(15)
体験カリキュラムのためにイーダを発つ日の朝も、ウィリーはアンリの訓練に参加した。数回の訓練を経ても三人はまだ、綺麗な水球を掌の上に維持するのに苦戦している。
「ウィリーはほどほどにしておきなよ。今日は一日、馬車に揺られるんだから」
アンリがそう忠告しても、ウィリーはぐっと手足に力を入れて踏ん張るばかりだ。やれやれとアンリは肩をすくめた。これでは体験カリキュラムに行く前に疲れてしまうだろうし、そうして疲れさせた原因が自分だと万が一知られては、後でアンリがミルナに怒られてしまう。
「……じゃあ、今日の訓練はここまでにしておこう」
「えっ」
まだ始めたばかりじゃないかという驚きで、三人の魔法が一斉に崩れた。あまりにタイミングのそろった崩れ具合に、アンリは思わず吹き出す。
「三人とも、仲良しだね」
「い、いや、そんなことより。僕のことなら大丈夫ですからっ」
自分のせいで訓練が途中で終わってしまう。そう思ったらしいウィリーが必死に言った。それでもアンリは「駄目だよ」と譲らない。
「そんなに焦らなくたって、この訓練なら体験カリキュラム中だってできるんだから。帰ってきたときにどのくらいできるようになってるか、楽しみにしてるよ」
あ、でも……とアンリは言い直した。
「魔法にかまけて勉強を忘れないようにね。俺は去年、カリキュラムに参加した後の小テストに落ちて、補習になったから」
アンリにとっては、あまり言いふらしたくない事実だ。しかし、後輩が同じ轍を踏むところは見たくない。そう思って忠告すると、ウィリーは唖然としてアンリを見上げた。ついでにコルヴォやサンディまでが、驚いたようにアンリを見ている。
口を開いたのはウィリーだった。
「アンリさんって、去年の体験カリキュラムの参加者だったんですか……?」
「あれ、言ってなかったっけ。そうだよ、俺とウィルと、あとアイラっていう女の子」
アイラ・マグネシオンのことは知っているけれど、と三人は愕然としている。アイラは後輩にも有名なんだなあと、アンリはのんびりと考えた。
「そ、それならアンリさん。訓練の代わりに、時間まで去年の体験カリキュラムのことを教えてもらえませんか」
ほとんど何も分かっていないから不安で、とウィリーが言う。
そういえば体験カリキュラムって事前情報が少なかったっけ。野外活動も研究室の実習も、班分けは当日に知らされた。そのうえ野営かと思いきや、宿泊する場所が用意されていたこともあったりして……そんなことをアンリは思い出す。
なんでも聞いてとアンリが言えば、ウィリーの問いは湧水のようにいくらでも出てきた。カリキュラム中に魔法を使う機会はあるか、野外活動ではどんな素材を採取するのか、防衛局とはどんなところか、泊まるのはどんなところか。
大きなことから細かいことまで、もう出発しなければならない時間まで質問は続いた。
いつもの二人と離れてのカリキュラムが、よほど不安なのだろう。
「もうそろそろ時間だよ」
「でも、まだ聞きたいことが……」
「それで遅刻したら、元も子もないよ。そうだ、去年と同じなら、イーダから首都まで防衛局のミルナさんって人が引率してくれるはずだ。ちょっと癖があるけど、頼りになる人だから。わからないことはその人に聞くといいよ」
アンリのその言葉で、ウィリーはようやく引き下がる。さすがにウィリー自身も、最初に遅刻したくはないようだ。
そうしてアンリはコルヴォやサンディと共に、一ヶ月間の体験カリキュラムへと出かけるウィリーを見送った。
昼休みの食堂は、いつもよりも活気が少なく感じられた。食堂全体でそれほど人が減ったわけではない。単純に、アンリの周りの人が減ったのだ。
「マリアもエリックもイルマークも行っちゃったから。つまんないね」
「アンリにはウィルがいるんだからまだ良いだろ。俺なんか一ヶ月間、ルームメイトもいないんだ」
うんざりした調子でハーツが言う。
普段は六人でつるんでいるというのに、その半分の三人が体験カリキュラムのためにいなくなってしまった。残るのはアンリとハーツ、そしてウィルの三人だけ。
そのうえハーツは寮のルームメイトであるイルマークが体験カリキュラムに参加しているため、これからの一ヶ月間、二人部屋に一人で過ごすことになるのだ。うんざりとした気分にも頷ける。
三人でもぐもぐと静かに食事をしているところに、ふと、珍しい相手が寄ってきた。
「ご一緒しても良いかしら」
「アイラ、珍しいね。……そっか、アイラもいつものメンバーがいないんだ」
魔法研究部の仲間だったアイラだが、昼食はクラスの親しい友人たちと一緒に過ごしていることが多く、アンリたちと共にすることは滅多にない。ところが今日からそんなアイラの友人たちも、体験カリキュラムに行ってしまったのだ。
「ええ。一人で食事というのも味気ないから、ひと月くらい一緒に良いかしら」
「もちろん。俺たちも半分になっちゃったから」
アンリは椅子ひとつ分横にずれてアイラを迎え入れる。ウィルも快く迎え入れているが、ハーツはやや唖然とした顔をしていた。
「何よ、ハーツ。駄目なの?」
「えっ、いや。いや、いいよ、ダメじゃない」
アイラに睨まれて、ハーツも慌てて頷いた。
元々、拒絶していたわけではないだろう。ただ、アイラから一緒に、などという申し出が出てくるとは夢にも思っていなかったに違いない。単純に、驚いていただけだ。
昨年の同じ時期のアイラなら、友人が不在だからといってアンリたちの元に寄ってくることはなかっただろう。アンリたちに加わるくらいなら、昼休みを一人で過ごすことを選んでいたに違いない。それがこうしてアンリたちを頼って来るようになったのだから、ハーツが驚くのも無理はない。
もっとも今のアイラでも「寂しいから」などという理由を素直に口にすることは無いが。
「アンリ。ちょうどあなたに聞きたかったのよ。週末のプログラムのこと」
「ん? ああ、西の森の?」
西の森で実施される危険動物調査作戦への参加体験プログラム。その予定日が、いつのまにか今週末にまで迫ってきていた。
アンリのとぼけた返しに「ほかに何があるのよ」とアイラが鋭く切り返す。
「何か準備をしておいた方が良いかしら」
「うーん。書いてあるものだけで足りると思うけど」
申込みの書類を提出した後、レイナからはさらに詳細な予定や準備すべき物等が書かれた冊子が渡されていた。持って行くべき食糧、装備、道具から当日の服装まで。危険動物調査作戦の経験など持ち合わせているはずのない中等科学園生向けに、全てが指定されている。
今さらアンリが補足することもないし、それはアイラもわかっていそうなものだ。それでも彼女はアンリの言葉を待っているようだった。
その様子が、どことなく今朝のウィリーに重なった。
「……集団行動だから、アイラはいつもよりも魔法を控えめにした方がいいよ。まあ、その辺りは当日誰かから指示があると思うけど」
「それ、準備じゃないわよね」
「うん。まあ、心の準備にはなるかと思って」
アンリが肩をすくめて言うと、アイラはしばらく考える間をとってから「そうね、ありがとう」と小さな声で言った。アイラの素直な様子にまたしてもハーツがぎょっとするが、アイラには気にした様子もない。それよりも、何か考え込んでいるようだ。
そんなアイラの様子を見て、アンリは確信する。
結局のところ、アイラは不安なのだ。
アイラは重魔法ほどの強力な魔法を扱えるうえに、使える魔法を応用して対人戦までこなすことができる。だからアンリとしては、つい仕事の同僚と同じくらいのつもりで接してしまう。
しかしながら、どんなに力があっても、アイラはまだ中等科学園生でしかない。学園生と上級戦闘職員とを兼ねているアンリとは違うのだ。
「アイラは狩りの訓練って、したことある?」
「ないわ。私の家庭教師の先生は、魔法の習得と対人の模擬戦闘とを中心に訓練する人なの」
ということは、今回のような動物相手の作戦では、本当に初心者ということだ。不安になるのも無理はない。
体験カリキュラムのことをあれこれ聞いてきたウィリーと同じだ。アイラは性格的になんでもかんでもアンリに聞くことができないというだけで、本当は、ウィリーと同じように不安や疑問がたくさんあるに違いない。
「ま、大丈夫だろ。先輩たちにしたって、そんな経験ある人はそうそういないだろうし。参加する人は、みんな初心者だよ」
「……あなたにそんなことを言われてもね」
アイラの返答は無視して、アンリは食事に目を移す。どうせアンリにはほかに気の利いた励ましは言えないし、下手に励ましたところでアイラが頑なになるだけだろう。
ただ今回に限っては、彼女が初心者であること。これを忘れないようにしなければ。
会話を打ち切って食事に専念しているように見せながらも、アンリはそんなふうに肝に銘じた。




