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午後の数学の授業が終わると、アンリにとって憂鬱な時間がやってきた。何もかもを諦めた顔で、アンリはイルマークに声をかける。
「部活動、遅れるってキャロルさんに伝えておいて。……あと、俺が一時間経っても部活動に行かなかったら、助けに来て」
「嫌ですよ。先生のところに行くのに、助けが必要になるわけがないじゃないですか」
伝言だけは承ります、とイルマークの返事は素っ気ない。アンリは諦め悪く「じゃあウィル……」と別方向に助けを求めたが、それもまた空振りに終わった。
「ごめんねアンリ。僕、今日は部活動には行かないで帰るつもりなんだ。大丈夫、レイナ先生なら、理不尽に怒るってことはないはずだから」
たとえ怒られるのでなかったとしても。あの厳しい口調に長時間さらされるのは、アンリにとって苦行と言うほかない。
「そんなに変な顔しないで、とにかく行ってきなよ。意外と、たいした用事じゃないかもしれないよ」
他人事だと思って。
笑顔で手を振るウィルを恨めしく睨んでから、アンリはとぼとぼと肩を落として教室を出た。
結論から言えば、たしかに理不尽に怒られることはなかった。
ただし、大事にはなった。
大人しく教員室に顔を出したアンリを、レイナは即座に「それでは行こう」と言って連れ出した。
どこに、とも問い返せずに黙って従うアンリの連れて行かれた先は、いくつかある訓練室のうち、一番大きな部屋。いつもなら授業後にも魔法戦闘部やら自主訓練やらで賑わっているところだが、今日はレイナが貸切の予約を入れていたようだ。
広い部屋に、レイナとアンリが二人きり。
部屋に入るなり、レイナはアンリに視線を合わせて単刀直入に言った。
「アンリ・ベルゲン。君はいつも、魔法実践の授業で全力を出していない。そうだね?」
その言葉に、アンリは思わず「え」と声をあげたまま固まった。
たしかにアンリは授業で全力を出したりなどしない。使う魔法の種類に制限をかけるのはもちろんのこと、魔力の量を絞り、魔法の質を落としている。
しかし、それにあわせて魔力貯蔵量を偽装して少なく見せることも怠ってはいない。さらにはわざと魔力の制御を不安定にして、中等科学園生としての水準を装うことまでしている。
つまり、アンリはいわば、全力で、普通の中等科学園生のふりをしているのだ。
それをレイナは、見破っていた?
アンリが言葉を返さないでいると、レイナは眉をひそめた。
「その反応は、肯定と受け取って良いのか。返事ははっきりしなさい」
「は、はい。すみません。……ええと、たしかに、全力は出していないです」
怒られることを覚悟して、アンリは指摘を認めることにした。どうせバレているのであれば、嘘を言っても意味はない。嘘を重ねて怒られる要素を増やすより、素直に答えておいた方がまだマシだという打算もある。
幸運なことに、レイナが怒り出すことはなかった。アンリの答えに大きくひとつ頷くと、そのままの調子で問いを重ねる。
「全力を出さない理由はなんだ」
「ええと……目立つのが、嫌で」
「それは、全力で取り組むと、クラスの中でも目立つほどの実力があるということか」
アンリは答えに窮して口籠った。
正直に答えるなら肯定するしかない。けれどそんな答え方をしたら、あまりに傲慢に聞こえるのではないだろうか。嘘をつかず、心証も損ねないためには、なんと答えれば良いだろう。
アンリが迷っている時間をどう解釈したのか、レイナはまたひとつ「ふむ」と唸って頷いた。
「まあ、どの程度かは見ればわかることだな。アンリ・ベルゲン、そこに立って、君のできる全力の魔法であの的を撃ち落としなさい」
レイナがアンリの立ち位置として指し示したのは、訓練室の入口、扉近くの床に引かれた白線。そして的としたのは、部屋の奥の壁に備え付けられた円盤だ。
授業で行う的撃ちに比べると、三倍以上の距離がある。
「……はい?」
「君は魔力の操作が上手い。最初の授業のときと同様の魔法を全力で使えば、そこからあの的を撃ち落とすのも簡単だろう」
魔法実践の最初の授業の際、実力を測るためとのことで、レイナの前で一組全員が一人一人、的撃ちの魔法を披露した。アンリはそのとき、威力を抑えつつも、アイラと同程度の実力があるように見せるため、それなりに精度の高い氷魔法で的の真ん中を撃ち抜いたのだった。
たしかに、もう少し魔法の威力を上げれば、三倍の距離であろうと的を撃ち抜くことは簡単だ。アンリにとっては手加減の具合を調整すれば良いだけだから、朝飯前とも言える。
しかし、一般的な中等科学園生の水準でいえば? これを「簡単」と言ってしまって良いのだろうか。
「ここにほかの生徒はいないから、目立つ心配はしなくて良い」
アンリの不安を見透かしたように、レイナが言う。
「君が授業で全力を出さないことについて、理由があるなら私はとやかく言わない。ただ教師としては、君の実力をしっかりと把握しておく必要がある」
だから全力の魔法を見せてみろ、と。そういうことらしい。
「……ええと。何の魔法を使えば」
「使える魔法なら何でも構わないが。最初の授業のときに使った氷魔法が、一番得意な魔法ではないのか」
「ええと……あ、そういえば、はい」
アンリの曖昧な答えに、レイナが眉を寄せた。
最初の魔法実践の授業におけるレイナの指示は「自身の最も得意とする魔法を最大の威力で」というものだった。アンリにすれば、目立たず、しかし見劣りしない魔法をと思って氷魔法を選んだだけだが、レイナが「アンリ・ベルゲンの得意魔法は氷魔法」と思い込んだとしても不思議ではない。
「得意魔法は氷ではないのか」
「あ、いえ! ええと……氷魔法と同じくらいに得意な魔法がほかにもあるので、迷いました。氷でも大丈夫です」
それだけ言って、アンリは的に向けて腕を伸ばした。下手なことを言ってこれ以上墓穴を掘る前に、さっさと終わらせよう。そう思って、手の中に魔法で氷の粒を生み出す。
アンリの手から勢いよく打ち出された氷の粒は、一直線に的まで飛んで、円盤の中央に穴を穿った。
「……ど、どうですか」
アンリはおそるおそる、レイナの様子を伺った。
先日の魔法実践の授業よりも、強い威力で魔法を使った。現役の魔法戦闘職員並みだと言っても良いだろう。このくらいの魔法力を見せておけば、文句はないはず……。
ところがレイナは不満げに口を歪めて、首を傾げた。
「私は全力でと言ったはずだが……君は全力の意味がわからないのか? それとも制御が利きすぎて、自分でも自分の全力がわからないのか?」
むしろ、なぜレイナにはアンリが全力を出していないということがわかるのか。アンリからすれば、そのことの方が不思議だが。
「すみません。全力でやると、たぶん訓練室を壊してしまうので」
仕方なくアンリは、今の魔法が全力でなかったことを白状する。
「そうか。しかし構わないから、次は全力でやりなさい」
「え……いや、あの。ほんとに?」
「本当に」
レイナはアンリを促すように深く頷いた。それから、にこりともせずに続ける。
「訓練室など、多少壊したところで問題はない。それよりも、君の全力がどの程度か……私もそうだが、君自身、知っておいた方が良いだろう」
俺自身なら、知っているけれど……そう思いかけて、アンリはその考えをすぐに否定した。
全力の魔力を込めた魔法を撃つ機会など、最近どれほどあっただろうか。単一魔法であれば全力を出したところで、複数の魔法を同時に起動する重魔法ほどの威力は出ない。それでもアンリなら防護壁十枚程度は簡単に破るだけの力を出せるので、通常の訓練では、力を制限する癖がついている。
今の自分の全力がどの程度か。アンリは本当に、自分自身でわかっているのだろうか。
「どうした。やってみなさい」
レイナの声に導かれるように、アンリは再び的に向けて手を伸ばす。逡巡したのは一瞬だ。どうしても全力でと言うのなら、全力でやってやろう。今の自分の力を試す意味も含めて。
指先に魔力を集める……全力といっても、アンリの持つ全ての魔力という意味ではない。魔法とは、魔力と物質の結びつきだ。込める魔力が多すぎると、物質の方が力負けして、魔法が瓦解してしまう。そうならない、ぎりぎりのところを狙って、できるだけ多くの魔力を込める。
指先に、氷の粒をつくり出す。先ほどよりひとまわり大きいその粒には、先ほどの十倍以上の魔力が注ぎ込まれていた。
発射。
アンリの手から飛び出した氷魔法は、小さな円盤の的など簡単に打ち砕き、そのまま訓練室の内側に張られた三枚の防護壁も易々と突破した。ズドン、と重い音を響かせて、訓練室の壁に突き刺さる。
やや静かになったので、それで終わりかと思われた。しかしすぐに、ゴゴゴッと足元から、振動を伴った重い音が体に響く。
奥の壁に、無数の亀裂が入った。単一魔法として放った氷魔法は、訓練室の分厚い壁を貫通することこそなかったが、代わりに壁の中を走り回ってしまったらしい。
なるほど壁は貫けないのか。のんびりと考察するアンリに、鋭くレイナの声がかかる。
「外に出なさい!」
慌ててアンリは声に従い、レイナと共に近くの扉から廊下へ出た。結界魔法で壁を支えれば良いとか、自分たちの周りを魔法で守れば大丈夫とか……そういう解決法が、レイナの前では使えないことを忘れていた。
扉を出た途端に、ゴオッと、一際重い音と振動が響いた。振り返れば、巨大な訓練室の奥半分……壁だけでなく、天井も含めて半分が崩れて、瓦礫の山と化していた。
(だから壊れるって、言ったのに……)
そうは思いつつも、アンリは怖くて隣に立つレイナの顔を見ることができなかった。




