(19)
鳥獣除けの魔法器具は野営にとても便利だが、周囲の魔力を狂わせるという欠点がある。魔力の探知によって周囲を警戒するアンリにとって、鳥獣除けの範囲内にいると、むしろ辺りの危険を察知しづらくなるのだ。
だからこそ、普段よりも気を付けて警戒していなければいけなかった。それなのに、アンリはアイラとの話に夢中になって、周囲への警戒をすっかり疎かにしてしまった。
方角は北。レイナが班長との打ち合わせのためにと向かった方向とは真逆。
地響きは、何かが集団で迫る足音だ。遠く木々に紛れて姿は見えないものの、足音は急速に近づいてきている。
「警戒! 熊、集団だ!」
鳥獣除けの範囲の端で警戒にあたっていた戦闘職員から声があがるのと、アンリたちのいる地点から迫る動物の姿が視認できるようになるのとは、ほぼ同時だった。
それは、体長が五メートルほどもある巨大な熊の集団だった。見える限りで三十頭ほど、鳥獣除けなどものともせずに迫ってくる。
(熊が群れをつくるのは興味深いけど……)
そんなことを考えている場合ではない。
前方から、いくつか悲鳴があがった。学園生だ。実際にはまだ熊は学園生の元まで至っていない。けれどその姿を見ただけで、何人かがパニックを起こしている。
「学園生は下がれ! こっちだ!」
後ろから、班長の鋭い声が響いた。しかしパニックに陥った学園生たちはその声が聞こえないのか、あらぬ方向へと駆け出す。
そのうち一人の向かう先を見て、アンリははっとした。鳥獣除けのエリアから出ようとしている。侵入があったとはいえ、鳥獣除けはまだ有効だ。範囲からでてしまえば、ほかの動物に襲われる危険がある。
そのうえ運の悪いことに、その学園生の向かう先には見張りの戦闘職員が配置されていなかった。
「アイラは先生のところへ。俺は、あの先輩を連れ戻してくる」
それだけ言って、アンリはアイラの返事も待たずに駆け出した。
急いでいても、アンリは周囲の目を忘れなかった。
おそらくアンリが先輩の方へ駆け出すところは、先生に見られていただろう。それを後で叱られる程度なら良いが、ここで魔法による移動など見せて、魔法力の高さをバラすのはよろしくない。
そういうわけで先輩には悪いと思いつつ、アンリが助けに走る速さは決して常人離れしたものではなかった。
(見失いさえしなければ、万が一のときには助けられるし)
前を走る先輩は、木の根や草に邪魔されてこけつまろびつしながらも、どんどん奥へと走っていく。パニックに陥っているようでありながら意外と速いのは、それだけ必死だということだろう。
「先輩! 止まってください、そっちは危険です!」
とアンリが声をかけてみても、気付く様子はない。それよりも、襲い来る熊の足音が気になるようだ。
アンリが追うのとは別の方向から、二頭の熊が先輩を追っている。図体が大きい分、木々が障害物になり、スピードはそれほど速くない。だから立ち止まったところですぐに追いつかれはしないし、先生のところまで引き返す余裕もあるだろう。
しかし追われているという事実は、そんな冷静な判断力を逃げる側から奪う。先輩には止まる様子が一向に見られない。
(あの熊がいる限り、止まってはくれないよなあ)
どうしたら無事に彼を連れ戻すことが出来るだろうかとアンリは考えた。
先生たちから見えなくなるところまで走ってから、熊を退治して保護するか。あるいはもっと本気で近くまで寄って、無理にでも引き止めて戻るか。
(先生たち、追ってこないな……)
先輩やアンリが駆け出すところは見られていたはずだ。それを追ってこないということは、先生やほかの戦闘職員たちに、その余裕がないということだろう。こちらに走ってきた熊は二頭だけ。ほかの熊の相手や、別の方向へ走っていった学園生たちへの対処に忙しいのかもしれない。
アンリにとっては好都合だ。今ならきっと、先輩に追いつこうが熊を退治しようが、先生たちにバレることはない。
そう思い至ったアンリは、即座に熊に向けて樹木魔法を放った。周囲の木の太い枝を勢いよく伸ばし、熊の身体を串刺しにする。獲物しか見えていなかった熊は横から入った突然の攻撃に、反応することすらできなかった。
鋭い枝に貫かれた二頭の熊は身体を大きくのけぞらせ、そのままそこにどうと倒れる。ずしんと重い振動が地面を伝わった。
「ひ、ひぃっ」
先を走っていた先輩が、衝撃に振り返った。熊が倒れたのを見て足を止めてくれれば……とアンリは思ったが、そう都合良くはいかないらしい。
倒れた熊を見た先輩は何を思ったか、余計に怯えた様子で、また森の奥へと走り出した。
(沼に沈める、とかの方が良かったかな)
枝で串刺しになった熊という凄惨な光景が、先輩を怖がらせてしまったのだろう。蛇や鼠を仕留めたように土魔法で沼に引き込んで見えなくしてしまった方が、先輩の精神衛生上は良かったかもしれない。
生き埋めにするくらいならひと思いに、などと熊に同情している場合ではなかった。
(……っていうか、先生に見つかったら俺の魔法だってバレるよな。やっぱり埋めよう)
倒れた熊の死骸を結局土魔法で地中に埋めてから、アンリは改めて先輩の後を追った。
アンリが先輩に追いついたのは、鳥獣除けの魔法器具の効果の範囲を大きく外に出てからだった。
もう心配ないから止まれとアンリがいくら呼びかけても、先輩は止まらなかった。仕方なくアンリは周囲に寄ってくる動物を魔法で退けて、足を早めて先輩の前に回った。これ以上、先へ進ませるわけにはいかない。
アンリに前をふさがれて、ようやく、彼は足を止めた。
「ひぃっ……」
「二年一組のアンリ・ベルゲンです。先輩、落ち着いて。もう追ってくる動物はいませんから。先生たちのところに戻りましょう」
正面から、アンリは相手の目をまっすぐに見て言う。
ずっと走り続けていた先輩は、肩で息をしながら、しばし呆然とアンリを見つめた。
「…………」
「ヤン先輩ですよね、四年生の」
「あ……ああ、うん。ええと、アンリ君?」
「はい。落ち着きました?」
「う、うん。ありがとう」
そうしてアンリは、まだ息を整えきれないヤンを連れてゆっくりと歩き始めた。
休ませた方が良いのだろうが、この場に長く留まるわけにはいかない。周囲に濃く漂う魔力は、ここが魔力溜まりに近いことを告げていた。早く離れなければならない。
アンリは歩きながら、近づいてくる動物たちに対処する。同じ失敗は繰り返さない。先輩の目に映らないよう、遠いうちに目立たないように片付けた。
そうして歩き続けると、ちょうど鳥獣除けの範囲に入るあたりで、ようやく追ってきたレイナが見えた。戦闘職員も一人、一緒にいるようだ。
「アンリ! ヤン! 無事か!?」
「大丈夫です、先生」
まだ息の整わない先輩の代わりに、アンリが手を振って応える。
駆け寄ってきたレイナたちとともに、元の場所へ戻った。
途中、戦闘職員たちが仕留めた熊の死骸がいくつも転がっていた。せっかく落ち着いたところなのに……とアンリはヤンの様子を伺ったが、パニックがおさまったからか、思ったよりは平気そうな顔をしている。気にしすぎだったのかもしれない。
元の場所へ戻ってみると、アイラを含めた学園生たちが、戦闘職員に守られるように一箇所にまとまっていた。ほかの戦闘職員も、仕事を終えて集まりつつある。
「……今日はここまで。いったん帰って、明日の行動を考えよう」
班長のその言葉に、学園生ばかりでなく戦闘職員たちまでも、ほっとした安堵の顔を見せた。




