(16)
腰を浮かせかけたウィルに「ここにいて」と指示したアンリは、万が一に備えてウィルの周りに結界魔法を展開すると、すぐに悲鳴のあがった方へと向かった。
(さっきの動物の気配のあたりか……たしかに人の気配もあったけれど、そんなに近くはなかったはず。遠くから見つけて、驚いて叫んだってところか)
接触がなければ襲われることもない。温厚な動物であれば、間近で接してさえ、襲われないこともある。
しかし、見える距離で人間の側が大声をあげたとすれば、話は別だ。刺激を与えるなどアンリからすれば自殺行為だが、一般人に同じ判断力を持てと言うのは酷だろうか。
被害が出る前にと思ったが、アンリが現場に到着したときにはすでに、人が一人、うつ伏せに倒れていた。アンリは少し離れた木の陰で立ち止まり、様子を伺う。
アンリから見て左側。倒れた人と、しゃがみ込んで倒れた人に何かを呼びかける少女、二人を庇うように前に立つ少年。倒れている人の性別や年齢はわからないが、ほかの二人はアンリと同じ年頃だ。
そしてアンリから見て右前方。三人と向かい合うのは、凛々しい角を戴く巨大な雄鹿だった。角を除いた足元から頭部までの高さだけで、アンリの身の丈の三倍はある。
明らかに異常な大きさ。魔力溜まりで魔力を吸って、巨大化したものだろう。
(いつからあの大きさだったんだろう。この森だと、窮屈だっただろうに)
張り出した立派な角が、周囲の木々に絡まりそうになっている。雄鹿は苛立たしげに首を振り、無理矢理に枝を折って振り解いていた。
しばらくそうして枝を払っている内に、なんとか自由に動けるだけの空間を確保できたらしい。
雄鹿は改めて頭を低く下げ、唸りながら三人を睨んだ。
角を三人に向け、そのまま突進しようということらしい。
その脚が地面を蹴るのと、アンリが三人の前に結界魔法を展開するのとが同時だった。
見えない壁に突進を妨げられた雄鹿は、驚いた様子でびくりと体を止める。何が起こったのか、わからなかったのだろう。一歩下がって再度三人に向けて突進しようとし、同じことを繰り返した。
一方で後ろに二人を庇いながら鹿に向き合っていた少年も、何が起こったのか計りかねて目をぱちぱちと瞬いている。目の前には、未だ自分たちに狙いを定める雄鹿。しかし、その雄鹿の角は、自分たちに届くことなく見えない壁に弾かれている。
少年は混乱した様子で、後ろの少女に目を遣った。少女も意味がわからないという様子で首を横に振る。
彼らに構わず、アンリはこれからの雄鹿への対処を考えていた。
(群れでもないし、街に出る可能性は低い……でも、逃すのは駄目だな。怪我人もいるし、あれだけ大きいと、ほかにも被害が出かねない)
野生動物はできるだけ放っておいた方が良い……先ほど自身でウィルに語った言葉を思い出し、アンリは苦笑した。
こんなにすぐに、アンリから原則を破る事例を見せることになるとは。
アンリは雄鹿に向けて駆け出しながら、荷物の中から素早くナイフを引き抜いた。鹿に気付かれるよりも早くに、地面を蹴って空中に跳ぶ。そのまま首に取り付くようにして、ナイフを突き立てた。
ナイフの短い刃の先に、氷魔法で新たな刃を成形する。細剣のように鋭く伸びた刃が、雄鹿の太い首を貫通した。
そのまま魔法で腕力を強化し、力任せにナイフを右に滑らせる。首を引き裂いて、返し刀でもう一度、今度は右側から雄鹿の首に斬り込んだ。半分だけ切り裂いた首を、今度こそ完全に両断する。
雄鹿の大きな首が落ち、間もなく胴体が、どうと横に倒れた。
(血がすごいな……)
アンリは飛翔魔法を使い、首を落としたその高さから倒れた鹿を見下ろす。
雄鹿の首から噴き出し、今なおこんこんと溢れる赤い血が地面に大きな血溜まりをつくっていた。自分の周りに結界魔法を展開していたアンリは返り血の被害に遭っていないし、元々展開していた結界魔法の向こう側にいる三人も血をかぶってはいない。
だからといってこのまま放置すれば、血の臭いに誘われてほかの動物が集まってくるだろう。
アンリは三人の前に展開した結界魔法を解除し、代わりに雄鹿の周りに結界を張った。
その結界の内側に、火炎魔法を撃ち込む。
(最初からこうしておけば良かったか……でも、生きたまま焼き殺すのも可哀想だし)
死体を焼くのにかかった時間はほんのわずかだ。物思いに長く浸ることもなく、アンリは結界魔法と火炎魔法とを切った。ついでに自分も地面に降りて、飛翔魔法を解除する。
雄鹿の血肉は、血溜まりも含めて燃え尽きた。あとには大きな骨だけが残っている。
巨大な雄鹿の骨の山を眺め、アンリは狙い通りに焼けたことに満足して頷いた。
普段なら動物を駆除して終わりだが、後を任せる防衛局の仲間が近くにいない今日は、そうするわけにもいかない。
「ええと、無事? ……いや、無事なわけないか」
倒れた一人、その横にしゃがみ込む少女、そしていつのまにか尻餅をついている少年。三人に問いかけてから、アンリは自分の問いが馬鹿げていることに気付く。
意識のある二人はともかく、倒れた一人は無事なわけがない。
幸い息はしているし、すぐさま命に関わるような怪我ではない。それがわかっていたからこそ、雄鹿の駆除を優先したわけだが。無事かというのは、やや間抜けな質問だった。
しかし、放心した様子の二人からはアンリを責める言葉どころか、質問に対する答えも返ってこない。
気を取り直したアンリは、咳払いしてから改めて、できるだけ優しく言う。
「その人の治療をしよう。二人に怪我は?」
「あ、え、ええと。大丈夫、です」
尻餅をついた少年が、ようやく口を開いた。返答をもらえて、アンリはほっと胸をなでおろす。実のところ、怪我がないのは二人の様子を見ればわかっていた。それよりも、返事がないことの方が気になっていた。
怖がられているのではないか。治療を拒否されるのではないか。
しかしアンリの心配は、杞憂だったということだ。
「わ、私も大丈夫です。彼をお願いします」
少女の震える声に頷き返してから、アンリは倒れた少年の隣に屈んで、彼の肩に手を添えた。
近付けば、倒れた彼もまた、アンリと同じ年頃の少年であることがわかる。目に見える出血はないが、顔にはほとんど血の気がなく、目を閉じてぐったりと脱力している。
(打撲による内出血……肋骨の骨折と、内臓の損傷か。角で突かれなかったのは不幸中の幸いかな)
急所を角で突かれていれば、即死していた可能性もある。蹴られたか、体当たりされたのかはわからないが、死なずに済んだのは良かった。いくらアンリでも、死んでしまった者を生き返らせるのは難しい。
生きてさえいれば、治療はできる。
治癒魔法ですべての傷の治療を終えると、アンリは顔を上げて、祈るように見つめていた少女に笑いかけた。
「もう大丈夫だよ。しばらく目は覚まさないだろうけど、怪我は全部治したから」
「あ、ありがとうございますっ」
少女が勢いよく頭を下げる。もう一人の少年も這うように近づいてきて、眠る少年の顔色を確かめた。深くため息をついて、顔を上げる。
「助けてくれて、ありがとうございます。もうダメかと思いました」
それから彼は、アンリにとって困ったことを口にした。
「俺、イーダで魔法士科中等科学園の一年で、コルヴォ・ガイランゲルと言います。あっちの女の子がサンディ・レイダル、治療をしてもらったのがウィリアム・シーエンで、二人ともクラスメイトです。……ええと」
アンリの名乗りを期待するコルヴォの目。
まさか後輩だったとは。
さてどうしたものかと、アンリは途方に暮れた。




