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覚悟はしていたが、いざとなると緊張と気まずさと不安とで、なかなか足を踏み出せないものだ。
レイナから「昼休みに教員室に来るように」と呼び出されていたアンリは、昼食前に友人たちと別れて、とぼとぼと教員室へ向かった。ついて来てくれとウィルに本気で頼んだのだが断られ、今、アンリは一人で扉の前に立っている。
用件はわかっている。今日の模擬戦闘のことだろう。レイナからの説教を思うと、なかなか扉を開ける気にならない。
(このままだと、昼飯を食べ損ねる。いや、でも…………)
そんなふうに逡巡していたのは十数秒。結局アンリが扉を開ける前に、教員室の中から扉が開けられた。
「なんだ、もう来ていたのか。休み時間は限られているのだから、早く入りなさい」
教員室から姿を現したレイナの言葉に、アンリは従わざるを得なかった。
「先ほどの模擬戦闘の最後に君が見せた土魔法だが」
アンリがまだ昼食をとっていないことを知るとレイナは「それでは手短に済ませよう」と言って、単刀直入に話を始めた。
「あのときの土魔法に、君は土魔法以外の仕掛けを施していたね。何をやった?」
「ええと、できるだけ土魔法に気付かれないようにと思って、魔力の気配を隠す努力をしました」
アンリはできるだけ言葉を選ぶ。これはこの昼休みまでに、必死に考えて思いついた言い訳だ。自分は隠蔽魔法という魔法を身につけているわけではない。ただ魔力を隠そうと努力をした結果、たまたま世間で「隠蔽魔法」と呼ばれるものと同じ効果が現れてしまっただけだ。
隠蔽魔法などという高度な魔法が使えると言ってしまったら、どこで誰からそれを習ったのかと聞かれるに決まっている。色々と問い詰められてしまったら。アンリには自分の身の上を隠し通す自信がない。
しかし残念ながら、レイナはそんな嘘をアンリに許すほど甘くはなかった。
「アンリ・ベルゲン。あれは魔力の気配を隠そうという努力程度でどうにかなるものではないよ。もう一度問うが、君はあのとき、何をやった?」
目を細めたレイナが責めるようにアンリを睨む。そんな彼女から視線を外し、アンリは俯いたまま小声で答えた。
「…………すみません、隠蔽魔法です。魔法の発動に気付かれないように、隠蔽魔法で魔法を隠しました」
諦めてアンリが白状すると、レイナは「そうだろうと思った」と呆れた顔で頷く。
ああ、言ってしまった。これからのレイナからの追及にどう答えればよいのだろう……アンリは頭を抱えたい気持ちになりながらも、次のレイナの言葉を待つ。
しかし意外にも、アンリの恐れた問いは降ってこなかった。
「さて。隠蔽魔法を使える君には、伝えなければいけないことがある」
アンリの予想を裏切って、レイナはアンリが魔法を習得した経緯については何も聞かなかった。「こんな魔法を使える生徒はいないから今までに話したことはないのだが」と言いつつ机の上に置いてあった分厚い本を手に取る。図書館にある百科事典のような本だ。
「これが何の本だか、わかるかい?」
いいえ、とアンリが首を横に振ると、レイナはわざわざ本の表紙をアンリに向けてみせた。タイトルには「イーダ魔法士科中等科学園例規集」の文字。
「君たち学園生には入学時に、この本の中から校則の部分を抜き出した冊子を渡してある。通常の学園生活で必要になるのは、校則くらいのものだからね」
しかし魔法士科の中等科学園では、授業で魔法を教えるにあたっての留意点、学園生が日常生活で魔法を使用する場合の禁止事項、そのほか魔法の教授や使用に関する規定など、守らなければならない決まりや先例が校則以外にも山とある。
そうした例規は、とてもではないが学園生全員に全てを配布できるものではない。そのため通常は行事などに合わせて、想定される事態に関連する規定を教師が生徒に説いて聞かせるものなのだ、とレイナは言った。
「今回は私も想定が甘かった。君の魔法力が高いことはわかっているのだから、もっと早くに説明しておくべきだったね」
レイナの持つ例規集には、たくさんの栞が挟んである。レイナはそのうち、赤い栞のページを開いた。
学園内における使用魔法の制限に関するページだ。
「学園の安全を考えて、この学園では使用を禁止している魔法がある。まず、威力の強い魔法。それから大規模魔法。そして隠蔽魔法だ」
レイナは開いたページをアンリのほうに向けて、その一箇所を指し示した。使用禁止の魔法が種類ごとに一覧になっている。威力の強い魔法としては、重魔法や高度な攻撃魔法など。大規模魔法では訓練室以上の広さを効果範囲とする魔法。そのうえで種類や規模といった区分とは別に「隠蔽魔法」との記載があった。
アンリがその記載をしっかりと読み込む間を置いてから、改めてレイナは続ける。
「隠蔽魔法そのものが危険というわけではないが、隠蔽魔法が使われると、危険な魔法の発動を教師や警備が見過ごす可能性がある。そのため、使用が禁止されているんだ」
レイナの口調にアンリを責める様子はない。規則を破ったとはいえ、知らなかったのであれば仕方ないと思っているのだろう。
「幸い今回は怪我人が出るような事態にもならなかったが、君が咄嗟に魔法を解除しなければ危ないところだった」
「いえ、あれは」
「誤魔化したいならそれでもいいが、とにかく今後、学園内では隠蔽魔法を使わないこと。破れば罰則もあり得る。……君の場合は隠蔽魔法だけでなく、他の魔法も気をつけておいたほうがいいね。ここに書いてある魔法は使わないように気をつけなさい」
そうしてレイナはもう一度、使用禁止の魔法の一覧をアンリに示した。その一覧を食い入るように見つめて、アンリは内容を頭に叩き込む。ここに書いてある魔法を使うときには、レイナにだけは絶対に気付かれないようにしなければならない。
「この件について、何か質問は?」
「ええと、ここに書いてある魔法の訓練をしたいと思ったら、どうしたら良いですか? 使ってはいけないっていう決まりに、例外とかは……」
アンリは諦め悪く問う。思えば昨年の魔法研究部の活動の中で、顧問教師のトウリはアンリやアイラが重魔法を使うのを止めなかった。トウリが規則を無視していたという可能性もあるが、何かカラクリがあるのかもしれない。
例外をうまく使えば、魔法使用の制限も少しは緩和されるのではないだろうか。
レイナは「ふむ」と頷くと、分厚い本のページを三枚ほどめくった。
「これがこの規則の例外規定だ」
そう言ってレイナが指し示した箇所に書いてあるのは「部活動においては顧問教師、その他の時間においては担任教師の許可を得た上で、教師立ち会いの下で使用する場合に限り使用可」との文言だった。
昨年の例でいえば、部活動の顧問であるトウリが許可を出し、トウリ自身が立ち会った。だから良いということだったのだろう。
「君は確か魔法工芸部に所属していたね。魔法工芸でここに記載している魔法が必要になるようなら、顧問のサミュエル先生に相談しなさい」
それ以外の場においては、担任であるレイナが許可の権限を持っていることになる。だが、とレイナは渋い顔をして続けた。
「私の許可は期待しないことだ。君の魔法が強力であることは、この目で見て知っている。ここに記載してあるような魔法を君に使わせては、いざというときに私でも対処できる自信がないからね。悪いが訓練のためであっても、この学園内での使用を許可することはできない」
なるほど、とアンリは渋々頷いた。以前、訓練室を壊すほどの魔法をレイナに見せてしまったことが、こんなところにまで影響するとは。あのときもっと控えめに抑えておけば、レイナの言葉も違ったかもしれないのに……しかし、後悔してももう遅い。
レイナの言い分も理解はできる。教師として、生徒たちの安全を優先するのは当然のことだ。レイナを恨むのは筋違いというものだろう。
肩を落としたアンリは「ほかには」とのレイナの問いに「大丈夫です」と力無く答え、教員室を出た。
これからの学園生活における魔法の使い方を考えなければ、とアンリは真面目に考える。
隠蔽魔法を使ってはならないというのは、アンリにとって致命的だ。実のところ、魔法を使っていることを誤魔化すために隠蔽魔法を使うのは、アンリには日常茶飯事だ。癖になっていると言っても良いほどで、むしろ魔法実践の授業ではその癖が咄嗟に現れないよう、いつも気を付けていたほどだ。
(まあ、バレなきゃ良いんだよな……)
隠蔽魔法を使うにせよ、使わないにせよ。レイナの前で魔法を使うときには特に気をつけなければならない、とアンリは肝に銘じた。




