだった。
「私の両親は、やはり来られないということでした」
まず残念そうに言ったのはイルマークだ。皆、イルマークが親に来てほしがっていたことを知っているから、気の毒そうに彼を見る。
「ちょうど昨日、父から手紙の返事があったところです。年末で忙しいから、こちらには来られないとのことでした」
でも、とイルマークは少しだけ表情を明るくした。
「こういう手紙を母ではなく父が送ってきてくれるのは、珍しいことですから。きっと、真剣に考えてくれたのだと思います。それだけでも、送った甲斐がありました」
そう言ってイルマークが笑顔を見せたので、手紙を出すことを提案して良かったと、アンリもほっと安堵した。
「僕は、結局兄に来てもらうことにしたよ」
恥ずかしそうにそう言ったのはエリックだ。元々来てほしくなさそうにしていたエリックだが、どうやら先輩の話を聞いたことで、気持ちに変化があったらしい。
「兄が来るなんて恥ずかしいって思っていたんだけどね。でもやっぱり、ちゃんと兄と将来のことを話しておかなきゃいけないかなって思ったんだ」
それでエリックは次兄に連絡をとり、三者面談に来てほしいと自ら願い出たらしい。すごく喜んでいた、とエリックは疲れたような笑みを見せながら言った。
俺は誰も来ないけど、と何てことはないように口を開いたのはハーツだ。
「元々期待はしていなかったからいいんだけどさ。……それより、ちょっと相談なんだけど」
ハーツは実家が遠いうえに弟妹が多く、とてもではないが親が学園まで来ることは望めないという。しかしハーツの親は学園でハーツがどう過ごしているかーー特に、どんな友人関係を築いているか、気にしているらしい。
「もし良かったら、年末の休みに俺んちに遊びに来ないか? 皆のこと、親に紹介したいんだけど……あ、無理にとは言わねえよ? 皆だって、家に帰る予定はあるだろうし」
あと、とハーツが控えめにアンリに目を遣る。
「俺んち遠いからさ。普通に皆に来てもらったら、行き帰りだけで年末年始の休みがなくなるくらい日がかかるんだ。だからさ、もしできたらその行き来を、アンリの魔法でどうにかしてもらえたら、助かるんだけど……」
普段はっきり物を言うことの多いハーツが、これほど躊躇いがちに話すのも珍しい。そのうえ友人からこうして直接的に魔法の腕を頼られることも滅多にないので、アンリは頷く以前に驚いて、目をぱちぱちと瞬かせた。
「だ、だめか? やっぱ、都合が良すぎるか? 迷惑か?」
アンリがすぐに頷かなかったことで不安になったのだろう。慌てたようにハーツが言い募る。アンリは急いで「あ、いや、全然、迷惑なんかじゃないよ」と弁解した。
「あんまりそういうこと頼まれたことなかったし、驚いただけ。……俺、行きたいな。年末年始の休みも暇だし」
昨年の年末年始を思い出す。寮の皆が帰省でどんどんいなくなるなか、アンリは寮に長く残った一人だ。孤児院にも顔は出したが、遠慮して長居はしなかった。結果として、たいして友人と遊ぶこともなく、暇な休暇を過ごすことになってしまったのだった。
今年も今のところ、アンリの予定はたいして変わらない。それならハーツのところに遊びに行ったほうが、充実した休暇になるだろう。
「皆はどうする? 魔法ならたぶん、往復したって一日もかからないけど」
馬車で何日かかる道のりであろうと、アンリの魔法を使えばほとんど一瞬だ。いつものメンバー全員が希望しようと、一緒に連れて行く自信はある。
「行ってみたいですね。私も実家には帰らなければなりませんが、往復に時間がかからないのであれば是非」
賛同したのはイルマークだった。お願いしても良いですか、と丁寧に尋ねる彼に、アンリは「もちろん」と笑顔で頷く。
一方でマリアとエリックは、困った様子で首を傾げた。
「私たちも行きたいのは山々なんだけど、お休みの間は王宮のパーティに参加したり、ご挨拶とか、色々あるから。一日とはいっても、ちょっと難しいかも……」
そうなんだよね、と頷くエリック。どうやら貴族の年末年始は忙しいらしい。きっとアイラも同様だろう。
「じゃあ俺、ウィルに声かけてみるよ。大丈夫そうなら三人でハーツの家に行かせてもらっていいかな?」
尋ねてみないとわからないが、おそらくウィルなら一日くらいは予定を合わせてくれるだろう。そうしたら、アンリとイルマークとウィル、三人でハーツの家に遊びに行ける。そのあとイルマークとウィルをそれぞれの家まで送って、アンリは孤児院に顔を出せばいい。今度の休暇は楽しくなりそうだ。アンリは心を躍らせる。
話がまとまると、ハーツもほっとした様子で「よろしく」と大きく頷いた。
三者面談の話のついでに、アンリは面談の日に来ることになった後輩の話を皆に伝えた。まず「いいなあ」と羨ましそうに言ったのはマリアだ。
「アンリ君にとっては弟が入ってくるようなものなんでしょ? 楽しそう」
マリアにも弟はいるが、歳が離れているために中等科学園生活をともにすることはないのだという。
エリックも兄がいるばかりで下はいない。イルマークは一人っ子で、ハーツには弟妹がたくさんいるが、首都の中等科学園に通おうなどという変わり者はハーツだけのようだ。
兄弟で同じ中等科学園に通うということに、皆憧れのようなものを持っているらしい。
「でも俺、その子のことよく知らないんだよ」
同じ孤児院で過ごす皆は家族のようなもので、年上なら兄姉だし、年下なら弟妹と思って接するのが常だ。けれども今回来るという後輩は、アンリが孤児院を出た後に入った子だという。孤児院で暮らした時期が重なっていなくても、兄弟と言えるだろうか。
「関係ないよ」
と、マリアが明るい顔で言う。
「その子にとっては、アンリ君が最も身近な先輩になるってことでしょ? それならお兄ちゃんとして、いざっていうときにはちゃんと助けてあげないと」
当たり前のようにお姉さん然として言うマリアに、アンリは「そっか」と頷いた。
アンリがこの学園に来たとき、知り合いは誰一人としていなかった。同室となったウィルや入学式で声をかけてくれたマリアたちが頼れる友人たちだったからこそ、アンリは今、楽しく学園生活を送れている。
今度入ってくる後輩にも、そういう友人ができれば良いなと思う。けれどももしも彼が、そんな幸運に恵まれなかったとしたら。そのときにアンリは「身近な先輩」として、手を差し伸べてあげられるかもしれない。
「……まあ、そうだね。同じ孤児院出身者として、気にかけておくくらい悪くはないかも」
「悪くないっていうか、ちゃんと面倒見ろよ、お兄ちゃん」
ハーツの茶化すような言葉に、アンリは「やめてよ」と笑った。




