(20)
雑用だけで三日間が終わっても不思議ではない。
そう思っていたアンリにとって、二日目の朝から会計窓口に立たされたことは、予想外だった。マークも同じ思いらしく、二人で目を丸くしてイヴァンを見る。二人の視線を受けて、イヴァンは不思議そうに首を傾げた。
「職業体験なんだから、色々な仕事を体験したほうが良いだろう? それとも、昨日の仕事がそんなに良かったかい?」
いやいや、とマークとアンリは慌てて首を横に振る。倉庫と店舗の往復で職業体験が終わる可能性を考えると、ぞっとする。さすがにマークにとっても品出し作業は退屈なものだったようで、このときの否定には力がこもっていた。
二人の反応に「それなら、ここの仕事で良いだろう?」とにっこり笑って、イヴァンは仕事の説明に移る。
要するに客の持ってきた商品の値札を見て合計額を計算し、その分の代金をもらう。梱包が必要な商品は適切に包んで引き渡し、笑顔で客を見送る。それだけの仕事。
「難しい仕事ではないよ。けれどもお客様に気持ち良くお帰りいただけるかどうかは、ここの仕事にかかっているからね。大事な仕事だ。それから、君たちにはこの名札を付けてもらうよ」
そう言ってイヴァンが取りだしたのは、すでにマークとアンリの名前が記入されている名札。名前の上に目立つように赤く、名前よりも大きな字で「実習中」と書かれている。
さらに今日は一日、ずっとイヴァンが二人の後ろに付くという。せっかくの職業体験なのだから、接客はぜひとも体験させておきたい、しかし実際に客の応対をさせるのは不安だ……そんなイヴァンの心の声が聞こえてきそうな配置だ。
「後ろに私がいるから、何も心配しなくていいよ。ただ、お客様に接するにあたって、笑顔だけは絶対に忘れないようにしてくれ」
そうして、ついに接客の実習が始まった。
昼休憩の時間になって事務所の休憩室に下がったアンリは、大きなテーブルの一角で深々と大きくため息をついた。
「つ、疲れた……」
「僕も。力仕事をたくさんやった昨日よりよっぽど疲れたよ……」
アンリの隣ではマークが同じように項垂れている。彼の言葉に、アンリも力無く頷いて同意した。この仕事がまだ午後も続く……そう思うだけで、残ったわずかな気力も萎えそうだ。
疲れ切った二人を面白がるように、「はははっ」と元気な笑い声が響いた。
「二人とも、こういう接客の仕事は初めてかい」
一緒に昼休憩に入ったイヴァンだ。彼は疲れた様子もなくアンリたちの向かいに腰掛けると、さっさと自分の前に弁当を広げた。アンリたちにも弁当は用意されているが、部屋の奥まで取りに行かないとならない。マークもアンリも、まだそれだけの元気が湧かないのだ。
「イヴァンさんは、疲れないんですか。毎日この仕事をやっていて」
「もちろん、疲れる日もあるけれどね。向き不向き、それから慣れの問題だろう」
午前の間、同じ窓口に立っていながら、最も働いていたのはイヴァンだ。
アンリたちの担当した会計窓口に来た客は、全部で十人ほどだっただろうか。そのうち単純に会計だけで済んだ客は、一人しかいなかった。
残りは全て、購入のみならず、何かしらの用件があって窓口に来る。探している魔法器具が見つからない、もっと安くはならないものか、この魔法器具の使い方を詳しく教えてくれ、先日買った魔法器具の調子が悪いので修理してほしい……。
会計窓口とは別に相談窓口があるし、店の中にはほかの店員もたくさんいる。それなのに何故か客たちは、会計のついでと言わんばかりにあれこれとアンリたちに聞いてくるのだ。
アンリたちは言いつけ通りに笑顔を忘れず、それでも「ええと」と口籠ることしかできなかった。その反応を見て初めて、客はアンリたちの名札に付いた「実習中」の文字に気付くのだ。その後は申し訳なさそうに謝る客と、落胆する客とに分かれる。なかには自分の困りごとを忘れたように「あらあら、職業体験ね。えらいわねえ」と明るく声をかけてくる金持ちそうな女性もいた。
しかし客がアンリたちにどんな印象を抱くかにかかわらず、店として客を蔑ろにはできない。アンリたちが対応しきれない部分を支えたのが、後ろで控えていたイヴァンだった。
謝罪する客、落胆する客、自分の話を始める客。
どういう客が相手であれ、アンリたちが何の対応もできずに固まっていると、すかさずイヴァンが一歩前に出る。そうして客の話を全て受けとめてくれたのだ。
魔法器具の場所を聞かれれば近くの店員を呼び出して案内させ、値引き交渉には毅然として対応し、魔法器具の使い方を問われればすらすらと説明文書を読むかのごとく、それでいてわかりやすく答える。
そうしてどんな客相手にも上手く対応してみせるイヴァンの姿に、アンリもマークも、憧れの目を向けるばかりだった。これは本当に、単なる「向き不向き」あるいは「慣れ」という言葉で片付けられるものなのだろうか。
「……慣れと言うと、イヴァンさんはこの仕事を何年くらいやっているんですか?」
「ここの売場に立っているのは十年くらいかな。ほかに五年くらいは外の営業の仕事とかもやっていたことがあるけれど、やっぱり僕には、ここのお客様相手の仕事のほうが性に合っている」
アンリの問いに、イヴァンは店にいたときよりもややくだけた調子で答えた。休憩中だからというイヴァンなりの切替えだろう。ところがアンリもマークもイヴァンの答えに驚いてしまって、彼の口調が変わったことには気づきもしない。
「十年も……長いですね」
まずこう言って驚きを見せたのはアンリだ。
アンリ自身も上級魔法戦闘職員として仕事をしていて、それなりに経験も積んだつもりでいる。それでもまだ十年にはならない。これはアンリの年齢では仕方のないことではあるものの、アンリにとって十年とは、途方もなく長い期間に感じられる。
これなら「慣れ」という言葉にも納得できる。もちろん、イヴァンの性格や能力がこの仕事に向いていたからこそ、慣れるところまで続けようと思えたのだろうが。
一方でマークの驚きは、アンリとは逆の方向だったらしい。
「たったの十年で、そんなに何でもできるようになるんですか……?」
マークはむしろ、十年程度の経験でイヴァンのようなベテランの店員になれるということに驚いたようだ。それほどイヴァンの接客技術に感激していたということだろう。
正反対のことを言う二人を前に、イヴァンは軽快に笑った。
「まあ十年が長いか短いかは、人によって感じ方が違うだろう。でも十年間ここで働いていたからといって、毎日同じことをしているというわけではないよ」
日々新しい魔法器具が開発され、機能が更新され、使い方が変わる。店頭に商品を並べて客に売り込むにあたり、そうした新しい魔法器具のことは常に勉強し続けなければならない。
さらには時と場合によって、客の要望も様々だ。寒い時期には暖房機能、暑い時期には冷房機能が好まれる。街の近くに盗賊が現れたと話題になれば護身用の魔法器具がよく売れるし、平和な時期には娯楽用品の需要が高まる。魔法器具を売るにあたって、世間の動きにはいつも敏感であらねばならない。
そうして日々新しいことを学び、周りに目を向ける。それでもなお、客とのやり取りにおいてはっと気づかされることは多いと言う。
「十年やっていても、毎日が発見の連続だよ。同じ一日なんて一度もない。だからこの仕事は面白いんだ」
そう言って、イヴァンは気さくに笑った。




